広瀬川 (宮城県)
テンプレート:Infobox 河川 広瀬川(ひろせがわ)は、宮城県仙台市を流れる名取川水系名取川支流の一級河川である。仙台市のシンボルとして親しまれている川であり、ヒット曲となった『青葉城恋唄』(歌/さとう宗幸)にも唄われている。
中流域では仙台市都心部の西縁から南縁を経て東流するが、都心部が広がる河岸段丘の段丘面と川面との間には数十mの高低差の段丘崖となっている。そのため両岸には自然が多く残されている。初夏の鮎釣り、秋の芋煮会など、市民が川面や河原まで降りてレジャーを行うことが多い。牛越橋より上流ではカヌーも楽しまれている。仙台七夕花火祭や広瀬川灯ろう流しなど、祭りの会場ともなっている。
地理
宮城県仙台市青葉区作並の山形県境に位置する関山峠付近に源を発する。国道48号に沿う風倉沢と関山峠から流れる坂下沢が合流した地点が一級河川の上流端である。山岳地帯を南東へ流れ愛子盆地に入る。大倉川を合わせる辺りは両岸に河岸段丘を発達させている。盆地内の支流を集め、陸前丘陵の一部である権現森丘陵と蕃山丘陵の間を抜ける途中はV字谷を形成する。ここまで仙山線と国道48号がほぼ川と平行に走っている。V字谷を抜けると、仙台市街地へと達する。右岸に青葉山、左岸に仙台市都心部を見ながら、蛇行しつつ都心部の南西端を形作って流れる。この区間では、広瀬川によって古い段丘面(より標高が高い)から台原段丘-青葉山段丘、仙台上町段丘、仙台中町段丘、仙台下町段丘の4つに大きく分けられる段丘を形成している。愛宕大橋より下流では、南東方向に直線的に流れ、太白区四郎丸地区で名取川に合流する。
上流は紅葉の名所で作並温泉がある。上流の渓谷の景勝はもとより、市街地に入っても草木と崖が多く趣ある景色を作っている。化石採集の適地がところどころにある。埋れ木や珪化木の産地として有名である。宮沢橋から広瀬橋辺りにかけての区間で長町-利府断層を越え、それより下流では沖積平野を形成する。両岸に自然堤防が発達し、その微高地上では旧石器時代から古代の遺跡が数多く見られる。
歴史
長町-利府断層より下流の両岸(沖積平野)にある微高地には、旧石器時代から古代の遺跡が数多く見られる。そのため、この地区が同時期の仙台平野の中心地と見られている。南小泉遺跡などの集落跡や遠見塚古墳がある左岸が当初は中心地だったようだが、後に古墳群がある右岸に中心地が移ったようである。その後、最初の陸奥国国府と見られる郡山遺跡が右岸に築かれている。多賀城設置後は、当地が中心地ではなくなったが、長町-利府断層沿いに陸奥国分寺・陸奥国分尼寺の設置が見られる。
『吾妻鏡』に、源頼朝の軍勢の進攻に備えて奥州藤原氏が防衛線を「広瀬河」に作ったとあり、これが広瀬川の文献初見である。南北朝時代には広瀬川の戦いが南北両朝の間で戦われた。
広瀬川中流域は河岸段丘となっており、広瀬川は一段低いところを流れている。水を引き揚げることが難しかったために、中世まで未開発の原野(宮城野)として取り残された。しかし、江戸時代に伊達氏が居城にした仙台城は、広瀬川中流の右岸にある青葉山に築かれ、川を第一線の守りにした。このため、仙台城下町はこの水の乏しい河岸段丘の原野に開かれることになり、数万の人々が生きていくために必要な井戸水を供給する地下水の利水が重要になった(→#利水参照)。後に仙台城下町を基盤に仙台市都心部が築かれていくが、1923年(大正12年)の市営上水道の給水開始以降、井戸水で支えられる人口以上の都市化が実現する。
仙台城と仙台城下町および若林城と若林城下町の建設には建材として大量の材木が必要であったが、材木を城下に運ぶ経路の1つとして広瀬川が用いられた。材木は、河口から遡って舟丁辺りで陸揚げされたようである。また、江戸時代は家庭でのエネルギーを炭や薪に依存していたため、名取川上流で伐採された丸太を冬季に流し、木流堀を経由して広瀬川に運び入れた。これを、藩が家臣に支給しており、広瀬川沿いには貯木場があった。幕末に広瀬川中流域で亜炭が発見されて以降、家庭でのエネルギーとして亜炭の比率が上がっていくが、エネルギー革命により亜炭採掘も貯木場も1950年代に終わりを告げた(→仙台亜炭参照)。
江戸時代には、広瀬川は上流から下流までそれぞれ流れる場所の地名をとって様々な名で呼ばれた。上流から、作並川、熊ヶ根川、野川、愛子川、郷六川、仙台川[1]、長町川[2]、若林川である。また大川とも呼ばれた。ここでいう仙台川は、仙台市の北部を流れる現代の仙台川とは別ものである。上流部で広瀬川の本流は明治時代の初めまで現在の大倉川とされており[3]、下って1931年にもそのような理解があった[4]。実際、大倉川は現在本流とされる作並・熊ヶ根の川より長い。
明治になって文明開化の波が仙台にも及ぶと、牛乳や牛肉の需要が興り、広瀬川中流の下町段丘では牧場が営まれるようになった。河川敷での放牧権を県から買った牧場主たちが、毎年5月から10月頃まで、牧場がある下町段丘から河川敷に牛を連れて降り、牛に草を食ませた。高度経済成長で大資本の乳業会社が仙台にも進出したことや、周辺の宅地化の影響もあって、昭和40年代末には牧場は姿を消し、放牧も行われなくなった[5][6][7]。
戦後占領期、川内にキャンプ・センダイをおいたアメリカ軍は未処理の下水を川に流した。他にも市内の排水が流れ込むようになり、広瀬川の水質は悪化して、市街に入るあたりから川下に魚が棲まなくなった。仙台市は1974年(昭和49年)に「広瀬川の清流を守る条例」を制定して川沿いの土地建物の変更や土・木の採取、川への排水に規制を加え、あわせて下水道の整備に努めた。
水質は平成に入る頃には回復し、最近では釣り人もよく見かける。1983年(昭和58年)に朝日新聞社と同社が設立した森林文化協会が、「21世紀に残したい日本の自然100選」の中に広瀬川を選んだ。1985年(昭和60年)に環境庁が名水百選の一つに広瀬川を選んだ[8]。1996年(平成8年)に環境庁は「残したい日本の音風景100選」[9] に「広瀬川のカジカガエルと野鳥」を選んだ。近年、上流の取水による、中流における夏季の流量減少が問題となっている。
利水
上、中流部では谷が深いため、広瀬川の水を引き上げて利用することはない。熊ヶ根の野川橋付近では、右岸の岸壁に穴が穿ってあり、籠岩と呼ばれる。かつて水路の取水口にしようとして断念した箇所ではないかといわれるが、定かではない。
郷六にある新生瀬橋川下の左岸には四谷堰(四ツ谷堰)がある。江戸時代の四ツ谷用水の取水口で、当時はこの水が仙台城下町に張り巡らされ主に浅層地下水を涵養し、冬季の乾燥による井戸枯れを防いでいた[10]。この井戸水の安定供給によって城下に5万人を超える人口が涵養された。四ツ谷用水の開渠部では、生活用水・防火用水・水車の動力・産業用水および排水路として利用された。四ツ谷用水本流の末部は、それまで水量が乏しかった梅田川と合流して梅田川の水量を安定化したため、さらに東にある宮城郡域の宮城野(仙台平野)に用水を張り巡らすことを可能にした。現在は、梅田川を越えて大梶浄水場にまで水をひき、仙台市と塩竈市で工業用に利用されている。
さらに下流の右岸にある北堰からは、明治時代に作られた三居沢発電所で使われる水が取り入れられている。この水路はほとんどの行程を山の下に穿たれたトンネルを通り、発電所で使われてから、牛越橋付近で広瀬川に戻る。
愛宕橋の川下にある愛宕堰からは、下流左岸の七郷堀と六郷堀を流れる農業用水が取り入れられる。これにより、左岸の名取郡域の仙台平野の灌漑がなされた。さらに下流にある郡山堰からは、右岸の名取郡域に郡山堀の用水が取り入れられる。
支流の大倉川には大規模なダムがあり、上水道、農業用水、発電用水に用いられる。青下川も仙台の水道源である。
支流
- 風倉沢
- 坂下沢
- 小綱鳥沢
- 大綱鳥沢
- 熊沢
- 新川川 - 北沢、南沢、宮の沢川
- 青下川 - 豆沢川
- 大倉川 - 戸立沢、南沢、湯川、横川、大倉湖(大倉ダム)
- 白沢川
- 大栗沢川
- 堀切川
- ひじり沢
- 芋沢川 - 白坂川、蒲沢川、赤坂川
- 斉勝川
- 竜沢
- 綱木川
- 石山沢
- 鶏沢
- 竜ノ口沢
- 七郷堀、六郷堀
- 郡山堀
- 木流堀
橋梁
- 鍋越橋 - 国道48号
- 第二中の目橋 - 国道48号
- 第一中の目橋 - 国道48号
- 広瀬橋 - 熊沢林道
- 新作並橋
- 泉橋 - 国道48号
- 作並橋 - 仙台市道長原元木線
- 湯渡戸橋 - 国道48号
- 旧湯渡戸橋 - 仙台市道湯の原線
- 作並宿橋 - 仙台市道作並宿線
- 相生橋 - 国道48号
- (第三広瀬川橋梁) - 仙山線
- 日陰橋 - 仙台市道日陰線
- ニッカ橋 - 仙台市道鎌倉初小屋線
- 川崎橋 - 仙台市道戸崎線
- セイコウ大橋 - 仙台市道新川ハイランド線
- 第二広瀬川橋梁(熊ヶ根鉄橋) - 仙山線
- 熊ヶ根橋 - 国道48号
- 野川橋 - 仙台市道白沢熊ヶ根線
- 苦地橋 - 仙台市道赤生木畑前線
- 渡幸大橋 - 仙台市道上愛子芋沢線
- 柿崎橋 - 仙台市道倉内八ツ前線
- 鳴合橋 - 仙台市道青野木鳴合線
- 開成橋 - (仙台市道愛子赤坂線)
- 落合水管橋
- 大沢橋 - 国道457号
- 第一広瀬川橋梁 - 仙山線
- 新落合橋 - 仙台市道落合郷六線
- 広瀬川橋 - 東北自動車道
- 生瀬橋 - 国道48号
- 新生瀬橋 - 宮城県道37号仙台北環状線
- 牛越橋 - 仙台市道三居沢道線
- 澱橋 - 仙台市道澱橋通線
- (支倉橋 - 江戸時代初期にあった。今はない。澱橋の項を参照)
- 仲の瀬橋 - 仙台西道路、国道48号、仙台市道仲の瀬橋線
- 大橋 - 仙台市道青葉山線
- (仙台橋 - 江戸時代初期にあった。今はない。大橋の項を参照)
- (花壇橋 - 江戸時代初期にあった。今はない)
- 評定河原橋 - 仙台市道評定河原渡船線
- 霊屋橋 - 仙台市道霊屋下米ヶ袋線
- 愛宕大橋 - 国道4号、広瀬河畔通り
- 愛宕橋 - 仙台市道愛宕橋線
- 宮沢橋 - 仙台市道宮沢橋線
- 広瀬橋 - 宮城県道54号井土長町線、奥州街道、陸羽街道
- (橋) - (水管橋)
- 広瀬川水管橋
- (大橋 - 江戸時代初期にあり、若林城に通じた。今はない)
- 広瀬川橋梁 - 東北新幹線
- 広瀬川橋梁 - 東北本線
- 名取川左岸幹線下水管橋
- 千代大橋 - 国道4号仙台バイパス
- 広瀬川水管橋
- 広瀬大橋 - 仙台南部道路
淵と瀬
広瀬川中流域のうち、仙台市都心部の西端から南端を流れる部分では、広瀬川は大きく蛇行する。蛇行部には深い淵が形成され、その下流の水流が遅くなる直進部では瀬が見られる。各々の名称[11][12][13]を以下に列挙するが、瀬は太字で表す。
- 上流
- 学川淵
- 燈篭淵
- 花岩淵
- 平淵
- 百人淵
- 釜淵
- 猫淵
- 巻淵
- 鵜長瀬
- 賢淵
- 滝ノ瀬
- 藤助淵
- 観音淵
- 新兵淵
- 松淵
- 澱淵
- 澱瀬
- 胡桃淵
- 六兵衛淵
- 中の瀬
- 水無瀬
- 五間淵
- 小川瀬
- 元虚空蔵淵
- 馬ノ背淵
- 源兵衛淵
- 唐戸淵
- 矢込瀬
- 松源寺淵
- 西光院淵
- 宗禅寺淵
- 鎧淵
- ネギ洗の瀬
- 下流
脚注
参考文献
- 作者不明『仙台鹿の子』、元禄8年(1695年)頃成立。仙台市史編纂委員会『仙台市史』第8巻(資料篇1)、仙台市役所、1953年に収録。
- 作者不明『残月台本荒萩』、安永7年(1778年)頃。鈴木省三・編『仙台叢書』第1巻、仙台叢書刊行会、1922年に所収。
- 仙台市史編纂委員会『仙台市史』第1巻(本篇1)、仙台市役所、1954年。
- 田辺希文『封内風土記』、明和9年(1772年)。仙台市史編纂委員会『仙台市史』第8巻(資料篇1)、仙台市役所、1953年に収録。
- 山本金次郎・編『宮城県名勝地誌』、宮城県教育会、1931年。
- 「21世紀に残したい日本の自然100選〈’86〉 [大型本] 」、朝日新聞社 ISBN 978-402258343-7
関連項目
- 広瀬川 (曖昧さ回避) - 同名の川の一覧。
- 三居沢発電所の機器 - 機械遺産26番
外部リンク
- 広瀬川の橋
- 河水千年の夢・広瀬川ホームページ(仙台市建設局百年の杜推進部 河川課 広瀬川創生室)
- 広瀬川の清流を守る条例<緑・公園・河川に関する条例・計画 - 仙台市
- ↑ 元禄年間に作られた『貞山公治家記録』元和3年4月11日条に、広瀬川に注して「今仙台川と称す」とあるのが仙台川の初見。1953年刊『仙台市史』第8巻171頁、資料番号255に収める。また同書第1巻48頁注3。
- ↑ 『仙台鹿の子』、『仙台市史』第8巻214頁に収める。また同書第1巻48頁注3。
- ↑ 『仙台鹿の子』(1953年刊『仙台市史』第8巻214頁)。『残月台本荒萩』巻之三(『仙台叢書』第1巻288頁)。『封内風土記』巻之二府城(1953年刊『仙台市史』第8巻379頁)。
- ↑ 山本金次郎・編『宮城県名勝地誌』62頁。
- ↑ 広瀬川の記憶「vol.7 昭和30年代、暮らしの舞台は橋と川だった」(広瀬川ホームページ)
- ↑ 広瀬川の記憶「vol.12 牛越橋のたもとで、50年前の風景を探す」(広瀬川ホームページ)
- ↑ 広瀬川の記憶「vol.17 広瀬川の河原で、のんびりと牛が草を食んでいた」(広瀬川ホームページ)
- ↑ 広瀬川 - 名水百選 - 環境省
- ↑ 広瀬川のカジカガエルと野鳥 - 残したい日本の音風景100選 - 環境省
- ↑ 佐藤昭典『仙台城下の湧水』
- ↑ 仙台市認定路線図 QE40(仙台市)
- ↑ ひろせがわ写真館「広瀬川の瀬と淵」(広瀬川ホームページ)
- ↑ データセンター "広瀬川"(仙台都市総合研究機構)