瑞鶴 (空母)
瑞鶴(1941年9月25日) | |
艦歴 | |
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計画 | 1937年 (マル3計画) |
起工 | 1938年5月25日 |
進水 | 1939年11月27日 |
竣工 | 1941年9月25日 |
その後 | 1944年10月25日沈没 |
位置 | テンプレート:Coord |
除籍 | 1945年8月26日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:25,675t 公試:29,800t 満載:32,105t |
全長 | 257.5m |
水線幅 | 26.0m |
平均吃水 | 8.87m (公試状態) |
飛行甲板 | 長さ:242.2m x 幅:29.0m |
主缶 | ロ号艦本式専焼缶8基 |
主機 | 艦本式タービン4基4軸 160,000hp |
速力 | 34.2kt (34.0ktの資料もある) |
航続距離 | 18ノットで9,700海里 |
乗員 | 竣工時:1,660名 最終時:1,712名 |
兵装 (新造時) |
40口径12.7cm連装高角砲8基 25mm3連装機銃12基 |
兵装 (最終時) |
40口径12.7cm連装高角砲8基 25mm3連装機銃20基 25mm単装機銃36挺(推定) 12cm28連装噴進砲8基 |
搭載機 | 常用72機、補用12機 1941年12月常用機 零式艦上戦闘機:18機 九九式艦上爆撃機27機 九七式艦上攻撃機:27機 |
搭載機 (最終時) |
零戦:28機 零戦戦闘爆撃機型:16機 彗星艦上爆撃機:11機 天山艦上攻撃機:14機 |
着艦識別文字 | ス |
目次
概要
軍艦 瑞鶴は翔鶴型航空母艦の2番艦。マル3計画において、大和型戦艦「大和」「武蔵」と同時期に建造された。太平洋戦争では、真珠湾攻撃、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦等の海戦に参加。日本海軍空母機動部隊の主力艦として活躍する。1944年(昭和19年)10月下旬のレイテ沖海戦に、栗田艦隊のレイテ湾突入を支援する「囮部隊」として参加。10月25日のエンガノ岬沖海戦において、米軍機動部隊艦載機の攻撃により沈没した。姉妹艦「翔鶴」と対照的に、「瑞鶴」はマリアナ沖海戦まで一発も被弾しなかった幸運艦であった。
艦名
艦名の「瑞」はめでたいという意味。「鶴」は日本において長寿の象徴とされており、縁起の良い鳥獣の一種である。
艦歴
建造経緯
1930年代初頭、日本海軍はワシントン海軍軍縮条約・ロンドン海軍軍縮条約から脱退、第二次ロンドン海軍軍縮会議も決裂した。これをふまえ、第三次海軍軍備補充計画(マル3計画)が帝国議会で承認される。第1号艦(大和)、第2号艦(武蔵)、第3号艦(翔鶴)に続く第4号艦として、1938年(昭和13年)5月25日川崎造船所(川崎重工業)神戸造船所にて「瑞鶴」は起工された。同造船所が建造する三万トン級大型軍艦としては、「榛名」「伊勢」「加賀」に続く四隻目となる。1939年(昭和14年)9月14日、高松宮宣仁親王が神戸艦船工場を訪れ、「瑞鶴」の工期を半年繰り上がらないかと発言[1]。それを受けて3ヶ月の工期短縮が決定され、この結果として「瑞鶴」は真珠湾攻撃への参加が可能となった[2]。1939年(昭和14年)11月27日進水。「翔鶴」「瑞鶴」という軍艦が進水した事は公表されたが、その概要は伏せられている[3]。1941年(昭和16年)8月、呉海軍工廠での作業のため神戸から呉に向かう途中、台風十四号の暴風雨にあい、その際舷窓の閉め忘れにより浸水するという出来事があった[4]。1941年(昭和16年)9月25日に就役。姉妹艦の「翔鶴」とともに第五航空戦隊(原忠一少将)を編成した。この時点では姉妹艦「翔鶴」と区別するために、甲板前部に「ス」と書かれていた。ただし最終状態の時には、書かれていない。
真珠湾攻撃
1941年(昭和16年)、第五航空戦隊は南雲忠一中将指揮下の第一航空艦隊(南雲機動部隊)に属し、真珠湾攻撃に参加した。 艦上攻撃機隊48機が宇佐基地、艦上爆撃機隊54機が大分基地、艦上戦闘機隊36機は、佐世保基地を基地として[5]、離発着訓練や錦江湾、志布志湾、佐伯湾での訓練を行った。
11月16日、「瑞鶴」は呉基地で燃料・弾薬・食料などを搭載、艦載機も全機収容した[6]。出港前に副長から凡その目的地と寄港地を説明されるのが通例であったが、今回はそれが無いまま出港し、途中で自艦の搭載機部隊を各陸上基地から離陸させて着艦収容すると佐伯湾に錨泊した[7]。佐伯湾にはハワイ作戦に参加するほとんどの24隻の艦船が集まっており、翌17日午後に山本五十六連合艦隊司令長官の視察を受けた。各艦船は機動部隊としての行動をごまかすため、11月18日に時間をずらしてバラバラに佐伯湾を離れ、第五航空戦隊は豊後水道を他艦とは逆に北上して別府湾で停止した。日付が19日になった午前0時に再び動き出して豊後水道を戻り、本州東海の太平洋を北上していった。
旗艦「赤城」では、佐伯湾を出た翌日の航行途中で全飛行搭乗員へハワイ作戦が訓示されたが、「瑞鶴」では呉出港以来、何も説明が無いまま11月22日千島列島の択捉島単冠湾へ入った[8]。全乗組員に副長からハワイ作戦について知らされたのは、翌23日である[9]。空母「加賀」が到着した後だったという。各艦打ち合わせと兵器整備の後、11月26日南雲機動部隊は単冠湾を出港し艦列を連ね、一路ハワイ真珠湾へと向かった。
12月8日、「瑞鶴」は他の5隻の空母と共に真珠湾に対し2波にわたる攻撃を行った。「瑞鶴」からは計58機が出撃し未帰還機ゼロという幸運なスタートを切った。当初は新顔だったと言うことで、「翔鶴」共々艦隊からお荷物扱いもされ、攻撃の際も難しい魚雷攻撃ではなく、水平爆撃が主体だった。
瑞鶴からの真珠湾攻撃参加機
第一次攻撃隊
九九式艦爆25機=指揮官:分隊長坂本明大尉、零戦6機=指揮官:分隊長佐藤正夫大尉
第二次攻撃隊
九七式艦攻27機=指揮官:飛行隊長嶋崎重和少佐(第二次攻撃隊指揮官)
しかし真珠湾攻撃作戦から帰投すると、1942年(昭和17年)1月1日付で瑞鶴搭載の常用機定数は「翔鶴」ともども艦上爆撃機、艦上攻撃機が各27機から18機に削減されて空母「蒼龍」、「飛龍」と同じとなり、投射重量は当初の3分の2となった。
ラバウル攻略、セイロン沖海戦
1942年(昭和17年)1月5日呉を出港、8日に内地を離れトラック泊地へと向かう[10]。20-22日のラバウルを攻略作戦に「翔鶴」と共に参加し、連合軍基地を空襲した[11]。この時は主立った抵抗も受けず、占領することに成功する。ニューギニア島ラエを攻撃した。トラック泊地に帰投後、横須賀へ向かった。艦載機は館山海軍基地や横須賀飛行場、鈴鹿海軍航空隊等で訓練に従事した[12]。3月7日、横須賀を出港して伊勢湾で航空隊を収容、セレベス島スターリング湾へ向かうが、米軍機動部隊出現(誤報)により反転、横須賀に入港した後、3月17日に再びセレベス島へ向かう[13]。24日、セレベス島にて南雲機動部隊主力(第一航空戦隊、第二航空戦隊)と合流する。26日に出港、インド洋に進出して英国東洋艦隊との戦闘に備えた[14]。4月上旬、セイロン沖海戦に参加。日本本土へ帰投中だった4月18日、米軍による日本本土初空襲(ドーリットル空襲)を受けて硫黄島方面に出動、米軍機動部隊(空母エンタープライズ、ホーネット)を捜索したが会敵できず、25日になってトラック泊地に入港した[15]。
米軍機動部隊との戦い
1942年(昭和17年)5月、第五航空戦隊は南雲機動部隊から分離し、MO機動部隊に編入されポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)の支援に当たった。当時、米軍機動隊は南方にて活発な行動を行っており、軽空母「祥鳳」1隻の護衛では限界があった。井上成美中将(第四艦隊司令長官)は空母の増派を求めた。本来ならば空母「加賀」が投入されるはずであったが、同艦はパラオで座礁して艦底を損傷しおり、内地帰投と修理の必要性があった。また第五航空戦隊の練度向上を計る意図もあり、「瑞鶴」「翔鶴」が編入されたのである。
5月1日、「瑞鶴」「翔鶴」は駆逐艦「時雨」、「白露 」、「有明」、「夕暮」に護衛されてトラックを出撃、ソロモン海へ進出した[16]。5月上旬、MO機動部隊は米海軍第17任務部隊と交戦した。5月7日、MO機動部隊艦載機が、米空母と誤認された給油艦「ネオショー」と護衛駆逐艦「シムス」を撃沈する。一方、空母「祥鳳」も第17任務部隊艦載機の空襲で撃沈された。またMO機動部隊の薄暮攻撃も、米軍機による迎撃を受けて艦爆12機中1機(瑞鶴1)、艦攻15機中8機(瑞鶴5、翔鶴3)を喪失、他にも被弾機を出して失敗した。5月8日、MO機動部隊艦載機は第17任務部隊を攻撃、空母「レキシントン」を撃沈し、空母「ヨークタウン」を中破させる。対する第17任務部隊艦載機はスコールの下にあった「瑞鶴」を発見できず、「翔鶴」を集中攻撃した。「翔鶴」は大破。「瑞鶴」は損害こそ受けなかったものの、多数の艦載機と搭乗員を失い、その再編のため日本本土へ戻った。そのためミッドウェー作戦には参加できなかった。5月21日、内地に到着する[17]。
6月上旬、日本軍はミッドウェー海戦で大敗、主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失う。6月15日、「瑞鶴」は駆逐艦「秋月」「朧」に護衛され桂島を出港、大湊へ向った。アリューシャン攻略部隊の支援として北太平洋方面に進出[18]。6月28日以降、重巡洋艦「妙高」「羽黒」と共に北方海域で米軍機動部隊を警戒した[19]。7月上旬、呉に帰港して整備・補修を行う。7月14日、「瑞鶴」は「翔鶴」「瑞鳳」と共に第一航空戦隊に所属し、同時に第三艦隊に編入され、再建された日本海軍機動部隊の主力空母となった。またミッドウェー海戦の戦訓から、搭載機の編制も艦戦27、艦爆27、艦攻18に改められ、艦首・艦尾に25mm機銃の銃座を設置した[20]。
米軍機動部隊との再戦
1942年(昭和17年)8月、アメリカ軍のガダルカナル島上陸に呼応して「翔鶴」、「龍驤」らと共に南東方面へ進出。24日米海軍第61任務部隊と交戦した(第二次ソロモン海戦)。この戦闘で日本軍は空母「龍驤」を喪失、米海軍は空母「エンタープライズ」が損傷した。
10月26日には再度米機動部隊と交戦し、他艦と共同で空母「ホーネット」、駆逐艦「ポーター」を撃沈、空母「エンタープライズ」を中破させた。艦に損傷はなかったものの、艦載機の消耗は甚大であった。11月4日、第5戦隊(妙高)、第16駆逐隊(初風、時津風)と共に内地へ帰投するよう命じられる[21]。9日、「瑞鶴」「初風」は豊後水道にて佐世保へ向かう「妙高」「時津風」と分離、呉に到着した[22]。このため11月中旬の第三次ソロモン海戦には参加していない。1943年(昭和18年)1月、内地とトラック泊地を往復する。2月には、ガダルカナル島からの撤退を支援した。この時期に「瑞鶴」は21号電探を装備、艦橋周辺などに機銃を追加した[23]。
1943年(昭和18年)後半はトラック島に碇泊。9月17日に「瑞鶴」は他の艦艇と共に訓練のためトラック島を出港した。翌18日、米機動部隊がギルバート諸島タラワ、マキンを空襲したため、「瑞鶴」以下の日本艦隊はこの米艦隊攻撃に向かったが会敵できず、23日にトラック島に帰投した。10月5日、6日今度はウェーク島を米機動部隊が空襲。17日、日本艦隊はトラック島を出撃したが、この時も会敵できずに終わった。
また、4月のい号作戦、11月のろ号作戦で艦載機をラバウルへ進出させた。
マリアナ沖海戦
1944年(昭和19年)3月、日本海軍は第一機動艦隊を編成、「瑞鶴」は姉妹艦「翔鶴」や新造艦の「大鳳」と第一航空戦隊に所属し、シンガポール方面に進出して訓練を行っていた。この時期の「瑞鶴」は航空機の緊急投棄のため煙突の上に鉄板が張られた他、後部航空機格納庫の壁が切り取られ、艦尾の短艇甲板に天山艦上攻撃機3機を搭載可能となっていたという[24]。またミッドウェー海戦の戦訓から艦載機への燃料補給と爆弾・魚雷装着は飛行甲板で行うようになったが、給油パイプは飛行甲板まで延長できたものの揚爆弾筒は格納庫までしか延ばせず、最後はエレベーターで爆弾や魚雷を飛行甲板まで揚げる必要があった[25]。5月、あ号作戦準備のためタウイタウイを経てギマラスに移動し、6月下旬のマリアナ沖海戦に参加する。
6月19日、小沢機動部隊艦載機は米機動部隊を攻撃するも、アウトレンジ戦法の失敗により大損害を受ける。また小沢機動部隊旗艦「大鳳」は米潜水艦アルバコア(USS Albacore, SS-218)に、空母「翔鶴」は米潜水艦カヴァラ(USS Cavalla, SS-244)に撃沈される。「大鳳」から脱出後した小沢治三郎中将や古村啓蔵参謀長は駆逐艦「若月」、重巡洋艦「羽黒」を経由して20日正午頃、「瑞鶴」に移乗した[26]。午後5時25分、薄暮攻撃隊として天山7機が発進(3機未帰還、4機帰投後不時着救助)。直後、100機以上の米機動部隊艦載機の空襲を受ける[27]。機動部隊は「瑞鶴」を中心に、第五戦隊(妙高、羽黒)、第十戦隊(矢矧、浦風、磯風)、第六一駆逐隊(初月、若月、秋月)、「霜月」「朝雲」という輪形陣を組んで米軍機を迎撃した[28]。この攻撃で「瑞鶴」飛行甲板に爆弾1発が命中、小規模な火災が発生した[29]。空襲下では投棄するはずの小型移動式ガソリン車が戦闘中も飛行甲板に放置されており、これに引火したとされる[30]。「瑞鶴」は艦橋を小破した状態で日本本土に帰還した。
レイテ沖海戦
- Zuikaku Cape Engano.jpg
空撮された瑞鶴。右舷煙突からの排煙が目を引く。
- Japanese aircraft carrier Zuikaku and two destroyers under attack.jpg
防戦中の瑞鶴(中央)と二隻の秋月型駆逐艦
- Zuikaku at Cape Engano.jpg
瑞鳳(右)と共に敵弾を回避する瑞鶴
- Zuikaku sinking 25 Oct 1944.jpg
被弾し、沈没しつつある瑞鶴。左舷に傾斜しているのが判る。
- Lowering the flag on Zuikaku.jpg
総員発着甲板の命令が下り、降旗する軍艦旗に敬礼する瑞鶴乗組員達。
7月14日、「瑞鶴」は呉工廠に入渠した。マリアナ沖海戦での損傷復旧とともに戦訓からガソリンタンクの防御強化や艦内の不燃化対策がより徹底され[31]、船体や甲板には空母以外の艦船にみせかけるための迷彩塗装を施した。武装は対空噴進砲(対空ロケットランチャー)8基[32]を新設、このほかにも25mm単装機銃や13号電探、水中聴音器が追加装備された[33][34]。8月に出渠後、8月10日に第一航空戦隊から第三航空戦隊に編入、「瑞鳳」、「千歳」、「千代田」らと瀬戸内海で訓練に入った[35]。9月には後述する映画撮影にも協力した[36]。
10月20日、小沢治三郎中将が指揮する第一機動艦隊(第三艦隊)の旗艦として本土を離れ、フィリピン北東へ進出した[37]。小沢機動部隊は第三航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)、第四航空戦隊(日向、伊勢)、軽巡洋艦「多磨」「五十鈴」、第三十一戦隊(大淀、桑、槇、桐、杉)、第六十一駆逐隊(初月、秋月、若月)、第四十一駆逐隊(霜月)で編成されていた[38]。各艦の搭載機は合計116機(瑞鶴65機、瑞鳳17機、千歳18機、千代田16機)であったとされる[39]。
10月24日午前11時30分、「瑞鶴」から零戦16機、爆装零戦16機、彗星2機、天山1機(彗星と天山は誘導・戦果確認)が発進し[40]、他三空母の32機と合計した攻撃隊は米機動部隊攻撃に向かった[41]。米軍空母2隻を撃沈、数隻に命中弾を与えたとするが、実際の戦果はなかった[42]。撃墜された機も多かったが、攻撃後に陸上基地に向かった機もあり、小沢機動部隊に帰還した機は3機であった[43]。また故障で零戦6機、爆装零戦5機が着艦した[44]。小沢機動部隊の航空戦力は29機(零戦19/内直掩可能14機、戦爆5、天山4、彗星1)に減少した[45]。一方、米軍第38任務部隊のウィリアム・ハルゼー・ジュニア司令官は軽空母「プリンストン」の喪失を小沢機動部隊艦載機による攻撃と判断(実際は基地航空隊彗星の戦果)、小沢機動部隊を壊滅させるべく北上を開始した[46]。栗田艦隊は24日の第38任務部隊による空襲で戦艦「武蔵」を失ったものの、他艦の損害は軽微であった。だがハルゼーは、栗田艦隊は大打撃を受けて無力化したと誤判断、「本命」である日本空母を決戦の相手に選んだのである[47]。
25日の小沢艦隊は、空母「瑞鶴」、軽空母「瑞鳳」、戦艦「伊勢」、軽巡洋艦「大淀」、駆逐艦4隻の第1群と、軽空母「千歳」「千代田」、戦艦「日向」、軽巡洋艦「多摩」「五十鈴」、駆逐艦4隻からなる第2群に分かれていた[48]。「瑞鶴」は9機の零戦を発進させ、直掩とした[41]。また午前6時13分、爆装零戦5機、彗星1機、天山4機が発進した[49]。午前8時20分から米軍機約130機による第一波攻撃を受ける。8時35分、甲板中央部に爆弾1発が命中した[50]。2分後に魚雷一本が左舷に命中し、機械室が浸水、艦載機発着艦不能となる[51]。また送風装置の故障により機関部温度が急上昇し在室不能となり、この結果右2軸運転となった[51]。艦橋の舵取り装置も故障し、直接操舵となるが、修理により8時45分復旧する[51]。火災も鎮火した[51]。一方で機関部に命中した魚雷により一時電源が遮断され、各部高角砲や対空機銃のモーターが使用不能、通信能力も制限されるなど、艦の機能に重大な影響を残した[52]。速力は22ノットまで低下した[53]。また第一波攻撃で僚艦は次々に被弾[54]。「千歳」「秋月」が沈没した[55]。
第二波の攻撃までは約1時間の時間があり、その間も「瑞鶴」は囮の役目を果たすべく北上を継続した。艦内では必死の修理が進められたが、左傾斜6度の艦内作業は相当な困難を伴い、また機関部の被害は深刻で完全な復旧は不可能であった[56]。8時48分、送受信不能になり[51]、「瑞鶴」は軽巡洋艦「大淀」に無線代行を依頼した[57]。その後復旧し、アメリカ軍の誘致に成功したことが発信されるが、その通信が栗田艦隊には届くことは無かった。9時27分、「千歳」が沈没[58]。9時44分、小沢は旗艦施設の整った「大淀」に旗艦を変更すべく準備を進めさせたが、その前に米軍第二波攻撃隊が接近したため、「大淀」は「瑞鶴」から離れていった[59]。
第二波の攻撃では、「瑞鶴」に対しては至近弾のみで被害は少なかった[60]。「千代田」は被弾して落伍した[61]。小沢は「大淀」のカッターで「瑞鶴」を離れ、10時54分「大淀」に将旗を移した[62]。11時7分、各部隊に旗艦変更の通達がなされた[63]。この頃、上空直掩機9機が燃料切れで不時着した[64]。1名は「大淀」に救助され[65]、8名は「初月」に救助された[66]。しかし、救助できず溺死した複数の搭乗員も「大淀」から目撃されている[67]。13時頃から始まった第三波攻撃では、小沢艦隊の他の空母が既に大破・沈没したこともあって、攻撃は「瑞鶴」に集中した[68]。速力低下を来たしたことが致命傷に繋がり、左舷に4本、右舷2本の魚雷を受けた[69]。また爆弾も5-7発命中し、揮発油タンクなどに引火して火災が発生。左舷に20度傾斜し、『1325 艦内浸水・火災猛烈 處置ノ手段ナシ』という状態となる[70]。対空火器は爆撃によって破壊されるか、動力を絶たれて使用不能となった[71]。辛うじて残った右舷の高角砲が最期まで射撃を継続していたが、砲身が過加熱して焼けるなどして迎撃継続が困難となり、最終的に傾斜が増して旋回不能になり沈黙した[72]。
13時27分、貝塚艦長は「総員発着甲板ニアガレ」を下令[70]。13時55-58分頃「軍艦旗降下」に至る[73][70]。総員退艦が発令された後、「瑞鶴」は左傾斜を増した。「瑞鳳」は14時7分に「瑞鶴左ニ傾斜発着甲板水際ニ浸」と報告している[74]。直後の14時14分、「瑞鶴」は沈没した[70]。「大淀」記録14時20分[75]。沈没時にはアメリカ軍の攻撃は終了しており、総員退艦時に撮影された飛行甲板での写真は有名である。沈没地点は北緯19度57分、東経126度34分と記録されている[70]
小沢艦隊は「瑞鶴」沈没後も空襲を受けたため、生存者の漂流は長時間に及んだ[76]。最終的に、士官49名、下士官兵794名が戦死した[77]。慰霊碑(航空母艦瑞鶴之碑)は奈良県橿原市の橿原公苑内にあり、川崎重工が再現した三角マストのレプリカが傍らに立っている[78]。
真珠湾攻撃に参加した日本の空母6隻のうち、最後まで残ったのが本艦である。正規空母として設計、建造され、機動部隊として作戦に参加できた最後の空母でもあった。「瑞鶴」の喪失を含め、空母戦力の大半を失ったことにより、これ以降、空母戦力を組織的に運用、作戦できる隻数、艦載機、乗員の確保が困難になり、事実上、日本海軍の機動部隊は壊滅した。これは、当然、日本海軍が組織的に艦隊運用できる能力を失ったことを意味した。アメリカにとっては、真珠湾攻撃に参加した最後の空母を沈めたことにより、真珠湾の最後の仇討を成功させたと言われる。
歴代艦長
艤装員長
- 横川市平 大佐:1940年11月15日 - 1941年9月25日
艦長
同型艦
瑞鶴が登場する作品
- 「雷撃隊出動」 1944年(昭和19年)東宝作品。レイテ沖海戦の約1ヶ月前である1944年(昭和19年)9月23日に、瀬戸内海西部で訓練中の実物の瑞鶴艦上などで撮影が行なわれた。なお、本編中で九七式艦攻が発艦する場面、甲板上で待機している零戦や発艦する天山艦攻を艦橋上部から撮影した場面は、天山艦攻の発艦を飛行甲板の左舷寄りや機内から撮影した場面と異なり船体や飛行甲板に迷彩が施されていない状態であることから、別の時期に撮影した映像を編集したものと考えられる。
- 日本ニュース第232号「比島沖海戦」 1944年(昭和19年)日本映画社。やや不鮮明ながら、迷彩を施した最終時の姿が確認できるほか、対空戦闘シーンや発艦シーンもある。なお、発艦シーンは右舷側から撮影されているが、この海戦を撮影し帰還した山根重視(「大淀」に乗艦)、竹内広一(「瑞鳳」に乗艦。沈没後救助)両カメラマンの乗艦した艦船は、いずれも瑞鶴の左舷側に位置していたことから、右舷側から撮影した映像はおそらく演習時に撮影されたものではないかと考えられる。上記の「雷撃隊出動」とほぼ同時期に撮影された可能性が高い。
- 「日本海軍艦艇集【下】」2005年(平成17年)コニービデオ発売。ASIN:B000A6K8AG。過去にVHSで発売されていたもののDVD再発売版。日本海軍が撮影したフィルムのうち未公開のものを集めて解説を加えたもの。南太平洋海戦における瑞鶴が撮影されている。なおこのビデオ内の零戦発艦シーン4秒が、JRAが2012年(平成24年)年に放映したテレビCM「近代競馬150周年〈60秒バージョン〉」内にて使用されている。
- 「連合艦隊司令長官 山本五十六」 1968年(昭和43年)東宝作品。主人公の1人でもある木村少尉(後大尉)の乗艦。ガダルカナルを巡る攻防戦の前フリで模型が登場する。
- 「連合艦隊」 1981年(昭和56年)東宝作品。艦橋や飛行甲板、対空機銃などが、神奈川県茅ヶ崎市の柳島海岸に実物大セットで再現された他、自走操船航行可能なミニチュア模型が特撮シーンの撮影に使用された。
- テンプレート:Cite book 野村(海軍中尉)は第六五三航空隊一六六飛行隊。「瑞鶴」の沈没を体験した。『落日の残像』は野村の体験を元にした小説である。『雷撃隊出動』の撮影時、女優が来ないので搭乗員が落胆したり、佐官服を着ていた主演男優に士官や下士官兵が敬礼したというエピソードが記載されている[79]。
参考文献
- 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』(海軍研究社、昭和12乃至15)
- 連合軍総司令部民間情報教育局 編『真相はかうだ. 第1輯』(聯合プレス社、1946)
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 南太平洋海戦
- Ref.テンプレート:Cite book
- マリアナ沖海戦
- Ref.テンプレート:Cite book
- Ref.テンプレート:Cite book
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- レイテ沖海戦
- Ref.テンプレート:Cite book
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- Ref.テンプレート:Cite book(軍艦瑞鳳戦時日誌)
- Ref.テンプレート:Cite book(軍艦千歳戦時日誌)
- Ref.テンプレート:Cite book(軍艦瑞鶴戦時日誌・軍艦日向戦時日誌)
- Ref.テンプレート:Cite book(軍艦大淀戦時日誌・軍艦鈴谷戦時日誌)
- Ref.テンプレート:Cite book(軍艦五十鈴戦時日誌)
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- テンプレート:Cite book 岩本は1941年10月~1942年7月まで瑞鶴勤務。零戦隊搭乗員。
- テンプレート:Cite book
- 丸スペシャル特別増刊号『写真と図で見る軍艦メカ3 全特集 日本の空母』潮書房、1981年
- 丸スペシャルNo131『戦時中の日本空母III』潮書房、1988年
- 小林昌信ほか『テンプレート:Small 戦艦「大和」檣頭下に死す』(光人社、1995) ISBN 4-7698-2087-9
- 渡辺義雄『ああ「瑞鶴」飛行隊帰投せず」(瑞鶴戦闘機整備科員)
- 歴史群像 太平洋戦史シリーズvol.13『翔鶴型空母』学習研究社、1996年 ISBN 4-05-601426-4
- 森史朗、『勇者の海 空母瑞鶴の生涯』、光人社、2008年、ISBN 978-4-7698-1377-4
- テンプレート:Cite book 三原誠(瑞鶴整備科)証言収録。
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脚注
関連項目
- ↑ 勇者の海、35ページ
- ↑ 勇者の海、43-44ページ
- ↑ 『日本軍艦集 : 2600年版』p.81
- ↑ 勇者の海、58-68ページ
- ↑ 面白いほどよくわかる太平洋戦争 日本文芸社 p.37
- ↑ #零戦撃墜王55頁
- ↑ 勇者の海、164、168-170ページ
- ↑ 勇者の海、172、188、197ページ
- ↑ #零戦撃墜王57頁
- ↑ #零戦撃墜王61頁
- ↑ #零戦撃墜王63頁
- ↑ #零戦撃墜王68-70頁
- ↑ #零戦撃墜王71頁
- ↑ #零戦撃墜王73頁
- ↑ #零戦撃墜王86-87頁
- ↑ #零戦撃墜王89頁
- ↑ #零戦撃墜王108頁
- ↑ 歴史群像 太平洋戦史シリーズvol.13『翔鶴型空母』折込行動年表
- ↑ #零戦撃墜王109頁
- ↑ 丸スペシャル特別増刊号『写真と図で見る軍艦メカ3 全特集 日本の空母』112-113頁
- ↑ #昭和17年6月~第5戦隊日誌(5)p.9『5S(羽黒欠)は「トラツク」に於て警戒待機中の處命に依り修理整備の為11月4日3F(瑞鶴、時津風、初風)と共に「トラツク」発9日豊後水道に於て瑞鶴初風と分離(以下略)』
- ↑ #昭和17年6月~第5戦隊日誌(5)p.16『11月9日/0900 豊後水道通過1sfト分離 時津風ヲ警戒艦ニ附ス 1430下関海峡通過 1800時津風ヲ解列 1900佐世保掃海水道ニ入ル』
- ↑ 丸スペシャル特別増刊号『写真と図で見る軍艦メカ3 全特集 日本の空母』11頁、112-113頁
- ↑ #聞き書き・日本海軍史91頁
- ↑ #聞き書き・日本海軍史95頁
- ↑ #サイパン・レイテ海戦記65頁
- ↑ #昭和19年6月第61駆逐隊詳報(1)p.8、#サイパン・レイテ海戦記66頁
- ↑ #昭和19年6月第61駆逐隊詳報(1)p.27
- ↑ #昭和19年6月第61駆逐隊詳報(1)p.9『一七四六 瑞鶴爆弾一命中火災間モナク消火ス』
- ↑ #聞き書き・日本海軍史92頁
- ↑ 丸スペシャルNo131『戦時中の日本空母III』40-42頁
- ↑ #瑞鶴捷1号詳報(1)pp.3
- ↑ 歴史群像 太平洋戦史シリーズvol.13『翔鶴型空母』折込要目表
- ↑ 丸スペシャル特別増刊号『写真と図で見る軍艦メカ3 全特集 日本の空母』11頁、35頁、112-113頁
- ↑ #第1機動艦隊戦時日誌p.7
- ↑ 歴史群像 太平洋戦史シリーズvol.13『翔鶴型空母』折込行動年表
- ↑ #瑞鶴日向捷号日誌(3)p.5
- ↑ #日向詳報pp.4-5
- ↑ #サイパン・レイテ海戦記360頁
- ↑ #瑞鶴捷1号詳報(1)pp.14
- ↑ 41.0 41.1 小林昌信『戦艦「大和」檣頭下に死す』265頁
- ↑ #サイパン・レイテ海戦記361頁
- ↑ #大淀詳報pp.30
- ↑ #瑞鶴捷1号詳報(1)pp.22
- ↑ #大淀詳報pp.30、#サイパン・レイテ海戦記366頁
- ↑ #サイパン・レイテ海戦記362頁
- ↑ #サイパン・レイテ海戦記368-369頁
- ↑ 「軍艦伊勢捷1号作戦戦闘詳報(1)」pp.6、#駆逐艦霜月詳報p.4
- ↑ #瑞鶴捷1号詳報(1)pp.16
- ↑ #瑞鶴捷1号詳報(1)p.17
- ↑ 51.0 51.1 51.2 51.3 51.4 #瑞鶴捷1号詳報(1)pp.18
- ↑ #瑞鶴捷1号詳報(1)pp.29-37
- ↑ #16歳の海戦(文庫版)283頁
- ↑ #瑞鶴日向捷号日誌(1)p.12、#瑞鶴日向捷号日誌(2)p.11
- ↑ #日向詳報p.11、#瑞鶴日向捷号日誌(6)p.25
- ↑ #瑞鶴捷1号詳報(1)pp.42
- ↑ #大淀詳報pp.9, 15
- ↑ #瑞鶴日向捷号日誌(2)p.12
- ↑ #大淀詳報pp.9, 15-16
- ↑ 小林昌信『戦艦「大和」檣頭下に死す』267頁
- ↑ #日向詳報p.11
- ↑ #瑞鶴捷1号詳報(1)pp.19、#大淀詳報pp.17
- ↑ #瑞鶴日向捷号日誌(1)p.50、#大淀詳報p.37
- ↑ #瑞鶴捷1号詳報(1)pp.19
- ↑ #16歳の海戦(文庫版)291頁。南義美少尉。
- ↑ #瑞鶴捷1号詳報(1)pp.20
- ↑ #16歳の海戦(文庫版)293-294頁
- ↑ #サイパン・レイテ海戦記372頁
- ↑ #瑞鶴捷1号詳報(1)pp.60-61
- ↑ 70.0 70.1 70.2 70.3 70.4 #瑞鶴捷1号詳報(1)pp.21
- ↑ #瑞鶴捷1号詳報(1)pp.44
- ↑ 小林昌信『戦艦「大和」檣頭下に死す』267-268頁
- ↑ 小林昌信『戦艦「大和」檣頭下に死す』269頁
- ↑ #瑞鶴日向捷号日誌(1)p.13
- ↑ #大淀詳報pp.19
- ↑ 小林昌信『戦艦「大和」檣頭下に死す』270-272頁
- ↑ #瑞鶴日向捷号日誌(3)pp.13、#瑞鶴捷1号詳報(2)pp.21
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ #野村残像91頁