高梁川
テンプレート:Infobox 河川 高梁川(たかはしがわ)は、岡山県西部を流れる一級河川であり、高梁川水系の本流である。吉井川、旭川と並ぶ岡山三大河川の一つ。岡山県下で最大の流域面積を誇り、その支流域は広島県にもおよぶ。
かつては、河島川(川嶋川)・河邊川(川辺川)・総社川・松山川・板倉川・宮瀬川など時代や地域によって様々な名称で呼ばれた。
目次
概要
鳥取県境の明地峠(標高755m)に近い花見山(標高1,188メートル)の東麓(新見市)を源流とし、高梁市・総社市を経て、倉敷市で水島灘に注ぐ。 流域は主に石灰岩質のカルスト台地である阿哲台を貫通し、河川の浸食によって生成された鍾乳洞や渓谷に富む。また植物分布も日本ではこの地域特有のものも多い。
河口部は現在は倉敷市水島と玉島の間を流れ水島灘に至るが、下流域は時代によって大きく河道や河口部が変わっている(詳細は後述)。
古代から近代にかけて高瀬舟による水運に利用され、備中国域の経済の大動脈として重要な河川であった。[1]
水不足の問題
高梁川水系では度々少雨の影響で水不足の恐れがある。特に深刻だった水不足問題は1994年夏頃である。貯水率は0パーセントになり、断水などが相次いだ。9月に台風が接近したために水不足は解消された。その後2002年や2005年にも水不足の心配があったが、こちらは特に深刻ではなかった。
2007年秋頃から少雨の影響で再び渇水の恐れがあり、一時的に取水制限を実施した。同年12月23日の流域4箇所のダム貯水率は46.3%と、平年値を大幅に下回った。2008年も少雨の影響で8月21日の貯水率は4ダムの平均が42.3%を下回った。
旧河道
下流域は、時代によって大きく河道が変わっている。
古代〜中世(井尻野分岐)
古代高梁川は総社平野(吉備平野)へ突入する部位(現在の総社市井尻野湛井あたり)で南と東へ分岐していた。
東流は分岐点からやや南東に流身をとりつつ現在の総社市街・吉備平野を蛇行しながら東方へ流れ、やがて当時の足守川と現在の総社市長良付近で合流し、その後南へ進路を変え、吉備中山西部を北から南へ流走し、岡山市北区撫川・倉敷市上東付近が河口で、吉備穴海に流入していた。この河口付近に備中国の国府津があったとされ、上道遺跡はそれに関連している遺跡だとする説もある。[2]
備中国風土記[3]逸文である「宮瀬川」によると、賀陽郡の伊勢御神社(いせのみかみのやしろ)[4]の東に河があり、河の西に吉備建日子命宮(きびたけひこのみことのみや)があるので、この河を宮瀬川称した、とある。 この逸文が宮瀬川(高梁川旧東流)の河道の存在を暗示している。この旧東流の河道は、古代行政区をわける「郡境の河道」であったとされ、河道の北側が賀陽郡、南側が窪屋郡・都宇郡であった。
その後、平安時代末期の妹尾太郎兼康による十二箇郷用水建設により、総社中心部では同用水の基幹用水路・総社東部では前川の一部・岡山市北区高松付近では西方に河道が移動し、現在の足守川の中下流となった。[2]
また総社市井尻野から南に分流した流路(現在の高梁川の流路)は、現在の流路に近い位置を蛇行しながら分岐・合流をしつつ現在の倉敷市真備町川辺あたりで小田川と合流、総社市清音古地あたりが河口だった。この南分流の河道は、当時の下道郡・賀陽郡・窪屋郡の郡境となっていた。度々洪水を起こしたため、河道や分流などが変遷し、それに合わせ郡境も変更されていた。[5]
中世〜近世(古地分岐)
前述のように、平安末期に井尻野分岐の東流は姿を変えたが、南流は土砂による堆積作用や戦国時代以降の新田干拓などにより河口は南に移動していった。さらに現在の総社市清音古地で東西に分流し、西流は現在の柳井原貯水池を通り、現在の倉敷市船穂町水江あたりから現高梁川の流路に近い位置を流れた。東流は、現在の総社市清音黒田から倉敷市酒津あたりまでは現在の流路とほぼ同じ位置を流れ、酒津以南はそのまま南へほぼ直進して流れた。なお、西流は又串川、東流は酒津川とも呼ばれた。倉敷代官所が作らせた1705年(宝永2年)、地図では、古地で高梁川が分岐しており、さらに干拓により児島・連島が陸続きとなり、河口部も西流が連島の西側、東流が連島東側と児島西側の間に位置している。また、干拓により造成された、児島北側を東側へ流れ児島湾に流入する分流である吉岡川も描かれている。[5][2]
また、備中松山藩により、現在の倉敷市船穂町船穂東部から玉島港にかけて高瀬通しと呼ばれる運河が造成された。[1]
近世〜現代(酒津分岐)
現在の倉敷平野部では、高梁川の洪水に幾度も悩まされたため、度々河川の改修・治水工事が行われた。その後、1907年(明治40年)から始まった改修で東西の分岐点が、古地から現在の倉敷市酒津で東西に分岐するように変更され、東高梁川(東松山川)、西高梁川(西松山川)となった。旧分岐点から新しい西流(西高梁川)までの流路は柳井原貯水池となり現在に至る。[2]
さらにその後の改修により、酒津分岐の東高梁川は廃川となり、1925年(大正14年)に明治期から続いた大改修工事は完成し、西高梁川が本流となり、現在に至っている。旧河口部には水島市街地、旧堤防には水島臨海鉄道水島本線や八間川用水などが造成された。[2][1]
流域の自治体
主な支流
市名は流域の自治体。
- 西川:新見市
- 小阪部川(小坂部川):新見市東部・大佐地区
- 成羽川:広島県庄原市東城町、神石郡神石高原町、岡山県高梁市。広島県側では東城川とも呼ばれる。
- 有漢川:岡山県高梁市北西部(津川・巨瀬・有漢地区など)
- 増原川:高梁市玉川地区
- 影谷川:総社市水内地区
- 槙谷川:総社市池田地区、加賀郡吉備中央町大和地区
- 新本川:総社市新本・山田・久代・秦・神在地区
- 小田川[6]:広島県神石郡神石高原町、福山市加茂町・山野町、岡山県井原市、小田郡矢掛町、倉敷市。井原市芳井町以北では、吉井川(芳井川)、山野川とも呼ばれる。
河川施設(支流域を含む)
- 千屋ダム(新見市)
- 高瀬川ダム(新見市)
- 三室川ダム(新見市)
- 大谷川ダム(新見市)*建設中
- 河本ダム(新見市)
- 大佐ダム(新見市)
- 小阪部川ダム(新見市)
- 新成羽川ダム(高梁市)
- 楢井ダム(高梁市)
- 大竹ダム(高梁市)
- 槙谷ダム(総社市)
- 明治ダム(井原市)
並行する交通
鉄道
道路
流域の観光地
- 帝釈峡:成羽川(東城川)支流の帝釈川。広島県神石郡神石高原町/庄原市東城 上帝釈峡の雄橋は国の天然記念物で世界三大天然橋のひとつ。
- 阿哲峡:西川沿岸。新見市
- 羅生門:新見市 阿哲台地上の古い鍾乳洞の痕跡で国の天然記念物。
- 井倉峡・井倉洞:新見市 岡山県指定天然記念物
- 磐窟渓・磐窟洞:高梁市 渓谷美と国の天然記念物である希少な鍾乳洞。
- 吉備高原:高梁市
- 豪渓:支流の槙谷川。総社市槙谷
- 山野峡・猿鳴峡:福山市 支流の小田川に広がる渓谷 広島県指定天然記念物
参考文献
- 『日本古典文学大系 風土記』(岩波書店 秋元吉郎校注)
- 『総社市史 通史編』(総社市)
- 『月刊歴史手帖/古代吉備豪族の誕生(1976年4卷6号)』(名著出版 葛原克人著)
- 『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書35/備中こうもり塚古墳』(岡山県教育委員会 葛原克人著)
- 『吉備郡神社誌(古郡神社)』(岡山県神職会吉備支部 高杉槌蔵著)
- 太田健一『倉敷・総社の歴史』郷土出版社(2009年)
- 藤井駿・加原耕作『備中湛井十二箇郷用水史』湛井十二箇郷組合(2001年)
- 岡山県大百科事典編集委員会『岡山県大百科事典』山陽新聞社(1979年)
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 岡山県大百科事典編集委員会『岡山県大百科事典』山陽新聞社(1979年)
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 太田健一『倉敷・総社の歴史』郷土出版社(2009年)
- ↑ 備中国風土記は後に散逸亡失し、現在わずかにその逸文が残っただけである。
- ↑ 伊勢御神社を、神明神社に比定する説もあるが、確かなことはわからない。
- ↑ 5.0 5.1 藤井駿・加原耕作『備中湛井十二箇郷用水史』湛井十二箇郷組合(2001年)
- ↑ 倉敷市児島付近を流れる二級河川の小田川とは別。