摂関政治

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摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代藤原氏藤原北家)の良房流一族が、代々摂政関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態である。

摂関政治の略史

前史

まず、摂関政治の足がかりを作ったのは藤原冬嗣であった。冬嗣は810年、天皇の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任し、一大法令群である弘仁格式を撰上した。この功績により、次世代における藤原北家台頭の足がかりができた。

成立初期

冬嗣の子藤原良房は、857年太政大臣へ、866年には摂政へと、いずれも人臣として初めて就任した。良房の採った政治手法は大きく二つある。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと(他氏排斥)。二つ目は、皇室に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることだった。

前者の他氏排斥としては、842年承和の変において両氏及び藤原式家を、次いで866年応天門の変において伴・両氏を失脚させている。後者としては、文徳天皇に娘を嫁がせ、その結果清和天皇が誕生し、天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築いている。

この、娘を皇室に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなっていった。

発展期

良房の死後、養子の藤原基経はすぐに摂政へ就任し、884年に急遽年配の光孝天皇が即位した際には、事実上の関白に就任した。それまでは幼少の天皇の代理者たる摂政として権限を行使してきたが、ついに成人の天皇の補佐者(事実上の権限代行者)たる関白の地位も手中にしたことになる。ただし、良房・基経の時代には太政大臣と摂政・関白の間に明確な職掌の差があったわけではなく(藤原良房の摂政就任は清和天皇の成人後である)、基経は関白に相当する権限を太政大臣あるいは摂政の立場で行使していた可能性もある。なお、正式な関白の地位を手に入れる過程で阿衡事件が起こり、基経は宇多天皇に謝罪させることに成功している。

基経の子藤原時平のとき、ライバルとして菅原道真が台頭したが、901年に道真を左遷へ陥れた(昌泰の変)。時平は非常に有能な政治家として手腕を発揮していったが、摂政・関白に就任する前に死んでしまった(延喜の治)。

次の摂政・関白の就任者は時平の弟の藤原忠平である。930年醍醐天皇が危篤となると、幼い朱雀天皇への譲位と同時に摂政に任じられた。続いて941年に天皇が成人すると、忠平は摂政の辞表を提出したが、改めて関白に任命された。同時代の記録から確認される天皇の成人に伴う摂政から関白への地位の異動はこれが初めての例であり、今日では天皇が幼少時には摂政、成人後は関白になる例はこの時に誕生したと考えられている。

忠平の死後、村上天皇の親政(天暦の治)が行われ、摂政・関白の座は空位となった。醍醐天皇の延喜の治と村上天皇の天暦の治は後世においては、摂関が置かれず天皇が親政を行った時代として理想視されることになるが、実際には当時の摂政・関白は非常置の地位でしかなかったために任命すべき事情がなければ空位とされる官職であったこと、摂政・関白が置かれていなくても忠平の長男藤原実頼が左大臣(一上)として国政を運営していたことなど、藤原北家の良房流が国政を掌握する構造自体に変化があった訳ではなかった。

しかし、村上天皇の崩御により、病弱で政務の遂行が難しかった冷泉天皇が即位すると、藤原実頼が関白に就任し、続いて太政大臣・准摂政に任ぜられる。以後、明治維新まで摂政・関白が常置(後醍醐天皇による建武の新政の時期などの例外を除く)されることとなる。

最盛期

安和の変による源高明の追放、次いで源兼明の皇族復帰によって他氏排斥が完了した後は、藤原北家の内部で権力争奪が行われることとなった。安和の変後、冷泉円融両天皇の外戚であった藤原師輔の子である藤原兼通兼家兄弟が摂関の座を争って互いにその出世を妨害しようとした。

権中納言から後継の関白の地位を得た兼通は、内覧・内大臣を経て関白に就任した。兼通に関白就任に必要な大臣の資格を与えるために内大臣が72年ぶりに設置(その前の藤原高藤は危篤となった天皇の外祖父である大納言に対する礼遇であるため、実質は奈良時代末期の藤原魚名以来119年ぶりである)された。だが、兼通の上位には左大臣源兼明と右大臣藤原頼忠(後の関白)がおり、兼通はその次の席次であった上に、兼明は一上として太政官の実権を掌握していた。そこで兼通は太政大臣に就任して源兼明を皇族に復帰させて左大臣を止めさせる詔勅を出させ、頼忠を一上に任命した。兼通は自身の子弟を公卿に昇進させてその世襲化を図ったが、息子達を公卿に任じ終えた直後に病死したために挫折した。

兼通によって長年不遇であった兼家は一条天皇の外祖父として摂政に就任した。兼家は右大臣であったものの、上位に太政大臣藤原頼忠(前関白)・左大臣源雅信がおり、雅信が一上であった。頼忠・雅信排除の名目を見出せなかった兼家は、自ら右大臣を辞して替わりに准三宮の待遇と一座宣旨を受けて、前大臣でありながら摂政後に関白として百官の上位に就いた。以後、摂政・関白の宮中での席次は、太政大臣よりも上位と考えられるようになった(「寛和の例」)。また、4人の子息と義弟を公卿に昇進させ、嫡男の藤原道隆を内大臣に任じて関白の地位を譲ったところで死去した。

この後一族内の権力争いに勝利し、摂関政治の最盛期を作り出したのが兼家の五男であった藤原道長である。道長もまた、995年に甥藤原伊周(道隆嫡男)との権力闘争に勝ち、内覧に就任している。ただし、実際に道長が摂関の地位に就いたのは、1016年の外孫の後一条天皇が即位して摂政に就任してからの1年程に過ぎず、すぐに息子の藤原頼通に譲っている。

道長の子藤原頼通は摂関の地位に約50年間就いた。しかし、皇室に嫁がせた娘からはついに天皇となる男児は生まれなかった。

衰退期

1068年、王統統一の流れの中で後三条天皇が即位した。後三条天皇は藤原北家の祖父を持たない約170年ぶりの天皇であり、それを支援したのは同じ摂関家ながらその就任資格から排除された藤原能信(頼通の異母弟)らであった。後三条天皇は、天皇の威信と律令の復興を意図する政策を次々と打ち出し、次代の白河天皇もその政策を引き継いだ。だがこの間、摂関家では頼通とその後を継いで関白となった教通(頼通の同腹弟)が確執を起こして、天皇に対して具体的な対抗手段を取れる状況ではなかった。

そして、白河天皇は1086年に上皇となったが、それは引退などではなく、上皇としての政治、いわゆる院政の開始を意味した。律令の規定上、上皇は天皇と同等の権力行使が可能である一方で、天皇のように制度や慣習によってその行動や意志決定プロセスを制限されてはいなかった。さらに天皇の実父であるという強みも得て、政治権力は摂政・関白から上皇へシフトしていった。折りしも藤原師通(頼通の孫)の死後の摂関家では後継者争いが生じ、最終的に白河法皇の介入という形で解決がなされてしまう。このため、以後の摂政・関白の任命には上皇(法皇)の意向を無視する事が不可能になってしまった。しかも後を継いだ藤原忠実はまだ若年で政治的経験に乏しく(頼通も就任時は若年の摂政であったが、実際には父親の道長が10年近く後見しているため状況が異なる)、天皇も院政による摂関機能の肩代わりを容認せざるを得なくなった。こうした摂関家自らの内部事情が摂関政治の衰退に拍車をかけてしまったのである。

古典的な理解での摂関政治はまさに院政によって終焉した。古典的理解による摂関政治は母系的繋がりを持つ天皇、公卿による政治の独占で、母系の要となる者が摂政・関白となるという理解である。しかし、院政の出現により、貴族の家格というものが固定される。古典的理解での摂関政治では、幼帝の外祖父とその血縁者のみが摂政、後に関白や公卿の権利を持っていたが、院政の成立後には藤原北家頼通流にのみ摂政・関白職が世襲されることが公認される。皮肉にも摂関政治を終焉に導いた院政が「摂関家」という概念を生み出した。そして、実体としての摂関政治は、後三条・白河期に終焉を迎えていたと見るべきであろう。

終焉

その後、武家政治によって摂関政治は完全に消滅したかに見えたが、摂政・関白職は存続していたため、武士達は権力の拠所として摂関家を大いに利用した。その最たるものが豊臣秀吉の関白職就任であろう。秀吉は関白としての地位を最大限に利用し、ある意味、摂関政治を復興させたと言えなくもない。しかし秀吉は摂関を征夷大将軍に代わる「武家の棟梁」として位置付けようとしたものであり、旧来の摂関政治の復活とは軌を一にするものではなかった。また、江戸時代には江戸幕府の支援で摂関家の勢力が再興されたが、あくまで名目としての存在で、実権は伴っていなかった。さらに、同時に幕府の介入によって摂関家当主による「合議制」による意思決定が義務付けられた事によって、寧ろ逆に摂関政治は否定される事になった。それでも近衛基煕など、幕府において一定の影響力を有した関白は存在した。

明治時代になって、摂政・関白は廃止され、同時に摂関政治は完全に消滅する事となった。現在、摂政のみが存続を認められ、天皇の公務を代行する役目として皇太子など皇族のみが任ぜられる職として皇室典範に定められている。

摂関政治の背景とその意義

律令では、太政官が奏上する政策案や人事案を天皇が裁可する、という政策決定方式が採られていた。すなわち、天皇に権力が集中するよう規定されていたのであるが、摂政・関白という天皇の代理者・補佐者の登場は、摂関家が天皇の統治権を請け負い始めたことを意味する。

摂関政治が確立し始めた9世紀後期から10世紀初頭にかけては、が衰えて混乱する大陸に対しては従来の渡海制を維持することで混乱の波及を抑制することができ、奥羽でも蝦夷征討がほぼ完了するなど、国防・外交の懸案がなくなり、国政も安定期に入っていた。そのため、積極的な政策展開よりも行事や儀式の先例通りの遂行や人事決定が政治の中で大きなウェイトを占めることとなった。また、公的な軍事力が低下する反面、摂関家は、武力に秀でた清和源氏を家来とするなど、軍事力の分散化が見られ出した。

摂関政治の登場も上記の歴史的な流れの中で説明が可能であろう。すなわち、国政の安定に伴い政治運営がルーティーン化していき、天皇の大権を臣下へ委譲することが可能となった。その中で、うまく時流に乗った藤原北家が大権の委譲を受けることに成功し、その特権を独占するとともに、独自の軍事力を保有するに至った。ただし、摂政・関白が統治権を掌握したとしても、独裁的な権力を把握していたわけではなく、少なくても成人の天皇と関白の間では事前に合意形成が図られるのが原則とされていたこと、また北畠親房が「執柄世をおこなわれしかど、宣旨、官符にてこそ天下の事は施行せられし」(『神皇正統記』)と書き記しているように、天皇-関白-太政官という組織系統は摂関政治期を通じて維持されており、摂政・関白が自己の政所で政務を行ったとするいわゆる「政所政治」説は成立が困難である。

摂関家が統治権を握ることにより、他の家系は出世の見込みがなくなり、特定の業務を担当することで貴族としての生き残りを図っていった。

ただし、それは摂関政治に代わった院政に関しても同じ事が言える。院政の形態は存在しなくても律令政治初期の頃から、上皇が「天皇家家父長」として天皇の保護者・後見者を担ってきた。摂関政治ではそれが父系から母系に移り、院政で再び父系に移ったと考えることも出来るのである(藤原良房の権力掌握開始が家父長的権力を有した嵯峨上皇の崩御に始まり、宇多法皇が家父長として背後にあった醍醐天皇の時代に一時摂関政治が停滞し、久しく絶えていた家父長的な上皇の復活である白河上皇が摂関政治に代わる院政を開始した事は偶然では決して片付けられないものである)。

また、国政の安定を背景に、権力の分散化も顕著となっていき、例えば、地方官の辞令を受けた者から現地の有力者へその地方の統治権が委任されるといった動きも見られた。この動きが、ひいては鎌倉幕府武家政治の成立へつながっていく。