ピラミッド
ピラミッド(Pyramid、テンプレート:Lang-arハラム)は、エジプト・中南米などに見られる四角錐状の巨石建造物の総称であり、また同様の形状の物体を指す。その形からかつては金字塔(きんじとう)という訳語が使われていた。現代においても「金字塔」は、ピラミッドのように雄大かつ揺るぎもしない後世に永く残る立派な業績(偉大な作品や事業)などを表す代名詞となっている。
目次
古代エジプト
テンプレート:Main 古代エジプトにおけるピラミッドは、巨石を四角錐状に積み上げ、中に通路や部屋を配置した建造物である。王が天に昇る階段としての役割や、その斜めの外形が太陽光を模したものであるとも考えられている。ピラミッドは単体で完成したものではなく、付随する葬祭殿等との複合体として考えるべき特徴を持つ。(大ピラミッドなどの代表的な例では)ピラミッド本体には基本的に北面に入り口があり、玄室(と思われる部屋)に至る道や「重力分散の間」と呼ばれる謎の機構など、未解明の仕掛けがある。
ヘロドトスの『歴史』に記述されて以来、一般的には奴隷の築いた王墓とされてきたが(“奴隷”の記述は階級闘争を進めるソ連の教科書に初めて記述された)、1990年代に入ってからギザの大ピラミッド付近でピラミッド建造に関わったとされる住居跡と墓が見つかり、豊かな生活物資や住居人のミイラ(身分が高くないとミイラにはされない)が発見されたことなどから、奴隷ではなく専属の労働者がいたことが明らかになった。また、ピラミッド建設に必要な高い建築技術は専門の技術者でなければ持っていないこと、建設に関する労働者のチーム編成や作業記録が文字で残っていることから、専門的な知識を持った技術者がいたことも間違いないと思われる。もちろん、奴隷が使用された可能性も残っている。 また、住居跡があることから、技術者は年間を通してピラミッド建設現場に居住していたことが分かっている。ナイル川が上流のサバナ気候の影響で氾濫し、農業ができない間農民が労働力として使われていた救済土木事業説もある。しかし、それに関する論文などは存在しない
なお、2008年11月にサッカラで発見されたシェシェティ女王のピラミッドはエジプト国内で118基目である。
語源
ギリシア語で三角形のパンを指すピューラミス(πυραμίς; pyramis; ピラミス、ピラムスとも)に由来するという説が最も有力。古代エジプト語ではギザのピラミッドに「昇る」という意味の「メル(ミル、ムルとも。ヒエログリフでは△と書く)」という言葉を当てていた。
形態の形成
現在我々が見るようなピラミッドの形態はある時点で突発的に形成されたわけではなく、何世代もかけて練り上げられてきたものである(ただし、それぞれのピラミッドはその形状で完成形態であるとする研究も出てきている)。
階段ピラミッド
階段ピラミッドはピラミッドの最初の形態で、第3王朝時代サッカラに、宰相イムホテプが設計し、ジェセル王が築いたものがその始まりである。当初は日干し煉瓦による方形のマスタバとして建立されたが、後に煉瓦を積み上げて階段状の巨石建造物と成した。一度階段形態が完成した後も、追加して拡張が成された。完成時の寸法は東西約121m、 南北約109m、 高さ約60m。
屈折ピラミッド
第4王朝期に入ると、スネフェル王が既存のピラミッドを基調に51度の勾配を持つピラミッドを造り上げた。このメイドゥームのピラミッドは最初に四角錐の形状を採用しており、その意味では画期的な建造物であった。ただし、これは後に(あるいは建設途中に)崩壊した。このピラミッド(崩壊ピラミッド、偽ピラミッドとも呼ばれる)はそもそも四角錐を目指していなかったとする説もある。また、このピラミッドをスネフェルのものとして数えない場合もある。
スネフェル王はまた、屈折ピラミッドと称されることになるピラミッドも築いた。これは建設途中に(地上から49m地点で)勾配を約54度から約43度に変更していて、高さは約101mであった。 屈折ピラミッドの形状の理由としては、
- 勾配が急過ぎて危険なため(崩壊の危険、玄室にかかる重量過多)角度を途中で変更した。
- 建造中に王が病気になったので、完成を急ぐため高さの目標を下げた。
- これが完成形であり、下エジプト・上エジプトの合一を象徴している。
などの説がある。
真正ピラミッド
スネフェルは更にダハシュールにおいて、勾配約43度で、側面が二等辺三角形の赤いピラミッドを建造。これによっていわゆる真正(しんせい)ピラミッドの外形が完成した。スネフェルが1人で3つもピラミッドを築いている点から導かれる王墓説否定論に対しては、メイドゥームのピラミッドは勾配がきつすぎて崩壊、同様に屈折ピラミッドは一定の高さ以上にできなかったので挫折した妥協の産物でしかなく、最終的に43度のピラミッドが誕生した、という反論がなされてきた。
世界一高いピラミッドは、スネフェルの次のクフ王によってギザに築かれたギザの大ピラミッドで、勾配は51度52分。底辺は各辺230m、高さ146mに達する。底辺の長さの半分と斜高(頂点から底辺の真ん中までの距離)の比は黄金比であり、またこれは14世紀にリンカン大聖堂の中央塔が建てられるまで世界で最も高い建築物であった。第2位のカフラー王のピラミッドもこれに匹敵する、底辺215m、高さ143.5mである。この2つに隣接するメンカウラー王のピラミッドは何故か規模が縮小し、底辺108m、高さ66.5mである。この王の威光が前二代の王と比してさほど劣るものではなかったと伝えられることから、縮小の理由は謎とされている。この3つはギザの三大ピラミッドと呼ばれ、世界有数の観光地となっている。これらのピラミッドはもともとは表面に石灰岩の化粧板が施されており、(現在のような段状ではなく)傾斜のある滑らかな面でできた四角錐で、全体が白色に輝いていたのだが、遺跡を保護するという概念がなかった時代に、その化粧板が剥がされてカイロ市街地の舗装に使われてしまい、現在のような姿となった。化粧板は現在ではカフラー王のピラミッドの頂上辺りとギザのピラミッドの土台元に僅かに残っているのみである。
この三大ピラミッドおよびナイル川の(当時の)流れ、そして他の多数のピラミッドとの配置に着目し、ピラミッド群は現在から1万500年前の天体の配置を模したものであるという説もある。すなわち、ナイルが天の川で、三大ピラミッドがオリオン座のベルト、即ち中央を横切る三つ星に相当、他のピラミッドも星の位置に対応しそれを反映しているということである。三大ピラミッドのうち、メンカウラー王のピラミッドが他の2つの頂点を結んだ線からずれている点、大きさも他の2つよりも小さいことについて説明する有力な説とも言われている。ただし、この説はエジプト考古学庁には認められてはいない。ピラミッド建造年代を定説通りとした場合、建造当時はエジプトではオリオン座は地平線すれすれの位置に見えていたはずで、それほど目立たないうえに、実際にオリオン座の三ツ星を模したならそのような記録があってもよいはずである。
ピラミッドの衰微
クフ王の大ピラミッドを頂点としてその後造営規模は縮小し、石材の代わりにレンガを代用したり、石積みの精緻さも劣るなど、ピラミッドの造営は衰微する(例えば、中王国時代のラフーンのピラミッド、ハワーラのピラミッドなどはそれが顕著である)。ただ一方で、葬祭殿の充実が進んでいったことから、エジプト人の価値観・宗教観の変化が指摘される。また、ピラミッドが王墓でないという説では、ピラミッドは葬祭用の施設の一部にすぎず、墓と合体させて作る場合もあるが、墓の本体ではないとする。
ピラミッドの建造
旧来、ピラミッドの建設は多数の奴隷を用いた強制労働によるという説が主流であったが、奴隷を徴用した証拠がないという点から、一部の研究者には疑問を抱かれていた。近年のピラミッド労働者の村の発掘で、労働者たちが妻や子供といった家族と共に暮らしていた証拠や、怪我に対して外科治療が行われていた痕跡が墓地の死体から見つかり、現在では奴隷労働説は否定されつつある。そもそも古代エジプト社会は古代ローマや古代アテナイの社会と異なり、農業や手工業といった通常の生産労働も奴隷労働に依存せず自由身分の農民によって成されており、人口の少数しか占めない奴隷は家内奴隷が主体だったと判明している。吉村作治は、ピラミッド建造は定期的に発生したナイル川の氾濫によって農業が出来ない国民に対して、雇用確保のために進められた公共工事的な国家事業であったと主張している。しかし、それに関する論文などは存在しない。ピラミッドが国家事業として作られたという説も、吉村のオリジナルではなく、クルト・メンデルスゾーンによって既出である(邦訳:ピラミッドの謎/文化放送開発センター出版部)。ただしメンデルスゾーンは、ピラミッドを作る目的が公共工事だったとは言っておらず、事業形態が国家事業であり、建設の目的自体は主に墓であっただろうと述べている。
ピラミッド建設に必要な石材は主にナイル上流のアスワン付近で産出し、石切場で切り出された後、粗加工した状態で搬送されたと考えられる。それらの石は一定の規格寸法があったわけではなく、現場で必要な寸法に合わせて専門の職人が鑿で整形していた。
従来、石材を積み上げるにあたっては、日乾し煉瓦と土などで作業用の傾斜路が作られ、その斜面を運び上げられたと考えられてきた。施工面積を最小限に抑えるために(傾斜はかなりのものとなる)、ピラミッドを取り巻くように築かれ、4辺で直角に転回しながら石を運び上げていったものと考えられていた。また、長大な一本道が使われていたという説もあった(この方法だと、各ピラミッドの傾斜路がナイル川から石材を降ろして運び上げるのに丁度良い位置に来る、という研究もある)。しかし、どちらにしても数トンもの石をただの傾斜路で引き上げることができるという説明(引っ張り上げることの困難さ、石が自重で傾斜路を破壊する可能性など)はなされていない。それゆえフランス人建築家ジャン・ピエール・ウーダンは、傾斜路を使用したのは途中までで、それ以降はピラミッドのふちに沿って螺旋状の内部トンネルを造りながら石材を運んだとする「内部トンネル説」を主張している。しかしいずれの説でも、ピラミッドの精密さを説明するには至っていない。
クフ王の大ピラミッドについて、1978年に大林組が「現代の技術を用いるなら、どのように建設するか」を研究する企画を実行した[1]。それによれば総工費1250億円、工期5年、最盛期の従業者人数3500人という数字が弾き出された。1立方m当たりの価格は、コンクリートダムが2万4000円前後に対してピラミッドは4万8000円になるという(金額は当時のもの)。
ピラミッドの地下構造
地中に隠れた基礎は四角柱の輪郭を呈しているが、地底何十メートルあるいは何百メートルに渡ってその建造が続いているのか、未だ確認されていない。ピラミッドの全容は、オベリスクの形によって知ることができるという説もある。
中南米
メソアメリカ文明のピラミッド様建築は、陵墓・天文台として造られた物もあったが、基本的には神殿として建設・使用された。
基本的には上部に神殿を持つため、四角錐ではなく上面が平らになっていて、神殿の土台としての性格が強い。単数ないし複数の辺から神殿に到る階段が存在するのが基本である。マヤ文明のものを例に挙げると、パレンケの「碑銘の神殿」、チチェン=イッツアの「カスティーヨ」、ティカル1号神殿などは9段の基壇を持ち、9層の冥界を表すと言われているが、全ての神殿の基壇数がそのような意味を持っているわけではない。新しいピラミッド神殿は、古いそれの上に礫・土を積み上げて石材で表面を覆い隠す形で建造されるのが常であり、発掘すると多層構造が明らかになる場合がある。また、エジプトのピラミッドと異なり、内部の空洞はあまりない。
マヤ文明の建造物15号と呼ばれているピラミッドでは、第1層の床を切って開けたところ、女王の墓が見つかったと「Antiquity」誌、2011年9月号で発表された。マヤ文明において、女王が支配していたという事例は珍しい。理由は不明だが、遺体は頭部に容器で被せられており、同地域であるグアテマラにあるティカル遺跡でも同様の事例が見つかっている。上の層は1300年前に作られた墓になっており、2層目は約2000年ほど前に作られたことがわかっている。
建築様式は古典期以降、テオティワカン独特の水平垂直壁のタブレロとそれをのせた斜面壁のタルーが組み合わされたタルー・タブレロ様式の基壇を採用した神殿ピラミッドが各地に築かれた。
メソアメリカで天文台として使われていた神殿で有名なのは、ティカルの Mundo Perdido(「失われた世界」)グループとワシャクトゥンのグループEである。グループEについては、各種概説書でピラミッドE-VIIからピラミッドE-Iは、夏至の日の出の方向であり、ピラミッドE-IIは、春分・秋分の日の出の方向、E-IIIは、冬至の日の出の方向に当たると紹介されている。
アンデス文明のピラミッドで良く知られているのは、モチェ文化のモチェ谷にある「太陽のワカ」「月のワカ」と呼ばれる日干煉瓦で築かれた建物である。「太陽のワカ」は、かつては、長さ342m、幅159m、高さ40mあったと推定されているが、17世紀に盗掘者達が川の流路を変更して削り取ったために半分以上が失われている。一方「月のワカ」は長さ95m、幅85m、高さ20m程の規模である。最近発掘調査が行われ、壁画に盾や棍棒の擬人化した図像に加え、ジャガーらしいものも見られる。このような要素は「太陽のワカ」には見られず、宗教的・儀礼的な空間として機能していたと考えられる。またモチェV期(A.D.550~700頃)には、パンパ・グランデ遺跡でワカ=フォルタレサというピラミッドが築かれ、高さ55mに達している。
また、ボリビアのチチカカ湖畔にあるティワナク遺跡中心部に、アカパナと呼ばれるピラミッドがあり、中心部からやや離れた場所にプマ・プンクと呼ばれる低い基壇状のピラミッド状建築物がある。
ヨーロッパ
イタリア
このピラミッドは、紀元前18年から12年の間に建造されたもので、古代ローマの執政官、法務官を務めていたガイウス・ケスティウス・エプロの墓である。外観は、本場エジプトのピラミッドよりも急勾配でヌビアのピラミッドに近い。外部は、白色の大理石により化粧が施されている。
ボスニア
テンプレート:Main ボスニアのヴィソコにはヨーロッパ初のピラミッドなどとされる山[2]があるが、ただの山であるとも言われる[3]
俗信・数奇伝説など
巨大にして精緻な建造物であるピラミッドには、さまざまな風聞が付きまとった。
ピラミッドパワー
ピラミッド形の物体には不思議な力が宿るとする迷信がある。ピラミッドパワーを参照のこと。
「日本にもピラミッドがある」説
日本の、自然の山と思われているものの中には、人工的に作られたピラミッド様建築物が存在しているという説がある。酒井勝軍らが『太古日本のピラミッド[4]』(国教宣明団)などで主張していた。例として葦嶽山など。
超文明説
現代の土木機械を大量に投入してもなお多大な労力を要するものを、20~30年で古代人ができたはずがなく、ゆえにピラミッドは古代宇宙飛行士説による宇宙人や超古代文明によって作られた、とする説が提唱されることがある。反論として、ピラミッド建設に携わったとされる作業員の人数が20万人という桁違いのものであり、徹底した分業体制が敷かれていたという点が挙げられる(これは発掘調査から明らかである)。
一方で、その建造方法の詳細はいまだに明らかになっておらず、例えばギザのピラミッドでは200万個もの石が「春分と秋分の日のみ、8面体にピラミッドが見える」「ピラミッドの底面積で、四面の面積を割ると黄金率が出てくる」「底辺の1/2で高さを割ると黄金率の平方根が出てくる」「高さで2辺の和を割ると円周率が出てくる」という現代でもあり得ないほどの精密さで建造されている[5]。
大西洋を挟んでピラミッドが建設されたことにより、両文明の交流の可能性が主張されることもある。特に有名なのはトール・ヘイエルダールであり、彼は自説を証明するために古代エジプトの葦船を復元して大西洋横断を行った。しかしこれはあくまで、当時の技術でも航海が不可能ではないという証明であり、両文明に交流があった事の裏付けにはならない。言語など他の要素において共通項が見られないことから、両文明の交流には否定的な見解が優勢である。巨大な石積みの建造物がピラミッド状となるのは、当時の建築技術上の必然(垂直に切り立った石壁を築くほうが、当然ながらピラミッド状に建造するよりも技術的には困難)である。
フリーメイソン建造説
たびたび秘密結社として紹介されるフリーメイソンが作ったとする説がある(フリーメイソン#起源も参照)。これはフリーメイソンの起源の1つとして石工組合としての実務的メイソンリーが前身として中世に存在したとする説であり、フリーメイソンのシンボルの1つであるプロビデンスの目はピラミッドを想起させる三角形が使われており、事実、集会所でもあるロッジには「ピラミッド・ロッジ」や「スフィンクス・ロッジ」などエジプトやピラミッドにちなんだ名前がつけられている。しかし、古代エジプトにフリーメイソンが存在した説は発見されていない。しかし近年、フリーメイソンのロッジを思わせる集落が発見されたらしい。また、参入儀式はエジプト神話のオシリスとイシスの伝説に基づいて行われる。
エピソード
- ナポレオン・ボナパルトは、ピラミッドの戦いで、エジプト軍の中で戦場で考慮すべきは騎兵隊だけであると判断した。彼は「兵士諸君!あの遺跡の頂から40世紀の歴史が諸君を見下ろしている」と言って配下の軍隊を鼓舞した。
関連記事
- カイロ
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- グイマーのピラミッド
- マスタバ
- ジッグラト
- ヒエラルキー
- ガイウス・ケスティウスのピラミッド
- アル=アハラーム
参考文献・脚注
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外部リンク
pnb:اہرام sn:Dumba ta:பிரமிட்டு tl:Tagilo
ur:اہرام- ↑ クフ王型大ピラミッド建設の試み 季刊大林|バックナンバー
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:近代デジタルライブラリー書誌情報
- ↑ ドキュメンタリー映画「ピラミッド 5000年の嘘」