阪急2000系電車

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テンプレート:Mboxテンプレート:ローレル賞 阪急2000系電車(はんきゅう2000けいでんしゃ)は、阪急電鉄(以下「阪急」)が1960年から神戸線宝塚線神宝線)用として製造した通勤形電車である。

本項では、本系列の直流600V・1,500V複電圧対応型である2021系電車(電装解除後は2071系)、宝塚線用の低速型である2100系電車能勢電鉄がこれら3形式を阪急から譲受し、能勢電鉄1500系電車1700系電車とした車両についても記述する。

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能勢電鉄1700系となった2000系
(2005年12月28日 川西能勢口駅

共通事項

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木目デコラの台座付きの初代ローレル賞プレート(1977.10.16西宮北口にて撮影)

2000系・2021系・2100系の車体は、いずれもメーカーであるナニワ工機(現・アルナ車両)の手による製の準張殻構造を採り入れた軽量構造車体をとなっている。これは前世代の1010系・1300系などが軽量化に腐心するあまり、特殊かつ極めて複雑な車体構造となり、製造・保守の両面で問題が生じたことへの反省として変更されたものであり、車両寿命がある程度犠牲となることを承知の上で外板厚を減じて重量軽減を図る一方、工程を可能な限り簡素化し、製造・維持コストの圧縮を図ったものである。

そのため、デザインは直線と平面を基調としたシンプルな形状となったが、前面は三面折り妻とされ、前面・屋根・裾部に丸みが付けられた。また、通風は1010系などと同様の軸流送風機によるファンデリアを用いた強制換気であるが、同系列などで問題となった複雑な屋根構造は廃され、換気用のモニター屋根と呼ばれる通風ダクトを本来の屋根構造とは独立して全長に渡って搭載する構成に変更され、構造の大幅な簡素化が実現した[1]

前面は、連結運転時の乗客の移動を考慮し、中央に貫通扉が設置され、その両隣に窓が1つずつ設けられている。前照灯は阪急の車両で初めて採用された丸型シールドビーム2灯が四角形のケースの中に入れられて貫通扉上に、尾灯は左右の窓上に1灯ずつ設置されていた。左右の窓下にはフックが1つずつあり、行先表示板を掲出できるようになっていた。また、車体側面には列車種別表示灯が設置され、尾灯もこれに合わせて内部切り替えにより標識灯として使用することが可能であった。

窓配置は運転台付き車両がd1D3D3D2、中間車が2D3D3D2(d:乗務員扉、D:客用扉)で、側窓はワンタッチで開閉可能な新設計の大型ユニット窓が採用された[2]。また、客用扉は阪急の車両では初採用となる1,300mm幅の両開き扉が採用され、戸袋窓は省略された。

外部塗装は、同時期に他社に明るい色の車両が多くなっていた中、在来の車両と同じマルーン(赤みがかった茶)の単色塗りとされ、窓枠のみアクセントとしてアルミサッシ無塗装の銀色とされた。室内も木目調の内壁とゴールデンオリーブ(光沢のある深緑)の落ち着いた雰囲気で、全席ロングシートであった。妻面は、開放感を持たせるために1,080mm幅の広幅貫通路で隣の車両と連結されていた。

車両番号は電動車・付随車・制御車でそれぞれ0 -と50 -(2021系の場合はそれぞれ21 -と71 -)と付番され、側面窓下に左右1箇所ずつと先頭車は前面貫通扉中央に1ヶ所、ステンレスの切り文字で番号が掲出されていた。

途中で前面デザインや車体材質の変更などがあったものの、基本的な車体構造は1997年に製造された8000系最終グループまで受け継がれ、昭和半ばから平成までの阪急のスタンダードとなった。

パンタグラフは、当初電力回生制動常用を前提として設計されていたため、離線による回生失効を防止するため菱形のPG-18A1を1両あたり2基装備していた。その後、神宝線架線電圧の昇圧に伴い、2000系と2100系の回生制動機能が廃止された際に1両あたり1基に削減[3]されている。さらに2000系は冷房改造時に「モニター屋根」が撤去された。

阪急の車両で初の回生制動と定速運転制御を装備し、「人工頭脳電車(オートカー)」と呼ばれた。

この性能と先述のような斬新なデザインが話題を呼び、同時期に京都線に投入された姉妹車である2300系とともに、1961年の第1回鉄道友の会ローレル賞を受賞している。

系列別概要

2000系

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2000系 1991年10月 苦楽園口駅

1960年から1962年にかけて、以下の42両が製造された。

  • 2000形2001・2003・2005・2007・2009・2011・2013・2014・2016・2017・2019・2020
三宮向き制御電動車(Mc)。
  • 2000形2000・2002・2004・2006・2008・2010・2012・2015・2018
中間電動車(M)。
  • 2050形2050・2052・2054・2056・2058・2060・2062・2064・2065・2067・2068・2070
梅田向き制御車(Tc)。
  • 2050形2051・2053・2055・2057・2059・2061・2063・2066・2069
  • 付随車(T)。

当初Mc-T-M-Tcの4両編成単位で7編成製造され、制御電動車と中間電動車、制御車と付随車でそれぞれ形式を分けず、中間電動車と制御車を偶数番号、制御電動車と付随車を奇数番号とするというルールに従って付番された。

しかし第8編成以後は6両編成での運用を前提として、増結用2両編成(Mc-Tc)を3編成(2014-2064・2017-2067・2020-2070)増備した[4]ため、このルールが崩れて変則的な付番となった。

主要機器

主電動機

テンプレート:Sound 主電動機は、特急から普通まですべての種別に対応できるように、また電動車制御車あるいは付随車の比率を1:1としてコストダウンを図るべく、当時としては大出力の直流複巻補償巻線付電動機である東京芝浦電気SE-572B[5]を装備した。これは端子電圧(300V)が示す通り、各車2個を直列(Serial)接続し、これを2群並列(Parallel)接続する2S2P接続構成で搭載され、個々の電動機の端子電圧を架線電圧の半分に引き下げることで回生制動時の発生電圧過大による回生失効の発生を抑止する設計となっていた。

駆動方式

主電動機から車軸への動力伝達にはWNドライブが用いられ、歯数比は85:16(5.31)で、起動加速度2.8km/h/s、常用減速度4.0km/h/s、平坦線均衡速度は120km/h以上を実現した。

制御器

制御器は1台で4基の主電動機を制御する1C4M方式の東芝MM-11B(1960年製)、あるいはMM-13B1(1961年、1962年製)を採用した。これは基本的に東芝の提携先であるゼネラル・エレクトリック社が開発したMCMパッケージ式制御器[6]の流れを汲む電動カム軸式制御器であるが、これに分巻界磁制御器を付加し中速域以上で主回路の切り替えを行わずに力行・惰行・回生ブレーキの3モード間を自動的に移行することで定速度制御を実現する、当時最新のアイデアに基づくシステムである。

主回路は力行時は直列段10段、渡り2段、並列段6段、定速度制御ノッチ(界磁段)[7]、制動時は並列3段[8]、渡り1段、直列6段という構成であった。

この制御器の中核である分巻界磁制御機能は、電動発電機と同軸で組み込まれた昇圧機(ブースター)を主電動機の分巻界磁と直列で接続し、これの増幅率を磁気増幅器(マグアンプ)によって制御することで他励界磁制御を実現するものである。

これにより、力行全界磁時は磁気増幅器によって分巻界磁電流が電機子電流に比例するように制御することで直巻特性を持たせて通常の抵抗制御を行い、界磁制御段に入った段階で磁気増幅器の動作モードを切り替えて速度発電機による検出速度と指令速度を比較演算し、分巻界磁の増幅率を自動調整することで定速度制御が実現した。

もっとも、このシステムは磁気増幅器の応答性が必ずしも良好ではなかったことと、昇圧機が電車線電圧の変動に左右される電動発電機を動力源としていたことから、各車ごとの増幅率の調整が難しく、保守上の問題となり、昇圧時に分巻界磁制御器が廃止される一因となった[9]

台車

当初はアルストム・リンク式金属ばね台車である住友金属工業FS-333・33[10]、1962年製ではミンデンドイツ式金属ばね台車であるFS-345・45[11]がそれぞれ装着された。

また、汽車製造によって開発されたエコノミカル・トラックと呼ばれる1自由度系軸箱梁式空気ばね台車の比較検討のため、2018と2019はKS-66Cを、2068と2069はKS-66Bをそれぞれ装着して竣工したが、営業開始直後にFS-345・45に交換されている。

ブレーキ

回生制動の常用を前提とした設計であったため、電動車による回生制動 → 電動車の空気ブレーキ → 制御・付随車の空気ブレーキの順に動作するよう優先順位を付ける、HSC-R電磁直通ブレーキが採用された。

運用

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製造時から中間車の2050形(2代目2055)
(2007年6月23日 十三駅

2000系は、1960年から1961年に製造されたものは4両編成で、1962年に製造されたものは6両編成で投入されたが、乗客増により、4両編成についても編成替えによって6両編成化された。なお、2054Fは当初宝塚線で使用されたが、2100系の投入に伴い神戸線に転属した。

神戸線は、1967年に1500Vへの昇圧が決定したが、機器類は架線電圧600Vのみに対応していたため、昇圧改造工事が実施されることになった。改造に際しては、制御機器が新製交換され[12]主電動機も界磁の結線を変更して通常の直巻電動機に改造され、一般的な抵抗制御、空気ブレーキ車となった結果、定速度制御機能と回生制動機能は廃止となった。なおこの際、最初の1編成分の床下機器は新たに製造したものに交換して、主電動機など、昇圧後も使用可能な機器のみ昇圧改造した上で次の編成に転用する方式で工事を行い、2000系の最後の昇圧対象編成の工事後に余剰となる電気機器を使用して、2100系の最終編成6両を2000系に編入する工事を行った。

昇圧後、本系列は2100系最終編成6両[13]を合わせて7両編成化が実施された。この際、余剰となる2050形6両については3000系5000系などの他系列編成の増結用として転用の措置がとられた[14]。なお、2050Fのみ一旦8両編成化されたが、短期間で7両編成に変更された[15]

昇圧後は京都線への入線が可能となり、1970年に開催された日本万国博覧会の際には万博準急に充当されて京都線車両の絶対数の不足を補ったが、同年12月には、2050Fを除いて電装解除された2021系電動車を組み込み、8両編成化された。

1972年、老朽化した100系(P-6)の淘汰と、各線の冷房車の配置バランスの均等化を図る関係から、全車が京都線に転属し、7両編成で急行を中心に運用された。特急運用が8連化する以前は、時折特急の代走にも使用された[16]が、 5300系の新製配置が進むにつれて順次神戸線へ復帰し、1977年4月の2050Fを最後に、全車神戸線に復帰した。

神戸線復帰後の1977年より冷房搭載改造が始まり、屋根の通風ダクトが撤去され、当時阪急の標準冷房装置であった東芝RPU-3003集約分散式冷房装置[17]が各車に3基ずつ搭載された。この際、編成の中間に組み込まれていた一部車両が運転台を撤去され[18]、パンタグラフの大阪寄り移設と大阪寄り広幅貫通路の狭幅アダプタ取り付け、2050形の神戸寄り広幅貫通路の狭幅化およびドア設置改造が実施された[19]

1979年には、昇圧改造の際に2000系と同性能に改造されていた2100系6両[20]が冷房改造と同時に2000系に編入された。この6両は、2021系の最終製造車に続いて2042 - 2044・2092 - 2094の車両番号が与えられ、2000系は48両の陣容となった。冷房改造は1981年まで続き、2050Fを最後に完了した。また7両編成で残った編成についても、冷房改造前後に2021系を編入して8両編成化されている。

1983年には、2100系と編成を組んでいた2055と2059が編成ごと能勢電鉄に譲渡されて同社の1500系(1580形)に改造された。この2両の空番については、1985年に、3000系に組み込まれていた2100系の2153と2155が改番されて2代目2055・2059となった。

1984年3月の今津線の南北分断に伴い、今津南線と甲陽線で運用される車両は3両編成4本が準備された。3両編成化により余剰となった2050形付随車は、当時今津線で使用されていた5000系6両編成に組み込まれている。また本線に残った編成についても、大幅な編成変更が行われている。なお3両編成の車両は、空気使用量の増加に伴い、2050形Tc車に空気圧縮機を1台増設している。

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2000系さよなら運転
(1992年1月26日 中津駅)

1984年5月5日六甲駅山陽電鉄車両と衝突が発生し、2050Fが被災した。損傷の大きい2050-2000-2051-2001は休車となり、損傷の軽微な残り4両は早期に、2050を除く3両も、正雀工場での復旧工事の上復帰したが、本線運用車も交えて大幅な編成変更が実施され、今津北線や伊丹線での運用も開始され、それぞれ6両編成と4両編成が登場した。一方2050は、損傷が著しいために1984年12月に廃車され、翌年には2100系2154を冷房改造の上2代目2050として編入した。初代2050は、災害によるものを除けば、2000系列以降の阪急車両における唯一の事故廃車であるが、落成直後の1960年10月27日に西宮車庫での構内試運転を2050-2001の編成で行った際に配管接続錯誤によるブレーキ不能状態となって留置中の900形909に衝突、本線試運転が中止となり事故からの修復のために営業運転開始が1960年末にずれ込んだ過去があり、まさに事故に始まって事故で終わる一生であった。西宮車庫での事故の際に、構内運転資格ありの乗務見習いの立場で2050を運転していた山口益生は、六甲駅での事故の際には車両部責任者の立場で事故処理にあたった[21]

2000系は、3000系などの中間車として使用されている車両を除き、他形式で行われた前面への方向幕設置や尾灯の移設工事の対象から外され、8000系の投入で捻出された経年の浅い他系列に置き換えられることとなった。1989年より廃車が開始され[22]1992年の2070Fによるさよなら運転をもって単独編成は消滅した。

廃車された車両のうち、3両編成の一部については、同時期に廃車となった2021系中間車や3000系に組み込まれていた2050形付随車を組み込み4両編成化され、また一部は伊丹線当時の4両編成のまま、転用工事を受けて能勢電鉄に譲渡(1700系)された。譲渡された車両のうち、中間車については運転台撤去車は含まれていない。一方阪急には、3000系などに組み込まれた2050形付随車が引き続き使用されていたが、これらも経年から次第に廃車が進み、運転台撤去車としては最後まで残った2052が1999年に廃車されて姿を消し、それ以外の2050形についても、オリジナル車は2005年12月までに、2100系からの編入車で最後まで残った2093も2013年に廃車となり、阪急線内からは姿を消した。

2021系(現・2071系)

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2021系原形車 (2030)
(現能勢電1585号・阪急梅田駅
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2071形中間車 (2080)
(2007年6月23日 十三駅)

本系列は、1963年の神戸線と宝塚線の架線電圧昇圧(600V→1500V)決定に伴って製造された2000系の複電圧対応型である。

1964年までに電動車である2021形と制御車および付随車である2071形が各21両ずつ、合計で42両が製造された。車両番号は2000系の続番で、それぞれ2021 - 2041・2071 - 2091と付番されており、これが系列名の由来になっている。

機器の対応電圧の変更は、車庫あるいは工場で各車の床下に取り付けられた主回路や補助回路の切り替えスイッチの切り替えあるいは端子板の結線変更によって実施する方式であり、710系のような電圧転換器を車上から操作する方式でなかったため、走行中の電圧切り替えはできなかった。また、2000系と同等の定速運転機能も装備していたが、電気関係、特に主制御器の構造が極めて複雑で保守に問題があったために、以降は比較的構造が単純な昇圧即応車である3000系・3100系の製造に変更され、2021系は1963年度分のみで製造が打ち切られた。

最初の2編成(2021 - 2026・2071 - 2076)は神戸線初の6両貫通編成で投入された他、4両編成・2両編成各2本(2031 - 2036・2081 - 2086)が汽車製造製のエコノミカル・トラックと称する1自由度系空気バネ台車を装備して竣工、新型ドアエンジンの実車試験が行われるなど、車両数の割にバリエーションの豊富な系列であった。

昇圧に際しては、事前調査によって直流1,500Vでの走行性能に問題がある事が判明したため、複電圧仕様から1,500V専用車として改造されることとなった。但し磁気増幅器の改造程度であり、2000系の様な大規模な工事は行われなかった[23]。昇圧後しばらくの間は、定速運転機能、回生ブレーキ機能を残したまま神戸線と宝塚線で使用されていたが、昇圧後は電気配線や制御器関係の故障が相次ぎ、神戸線で高速走行中に主電動機のフラッシュオーバー事故を起こすなど、2021系の保守上の問題がクローズアップされた。様々な調査が行われたものの原因は判明せず、とりあえず高速運転を必要としない宝塚線に全車転属する措置がとられた。

宝塚線での2021系については、神戸線で発生した様なトラブルは発生しなかったものの、複雑かつデリケートな調整を必要とする制御機器を中心に保守に手を焼く状況は変わらなかった。そこで、輸送力増強の一環で編成の増車が行われるにあたり、本系列は電動車を電装解除の上、全車が他系列の中間付随車への転用が図られることとなった。転用改造は1970年に始まり、まず6両貫通編成の中間車を中心に10両[24]が電装解除の上で2000系と3000系に組み込まれた。

1977年には、エコノミカル台車を履いた12両が5000系増結用として、他の4両[25]が3000系の増結用として改造され、残りは先頭車のみで編成された8両編成2本のみとなった。

1978年には2087Fが電装解除され、最後に残った2077Fも、1979年春には4両編成化[26]して箕面線で使用される様になったが、同年中には電装解除され、3000系・3100系7両編成に編入された結果、2021系単独編成での運用は消滅した。[27]

付随車化された車両については、当初は原番号のまま使用されていたが、冷房改造の上で5000系に連結された車両より、運転台撤去と原番号+150が行われ、その後に冷房改造された元の電動車についても同様の処置がとられ、2171形2171 - 2191に改番された。また電装解除された2028・2030と、2077・2079・2090・2091の6両については、運転台は撤去されずに中間付随車として使用されていた。これらの車両は冷房改造と同時に運転台を撤去されたが、最後まで非冷房車として残った2030は、1984年に先述の六甲事故で2000系2050となった2100系2154の代替として2171形へ改番されずに能勢電鉄に譲渡されることになり、運転台の撤去と冷房化改造を行った上で1500系(1580形)となった。この時に2030は完全な中間車形態に改造された。

その後も2000系 - 5000系の中間車として使用されていたが、1989年に上記の8000系投入による組み込み先編成の支線転用が行われると編成短縮によって余剰となる車両が発生した。この時に製造時からの中間車は編成替えによって温存が図られ、4両が組み込み先である2000系編成ごと能勢電鉄に譲渡されて同社の1700系(1780形)に改造された以外は全車残存している。これに対し、元先頭車9両はこれらと交代する形で廃車となっている。

1995年には2087が阪神・淡路大震災による伊丹駅崩壊に巻き込まれて廃車、2171が3000系3022へ改造・改番[28]され、2両の減少があった。

1999年には2091が5200系最後の編成とともに、2000年には2088が製造時からの中間車では初の廃車となった[29]。これ以降温存策が採られることはなくなり、同年からの5000系のリニューアルでは車体形状とは無関係に大量の廃車[30]が発生するようになっている。

近年、連結相手の3000系・3100系の廃車・支線転用が進んだ結果、2013年12月現在、2076・2090・2190の僅か3両のみ残存となっている。

2100系

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2100系 1984年 雲雀丘花屋敷駅

本系列は、1962年より2000系の宝塚線仕様として電動車の2100形と制御車の2150形が各15両ずつ、合計で30両(車両番号はそれぞれ2100 - 2114・2150 - 2164)が製造された。神戸線に比べて低速だった当時の宝塚線に合わせて電動機出力が100kWと低く抑えられたので、そのために別形式に区分された。なお、2156Fはエコノミカル台車を使用している。

本系列は直流600V専用設計であったため、昇圧後は2000系と同様に定速運転機能と回生ブレーキ機能が撤去された。この時、最終6両(2112 - 2114・2162 - 2164)については電装品が2000系昇圧の際に発生した余剰機器に取り替えられた。このため主電動機が2000系と同じ東芝SE-572Bに交換されて1時間定格出力が150kWに増強され、同系列と共通運用可能となった。これら6両はしばらく元番号のまま使用され、1979年に冷房化改造された際に以下の通り2000系に改番・編入された。

2162-2112-2163-2113+2164-2114 → 2092-2042-2093-2043+2094-2044

また、2153と2155については早い段階で3000系の増結に転用されている。

残った22両については、2000系2050形2両を編入して8両編成3本に編成され、引き続き宝塚線で使用された。

1980年代になると速度が向上した宝塚線では性能不足となり、冷房化も施工されないまま(一部車両については1980年頃に貫通路部を狭幅化改造の上ドア取り付け工事を実施)、編成単位では1983年から1985年に廃車され、2154が冷房化改造の上で2050(2代目)に、2153と2155が2055と2059に改番された時点で形式消滅した。

廃車後は2000系に編入された車両を除く全車が能勢電鉄に譲渡され、同社の1500系に改造された。

能勢電鉄に譲渡された2000系

1500系

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標準型の1500系
(2007年7月31日 絹延橋駅
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追加で前面が改造された1560F
(2007年6月7日 山下駅
ファイル:NosedenAjisaiGou.jpg
「あじさい号」
(2008年7月6日 鼓滝 - 多田間)

1983年から1985年にかけて竣工した基本的に阪急2100系を種車とするグループである。譲受した時点で全車が非冷房であり、一方で能勢電鉄は当時600Vだったことから、冷房装置の取り付けと600Vへの降圧化工事のため、入線前にアルナ工機にて冷房改造が行われた。

編成については4両編成とされ、車両番号はモーターの有無でしか区分されていなかった阪急時代のものから、運転台機器の有無でも区分されて、以下の4形式となった。

日生中央妙見口
  • 1550形(1550 - 1555)
圧縮機(CP)を搭載する制御車
  • 1530形(1530 - 1535)
パンタグラフと制御器を搭載する中間電動車
  • 1580形(1580 - 1585)
SIVCPを搭載する付随車。元2000系が2両、元2021系が1両存在する。
  • 1500形(1500 - 1505)
パンタグラフと制御器を搭載する制御電動車。
川西能勢口

冷房装置は、当時阪急電鉄が増備していた7000系の初期車が採用していた「スイープファン付き冷房機」と同一のものが設置され、車外は狭い間隔で並んだ3台の室外機が、車内には送風ファン付きの吹き出し口が目立った特徴となっている。また、それまで装備していた電動発電機(MG)は冷房用の電力を確保する目的もあって静止形インバータ(SIV)に交換されている。

側面左右・前面各1ヶ所ずつに新たに行先方向幕の設置が行われた。前面の方向幕は右(正面向かって左)窓上に設置されたが、この時に標識灯と干渉したことから尾灯が若干車体外側に移設(結果的にライト増設前の阪急3300系5300系と同一の形態)されている。また、連結器高さが下げられ、Tc車の連結器複心バネが撤去、連結面間隔も当時存在していた川西能勢口駅R40の急カーブに対処するため、860mmに拡大されている。

また、TとTcの川西能勢口方の妻面には貫通路幅の縮小と扉の設置を行ったが、元2104の1535については、阪急在籍時に狭幅に改造されていた貫通路の拡大工事を実施した。

台車については、エコノミカル台車(KS-66A/B)を使用していた車両は1010系からの廃車発生品に交換、またミンデン台車(FS-345・FS-45)を使用していた車両については入線当初は平野車庫に台車組み立て治具がなかったため、2000系のFS-333・FS-33台車と交換している[31]。なお、台車のブレーキシューはすべて鋳鉄製に交換され(現在はレジンシューを使用)、ブレーキシリンダーも直径の大きいものに交換されている。

中間に入った運転台付きの車両は第1編成(1550F)中の2両を除いて完全に中間車形態に改造され、第1編成の中間車も乗務員扉はそのまま残されたが、それ以外の機器は前照灯・標識灯・貫通扉とともに撤去され、1530・1580形の1530・1580となった[32]。また、1585は電装解除されていた2021系の2030の運転台を撤去して客室を延長[33]して登場した。

長年にわたって1550F - 1555Fの4両編成6本体制で推移し、1997年のダイヤ改正に合わせて日生線の区間運転用(山下駅も参照)に第1編成が編成分割され、2両編成2本に再組成された。先頭2両は1550に電源用MGが追加設置された上で「新1550F」となり、抜き取られた中間2両に運転台機器の再設置と日生中央・妙見口方から1580-1530への連結順序変更が行われ、形式も1550形1560および1500形1510へと変更されて「1560F」となった。

1560Fは、1500形への改造時に前照灯・標識灯・貫通扉が撤去されていたため、新たに設置された。工事に際しては、阪急から譲渡された3100系と同じデザインが採用され、前照灯阪急8000系と同様の四角の形状のものを新たに取り付け、また、標識灯についてはLED式の四角形標識灯が窓下に取り付けられ、その周囲にはステンレスの飾り帯が取り付けられた。前面貫通扉は阪急8000系が採用している窓が下に長いものになり、車両番号は右窓上に掲示されている。

中間車当時に設置されていた1510の屋根上クーラー脇(西側)に設置されていた高圧引き通し線は、現在も両端が切断された状態で残っている。乗務員室扉横の手すりはステンレス製となったが、後付けのため、当初から運転台を装備する車両(鋼製の手すり)とは形態が異なる。

また、1553Fは1500系・1700系の中で唯一ゴムとドア外板の間にステンレス帯を挟まない阪急2000系などではよく見られた旧タイプのドアを阪急時代から装備していたが、1700系1750Fの廃車の際に同編成の新タイプのドアを転用している。

2008年5月24日の「のせでん春のレールウェイフェスティバル2008」と同年11月2日の「のせでん秋のレールウェイフェスティバル2008」では、後述の「懐かしのオリジナルカラー」塗装2編成が貸切列車「100周年記念号」として使用され、特製ヘッドマークも装着された。また、同年7月5日から21日まで開催された「妙見山あじさいフェスティバル」に併せて、この2編成を併結の上期間中の土曜・休日の「あじさい号」の運用に使われた。

現在、全編成がワンマン運転に対応しており、1997年に自動放送装置などのワンマン運転設備が追加搭載されている[34]

復刻塗装

2008年には、5月23日能勢電鉄が創設100周年を迎えるにあたって、2010年2月まで「懐かしのオリジナルカラー」塗装が復刻されていた。対象車両は1550F(入線当初のマルーン+ベージュ)と1560F(能勢電鉄最後のオリジナルカラー。フルーツ牛乳塗色〈オレンジ+クリーム〉)である。[35]

2013年には、開業100周年を記念し3月16日より1550Fに、開業当初の1形の青みがかった緑色の塗装を復刻した。4月13日には1560Fに、50形の白と青のツートンカラーを復刻した。

1700系

ファイル:能勢電鉄1700系電車.JPG
1700系
(2010年4月28日 鼓滝駅)
ファイル:能勢電1700系室内.jpg
1700系の車内
(2007年4月7日)

1990年から1992年にかけて竣工した、基本的に阪急2000系を種車とするグループである。全車が阪急在籍中に冷房改造を受けているため、冷風吹き出し口にスイープファンは付いていない。

冷房機以外の改造点は1500系とほぼ同じであり、設置間隔が広い冷房室外機と送風ファンなしの冷房吹き出し口が同系列との相違点となっている。2100系からの編入車4両と2021系を種車とする4両も1500系に改造された同形式とは別形態になっている。

搬入当時の形式と編成は以下の通りである。

  • 1750形(1750 - 1758)
CPを搭載する制御車。1753 - 1755はMGも搭載している。2100系からの編入車が2両存在する。
  • 1730形(1730 - 1738)
パンタグラフと制御器を搭載する中間電動車。2100系からの編入車が1両存在する。
  • 1780形(1780 - 1788)
SIVとCPを搭載する付随車。元2021系が4両存在する。
  • 1700形(1700 - 1708)
パンタグラフと制御器を搭載する制御電動車。2100系からの編入車が1両存在する。
↓川西能勢口

1500系と同様に制御車―中間電動車―付随車―制御電動車の4両編成を組んで入線し、同系列よりも多い1750F - 1758Fの9本が在籍した。先述の通り、中間車はすべて製造時から中間車車体である。ワンマン改造は1500系が完了した後最終的に8編成に施行された[36]

1997年から2000年まで存在していた6両編成の運用においては1753~1755にMGを増設[37]、主にワンマン改造前だった1753Fを2両ずつに分割し、「1753-1733+1750F」および「1758F+1783-1703」という編成を組んでいた。このうち1783-1703については1758Fのワンマン改造後は連結相手が1757Fや1756Fに変更され、さらに1000系が2両廃車されて6連を組成すると余剰となり休車となった。そして、同年のダイヤ改正で6両運用が消滅すると分割前と同じ4両編成に復元され復帰している。なお、ごく一時期に1754Fを分割していた時期も存在していた。

その後、2003年のダイヤ改正で阪急車で運用される「特急日生エクスプレス」の増発に伴って4両編成の使用車両数が減少したことを受け、2004年に最後までワンマン改造未施工だった第1編成(1750F)が余剰となり廃車[38]された。現在、残る編成はすべてワンマン運転に対応している。

ラッピング

2014年には、「日本一の里山」と言われる川西市黒川地区のPRのため、能勢電鉄の車両としては初めての大規模なラッピングが1758Fに施された[39]

現在

2013年12月現在[40]、阪急線内には2071形2両、2171形1両の付随車のみの3両が在籍している。いずれも3000系・3100系の編成内に連結され、宝塚伊丹の各線で使用されている。

2003年には2071系の2071形2086・2186が兵庫県広域防災センターに事故訓練用教材として譲渡された。2両とも元先頭車で、譲渡時に前面のみ先頭車仕様に復元されている。


一方、能勢電鉄には1500系・1700系合わせて4両編成13本、2両編成2本の計56両が在籍している。塗装は阪急時代が一貫してマルーンの単色塗装であったのに対し、能勢電鉄に入線してからは1500系入線時から「マルーンに窓周りクリーム」、1700系入線時から「オレンジに前面窓下と側面窓周りが緑」、1994年から「アイボリーにドア部分オレンジ」(1993年から試験期間として数種類の塗装が行われた中から採用)と比較的変化が多かった。しかしながら、2003年になって阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の再編から阪急電鉄との経営一体化が行われ、保守業務の効率化を図るため、一部の月検査や車輪転削に阪急平井車庫、全般/重要部検査に阪急正雀工場が使われることになった。これに合わせて塗装が再びマルーン一色に変更されている。

なお、ファン向けのイベントではマルーンに塗り替えられた車両の先頭に阪急時代の車両番号を掲出し、前面方向幕をシールで塞いで、展示や貸切列車の運転が行われることもある。

編成表

  • 旧番号の項、通常書体は元阪急2000系である。
    また、車両番号の前に(1)がついているものは元阪急2100系、(2)がついているものは元阪急2021系、(7)がついているものは元阪急2071系を示す。
  • ※は阪急時代に2100系から2000系に改造された車両を示す。よって○○形と必ずしも一致していない。
  • 灰色地(X)は現存しない車両、オレンジ色地(N)は能勢電鉄での就役後に再改造された車両である。
  テンプレート:TrainDirection    
  1550形 1530形 1580形 1500形 2150形 2100形 2150形 2100形
現番号 1550 X-1530 X-1580 1500 旧番号 (1) 2150 (1) 2100 (1) 2151 (1) 2101
1551

1555
1531

1535
1581

1585
1501

1505
(1) 2152 (1) 2102 2055 (1) 2103
(1) 2158 (1) 2109 (1) 2160 (1) 2108
(1) 2156 (1) 2106 (1) 2157 (1) 2107
(1) 2159 (1) 2111 2059 (1) 2110
(1) 2161 (1) 2104 (2) 2030 (1) 2105
1560     1510 N-1580     N-1530
  1750形 1730形 1780形 1700形 2050形 2000形 2050形 2000形
現番号 X-1750 X-1730 X-1780 X-1700 旧番号 ※ 2092 2004 2061 2003
1751

1758
1731

1738
1781

1788
1701

1708
2058 2008 2063 ※ 2044
2067 2006 2057 2017
2054 ※ 2042 2053 2005
※ 2050 2000 2051 2014
2062 2012 (7) 2177 2013
2068 2018 (7) 2187 2019
2070 2002 (7) 2078 2020
2064 2010 (7) 2072 2011

脚注

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外部リンク

テンプレート:阪急電鉄の車両 テンプレート:能勢電鉄の車両

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  1. なお、このモニター屋根は本来の屋根板の上に1段突き出た状態で設置されていたことから「二重屋根(ダブルルーフ)」と呼ばれることもあった。
  2. この窓はその完成度の高さから、その後8300系まで改良を加えつつ長く継承されることとなった。
  3. 当初は三宮側を存置していたが、冷房搭載時に梅田側に変更された。
  4. 従って制御電動車と制御車が中間電動車と付随車よりも3両ずつ多い。
  5. 端子電圧300V時定格出力150kW/550A/1400rpm、最高回転数4500rpm、最弱界磁率15%。ただし、これは後の昇圧改造時に単純な直巻式電動機に改造されている。
  6. 東芝の手で国鉄にも持ち込まれ、CS12としてほぼそのままの形で制式化され、広く普及した。
  7. 50・70・80・90・105km/hの5段階。なお、最高運転速度は110km/hであったが、定速度制御時の追従遅れや速度計の精度誤差を見込んで105km/hを上限に設定してあった。
  8. ただし、内部つなぎでは1A・1B・2・3の4段となる。
  9. これに対して京都線の2300系と2800系に採用された東洋電機製造開発の分巻界磁制御機構は黎明期の半導体ゲルマニウムトランジスタ)を使用したため、初期故障こそ多発したものの、その後は安定した性能を発揮し、電動発電機の回転変動に左右されないシンプルな回路構成もあって、その後も長く維持された。さらには界磁調整器とトランジスタ増幅器のセットを界磁チョッパ制御器に置き換えることで定速度制御機能こそ失われたものの、最後まで回生制動機能が維持されており、東芝方式と明暗を分ける結果となった。
  10. 住友金属工業では当時平行カルダン駆動の電動車用台車を300番台に、制御車や付随車用の台車を2桁形式としてそれぞれ付番していた。よって2000形はFS-333・345を、2050形はFS-33・45をそれぞれ装着していた。
  11. この採用に先立って2011(後に2017と交換)に試作のFS-344が試験装着されている。
  12. 弱め界磁率は4段階で順に73・56・46・38%と設定された。
  13. 昇圧時に主電動機の換装が実施され、性能が本系列と揃えられた。
  14. 3000系以降の各系列は妻面貫通路幅が狭いため、転用された2050形については各連結面に貫通路幅を狭めるアダプターが装着された。
  15. 2053が編成から外され、2053が連結されていた場所には、大阪寄りの4連から2051が移動した。
  16. この結果、神宝線用車両では5100系以外で唯一京都線特急の2枚看板を掲げた経験がある。
  17. 冷凍能力10500cal/h。
  18. 新造時から中間車の車両と異なり、妻面が切り妻ではなく3面折り妻のままで、乗務員用扉の代わりに設けられた側面窓は小さく、運転台仕切りが一部残され旧運転台部には座席がない。
  19. 他系列への組み込み車についてはこの改造は組み込み先編成に合わせた仕様で行われている。
  20. 2162-2112-2163-2113+2164-2114の6両。ただし、付随車の2163はこの時点で既に3000系編成へ組み込まれていた。
  21. テンプレート:Cite journal
  22. 同時に、神戸本線からの運用も消滅した。
  23. 「阪急鉄道同好会報・第63号」p4の記述による。
  24. 2021・2022・2024・2025・2037及び2072・2073・2075・2076・2088
  25. 2027・2029・2078・2080
  26. 2090-2040・2091-2041を電装解除して編成から外し、2077-2028+2079-2030の4両編成に変更。
  27. なお、不要になった複電圧仕様の電動発電機は、複電圧の箱根登山鉄道に譲渡された。
  28. 同時に廃車となった3100系3109へ改造された3000系3022の補充として、3000系の機器を装備して再電装が行われている。このような複雑な改造が行われた背景には、廃車となった3109の補充のために先頭車が必要であることと、当時休車中で転用可能な車両のうち2171は元電動車であり、トラップドアの復活などが容易であったためであった。
  29. 同時に、2088は阪神・淡路大震災で被災した2721を除けば、阪急初の表示幕設置車両の廃車でもあった。
  30. 2001年にリニューアルを受けた5008Fは2000系を組み込んでいたので無関係。また2000年の2090、2006年の2184と2085は脱車の後に宝塚線の3000系へ再転用されたので、この時点では廃車にはらず、2011年に廃車。
  31. 1582のみ入線直後の一時期のみFS45を使用していたが、すぐにFS-312に交換された
  32. この2両の間の貫通幌は広幅貫通路用のものを使用したため、アダプタを車体側に取り付けていた。
  33. 窓枠などは廃車になった2050の部品を流用した。
  34. 1555Fを皮切りに1553F、1550/1560F、1552F、1554F、1551Fの順で施行された。1550/1560Fは先述の編成分割と同時にワンマン改造が行われ、1997年11月のダイヤ改正までは「1550-1500+1560-1510」という4両編成を組んでいた。
  35. 当初は2009年3月までの予定だったが、4月以降も車内の写真集は撤去してオリジナルカラーでの運行は継続され、2月28日に100周年記念号のさよなら運転が行われた。
  36. 1752Fを皮切りに1755F、1758F、1751F、1756F、1754F、1753F、1757Fの順で施行された。運用(当時は平日朝ラッシュ時はワンマン対応編成でもツーマン運転だったため、未改造編成は朝専用運用だった。)の関係で必要編成数だけ順に改造する形をとり、最後の1753Fと1757Fは2003年にまで延びた。
  37. 1753形に形式変更。
  38. 廃車前から運用離脱状態にあった。なお、最後まで塗装のマルーン化がなされていなかったことから、塗り替え直前に旧塗装消滅のイベント列車に使用された。
  39. 能勢電鉄でラッピング電車「里山便」の運転開始 - 交友社「鉄道ファン」railf.jp鉄道ニュース 2014年4月14日
  40. 『鉄道ダイヤ情報』通巻358号