阪急900形電車
阪急900形電車(はんきゅう900がたでんしゃ)は、かつて阪神急行電鉄および京阪神急行電鉄を経て阪急電鉄に在籍した通勤形電車である。神戸線での特急運転の開始に際し、当初は優等列車用として1930年に20両が製造された。その後現在に至る阪急の車両設計の基礎となった車両であるとともに、続いて登場した920系と並ぶ、昭和戦前期の阪急および関西私鉄を代表する車両のひとつである。
900形登場まで
ライバル路線の改良が進むと、阪急が持っている阪神間最速路線という優位性を失い、神戸側ターミナルの場所の悪さを補うことが困難になることが予想されたことから、更なる対応を検討することとなった。具体的には600形の投入に引き続き特急列車の運転への準備が進められ、1928年3月には608-807-609の3両編成に定員乗車と同じ重さの荷重を搭載して、特急運転を想定した試運転を実施した。試運転は阪神間で西宮北口駅のみ停車の場合と、同駅に十三駅及び塚口駅を加えた3駅停車の2種類で実施され、所要時間は30〜32分を要した。同年11月には特急用車両設計の参考の一助として、600・800形のうち608-806-609の3両編成1本を固定式クロスシートに改造している[1]。
しかし、600形は重量が約28tと重い割には[2]低出力のゼネラル・エレクトリック製のGE-240AAモーター[3]を搭載したことから、電動車の600形と制御車の800形で2両編成を組むことは困難で、前述のような3両編成か、600形1両による単行で運行されていた[4]。この頃になると鋼製車両の製造技術も進んで頑丈だけでなく軽量化に留意した設計ができるようになっていたことや、電車向けの高出力モーターが製造されるようになったことから、将来想定される特急運転の開始時には600形を増備するのではなく、新しいコンセプトで車両を製造し、その新形式をもって特急運用に充当することとなった。
概要
1930年3月に、900〜919の20両が川崎車輛で製造された。当時の神戸線ではすでに3両編成の運転が始まっていたが、本形式は全車両運転台式の電動車で製造され、結果として神戸線向け車両としては最後の両運転台車となった。本形式は特急用車両として製造された[5]ことから、車体内外について大幅な設計の見直しが行われ、それまでに製造された車両とは一線を画したスタイルや性能を持った車両として登場した。項目ごとの概要については以下のとおり。
車体
600形を含めた初期の鋼製車両は、木造車の製造手法をそのまま引き継いだのと、頑丈であることを第一に置いて、魚腹式台枠を土台にして車体の全荷重を負担する構造となっていたことから、必然的に車体重量の増加を免れないものとなっていた。このため、後に阪急の車両となる新京阪のデイ100形 (P-6)をはじめ、南海の電9形 [6]や阪和のモヨ100・モタ300形といった当時の関西私鉄に登場した大型鋼製車は、魚腹式台枠を採用して車体重量も大きなものとなっていたことから、当時開発が進んでいた電車向けの高出力モーターを全軸に搭載することで重量増をカバーして高速運転を実施していた。確かにこの方法では車体の安全性を保ちながら高速運転ができる電車を投入することができるが、必然的に消費電力の増加を招いてしまうだけでなく、重量級車両の高速運転によって軌道破壊が進行し、線路保守費用が増加するというデメリットもあった。阪急では、他社でこのような重量級の全鋼製車両が登場していたころから鋼製車体の軽量化について研究を進めており、本形式の設計に際してその成果を実践することとなった。
台枠には当時としては綿密な強度計算により不要な梁を可能な限り省略して大幅な軽量化を実現した形鋼通し台枠を採用し、構体と台枠で強度を分担させる構造とした。車体では、従来設けられていた中央部の側扉については、車体中央部の最も応力の集中する所にあることからこれを設けないこととし、両車端部の側扉についても従来の車両は運転台直後に設けられていたが、車体強度の低下を避けるために、応力値が最低となりボルスタと干渉しない位置に移設された。側面の見付けも従来の車両から大きく変更され、中央寄りに側扉を寄せて運転台部分に阪急初の乗務員扉を設けた、車体長約17.6m、車体幅2.74mで側面窓配置d1(1)D8D(1)1d(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)の2扉車となった。また、溶接技術が進んだことから、600形とは異なりリベットの使用を車体裾部や扉周囲にとどめ、屋根も浅くなったこともあいまって、当時としてはスマートさと軽快感を持つ車体に仕上がった。前面はそれまでに登場した各形式同様中央に貫通扉を配した3枚窓で、運転台側幕板部に行先方向幕、助士台側幕板部に尾灯を配しているのも同じであり、貫通扉はあるものの、貫通幌の取り付けは考慮されていなかった。ただし、アンチクライマーの取り付け位置が前面裾部の全体に広がったほか、屋根は600形のおわん形ベンチレーターから、中央にガーランド型ベンチレーターを一列5基配し、その左右にランボードを巡らせたものに変更された。側窓は、他社において2段窓が流行している時期に、安全性や換気を考慮してやや腰高な1段下降式窓を採用、それまでの1段下降式窓とは異なりバランサーを取り付けることで、乗客が任意の位置で窓を開けることができるようになった。
車内は転換クロスシートを採用して、扉間に8脚設けた。車端部はロングシートである。従来運転台部分はHポールで仕切られているのみであったが、本形式から引戸付の仕切りで完全に独立したものとなった。室内灯はそれまでのシャンデリア型から円形のグローブを取り付けたものに変更されている。ここでも内装部材に軽合金を多用するなど、軽量化に留意して設計されている。この他、ナンバーの字体も600形までのローマン体から現在まで続くゴシック体の切り抜き文字に変更された。ただし、当時のナンバーの数字は現在採用されている字体に比べると大きなものになっている。
主要機器
主電動機は600形までのゼネラル・エレクトリック(GE)社製の輸入品から一転して国産の芝浦製作所製の高出力モーターであるSE-140A[7]を2基、制御器は同じく芝浦製の電空カム軸式複式制御器であるRPC-52を搭載、ブレーキは当初AVR制御管式自動空気ブレーキを搭載したが、後にM三動弁を使用するAMM自動空気ブレーキ に換装された。台車は汽車製造会社製のボールドウィン形台車で、大型モーター搭載のためにホイールベースが2,300mmに拡大されたL-17を履いた。パンタグラフは、日立製の大型パンタグラフであるK-2-14400-Aを大阪側に1基搭載した。
なお、戦前から戦後初期にかけて、本形式をはじめ神戸線所属の両運転台式の電動車からなる2両編成では、神戸側に連結された車両のパンタグラフを下ろして、引き通し母線を通して大阪側車両のパンタグラフから給電していた。このため、奇数月には奇数番号車が、偶数月には偶数番号車がそれぞれ大阪側になるよう、月初めに編成の組み換えを実施していた。
本形式は車体の内外にわたって新機軸を採用し、車体も600形から600mm長くなったが、車体重量は25.7tと軽くなって、単位当たりの重量も600形の約96%に抑えられるなど、課題のひとつであった軽量化に成功した。それと同時に軽量車体と高出力モーターを組み合わせることで、1両当たりのモーターの搭載基数を抑えながら高速運転に対応することにも成功している。こうして、本形式は先に紹介した新京阪デイ100形(P-6)や南海2001形、阪和モヨ100・モタ300形、日本初の長距離高速電車である参急2200系や「ロマンスカー」の愛称の起源となった京阪600形とともに、1930年前後の関西私鉄を代表する車両となった。
また、本形式で確立されたこの世代の阪急電車のスタンダードスタイルは、920系をはじめ宝塚線向けに小型化された320・380・500の各形式を経て戦後の800系に引き継がれ、戦後制定された阪急標準車体寸法の基準ともなって810・710の両形式から1000・1010・1100・1200・1300・1600の各形式に至るまで受け継がれるものとなった[8]。
車両の外観そのものは1960年に登場した2000・2300の両形式から大きく変更されるが、軽量化や時代に見合った新機軸の採用といった本形式の基本コンセプトは覆されることなく継承され、現在に至るまで阪急の車両設計に大きな影響を与える車両となった。
戦前の運用
本形式は登場直後の3月25日に報道陣に対して公開され、新車登場をアピールした後、4月1日から運転を開始した、阪神間を西宮北口駅のみ停車して梅田-神戸(上筒井)間を30分で結ぶ特急運用に充当された。このときから現在の昼間時のダイヤ同様、特急と普通の2本立てで運行されているが、本形式は特急専用車として運用されたのではなく、時には単行で走る普通運用にも充当されている。
本形式の外観は600形の深い屋根とリベットの多い車体といった重厚なものから一変して、浅い屋根とリベットの少ない車体となったことから軽快なものとなり、内装もオロ30600形[9]やスロ30800・30750形[10]といった国鉄の客車二等車並みの転換クロスシートとなったことから、多くの利用者を瞠目させた。また、特急の阪神間30分運転は、神戸側の終点が上筒井であるとはいえ、当時としては画期的な速さであり、阪急が所持していた阪神間最速のレコードを更新するものであった。それでも1932年10月には阪神間の所要時間を28分に短縮[11]し、1930年と1932年には本形式と同じ台車や電装品を使って800形の電装改造を実施、両形式単独で単行から3両編成で運行することで普通列車の速度向上を図った[12]ほか、同時に神戸線に残っていた51形木造車と500形の制御車である700形を全車宝塚線に転出させて更なるスピードアップの基礎を作った。1934年5月には900-904の5両に対して、電装解除された800形800-803・806のモーターを取り付けてモーターを4基搭載、出力増強を図るとともに、この800形を神戸側に連結して2両編成を組むこととなり、特急運用にも充当された。
6月には920系が登場して、それまで本形式が中心となっていた特急運用に加わっている。翌7月から阪神間の特急25分運転が開始され、本形式は920系とともに特急運用に充当された。このスピードアップから約2年後の1936年4月にはついに念願の三宮乗り入れを果たしたが、上筒井から三宮にターミナルが移ったことで路線距離が約3km延びてしまった。駅構内に急勾配、急曲線があった上筒井とは異なり、新規開業区間のほとんどが直線区間であったことからスピードアップでカバーすることができたために、特急は従前同様の阪神間25分運転を維持した[13]。1937年4月から新京阪線の急行に連絡する特急の十三駅停車を開始したが、このときも阪神間25分運転を維持している。
本形式は特急運転開始以降、主力車両として特急運用に充当され、その高速ぶりが当時の阪急のキャッチコピーであり、現在でも昭和初期の阪急を紹介する際の枕詞に使われることがある、「快速阪急」の象徴として語り継がれることとなった。
戦中・戦後初期
日中戦争の激化に伴う乗客増に伴い、本形式の転換クロスシートは乗客の詰め込みが利かないことから撤去されることとなり、1943年12月から1944年5月にかけてクロスシートの撤去改造とロングシート化が実施された。当初はクロスシートを撤去してロングシート化するというものであったが、その後クロスシートを一部残して座席の半減改造を施したものや、ロングシート化の上座席の半減改造を施したものも現れた[14]。特急の運転も1944年12月に休止され、残った急行も戦争末期で空襲が激化した1945年6月に休止された。空襲で905が被災したが、後に復旧している[15]。
戦時中から戦後にかけて、3両編成での運行が常態化したことから、本形式は920系と併結したほか、800形を改番した650形電動車[16]とともに650形の制御車や電装解除された96形を中間に組み込んで運転された。また、4個モーター車の900-904については予備部品確保のために終戦後半年以内の1946年初期までに電装解除され、制御車代用として920系の大阪側に連結された。物資不足は1946年いっぱい続き、電装品の修繕や混雑した乗客によって破損した窓ガラスの補充に苦労することになった。特に窓ガラスは小割のガラスを細い桟でつなぎ、時には「阪急百貨店のショーケースを転用して補充したのではないか」とまで言われるほどの苦労をして補充に努めたことから、当時の国鉄や他の事業者でよく見られた板張り窓の車両を見ることはなかった。電装解除されていた900-904も1947年初期には2個モーターの電動車として復活し、本形式は同年4月1日から再開された神戸線の急行運転に充当された。その後も復興に向けた整備は進められて、1950年までにロングシートながらも座席の整備が行われ、特急も西宮北口・十三両駅停車で1949年4月に運転が再開されたことから、ようやく戦時色を払拭することができた。なお、1951年から1年間前後、919が655の後任として連合軍専用車として運用されている。
長編成化と車体更新
1950年ごろの神戸線では3両編成での運行が主体であったが、乗客の増加に伴って徐々に4両編成の運行が増加してゆく。本形式だけで4両編成を組み、パンタグラフを林立させて特急運行に充当されることもあったが、従来同様920系や当時登場したばかりの800系の大阪側に連結されて3両編成を組んで走ることも多かった。1951年から開始された600形の車体更新に際しては、従来600〜604が履いていた住友金属工業製鋳鋼台車のKS-33に換装されるとともに、モーターも台車ごとSE-151[17]に換装され、2基搭載した。翌1952年の96の再電装に際してもL-17台車とSE-140モーター4基を供出して、代わりにKS-33台車とSE-151モーターに換装している。このような台車及びモーターの振替を実施した結果、900〜912の13両がKS-33台車を履き、SE-151モーターを2基搭載することとなった。
1953年4月のダイヤ改正で昼間時の特急が10分間隔で運転されるのと同時に、特急全列車が4両編成で運行されるようになった。この時期の本形式は特急運用に充当される機会が減少し、まだ3両編成で走ることの多かった普通運用によく充当されたほか、今津線や伊丹線といった神戸線の支線区にも入線している。
1954年から909の事故修復を機会に、600形に続いて車体更新が施工されることとなった。工事の内容は、ウインドシルが2段の帯から平帯となり、溶接の多用によって車体腰部のリベットがなくなった。前面貫通路には幌枠、屋根周りには雨樋が取り付けられた。この時、909の屋根は全面ビニール張りとなり、戦災復旧車の905は屋根部分を除いてリベットレスとなった。併せて、900〜909の神戸側運転台が撤去されて片運転台化されている。更新工事は1958年までに完了したが、その途上で1200系製造に伴う旧型車相互間の主要機器振り替えの一環として913・914のL-17台車とSE-140モーターを1200系に供出、代わりに920系からKS-33台車とSE-151モーターを転用した結果、900〜914の15両がKS-33台車とSE-151モーター2基を搭載することとなった。また、この時期には900-913の2両編成で40%弱界磁[18]による高速運転試験が実施されたほか、914を使用して地上パターン方式による自動列車停止装置の試験が行われるなど、本形式を使って新技術のテストが行われた。
1959年11月から神戸線の特急・急行運用の一部が5両編成化されると、本形式は920系及び800系の2両編成を2組併結した4両編成の大阪側に連結されて、再び優等列車運用の先頭に立った。ただし、正面非貫通の805-855及び806-856の編成については両編成の背中合わせに連結された920系の中間に組み込まれて、2+1+2の5両編成を組成した[19]。1961年 1月には宝塚線の5両編成運行の拡大に伴い、910以降の両運転台車グループのうち、917〜919の3両が920系4両編成×3本とともに宝塚線に転出し、翌1962年1月には915・916の2両が920系2両編成×2本と宝塚線に転出、増結用として使用された。本形式のこのときの連結位置は神戸線とは異なり、宝塚側に連結されている[20]。この時の宝塚線運用は、宝塚線の6両編成運行が拡大したことから920系と引き換えに神戸線に転出することとなり、1962年12月に915〜917の3両が、1963年12月には残る918・919の2両が転出して、3年弱の短期で一旦終了することとなった。また、この時期には900-910と901-911の2両編成2本について、両車を半永久式密着連結器で結ぶことで、実質的にMc-Mcの2両固定編成となった。1963年12月と1964年2月には902-912と903-913の4両について、912・913の電装機器と大阪側運転台を撤去してTc(制御車)化するとともに902・903のモーターを4基に増設、2両固定編成化された。またこの4両のみ、屋根全体に絶縁用ビニールシートが張られた。
晩年
戦後の社会も復興から高度経済成長に向かうようになり、農村での余剰人口が都市に流入することによって大都市近郊の宅地化が進展し、大都市圏の国私鉄では輸送力増強のために長編成化を進めていった。阪急でも1958年に宝塚線[21]で、1962年には神戸線で6両編成の運行を開始した。これに伴って本形式をはじめとした吊り掛け駆動車も6両編成化が進められることとなったが、運転速度の低い宝塚線ではAMMやAMAといった自動空気ブレーキ装置のまま6両編成化を行ったが、神戸線では、運転速度が高いことからブレーキ操作に難があったために乗務員に嫌われてしまい、本格的な6両編成化は、ブレーキ改良まで見送られる事となった。1964年には神戸線の本線運用が全列車5両ないしは6両編成化されたが、900形は単車で走行可能な事もあって、810系・920系2両編成2本の中間に組み込まれて2+1+2の5両編成を組成した[22]。こうしたことからさらなる長編成化に対応するため、本形式をはじめ920・800・810・1200といった吊り掛け駆動車各形式のブレーキ装置をHSC電磁直通空気ブレーキ装置に改造することとなり、1964年以降順次改造が行われることとなった[23]。
1960年代後半に予定されていた神宝線の架線電圧600Vから1500Vへの昇圧[24]に際しては、本形式は昇圧対応工事の対象車となったが、本形式は運転台が920系に比べて若干狭かったことから、長編成化およびATS設置に伴う不要運転台撤去の一環で全車中間車化される事になった。ただし、920系の中間車改造とは異なり、客室部分の延長は行われず、乗務員扉の撤去も行われなかった。中間車化は、昇圧工事に先駆けて1966年~1967年に実施され、引き続いて1969年までに昇圧改造が行われたが、その際910以降の車両については、電装解除の上付随車化された。この改造では電装品の振替も行われ、電動車のパンタグラフが従来の日立K-2-14400-Aから東芝製のものに換装されたほか、モーターも902・903に続いて全車4基に増強されることとなり、900・901・904〜906の5両がSE-151を、907〜909の3両がSE-140を搭載することとなった。また、付随車の台車が全車L-17に換装された。
改造後の本形式は、920系や800系の中間車として引き続いて神戸・宝塚両本線で使用された。暫くは6~7両編成で使用されていたが、1971年に7両編成の編成変更が実施され、この時余剰となった915~918の4両は休車となり平井車庫に留置された。一方、宝塚線に転入した編成では8両編成を組んで、次々と登場する新型車とともに神戸線では普通運用を中心に、宝塚線では急行から普通まで幅広く運用された。
1970年代中頃になると、本形式を含めた旧型車の優等列車運用は減少して普通運用が主体となり、1977年春には、登場以来走り続けた神戸線での運用を終了した。そして本形式も製造後45年以上経過して老朽化が進行していたことから、神戸線運用終了後の1977年4月に6両が廃車[25]されたのを皮切りに、6000系の増備に伴って代替されることとなった。廃車は同年8月に906が、10月に904・905・919の3両が廃車されて半数の10両が消滅、残る10両も今津線および宝塚線での運用を最後に1978年2,3月[26]に廃車されて、本形式は消滅した。
900の復元
廃車後、戦前の阪急を代表する車両として、トップナンバーである900のみ解体されずに正雀工場において保管されることとなった。しばらくは廃車時の状態で保管されていたが、1984年に簡単な整備が行われ、前照灯の取り付けやウインドシルの2段化[27]、再塗装などが行われたが、貫通扉が設置されていないなど、中途半端な状態であった。
その後、阪急の創業80周年を翌年に控えた1987年に、技術遺産として新造時の状態に復元されることとなり、翌1988年に完成した。台車はKS-33から製造当初のL-17に交換され、登場時の朱色に塗装された。パンタグラフは東芝製のものから日立K-2-14400-A[28]へと、登場時のものに換装されたほか、床下機器の一部が、能勢電鉄より譲り受けた600V時代のものに交換、ウインドシルも、能勢電鉄320形のものを参考に新たに製造されたものと交換した。尾灯は車掌台側のみ取り付けられ、運転台側にあった行先方向幕が復活した。屋根も絶縁布が剥がされて鋼板屋根となって鉛丹ペイントが塗装された。車両番号表記・社紋は、車体中央から運転台と乗降扉の間に移され、切り抜き文字の上から白色ペイントされていたのが剥離されて磨き出しとなり、社紋も阪神急行電鉄時代のものに取り替えられた。アンチクライマーは廃車した800系から流用している。内装も扉間の転換クロスシートが復元されたが、こちらは2800系のものを流用している。
900は復元後も正雀工場にて静態保存されて、イベント時には先に復元された100形116や宝塚ファミリーランドから引き揚げてきた1形1や10形10とともに一般公開された。その後2000年頃に足回りが整備され、電装品が架線電圧600V仕様であるため自走は不可能ながらも線路上の走行が可能となったため、イベント時には116と併結して乗車会も行われている。
脚注
参考文献
- 慶應義塾大学鉄道研究会編、『私鉄電車のアルバム 1A ・1B』 交友社 1980,1981年
- 高橋正雄、諸河久、『日本の私鉄3 阪急』 カラーブックスNo.512 保育社 1980年10月
- 『車両アルバム1 阪急810』 レイルロード 1988年
- 西尾克三郎 、『西尾克三郎 ライカ鉄道写真全集 I,II』 エリエイ出版部 プレス・アイゼンバーン 1992年
- 「阪急鉄道同好会創立30周年記念号」 『阪急鉄道同好会報』 増刊6号 1993年9月
- 藤井信夫、『阪急電鉄 神戸・宝塚線』 車両発達史シリーズ3 関西鉄道研究会 1994年
- 浦原利穂、『戦後混乱期の鉄道 阪急電鉄神戸線―京阪神急行電鉄のころ―』 トンボ出版 2003年1月
- 『阪急電車形式集.1』 レイルロード 1998年
- 『鉄道ピクトリアル』各号 1978年5月臨時増刊 No.348、1989年12月臨時増刊 No.521、1998年12月臨時増刊 No.663 特集 阪急電鉄 篠原丞、「大変貌を遂げた阪急宝塚線」、臨時増刊 車両研究 2003年12月
- 『関西の鉄道』各号 No,25 特集 阪急電鉄PartIII 神戸線 宝塚線 1991年、No,39 特集 阪急電鉄PartIV 神戸線・宝塚線 2000年、No,54 特集 阪急電鉄PartVII 神戸線 2008年
- 『レイル』 No,47 特集 阪急神戸・宝塚線特急史 2004年
- ↑ 600・800形のクロスシート改造の理由については、 『レイル』 No,47 特集 阪急神戸・宝塚線特急史に拠る。
- ↑ 600形はその後も更新等で重量が増加してしまい、廃車間近い1970年ごろには電動車36.02t、制御車29.5tにまで増加してしまった。
- ↑ 端子電圧600V時1時間定格出力78kW、615rpm。ただし阪神急行電鉄では1時間定格出力82kWを公称。
- ↑ 600・800形のクロスシート改造予定車には、2両編成による運行も考慮して当初807も含まれていたが、結局改造されなかった。
- ↑ 神宝線(神戸・宝塚両線の阪急電鉄社内における呼称)向けの車両で「特急用」とされたのは、本形式のほかに810系が1950年の登場時に社内向けの一部の文書で「京都〜神戸間直通特急用新造車」と表現した例があるのみである。
- ↑ 後にモハ301形を経て2001形に改番。
- ↑ 端子電圧750V時1時間定格出力150kW、780rpm。
- ↑ 1010・1100・1300の各形式については、増備の途中から3扉車として製造。
- ↑ 後のオロ31形。
- ↑ 後のスロ32・34形。
- ↑ 『レイル』 No,47や『鉄道ピクトリアル』1998年12月臨時増刊号では、阪神間28分運転の開始を1931年10月としている。
- ↑ 本形式と800形電動車が同じ性能になったことから、両形式併結で2両編成を組んだ写真も残されている。
- ↑ ただし、本形式と920系の性能をもってしても阪神間25分運転は限度一杯の運行であったらしく、時には早発させていたという話も残っている。
- ↑ 『戦後混乱期の鉄道 阪急電鉄神戸線―京阪神急行電鉄のころ―』中に、座席半減状態で乗客を乗せて走行中の写真がある。
- ↑ 『カラーブックスNo.512 日本の私鉄3 阪急』では、被災車は905と910になっている。
- ↑ 650形電動車は1947年から1949年にかけて連合軍専用車に指定されたため、本形式と3両編成を組んだのはその前後の期間となる。
- ↑ 端子電圧750V時1時間定格出力170kW、810rpm。
- ↑ 通常は60%。
- ↑ 1963年12月時点の805の編成を例にすると、805-955+908+925-855となる。
- ↑ 1961年1月時点の942の編成を例にすると、942-972+943-973+917となる。
- ↑ このとき6両編成化されたのは15mクラスの中型車である610系。大型車の6両編成運行は1962年以降。
- ↑ この他、1965年1月ごろには、914+822-872+804-854と、本形式と810系・800系の混成5両編成を組んでいたこともある。
- ↑ 同時期に、昇圧対応工事の一環で初期の高性能車である1000・1010・1100の各形式も、主電動機の熱容量の関係から、ブレーキ装置を電空併用のAMCDからHSCに換装している。
- ↑ 昇圧は神戸線が1967年10月8日、宝塚線が1969年8月24日
- ↑ 内訳は901・911・915〜918
- ↑ 内訳は903・908・909・913が2月、900・902・907・910・912・914が3月
- ↑ 更新後のウインドシルに線材を溶接したもの
- ↑ 宝塚ファミリーランドの電車館に保管されていたもの。