秋月型駆逐艦
秋月型(乙型)駆逐艦 | |
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秋月
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艦級概観 | |
艦種 | 一等駆逐艦 |
艦名 | |
前級 | - |
次級 | - |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:2,700トン 公試:3,470トン 満載:3,878トン |
全長 | 134.2m |
全幅 | 11.6m |
吃水 | 4.15m(公試状態) |
主缶 | ロ号艦本式缶3基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 52,000hp |
最大速力 | 33.0ノット |
航続距離 | 18ノットで8,000カイリ |
燃料 | 重油:1,080トン |
乗員 | 315名[1] |
兵装(新造時) | 65口径10cm連装高角砲 4基8門 25mm機銃 連装2基 61cm4連装魚雷発射管 1基4門 (九三式魚雷8本) 九四式爆雷投射器2基 爆雷投下台6基 九五式爆雷×54 |
兵装(1944年)[2] | 65口径10cm連装高角砲 4基8門 25mm機銃 3連装5基、単装13基(推定)、単装取付座7基 13mm機銃 単装4基 61cm4連装魚雷発射管 1基4門 (九三式魚雷8本) 九四式爆雷投射器2基 爆雷投下軌条2基 九五式爆雷×54 |
秋月型駆逐艦(あきづきかたくちくかん)とは、太平洋戦争中、日本海軍が対空戦闘用に建造した駆逐艦である(書類上の分類は乙型駆逐艦)。第四次海軍軍備補充計画(マル4計画[3])で6隻、戦時補充計画(マル急計画)で10隻、第五次補充計画(マル5計画)で16隻(後に改マル5計画で23隻に増強)の合計39隻の建造が計画され、内12隻が竣工(1隻未成)している。秋月型は、駆逐艦島風を除けば戦前の計画で建造され終戦まで活躍した最後の駆逐艦である。海軍部内では月型と呼ばれた。
なお、冬月以降を「冬月(ふゆつき[4])型」、仮称艦名第365号艦以降を「満月(みちつき[5])型」として区別するものもあるが、本稿ではこれらも改良型として一括記載する。
目次
概要
開戦前より、航空機の脅威を排除するために各国で軍艦に対空機銃や高角砲を装備するようになった。イギリス海軍は、1935年(昭和10年)から旧式化していたC級軽巡洋艦の中から比較的状態が良好な艦を防空巡洋艦に改装し、当時としては破格の防空能力を備えた艦を誕生させた。これに影響を受けた各国海軍は防空専門艦の建造や、既存の旧式艦の改装を計画し始め、C級改装で経験を得たイギリス海軍は、1940年(昭和15年)にダイドー級軽巡洋艦の建造を進めた。アメリカ海軍も防空専門艦の建造計画を推し進め、1941年(昭和16年)以降にアトランタ級軽巡洋艦を11隻建造した。
日本海軍では当初、C級軽巡と同様に旧式化していた天龍型や5,500t級軽巡洋艦を改装し防空巡洋艦とする案も出されていたが、どちらの艦も高速性能が追求される軽巡洋艦であったため艦形が細身で、八九式12.7cm高角砲や九八式10cm高角砲を艦の中心直線上に数基しか配置できず(例:五十鈴)、効果的な対空弾幕を張れない上、イギリス海軍の様に輸送船団護衛等の通商路護衛任務を考慮しない日本海軍にとって、多額の予算をつぎ込んで改装した艦が、老朽化ですぐに第一線での任務をこなせなくなっては意味がないと考えられた。そこで、新たに防空巡洋艦を建造するという計画が立てられたが、当時の日本海軍はこの種の艦の導入にはそれほど熱心ではなく、程なく防空巡洋艦の建造計画は中止された。その代わりに、1939年(昭和14年)から建造を開始されたのが本型である。当初の要求では、
- 最大速度35ノット
- 航続距離18ノットで1万カイリ
- 魚雷発射管を装備しない
とあり、艦種も「直衛艦」となっていたが、速度と航続距離の要求を満たした場合、重油搭載量は1,200トン、排水量は4,000トンを突破することになる。最終的に、最大速度は33ノット、航続距離は8,000カイリと縮小されることになるが、軍令部が魚雷装備にこだわったため、4連装魚雷発射管を装備した「駆逐艦」として建造を開始された。
特徴
長10センチ高角砲
テンプレート:Main 従来海軍が採用していた八九式40口径12.7センチ高角砲に替わり、九八式65口径10センチ高角砲を装備している。この砲は、口径サイズこそ以前のものより小さいが口径長は長く、より長射程、高初速の砲となった。ただし、砲身そのものの寿命(砲身命数)は短く、12.7センチ砲が約1,000発なのに対し、10センチ砲は350発と三分の一程度となっている。そのため、砲身の予備を自艦で交換できるという、軍艦搭載砲としてはきわめて珍しい砲である。その性能は高く、最大射程19,500メートル・最大射高14,700メートル・発射速度毎分19発[6]というものであり、八九式12.7センチ砲に比べ、いずれも1.4倍以上の能力向上を誇った。性能面では申し分のないものであったが、構造が複雑で大量生産には適さず、広く採用されることはなかった。10センチ砲は同時期に計画された空母大鳳や軽巡大淀にも採用されたが、秋月型のような密閉砲塔型ではなく波除けや煤煙除けを目的とする簡易的な防盾を設けたものとなった。
なお、当時最新鋭の九四式高射装置が備え付けられていたが、米軍の射撃指揮装置・MK(マーク)37射撃指揮装置(GFCS)がレーダーによる自動追尾、高度の計算による自動操縦を実現したシステムを可能としていたのに比し、射撃用レーダーを持たず、対空目標との距離測定及びその照準追尾は光学による人力であり、高角砲のコントロールも人手に拠ったため射撃の命中率は格段に劣っていた。[7]。当初設計図では九四式高射装置は前部と後部の2箇所に計2機装備するとなっていたが、実際には艦橋上の前部にのみ装備されて1機で全砲塔の射撃を指揮することとなり、後部に装備した艦は無かった[8][9]。後部高射装置部分には外筒のみ装着されていたが中身はなく、測距儀の出っ張りも無かった。この部分は後の機銃増備時に機銃台に転用された。
電探
秋月型では、秋月・照月・涼月の竣工時には電探は装備されていなかった。
秋月では1943年8月26日付訓令により、1943年11月はじめまでに前マスト上に21号電探を1基追加装備した[10]。これに伴い前マストが交換されている。初月から冬月は竣工時から21号電探を装備しており[11]、涼月も同時期に増備したと考えられる。21号電探は大型の対空電探であり、戦艦・航空母艦といった大型艦から装備が始まり、後に巡洋艦にも装備されるようになったが、駆逐艦で装備したのは秋月型のみである[12]。
秋月では1944年7月上旬、後マスト上に13号電探を1基追加装備した[13]。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」にて、他の秋月型各艦でも同様に増備されていたことが確認できる[14]。13号電探は小型・軽量な対空電探だったため、他の駆逐艦にも装備された。
1944年10月のレイテ沖海戦の前後に、前マストから21号電探を撤去し、跡に13号電探1基と22号電探1基を増備した艦がある。13号電探は前後あわせて2基となる。涼月・冬月では時期が不明だが写真でこの増備されたことが確認できる。春月以降の艦は新造時よりこの形態をとった[15]。秋月はこの増備を行う前に戦没した[16]。22号電探は小型・軽量な対水上電探で他の駆逐艦にも装備された。
他の日本海軍の艦艇全般に共通することだが、電探を装備していても主砲・機銃を電探に連動させる照準装置が開発されていなかったことは秋月型でも同じだったため、射撃における電探の効力は限定されたものとなった。
機関配置
秋月型以前の駆逐艦の機関配置は、艦首側から見て「ボイラー・タービン・減速機」とし、それぞれを隔壁で分離するという配置であった。しかし本艦は、ボイラーの後に「左舷側タービン+減速機」その後ろに「右舷側タービン+減速機」となっている。通常の配置だと、艦のスペースを有効に使える代わりに、どれかにトラブルや被弾すると航行不能になるのに対し、後年建造される松型駆逐艦が採用するシフトエンジン方式ほどではないが、ボイラーが破壊されない限り、航行ができ残存性が高まることになる。
また、巡洋艦夕張以降採用されている「誘導煙突」を、駆逐艦として初めて(そして唯一)採用しており、艦の大きさやシルエットが夕張と似ているため、テンプレート:要出典範囲[17]
艦名・戦歴
1942年(昭和17年)6月、1番艦である秋月が竣工。以降、終戦まで12隻が完成するが、8番艦「冬月」以降は建造日数の短縮のため、日本海軍独特の各所の曲線曲面形状を取りやめ、直線平面形状となっている。実際そういった簡略化による性能低下は無視できる程度だったといわれる。また仮称艦名第365号艦(満月)以降は、鋼材規格の低下も実施された。
秋月型
- 秋月(あきづき)
- 1942年6月11日舞鶴工廠で竣工。竣工直後、日本本土に空襲をかけるため接近中のアメリカ機動部隊迎撃のため、瑞鶴の護衛として出撃(これは空振りに終わる)。その後、ソロモン諸島に向かう途中、攻撃してきたB-17を1機撃墜した。1943年1月19日、輸送船妙法丸救助に向かったところ、その際米潜水艦の雷撃が右舷缶室下に命中。かろうじてトラック島に寄港できたものの、応急修理に40日以上を費やした。サイパン島に寄港し佐世保に向かうこととなったが、その後突然、艦橋下の構造物が切断した。やむなくサイパンに戻り、艦橋を撤去した。強度が落ち折れ曲がった船体前部を切断し長崎に帰還、建造中だった霜月の艦首を流用して接合することで修理工期短縮を図ったが、それでも修理に9ヶ月を要することになる。
- 1944年10月25日エンガノ岬沖海戦に参加、機動部隊の援護射撃中爆発、沈没する。これは、「味方空母(瑞鳳)に接近した魚雷を自分が犠牲になって受けたため」とも、「味方が打ち上げた高角砲弾の破片、または機関銃弾の不発弾が魚雷に当たり誘爆した(当時の艦長の憶測)」ともいわれている。また、機関科士官として秋月に乗り込んでいた山本平弥は、著書「防空駆逐艦『秋月』爆沈す」(光文社NF文庫)の中で、敵機の爆弾命中による魚雷誘爆が原因という説を唱えている。一部の書籍ではアメリカ軍潜水艦の攻撃によるとするものがあるが、雷撃した時刻と沈没した時刻との関係からこれには否定的な見解が多い。
- 照月(てるづき)
- 1942年8月31日三菱長崎造船所で竣工。同年10月、南太平洋海戦に参加する。同年11月、第三次ソロモン海戦に参し、撃沈された霧島から乗組員を救助する。ガダルカナルへの物資輸送の警戒艦として行動中の12月12日、アメリカ軍の魚雷艇の攻撃を受け沈没する。
- なお、アメリカ軍は秋月型を当初はTERATSUKI class[18]、終戦近くになってTERUTSUKI class[19]と呼んだが、これは綴りが異なるものの本艦の名が元になっている。
- 涼月[20](すずつき)
- 1942年12月29日三菱長崎造船所で竣工。完成後物資輸送護衛などの任務に就き、1944年1月16日に米軍潜水艦の魚雷により艦首の大部分と艦尾を喪失し僚艦に曳航され呉海軍工廠に帰還し修理、同年10月17日にも米軍潜水艦の魚雷により艦首の一部を喪失するが撃沈されず帰投している。艦首の復旧時に新造された艦橋は、形状を簡易化した角ばったものとなった。これは満月型の設計のものと言われているが、就役した艦でこの形状を持つものは涼月のみである。しかし、捷一号作戦直前に冬月と共に雷撃の損傷のため参加できず、菊水作戦時には大和と共に出撃。戦闘中に艦橋近くに直撃弾を受け、大浸水を来たす。戦闘終了後、火災のため弾薬の一部が誘爆し艦が前方に傾斜したため前進不能になり、駆逐艦長判断によって後進での航行を余儀なくされる、磁気コンパスが狂い南東に進む、海図が全て燃え乗組員の記憶で日本地図を作成する、さらに雷撃を受けるも後進での操艦により難を逃れるなど、佐世保に満身創痍で帰投した逸話が残る。すでに沈没したと思われており、生還の知らせは驚きをもって迎えられた。直ちにドックへ入れられたが、ドックの排水を待つことができず着底してしまうという、まさにギリギリの帰還だった。帰投後は防空砲台として使用されて終戦を迎える。1948年解体。船体は冬月と共に福岡県若松港の防波堤となり、軍艦防波堤と呼ばれた。
- 初月(はつづき)
- 1942年12月29日舞鶴工廠で竣工。実戦初参加はマリアナ沖海戦。1944年10月25日のエンガノ岬沖海戦には瑞鶴の護衛艦として参加。瑞鶴沈没時には救助活動を行い、その後、同型艦若月と軽巡五十鈴と共に千代田乗員の救助に向かう。その救助作業中、ローレンス・T・デュボーズ少将指揮するアメリカ艦隊(重巡3・軽巡1・駆逐艦12)が接近し砲戦となる。初月は撃沈されたが、実に2時間にわたり敵を拘束することになり、若月、五十鈴は無事に帰還できた。この戦闘で、米軍巡洋艦4艦は徹甲弾を合計1,200発以上撃っており、前述のデュボーズ少将は麾下駆逐艦からの報告と併せ、初月を戦艦か少なくとも阿賀野型巡洋艦であると主張していた。またこの時瑞鶴乗員救助中の内火艇が取り残されて漂流、21日目に台湾に流れ着き瑞鶴乗員17名、初月乗員8名が生還している。
- 新月(にいづき)
- 1943年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。第8艦隊に所属としてラバウルへ進出。7月6日、コロンバンガラ島輸送任務中、米艦隊との戦闘となり、敵艦の集中砲火を受け沈没。本型の中で、最も短い生涯を遂げた艦である。
- 若月(わかつき)
- 1943年5月31日、三菱長崎造船所にて竣工。実戦初参加はマリアナ沖海戦で、初月・五十鈴とともに参加。大鳳沈没時には、小沢治三郎を救助する。続くエンガノ岬沖海戦後の救助作業時のアメリカ艦隊との遭遇戦では、無事生還するも約半月後の1944年11月11日、オルモック輸送作戦における船団護衛中米軍機の攻撃を受け沈没。
- 霜月(しもつき)
- 1944年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。建造中に本艦の艦首を秋月に移植したため、工期が遅延する。マリアナ沖海戦、エンガノ岬沖海戦に参加。1944年11月25日、船団護衛中米潜水艦の雷撃を受け沈没。
冬月型
- 冬月(ふゆつき[4])
- 1944年5月25日、舞鶴工廠にて竣工。菊水作戦時には大和と共に出撃。帰投後は門司で防空砲台として使用されて終戦を迎える。戦後工作艦として使用。1948年解体。船体は涼月と共に若松港の防波堤となる。
- 春月(はるつき)
- 1944年12月28日、佐世保工廠にて竣工。瀬戸内海での防衛任務で終戦を迎える。復員船として使用されたあと、1947年9月25日に戦時賠償艦としてソ連へ引き渡される。ソ連では駆逐艦「ヴネザープヌィイ」として短期間運用されたのち、練習艦「オスコール」として1955年まで運用、その後標的艦や海上施設として運用、1969年6月4日に除籍され解体された。
- 宵月(よいづき)
- 1945年1月31日、浦賀船渠にて竣工。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦として雪風と共に中華民国に引き渡され、中華民国艦「汾陽」と改名となるが、実質運用はされていない。なお、秋月型の10センチ高角砲として書籍等に写真が載っているのは本艦の物だと言われていたが、後の研究で、この写真は引き渡された雪風(丹陽)に搭載替えされた時点のものであることが判明した。
- 夏月(なつづき)
- 1945年4月8日、佐世保工廠にて竣工。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦としてイギリスに引き渡されたが日本国内で解体される。
満月型
- 満月(みちつき[5]、仮称艦名第365号艦)
- 1945年1月3日、佐世保工廠で起工したが、工程16%で工事は中止、未完成のまま敗戦を迎えた。1948年2月に解体。
- 花月(はなづき、仮称艦名第366号艦)
- 1944年12月26日、舞鶴工廠にて竣工。天一号作戦のため出撃した第一遊撃部隊を豊後水道まで護衛する。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦としてアメリカに引き渡され、青島で調査された後、1948年2月3日に五島列島沖で実艦的として処分された。本艦以降竣工した艦は、艦隊行動はほとんどおこなわず、瀬戸内海や日本近海より離れることはなかった。
建造中止艦
戦時補充計画(マル急計画)での建造中止艦(仮称艦名 - 予定艦名 - 備考)
- 仮称艦名第367号艦 - 清月 - 舞鶴工廠で建造予定、1944年12月14日建造中止
- 仮称艦名第368号艦 - 大月 - 佐世保工廠で建造予定、1944年12月14日建造中止
- 仮称艦名第369号艦 - 葉月 - 舞鶴工廠で建造予定、1944年12月14日建造中止
改マル5計画での建造計画艦(仮称艦名 - 予定艦名)
- 仮称艦名第5061号艦 - 山月(やまづき)
- 仮称艦名第5062号艦 - 浦月(うらづき)
- 仮称艦名第5063号艦 - 青雲(あおぐも)
- 仮称艦名第5064号艦 - 紅雲(べにぐも)
- 仮称艦名第5065号艦 - 春雲(はるぐも)
- 仮称艦名第5066号艦 - 天雲(あまぐも)
- 仮称艦名第5067号艦 - 八重雲(やえぐも)
- 仮称艦名第5068号艦 - 冬雲(ふゆぐも)
- 仮称艦名第5069号艦 - 雪雲(ゆきぐも)
- 仮称艦名第5070号艦 - 沖津風(おきつかぜ)
- 仮称艦名第5071号艦 - 霜風(しもかぜ)
- 仮称艦名第5072号艦 - 朝東風(あさごち)
- 仮称艦名第5073号艦 - 大風(おおかぜ)
- 仮称艦名第5074号艦 - 東風(こち)
- 仮称艦名第5075号艦 - 西風(にしかぜ)
- 仮称艦名第5076号艦 - 南風(はえ)
- 仮称艦名第5077号艦 - 北風(きたかぜ)[21]
- 仮称艦名第5078号艦 - 早風(はやかぜ)
- 仮称艦名第5079号艦 - 夏風(なつかぜ)
- 仮称艦名第5080号艦 - 冬風(ふゆかぜ)
- 仮称艦名第5081号艦 - 初夏(はつなつ)
- 仮称艦名第5082号艦 - 初秋(はつあき)
- 仮称艦名第5083号艦 - 早春(はやはる)
駆逐隊の変遷
秋月型は戦時中に建造されたため、戦没と新造艦の編入が錯綜し、フル編成が完結する機会は少ない。新月は駆逐隊編入の機会がないまま、第八艦隊に単艦で編入されて戦没している。秋月型最終ロットが竣工する頃には、すでに艦隊行動が不可能になっており、駆逐隊も解隊されるものが続出した。このため、春月は当初より護衛戦隊の第103戦隊旗艦、花月は第31戦隊旗艦となっており、新月と合わせ3隻が駆逐隊に属していない。結果的に第六一駆逐隊・第四一駆逐隊の2個駆逐隊が編成された。機動部隊である第三艦隊第10戦隊での活動がほとんどを占め、末期には唯一の決戦艦隊となった第二艦隊の第二水雷戦隊に所属し、主力駆逐艦らしい戦歴を重ねている。
第六一駆逐隊
横須賀鎮守府に所属した秋月・照月で編成した最初の秋月主体の駆逐隊。終始第10戦隊に属して機動部隊の直衛を担ったが、南太平洋海戦以降は機動部隊と分離して外南洋の水雷戦に臨んだ。涼月・初月の追加を待たず照月が戦没したほか、秋月や涼月が長期間の修理を要する被害を受けており、4隻体制を維持すること自体が困難だった。若月の戦没により、残るは本土で修理を完了した涼月のみとなったために解散した。
- 昭和17年7月7日:秋月竣工・照月で編成。第三艦隊第10戦隊。
- 昭和17年12月12日:照月、ソロモン諸島で戦没。
- 昭和18年1月15日:涼月・初月追加。
- 昭和18年1月19日:秋月、被雷大破。修理のため離脱。
- 昭和18年8月15日:第十一水雷戦隊での練成を終えた若月を編入。
- 昭和18年10月31日:秋月の修理完了、戦線復帰。
- 昭和19年1月16日:涼月、高知沖で被雷大破。
- 昭和19年8月3日:涼月、修理完了。戦線復帰。
- 昭和19年10月16日:涼月、宮崎沖で被雷大破。レイテ沖海戦には秋月、初月、若月が参加。
- 昭和19年10月25日:レイテ沖海戦で秋月・初月戦没。
- 昭和19年11月11日:若月、オルモック作戦中に戦没。涼月、修理完了、戦線復帰。
- 昭和19年11月15日:解隊、涼月は第四一駆逐隊に転出。
第四一駆逐隊
マリアナ沖海戦に備えて単艦で第十戦隊に編入されていた霜月に、第十一水雷戦隊での練成を終えた冬月を加えて昭和19年7月15日に編成した。レイテ沖海戦前に冬月が大破したため、駆逐隊単位での行動はほとんどなく、六一駆から転入した涼月と修理が完了した冬月が菊水作戦に参加したのが駆逐隊として唯一の作戦行動である。菊水作戦によって、両艦とも損傷を蒙ったため、稼動できるのは追加された宵月と夏月だったが、燃料の払底のために活動することはなかった。戦後の武装解除時に解隊した。
- 昭和19年7月15日:霜月・冬月で編成。第三艦隊第10戦隊。
- 昭和19年10月12日:冬月、被雷大破。レイテ沖海戦には霜月のみ六一駆指揮下で参加。
- 昭和19年11月15日:第二艦隊第二水雷戦隊に転籍。解隊した第六一駆逐隊より涼月を編入。
- 昭和19年11月19日:第三一戦隊旗艦五十鈴大破。霜月を旗艦に指定。
- 昭和19年11月25日:南シナ海で霜月戦没。
- 昭和20年4月6日:菊水作戦に涼月・冬月参加。
- 昭和20年4月20日:連合艦隊直属第31戦隊に転属。
- 昭和20年5月20日:第十一水雷戦隊での練成を終えた宵月、夏月を編入。
- 戦後解隊。
秋月に関する通説
- 秋月が初戦でB-17を2機、一撃で撃墜した。
これは当時の艦長が戦後記述した文章が基となっている。しかし
- 乗組員への聞き取り調査によると後部の高射装置は竣工時から未装備であった。つまり高射装置は艦橋上の1基しかなく同時に2機の目標に照準を合わせることは不可能だった。
- 乗組員に、初戦に限らずいかなる実戦でも分火を行った記憶が無い。
- そもそも公式記録(「駆逐艦行動調書」)でB-17撃墜は1機(それも僚艦との共同撃墜)、消費弾薬は108発となっている。
- 宇垣纏連合艦隊参謀長の「戦藻録」には9月29日、「秋月」がブカ島でB-17爆撃機2機と交戦、1機を撃墜し「防空駆逐艦の価値を始めて発揮せり」と記述している。[22]
以上4点から否定される。
- そのため米軍は秋月型には不用意に近づかないよう警報を発した。
このことについては
- 基となる米側資料が全く見当たらない(ただし未発見の可能性は否定できない)。
- この通説が海外の文献に登場しない。海外の研究者にも全く知られていない。
という理由から(断定はできないが)非常に疑わしい通説である。
「警報を発した」説で最も古いものとして現在確認可能なものは、福井静夫が雑誌「丸」昭和46年12月号に寄稿した記事だが、この記事において福井は「ソロモン海域に新鋭艦が出現したという警報は、ただちに全軍にたっせられたらしい。」と、あくまでも伝聞として記述している[23]。
この項の参考文献
- 田村俊夫、「駆逐艦『秋月』の実像」歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23『秋月型駆逐艦』、学習研究社、1999年、p79-110。
サブタイプの呼称について
- 秋月型駆逐艦は就役が戦時中だったため、後になればなるほど工期の短縮を図るために艤装の簡略化が進み、「同型艦」でありながら初期と後期の艦では外見上相違する部分がある。
- 竣工した、若しくは計画のみに終わった各艦が属するサブタイプの呼称は出版社毎に見解や表記が異なる場合が多く、さらに同じ出版社であっても記事を担当したライターによって異なる場合もあるため、以下にそれを列挙する。
- 秋月から霜月まで
- 「秋月型」若しくは「秋月型原型」。
- 冬月から5076号艦まで
- 1. 全艦を「冬月型」。
- 2. 冬月から夏月までを「冬月型」、満月から5076号艦までを「満月型」。2008年現在における通説の主流である。
- 3. 冬月から花月までを「冬月型」、367号艦から5076号艦までを「清月型」。歴史群像Vol.23秋月型駆逐艦ではこの説を採用している。
- 5077号艦以降
- 「超秋月型」若しくは「改秋月型」。
脚注
- ↑ 秋月竣工時の乗員は263名
- ↑ 秋月1944年10月25日戦没時点。歴史群像秋月型p.103。
- ↑ 本来は「○の中に4」だが、丸付き数字は機種依存文字であるためこう表記する。
- ↑ 4.0 4.1 海軍公報『10月(1)』第1画像 (昭和18年10月1日付 海軍大臣達第235号)。片桐はその著書p.356にて読みを「ふゆづき」としているが、その根拠は示していない。
- ↑ 5.0 5.1 海軍公報『2月(1)』第44画像 (昭和20年2月5日付 海軍大臣達第22号)。片桐はその著書p.357にて読みを「みちづき」としているが、その根拠は示していない。
- ↑ 歴史群像秋月型p.109~110では、乗組員の証言として「揚弾器の性能が毎分15発であり、即応弾を打ち尽くせば毎分15発を超えて撃てない」「訓練では4秒1発を目標としたが実戦ではそれを下回った」とある。
- ↑ そのため仮に当時の日本軍がVT信管を使用することがあっても威力を発揮できなかったろうと言われている。『誰も言わなかった海軍の失敗』(是本信義、光人社、2008年7月) P182 ~ P185
- ↑ 歴史群像秋月型p.86~91
- ↑ 歴史群像秋月型で否定された「当初高射装置2基装備」「前後の主砲を分火可能」「後部撤去は生産が間に合わず修理も多かったため」等の通説は、「日本駆逐艦物語」p.231が初出として現在確認できるものであるが、これらの説は「軍艦メカVol.4」p.10、「軍艦メカニズム図鑑」p.35等でも広まっている。
- ↑ 歴史群像秋月型p.98~99、p.102
- ↑ 歴史群像秋月型p.9~11。ただし初月はマスト形状は電探対応タイプだが電探そのものは写真には写っておらず、竣工と訓令の日時も前後している。
- ↑ 軍艦メカ4 p.10
- ↑ 歴史群像秋月型p.101、p.103
- ↑ 日本駆逐艦物語p.276~277
- ↑ 歴史群像秋月型p.12~13、p.18~19、p.22~25。軍艦メカ4 p.10
- ↑ 歴史群像秋月型p.103
- ↑ アメリカ海軍Office of Naval Intelligence発行 ONI 222-J THE JAPANESE NAVY 1945年6月回付分 p.61では、”TERUTSUKI's closest design antecedent in the Japanese Navy appears to be the small, unusual cruiser YUBARI, commissioned over 20 year ago.”と記述があるだけで、夕張の量産については言及していない。
- ↑ アメリカ海軍Office of Chief of Naval Operations and Bureau of Aeronautics発行 Naval Aviation News 1943年9月15日号 p.2、アメリカ海軍Office of Naval Intelligence発行 ONI 41-42 Supplement Aerial Views of Japanese Naval Vessels 1943年7月期回付分 p.19など。
- ↑ アメリカ海軍Office of Naval Intelligence発行 ONI 222-J THE JAPANESE NAVY 1945年6月期回付分 p.61など
- ↑ 海軍大臣達『1月』第24画像 (昭和17年1月20日付 海軍大臣達第18号)。命名に係る本令達で用いられている漢字は涼である。
- ↑ 仮称艦名第5077号艦以下の7隻は改秋月型駆逐艦として計画
- ↑ 戦藻録(九版)196頁
- ↑ 日本駆逐艦物語p.211に同記事を再録
関連項目
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)
- レファレンスコード:C12070114100 海軍大臣達『1月』 (昭和17年1月)
- レファレンスコード:C12070120400 海軍公報『10月(1)』 (昭和18年10月)
- レファレンスコード:C12070510100 海軍公報『2月(1)』 (昭和20年2月)
- アメリカ海軍
- ONI 41-42 Supplement, Aerial Views of Japanese Naval Vessels 1943年7月期回付分、Office of Naval Intelligence、1943年
- ONI 222-J THE JAPANESE NAVY 1945年6月期回付分、Office of Naval Intelligence、1945年
- Naval Aviation News 1943年9月15日号、Office of Chief of Naval Operations and Bureau of Aeronautics、1943年
- 雑誌「歴史群像」 太平洋戦史シリーズ Vol.23 『秋月型駆逐艦』 (学習研究社、1999年) ISBN 4-05-602063-9
- 雑誌「歴史群像」 太平洋戦史シリーズ Vol.45 『真実の艦艇史』 (学習研究社、2004年) ISBN 4-05-603412-5
- 雑誌「丸」編集部『丸スペシャル No.19 日本海軍艦艇シリーズ 駆逐艦朝潮型 秋月型』(潮書房、1978年) 雑誌コード 8343-7
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』(光人社、1990年)
- 雑誌「丸」編集部『軍艦メカ4 日本の駆逐艦』(光人社、1991年) ISBN 4-7698-0564-0 (新装版あり ISBN 4-7698-1527-1。同内容が『図解 日本の駆逐艦』ISBN 4-7698-0898-4としても刊行。)
- 雑誌「モデルアート」 艦艇模型テクニック講座 vol.6 『日本海軍艦艇図面集 戦艦/駆逐艦/小艦艇篇』 (モデルアート社、1999年)
- 福井静夫『日本駆逐艦物語』 (光人社、1993年) ISBN 4-7698-0611-6 (新装版あり ISBN 4-7698-1395-3)
- 秋元実・編 『ウォーターラインガイドブック 日本連合艦隊編』改訂版 (静岡模型教材協同組合、2007年10月改訂) JANコード 4945187990224
- 森恒英『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』 (グランプリ出版、1995年) ISBN 4-87687-154-X
- 片桐大自 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1988年。