孫夫人

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テンプレート:三国志の人物 孫 夫人(そん ふじん、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。三国時代公主にして劉備の妻の一人。は不明。父は孫堅。兄は孫策孫権ら。同母兄は孫朗。小説『三国志演義』では、呉国太(孫堅の第二夫人)が生母という設定になっている。一般に孫尚香(そん しょうこう)の名でも知られているが、これは京劇で使われる名前である。『演義』では孫仁(史実では孫朗の別称)に設定されている。 

生涯

実在の人物ではあるものの、正史『三国志』において彼女に関する記述は非常に少なく、呉の人物でありながら呉書には一切の記述がない。『三国志』法正伝には人柄が記載されており、才気・剛勇の点で兄達の面影があったとされる。さらに「北に曹操、南に孫権、更に内にあっては孫夫人の脅威があり、その中で我が君が志を遂げたのは、ひとえに法孝直の功績である」との諸葛亮の言が記されている。孫夫人の侍女たちは皆武装して侍立しており、劉備は奥に入るとき常に怖れていたと記載されている。また、彼女が連れてきた兵士たちも素行が悪かったため、趙雲を監視役に当たらせることもあった。

『三国志』蜀書穆皇后伝によると、劉備が益州を平定した後に、孫夫人は呉に帰郷した。『三国志』蜀書穆皇后伝の注に引く『漢晋春秋』によれば、このとき孫夫人が劉禅を連れて帰ろうとしたため、諸葛亮は趙雲に命じて長江を封鎖し、劉禅を奪還した。

帰郷後の孫夫人の動向は、不明である。

演義における孫夫人

身の回りには常に武装した侍女たちが付き、自身の部屋には武具が飾り立てられている、と描かれている。

劉備との政略結婚の話の時に、初めて孫夫人の名前が出てくる。周瑜発案の婚姻政策により劉備を呼び寄せ、当初は殺そうと考えていたが失敗したため、代わりに国内に事実上拘留して骨抜きにさせるという計略を立てる。しかし、趙雲が諸葛亮より授かった策を用いることで、劉備は孫夫人と共に荊州へ脱出することに成功する。夫となる劉備とは年齢が30歳近くも離れていたが、両人の仲は良好なものであったとなっている。

その後、劉備と孫権との関係が悪化する。そこで張昭魯粛の策で、彼女の旧臣である周善という者を派遣させ、孫夫人の母が危篤との偽報を与え、阿斗(後の劉禅)を引き連れて帰国させようとする。しかし、それを発見した趙雲と張飛によって周善は斬られ、阿斗を奪い返されたので、彼女は一人で母国へ帰国することになる。帰国した孫夫人はその後再婚せず、夷陵の戦いで劉備が戦死したという誤報を聞き、絶望して長江へ身を投げたという設定になっている。

なお、弓腰姫の二つ名及び孫夫人自身が武装していたという設定は、吉川英治著の『三国志』にあるが演義にはない。

民間伝承、逸話

以下、湖北省荊州市公安県の民間伝承より。

柴林街は公安県の定期市の一つで非常に賑やかで、特に薪売りが多かった。朝早く百姓が街に来て、街の端から端まで並び、路に沿って歩けばその両側は全て薪の売る声で溢れていた。 柴林街は劉備の駐屯地から近く、その中に多くの兵士が住んでいた。米・油・塩などが大量に蓄えられていたが、薪だけは足りなかった。駐屯地からは大勢の使いが柴林街に薪を買いに行った。百姓が皆、喜んで荒野の薪を集めては兵士に売ったため、街は薪売買専門の街のようになった。

ある日、薪買いに行った使いが皆、荷車が空のまま駐屯地へ帰ってきた。劉備がそれを見て「なぜ薪を調達して来ないのか」と尋ねると、使いは「将軍。今日、火龍に襲われて街が全て灰になってしまいました。焼け出された街人も少なくありません」と答えた。

その後、この事件を調べてみると、東呉の二人の間者(スパイ)の仕業であった。彼らは劉備軍の燃料不足を知り、この火龍の計(火災旋風)を企んだ。彼らは一日前に前もって農民に扮装し、街の外れに隠れていた。明くる朝になって薪がぎっしり並ぶと、一人が街の東端で薪を燃やし、それを合図にもう一人が西端で柴や草に火を点けた。それらの火が干してある薪に燃え移ったため、たちまち街の家々へと燃え広がった。その時、風が吹いて火の光が天へ貫き、街中で火の竜が空へ舞い上がった。百姓たちは皆、それを畏れ逃げてしまった。劉備軍の使いが行った時には街は既に灰となっていた。

劉備はそれを聞くと怒り、孫権にいつか仕返しをしてやろうと思った。張飛はその夜、すぐに兵を率いて東呉の駐屯地から大量の糧秣を奪い、柴林街の皆に分け与え街人の飢えを凌いだ。

その後、劉備は兵士に命じて至る所に布告を貼らせ、字の読めない者たちには「これからは、長江の辺(ほとり)の孫夫人城の前で薪を売るように」と呼びかけた。劉備は「義兄(孫権)がまた放火すれば、今度は城を妹ごと灰にするぞ」と、脅したのである。 すると百姓たちは布告を見て、挙って薪を孫夫人城の辺りへ売りに行くようになった。柴林街には、呉の間者も薪を売る人もいなくなったという。