アビスパ福岡

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テンプレート:告知 テンプレート:サッカークラブ テンプレート:Infobox アビスパ福岡(アビスパふくおか、Avispa Fukuoka)は、日本の福岡県福岡市をホームタウンとする[1]日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

概要

1982年創部の中央防犯サッカー部が前身。1994年にJリーグ準会員となり、1996年よりJリーグへ加盟している[1]。クラブ名のアビスパは、スペイン語で「熊ん蜂(スズメバチ)」の意味[1]。ハチの持つ集団的行動や俊敏性が「軽快で統制のとれた多様なグループ攻撃」という、チームの目指すスタイルを象徴する[1]。運営会社はアビスパ福岡株式会社である[1]

ホームスタジアムはレベルファイブスタジアム[1]、練習場は福岡市雁の巣レクリエーションセンター球技場である[1](詳細は#スタジアムを参照)。

運営会社の出資企業・団体の多くは福岡市に主要拠点を置く、もしくは福岡が発祥の企業であり、取締役には大株主であるコカ・コーラウエスト福岡市(市民局)のほか、九州電力西日本新聞社九電工ふくや福岡銀行西日本シティ銀行の幹部が就いている。オフィシャルスポンサーも大半は福岡市に拠点を置く企業となっている。なお、主要な出資者にセコムが入っているのはクラブの母体となった中央防犯アクトサービス(現・中央防犯)がセコムの販売代理店を請け負っていた縁があり、大都技研が入っているのは2008年の増資時に大都からの出資の意向を受け入れたことによる(後述)。

チームの在籍選手数が少ないことや日程調整などの問題を理由に、2007年を最後にJサテライトリーグから撤退した。現在は、若手選手に試合経験を積ませる必要性などから、九州地区にホームを置く他のクラブと共同で九州チャレンジャーズリーグを開催している。

また、福岡市の姉妹都市でもあるボルドーフランス)をホームタウンするFCジロンダン・ボルドーリーグ・アン)と技術提携し、若い選手の短期留学やコーチングスタッフの交流などを行っている[2]

前進の福岡ブルックス時代に1995年のJFLで優勝し、Jリーグに加盟した翌1996年以降、全国規模の大会、すなわちJ1J2Jリーグカップ天皇杯のいずれにおいても優勝したことがない。これは2014年現在、Jリーグクラブとして最長記録である。

歴史

前身

テンプレート:Main 1982年に静岡県藤枝市で創部された中央防犯サッカー部が前身であり[1]1991年日本サッカーリーグ2部[1]1993年ジャパンフットボールリーグ1部に昇格した[1]。1994年に中央防犯FC藤枝ブルックスと改名し、同年にJリーグ準会員となった[1]が、藤枝市内にJリーグ基準を満たすスタジアムが存在しなかったことなどからJリーグクラブ誘致に動いていた福岡市の要請を受け、1995年に福岡市にホームタウンを移すと共に福岡ブルックスへ改名した[1]

1995年(JFL)

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監督に1978 FIFAワールドカップアルゼンチン代表であったホルヘ・マリオ・オルギンが就任。

鳥栖Fよりディエゴ・マラドーナの実弟ウーゴ・マラドーナを獲得、引き続き中央防犯時代より所属の元アルゼンチン代表ペドロ・トログリオらを擁し、京都、鳥栖F、神戸などと争った結果、24勝6敗の成績でJFLで優勝し、1996年からのJリーグ加盟を決めた[1]。なお、シーズン終了後にオルギンが監督を退任した。

また、Jリーグ加盟に合わせ「アビスパ福岡」へ改称した[1]。これはブルックスが紳士服メーカー「ブルックス・ブラザーズ社」の商標で商標権侵害の恐れがあるためであった。 テンプレート:-

1996年 - 1998年(Jリーグ)

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1996年、横浜M元監督の清水秀彦が監督に就任。マラドーナ、トログリオ、マジョールの3外国籍選手らが残留。元日本代表の都並敏史広島から森秀昭などベテラン選手、中払・藤本・久永・石丸ら新人も入団したが、順位は15位。1997年は17位、1998年は18位と2年連続シーズン最下位。1998年J1参入決定戦に参加したが、1回戦川崎、第3参入クラブ決定戦で札幌を破り、J1残留を果たした。なお、1998年に千代反田充東福岡高等学校3年)を強化指定選手第1号(現在の特別指定選手)として受け入れたがJ公式戦への出場は無かった。 テンプレート:-

1999年 - 2001年(J1)

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1999年。監督にフロントの菊川凱夫が就任。前年、監督を務めた森孝慈はGMに就任。

平塚からGK小島伸幸鹿島からDF水筑優文広島からDF小島光顕横浜FMからMF野田知市原からMFネナド・マスロバルV川崎からMF三浦泰年などを獲得したが、最終順位は14位。

2000年

元福岡所属で、前年アシスタントコーチのネストール・オマール・ピッコリが監督に就任。

例年下位に低迷するチーム状態からの脱却を目指すことを念頭に置き、キャンプは朝・昼・晩練習することや戦術面などはそこそこにし砂浜での走り込みなどを中心にまず徹底してフィジカルトレーニングを課して精神・肉体面の基礎力向上(スキルアップ)を選手に求めた。第2ステージでは最後まで優勝争いに加わり、結果として6位とクラブ史上最高の成績を収めた。

新加入の高卒ルーキー平島崇が主力として機能したことや、外国人も元横浜MのMFダビド・ビスコンティ平塚で活躍したバデア、エースフォワードのモントージャも活躍するなど明るい話題も多かった。

2001年

ピッコリ体制2年目。元韓国代表で広島C大阪に所属したMF盧廷潤、元U-23日本代表のFW松原良香を補強したが、年間成績15位となりJ2へ降格。なお、所属のDF平島崇が児童買春等禁止法違反で逮捕された(当時は19歳であったため、実名では報じられていない)。

シーズン終了後にピッコリが監督を退任。また、三浦泰年らベテランも運営費縮小に伴って、退団した。 テンプレート:-

2002年 - 2005年(J2)

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2002年

名古屋グランパスエイト元コーチの今井雅隆が監督に就任。

中払大介山下芳輝らが退団した一方、呂比須ワグナー内藤就行盧廷潤などが残留し、横浜FMから古賀誠史磐田から元日本代表GKの大神友明などを補強し1年でのJ1復帰を目指したが、後半戦はわずか3勝に留まり、8位の成績。

2003年

松田浩が監督に就任。短絡的な補強をしそれらの選手を中心として戦うチーム構成から、将来を見据えユースや若手選手を育成し中心に据えていく方針への変化に踏み切った。 前半戦は下位に低迷したが、千代反田・米田・宮崎・古賀・宮原・林ら若手を辛抱強く使い、後半戦は5連勝を含む16勝3分3敗(後半戦だけの成績ではトップ)の成績を残し、シーズン4位の成績を収めた。 テンプレート:-

2004年
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松田体制2年目。前年に行ったサポーターへのアンケートを受けてユニフォームの色を変更した(1stがシルバー、2ndがネイビーだったのを逆にした)。

リーグ戦では前半戦・中盤戦と好不調の波が激しく安定した結果が残せずなかなか上位3チームに食い込めなかったが、シーズンも終盤にさしかかった第37節から最終節まで8連勝。最終節で山形を破りシーズン3位。J1・J2入れ替え戦に進出したが、にホーム、アウェイ共に敗戦し、昇格はならなかった。

2005年

松田体制3年目。チームの育成路線が実を結び高卒2年目の中村・同じく2年目ユース出身の田中、新加入の元ブラジルユース代表グラウシオらが活躍。11月23日のホームでの第42節徳島戦を引き分けて2位を確定。5年ぶりのJ1復帰を決めた。

また6月の2005 FIFAワールドユース選手権中村北斗柳楽智和が日本代表として出場した。 テンプレート:-

2006年
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松田体制4年目。薮田光教(前神戸)、布部陽功久藤清一(共に前C大阪)などを補強したが、12節終了時点で1勝6敗5分の16位。5月22日に松田を監督から解任。後任にV川崎神戸の元監督の川勝良一が就任。

2006 FIFAワールドカップによるリーグ戦中断期間に神戸からバロンを完全移籍、また大宮から佐伯直哉東京Vから飯尾一慶を期限付き移籍で獲得。シーズン成績は16位。J1・J2入れ替え戦に回り、J2・3位神戸に第1戦アウェイで0−0、第2戦ホームで1−1(2戦合計1-1)、アウェーゴール差で敗れ、1年でのJ2降格が決まった。

なお、川勝はシーズン終了後に監督を辞任した。5回戦へ勝ち残っていた天皇杯沖野等が代行監督を務めた。なお、この年に運営会社の商号が福岡ブルックス株式会社からアビスパ福岡株式会社へ変更された テンプレート:-

2007年 - 2010年(J2)

2007年
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シドニーFC元監督のピエール・リトバルスキーが監督に就任。GK水谷雄一、DF千代反田充新潟にそれぞれ移籍。さらに前年キャプテンを務めたMFホベルトが退団した。一方で、ブラジルからFWリンコン、かつてリトバルスキー監督の下でプレイしたDFチェッコリを獲得した。そのリンコン、アレックスのコンビは2007年チームにとって重要な得点源となった。

開幕戦の鳥栖とのダービーで攻撃的布陣が機能し5-0で完勝するなど第1クールを1位で終えた。第2クールに入って以降も上位に入っていたが、第36節京都戦から第40節東京V戦まで5年ぶりとなる5連敗。第48節の仙台戦に敗れてJ1昇格が消滅。最終順位は7位で終了した。なお、シーズン終了後にチーム統括グループ長の小林伸二、同副長の中村重和、育成統括の沖野等を解任した。 テンプレート:-

2008年
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リトバルスキー体制2年目。前年の登録メンバー31人の半数以上にあたる16人(レンタル選手、外国籍選手含む)と契約を結ばなかったため、選手が大幅に入れ替わった。また、外国籍選手は全員退団し、新たにいずれもオーストラリア出身のDFルダン、MFタレイ、FWグリフィスを獲得した。また、京都から元福岡所属のMF中払大介千葉からFW黒部光昭横浜FCからDF中島崇典C大阪からGK吉田宗弘らが加入。横浜FMからハーフナー・マイクから大久保哲哉の両FWがレンタル移籍鈴木惇大山恭平の両名をユースチームから昇格した(鈴木は2007年シーズンに2種登録で出場)。

2008年シーズンは、勝ち点が伸び悩み、4月12日の岐阜戦では5分間で4失点[3] するなど守備が崩壊、第1クールは15チーム中14位に終わった。7月11日、成績不振により監督・リトバルスキー、ヘッドコーチ・クルーク、フィジカルコーチ・クレアを解任し、篠田善之が監督に就任したが、最終順位は8位に終わった。 テンプレート:-

2009年
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篠田体制2年目。中村北斗FC東京へ完全移籍した他、昨季所属した外国籍選手もすべて退団。一方で熊本からFW高橋泰磐田から元日本代表DFの田中誠を獲得。シーズン序盤は、この年よりJリーグに加盟した岡山にJ2初勝利を献上するなど、第1クール(17試合)終了時点で4勝5分け8敗の勝ち点17。第41節の徳島戦の引き分けにより、J2残留が決定。最終順位も11位。また、鳥栖とのダービーでクラブ史上初めて未勝利に終わった。その一方でJ2を優勝した仙台には2勝1敗と勝ち越した。

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2010年
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篠田体制3年目。前年度のオフに吉田宗弘黒部光昭らベテランを中心に選手9人との契約を打ち切り、監督以外のコーチ陣も一斉に退団。30歳を越える選手が久藤、田中誠だけと大きく若返り、下部組織から昇格した朝鮮籍孫正倫以外は日本人選手だけでシーズンに臨んだ(7月に韓国人の李鍾民が加入)。なおシーズン直前の1月27日にJ1時代の2006年途中からクラブ社長に就いていた都筑興が辞任し、3月4日に後任として電通九州大分支社長の大塚唯史が就任した。

東京Vから加入した永里源気が得点源として、更には大卒選手の中町公祐(高校卒業後の2004年 - 2007年に湘南在籍)と末吉隼也がボランチコンビを形成し中盤の要として、移籍2年目の田中誠が守備の中心としてチームを牽引した。

開幕戦で甲府に3-1と快勝。4月には4連敗を喫したが、5月5日の11節熊本戦で6-1と大勝するとそれ以降は順調に勝ち点を積み上げて9月12日に千葉、11月20日に東京Vと昇格争いのライバル相手にホームゲームで勝利を収め、アウェイで岐阜を破った11月23日に4位の千葉が草津に敗れ3位以内が確定、5年ぶりのJ1復帰を決めた(最終順位は3位)。外国籍選手は李と孫の2人のみであったため、この年のリーグ戦での全得点を日本人選手が挙げた(ちなみに天皇杯では孫が1ゴールを挙げている)。

天皇杯では広島大宮とJ1勢を連覇して15年ぶりでアビスパ福岡となってからは初のベスト8へ進出(準々決勝はFC東京に延長戦の末に2-3で敗退)。 テンプレート:-

2011年(J1)

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篠田体制4年目。長年在籍した久藤清一が引退、前シーズン15ゴールを挙げた永里源気が甲府へ、中島崇典へ、大久保哲哉山形へ、柳楽智和FC東京へ、阿部嵩JFLツエーゲン金沢へ移籍、大山恭平平石健太が退団した。

補強は、千葉から和田拓三磐田から成岡翔横浜FMから清水範久が完全移籍で、磐田から松浦拓弥、FC東京から重松健太郎がレンタル移籍で加入。キム・ミンジェ畑本時央牛之濱拓が新加入した。また丹羽大輝のレンタル移籍期間も延長した。

開幕戦で新潟に敗れて以降、開幕から9連敗(Jリーグ杯・磐田戦を含めると公式戦10連敗)。6月15日の第15節(リーグ10戦目)の神戸戦に引き分けて初の勝ち点を得た。その後、3連敗で13試合連続勝ち無しとなったが、7月2日のリーグ戦14試合目の甲府戦で初勝利。テンプレート:要出典範囲篠田は解任され、8月からヘッドコーチから昇格する形で浅野哲也が監督に就任した。

10月22日に新潟に敗戦してJ2降格が決定[4]。最終順位は17位でシーズンを終えた。天皇杯は3回戦で仙台に敗退した。 テンプレート:-

2012年 -(J2)

2012年

クラブOBで神戸元コーチの前田浩二が監督に就任。田中誠が引退、田中佑昌千葉へ、岡本英也鹿島へ、中町公祐六反勇治横浜FMへ、山形辰徳栃木SCへ完全移籍、丹羽大輝G大阪へ復帰)、松浦拓弥磐田へ復帰)、重松健太郎FC東京へ復帰)がレンタル移籍期間満了、清水範久ハマゾッチが退団した。一方で横浜FCから西田剛C大阪から尾亦弘友希、磐田から古賀正紘、FC東京から坂田大輔浦和から堤俊輔を完全移籍で、大宮から木原正和、G大阪から河田晃兵、磐田から岡田隆をレンタル移籍で獲得、 呉昌石津大介が新加入した。

鹿児島市出身の前田を始めとして九州にゆかりのある人物で戦っていく「オール九州」の方針を打ち出し、同時に1年でのJ1復帰を目指したが、熊本町田相手に連勝スタートを切り、第2節終了時点で4位タイとなったのが最高順位で、その後はJ2ワースト2となる失点の多さ(68失点53得点 得失点差-15)などで、第6節京都戦、第7節愛媛戦と連敗して5位→8位→13位と転落して以降は一度も一ケタ順位に復帰できず、第35節の熊本戦に敗れてJ1自動昇格となる2位以内の可能性が、第36節の横浜FC戦に引き分けてJ1昇格プレーオフに出場できる6位以内の可能性も消滅した。8月26日の第31節松本山雅FC戦から10試合連続勝利なしとなった10月28日、第40節大分戦での敗戦後に前田を監督から解任、池田太が監督代行に就任したが、結局シーズン終了まで12戦連続勝利なし(5分7敗)のまま、J1在籍経験のあるクラブとして2011年横浜FCと並びシーズン終了時最低の順位となるJ2リーグ戦18位[5] でシーズンを終えた。バトルオブ九州は、全てホームゲームだった前半3戦は2勝1分ながら、後半は3戦全敗し最終的に最下位となった。天皇杯は3回戦で大宮に敗退した。

2013年

NKマリボルなどの元監督のマリヤン・プシュニクが監督に就任。成岡翔アルビレックス新潟へ、鈴木惇東京Vへ、高橋泰および小原章吾愛媛FCへ完全移籍、和田拓三が引退、河田晃兵は期限付き移籍期間満了でG大阪に復帰した一方、2006年まで福岡に所属していた水谷雄一が京都から完全移籍で獲得、前年ギラヴァンツ北九州特別指定選手として所属した中原秀人福岡教育大学から加入した。

開幕から連勝スタートで第2節終了時には2位となるが、直後に3連敗を含む5試合勝ちなしとなり15位まで順位を下げる。第8節、福岡ダービー対北九州戦で勝利し、第9節で連勝した時点で8位まで再浮上して以降、前半戦終了の第21節までは8位から11位の間を推移する。6月19日には、元フォルトゥナ・デュッセルドルフU-19で5月から練習生として参加していた金城クリストファー達樹が加入。また、8月に入って、長崎に期限付き移籍していたオ・チャンヒョンが期間満了前の契約解除で復帰し、ルーマニアからブラティスラフ・プノセバッチを獲得した。第24、25節終了時にはJ1昇格プレーオフ圏内の6位となるが、その直後10試合で3連敗5連敗各1回を含む1勝1分8敗と低迷し、第34節終了時には15位まで転落。11月10日、第40節の時点で6位以内の可能性が消滅し、最終的に14位でシーズンを終了した。ただし、バトルオブ九州では、福岡ダービーで連勝するなど3勝3分で、2010年シーズン以来2度目の制覇となった。

天皇杯では、初戦(2回戦)で栃木SCに敗北。なお、10月に経営問題が浮上した(詳細は#経営問題を参照)。

2014年

プシュニク体制2年目。宮本卓也船山祐二尾亦弘友希らと契約を更新せず、岡田隆金久保順金永基が期限付き移籍満了(金久保は後に川崎に期限付き移籍、金はJ3長野に完全移籍)、水谷雄一富山西田剛キム・ミンジェ愛媛木原正和カンボジア・リーグトライアジア プノンペンFCにそれぞれ完全移籍し、畑本時央がJ3金沢へ期限付き移籍した。一方、北九州から森村昂太神戸からイ・グァンソン松本から阿部巧G大阪から平井将生がいずれも完全移籍、浦和から野崎雅也大分から清水圭介新潟から酒井宣福横浜FMから武田英二郎がいずれも期限付き移籍でそれぞれ加入した。

天皇杯では、2回戦で水戸に敗れ、2年連続の初戦敗退となった。

7月23日に発表されたJリーグ参加51クラブの2013年度決算において、2期連続赤字で約2800万円の債務超過となっていることが報告され、大河正明Jリーグ常務理事から「黒字化はなんとかなるが、債務超過(解消)は確証が持てない」と指摘を受けた[6]。なお報告時点において債務超過であった11のクラブのうち、9月のライセンス審査までに債務超過解消の目処が立っていないクラブは福岡のみであった[7]

成績

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タイトル

国内タイトル

※福岡ブルックスとして

個人別

ハットトリック

得点数 選手名 開催日 対戦クラブ スタジアム 得点時間
J1 3得点 ビスコンティ 2000年11月18日(2nd第13節) ジェフユナイテッド市原 市原 テンプレート:Goal
J2 3得点 江口倫司 2002年7月24日(第20節) セレッソ大阪 博多球 テンプレート:Goal
宮崎光平 2003年5月31日(第15節) サガン鳥栖 テンプレート:Goal
アレックス 2007年7月25日(第30節) ザスパ草津 群馬陸 テンプレート:Goal
JFL 3得点 ウーゴ・マラドーナ 1995年5月7日(第1節) 福島FC 平和台 テンプレート:Goal
1995年6月11日(第7節) NTT関東サッカー部 テンプレート:Goal

スタジアム

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雁の巣レクリエーションセンター球技場

ホームスタジアムはレベルファイブスタジアムであるが、過去に東平尾公園博多の森陸上競技場2003年湘南戦が最後)や北九州市立本城陸上競技場2004年京都戦が最後)、熊本市水前寺競技場(1995年から1997年まで)、長崎県立総合運動公園陸上競技場2007年水戸戦)でホームゲームを開催した。なお、ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)所属時代を含む過去の開催スタジアムは下表を参照のこと。

練習場は福岡市東区福岡市雁の巣レクリエーションセンター球技場である。

年度別観客動員記録

年度 所属 合計
動員数
最多動員数 最少動員数 平均
動員数
試合数 ホームゲーム
開催スタジアム
備考
動員数 相手 会場 動員数 相手 会場
1995 JFL 115,495 20,244 京都 博多球 2,881 コスモ石油 藤枝市民 7,700 15 博多球5、平和台3、藤枝市民3、本城2、草薙陸2
1996 J 146,055 17,323 浦和 5,309 市原 博多球 9,737 15 博多球14、水前寺1 名称変更
1997 138,451 16,354 鹿島 5,317 浦和 8,653 16 博多球14、水前寺1、長崎県立1
1998 170,588 17,722 鹿島 5,591 神戸 10,035 17 博多球15、水前寺1、長崎県立1
1999 J1 172,007 19,094 磐田 5,295 広島 11,467 15 博多球15
2000 204,174 21,084 磐田 7,498 東京V 13,612 15 博多球15
2001 207,332 21,281 名古屋 8,294 浦和 13,822 15 博多球15
2002 J2 142,808 14,475 C大阪 3,284 水戸 6,491 22 博多球21、本城1
2003 163,165 13,921 新潟 3,448 横浜FC 7,417 22 博多球21、博多陸1
2004 192,349 15,444 鳥栖 5,130 甲府 8,743 22 博多球21、本城1
2005 237,299 20,841 徳島 6,620 徳島 10,786 22 博多球22
2006 J1 253,300 21,545 浦和 8,585 名古屋 14,900 17 博多球17
2007 J2 228,702 17,361 東京V レベスタ 2,724 水戸 長崎県立 9,529 24 レベスタ23、長崎県立1
2008 211,651 15,158 鳥栖 5,729 山形 レベスタ 10,079 21 レベスタ21
2009 194,071 16,531 鳥栖 2,869 富山 7,763 25 レベスタ25
2010 158,777 14,713 5,012 岐阜 8,821 18 レベスタ18
2011 J1 177,054 19,421 名古屋 4,028 大宮 10,415 17 レベスタ17
2012 J2 117,309 10,902 横浜FC 3,092 町田 5,586 21 レベスタ21
2013 120,270 14,526 G大阪 2,640 群馬 5,727 21 レベスタ21 経営問題浮上
2014 21 レベスタ21

経営問題

  • 2007年シーズンを最後にコカ・コーラウエストジャパン(GEORGIA)が胸スポンサーから撤退[8](チーム自体への支援はプレミアムパートナーとして継続)。以降、2009年途中までユニフォームの胸スポンサーが付かなかった(#歴代ユニフォームスポンサー年表も参照)。
  • 2008年6月、パチスロ機メーカーの大都技研がクラブに資本参加・ユニフォームスポンサーとなると報道された[9]。同社の関連会社がパチンコホール経営を行っていることなどを理由に一時Jリーグ側が難色を示したが[10]、同年9月に正式に同社の資本参加が発表された[11]
  • 2009年2月に財政状況が芳しくないという報じられたが[12] 、2009年4月にユニフォームの胸スポンサーが「エバーライフ」に決定した[13]。背スポンサーも オデッセイ コミュニケーションズ に決まった[14]
  • 2013年
    • 9月30日、2014年度のJリーグクラブライセンスで「是正通達」より一段階軽い「個別通知」の付帯付きのJ1ライセンスが交付された[15]
    • 10月15日、クラブの経営問題がメディアで報じられた。具体的には、2013年度の年間予算を営業収入約9億6000万円で組んだものの、9月末現在で約8億2000万円に留まっていた。実際には5月ごろから数千万円の借入で運転資金を回したが、この時点で新規の借入が出来なくなったため、手元資金が底を付く11月末に運営資金約5000万円が決済不能になるというものであった。運営会社のアビスパ福岡株式会社は「最悪の場合は、Jリーグから借金して、勝ち点マイナス10となることを覚悟している」とコメントした[16]
    • 10月29日、ホームタウンの福岡市に加えて、主要株主の西部ガスふくおかフィナンシャルグループ西日本鉄道などがアビスパに対する追加支援に否定的な見解を示していることが報じられた[17]
    • 11月16日、協賛金などが集まり、年内の資金繰りは手当てできたことが報じられた[18]
    • 11月30日、一連の経営問題の責任を取って大塚唯史が代表取締役を辞任した[19]
  • 2014年2月5日、クラブ経営強化を図るためにアドバイザリーボード(経営諮問委員会)を設置した[20]

スローガン

年度 スローガン
1995 iARRIBA! (上へ向かってさあ行こう)
1996年から1998年は、スローガン無し。
1999 MAS ARRIBA! (もっと上を目指そう)
2000 iJUNTOS,PODEMOS! (一丸となれば、やれる)
2001 iMAS JUNTOS,PODEMOS MAS! (もっと一丸となれば、もっとやれる)
2002 Just in ONE
2003 新生
2004 We WILL make it! 成し遂げる!
2005 挑戦 〜Try it again to J1 !
2006 Climb to the top !
2007 SUFFER FOR SUCCESS!
2008 ココロ粋 !
2009 結心 〜全ての心をひとつに〜
2010 福岡 維心
2011 福岡力! 〜Run with the ALL〜
2012 ガムシャラ!! テンプレート:Smaller
2013 一燃蜂起 ~2013 福岡ヂカラ~
2014 協力同心 福岡ヂカラ2014

スポンサー

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ユニフォーム

テンプレート:ユニフォームの色

チームカラー

2003年までは1stユニフォームがシルバー、2ndユニフォームがネイビーだったが、2004年からは前述のサポーターのアンケート結果を受けて、1stユニフォームがネイビー、2ndユニフォームがシルバーに変更、さらにその後、2ndユニフォームの色がシルバーからホワイトなった。なお、シルバーはアクセントカラーとして利用されている。

ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
なし - -
背中 ブロードマインド Broad-mined 2014年-
ふくや 博多中洲 ふくや 2011年7月 -
パンツ エモテント 伊都きんぐ 2014年 -

ユニフォームサプライの遍歴

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1995 GEORGIA -(FUKUOKA) 三洋信販 - Admiral
1996 RICOH Admiral/Mizuno
1997
1998 Mizuno
1999 三洋信販 RICOH
2000
2001
2002 ポケットバンク
2003 -
2004 九州電力
2005 J.COM
2006 ZENRIN
2007
2008 - アクセス・ジャパン .Rドッとあ〜る 九州電力
2009 everlife 皇潤 Odyssey
2010
2011 -/西日本新聞 -/博多中洲 ふくや svolme
2012 -/Nishitetsu Group - 博多中洲 ふくや 西日本新聞
2013 Nishitetsu Group
2014 - Broad-minded 伊都きんぐ

問題・トラブル

李官雨入団問題

1999年11月末、韓国漢陽大学校に所属していた李官雨(当時五輪韓国代表)の獲得を発表。しかし、この時点で本人は既に韓国国内Kリーグのドラフト(2002年廃止、2006年復活)への参加を表明しており、アビスパの獲得発表はKリーグ側からすれば重大な規約違反であった。Kリーグは12月3日のドラフトにより大田シチズンの指名権を認めて当然アビスパとの契約は認めなかった。この時Kリーグ側から裁判に持ち込むという話もあったが、アビスパは裁判で争ってまでの獲得を断念。結局、李官雨は大田へ入団。アビスパとは入団契約を交わしていた為、一度もユニフォームに袖を通さないまま契約を解除し退団する事となった。因みにKリーグとアビスパの両者合意の上での契約解除なので、違約金などは発生していない。

主力温存(Jリーグ規定)問題

2000年のJリーグカップ予選・湘南ベルマーレ戦(4月12日)で、アビスパは主力を温存し、若手・中堅選手が中心となって出場し、「最強メンバーで試合を戦うこと」というリーグ規定に反するのではないかということで問題になったものの、試合は勝利を収めた。テンプレート:Main

エピソード

  • Jリーグに昇格した1996年、監督に就任した清水秀彦は、ユースチームの必要性を訴えたが、フロントから「宣伝にならないユースチームはいらない。金にならない」と言われた。当時の九州には育てて勝つという発想はなかった。「勝つか勝てるかが問題じゃない。施設やユースチームなどの環境を整えて、3、4年後にしっかりJ1で戦えるチームを作るべき。必ずやれる!」とぶち上げたが、フロントから「西鉄ライオンズは、朝まで酒飲んで日本一になったよ」と言い返されたという[21]

その他

スタジアムDJ

  • 信川竜太
    • 信川が日曜にテレビ・ラジオで生番組を担当している関係で、その際はEIJI(2008年度はMAX、LOVE FMAJ。プロ野球の福岡ソフトバンクホークスの主催試合でもスタジアムDJを担当)が代役としてスタジアムDJを担当する。

チームマスコット

  • アビー[1]
  • ビビー[1] (2000年2月27日「選手激励のつどい」にて初披露目)

2003年8月10日の広島戦(博多球)の試合開始前に結婚のお披露目を行った。立会人にはホークスの『ハリーホーク』と『ハニーホーク』。衣装は、香蘭女子短期大学の学生によって作られた。

アルゼンチン国籍の選手

福岡ブルックス時代も含め、アルゼンチン国籍の選手が1995年から2002年にかけて15名が在籍したが、Jリーグクラブの中で最も多かった。詳細はアビスパ福岡の選手一覧#過去に在籍した監督・選手を参照。

メディア

テレビ

ラジオ

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:Navboxes テンプレート:Navbox テンプレート:JFL優勝チーム

テンプレート:高円宮杯U-18サッカーリーグ
  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「jleague」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  2. テンプレート:Cite web
  3. 2008 J2 第7節 福岡 vs 岐阜 J's GOAL ゲームサマリー
  4. アビスパ福岡を応援してくださったすべての皆さまへ
  5. 但し、横浜FCは20クラブ中18位、福岡は22クラブ中18位
  6. テンプレート:Cite news
  7. テンプレート:Cite news
  8. 福岡胸スポンサー「GEORGIA」撤退。 日刊スポーツ 2007年11月22日
  9. サッカー・J2福岡に遊技機メーカー「大都技研」が資本参加へ 読売新聞 2008年6月5日
  10. J2福岡への大都技研出資、自粛対象業種とリーグ難色 読売新聞 2008年6月7日
  11. Jリーグ アビスパ福岡への資本参加について 大都技研 2008年9月25日
  12. J2アビスパ、ユニホーム広告なしの非常事態に 朝日新聞 2009年2月7日
  13. スポンサー名が入ったユニホームで敵陣に攻め込む。 朝日新聞 2009年4月14日
  14. 背中スポンサー入りユニホームがお披露目された。 朝日新聞 2009年4月27日
  15. テンプレート:Cite news
  16. テンプレート:Cite news
  17. テンプレート:Cite news
  18. テンプレート:Cite news
  19. テンプレート:Cite pressrelease
  20. テンプレート:Cite pressrelease
  21. サッカー批評『ニイガタ現象』2004年、双葉社、89-90頁