夷陵の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 夷陵の戦い
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 三峡一帯
戦争夷陵の戦い
年月日221年7月222年8月
場所三峡
結果:呉の勝利
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 陸遜 劉備馮習
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 50,000 不明(資治通鑑だと4万余り)
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | - 数万

テンプレート:Battlebox/nested

テンプレート:Tnavbar

夷陵の戦い(いりょうのたたかい、中国語: 夷陵之戰 Yílíng zhī zhàn又は猇亭之戰)は中国三国時代222年に行われた、三峡における蜀漢皇帝劉備率いる蜀漢軍と、孫権の武将陸遜率いる呉軍との間の戦いである。戦場となったのは白帝城から夷道までの三峡全域となるが、三国志演義に記された決戦場に因んで「夷陵の戦い」と称される。

事前の経緯

208年赤壁の戦いに於いて主要な活躍をした孫権勢力であったが、その後、劉備が荊州の5郡を占拠し、このことに強い不満を抱いていた。劉備勢力はこの荊州に加えて、西の益州(四川)を獲得し、北の曹操勢力に対抗する態勢を整えつつあった。その後、孫権の荊州の引渡し要求に対して、劉備は2郡を譲渡するに留まった。孫権勢力では親劉備派と反劉備派に分かれて意見が対立していた。赤壁以後の政権を執っていた魯粛は親劉備派だったが、魯粛の死後は反劉備派の勢力が強くなり、荊州を守備する関羽と対峙するように呂蒙が派遣された。

219年、劉備が漢中を攻略し、一方で荊州の守将であった関羽が曹操領の荊州の拠点である樊城を攻撃した(樊城の戦い)。このことを好機と見た孫権は曹操と同盟を結び、呂蒙らを派遣して荊州侵攻作戦を開始し、関羽を捕らえて殺し、荊州を領有することに成功した。

夷陵の戦い

旗揚げ当時からの部下であり、兄弟同然だった関羽の訃報を聞いた劉備は嘆き悲しみそして怒り狂い、呉への復讐を誓った。正史では、先主伝、法正伝などにそのことが記され、の謀臣劉曄も、劉備と関羽の関係の深さから、劉備の呉への出兵を予測している。劉備は呉への復讐戦を決意するが、趙雲を始めとした多くの群臣が反対に回った。なお、諸葛亮が劉備による呉への出兵に反対したという記述は正史には無い[1]。呉は関羽を殺した時から劉備と対立することになることを予期して、曹魏勢力へ接近し、形式的に曹丕に臣従することで劉備に対抗しようとした。

221年、劉備は蜀漢皇帝に即位したが、同年張飛が部下の張達范彊によって殺害された。劉備は「ああ、飛が死んだ」と、度重なる義弟の死を嘆いた。

劉備は遂に親征軍を発し、侵攻に反対した趙雲を江州に留め置いて魏軍にたいする牽制とし、呉班馮習らを先鋒として李異劉阿らが防御していた巫城と帰城を続けて急襲、短期間の内に帰県までを制圧した。孫権は、関羽討伐で功があった名門陸家の陸遜を大都督に任じ、防衛を命じた。しかし、呉の諸将は書生あがりで若輩の陸遜に対して懐疑的な態度を示し、素直に従わない面も見られた。劉備は自身も本隊を率いて進軍、帰に駐屯し、呉班陳式らに水軍を指揮させ夷陵へ先行させた。この水軍は囮であり、劉備は陸上から進軍したが、この計略は陸遜によって見破られた。

222年に入り、気候が温暖となると劉備は更に侵攻を進める。黄権はこれ以上侵攻すると撤退が困難であることを指摘し、自身が兵を指揮するから劉備には後方にいて欲しいと主張したが、劉備は長江北岸の戦線を黄権にまかせると、水軍を引き上げさせ、長江を渡渉し、先鋒は夷道にまで進んで孫桓を包囲した。孫桓は陸遜に救援要請を出したが、陸遜は「蜀軍を破る計略があるから耐えるべし」として救援を出さなかった。呉の将達は皆この陸遜の行いを見、「陸伯言は愚か者だ。呉は滅ぶ」と口々に語りあった。この時点で陸遜の本隊は三峡内の全拠点を失い、後方には江陵があるだけという危機的な状況であった。劉備は次いで自身も亭にまで進軍し、馬良武陵に派遣して異民族を手懐けさせ、これに武陵蛮の沙摩柯らが呼応した。

この時、劉備は補給線と退路を確保するために、後方に50近くの陣営を築き連ねていたが、魏帝曹丕はこれを聞いて「劉備は戦の仕方を知らない。必ず敗北する」と側近に語ったという。

ここまで劉備が攻勢を続け、陸遜はじわじわと押し込まれるという情勢が1年近くも続いていたため、また陸遜が若輩であるということもあって、呉軍の諸将は勝手な行動を取り続けていて、陸遜は剣を手にかけ軍権が自分にあることを改めて諸将に宣言し、やっと諸将は陸遜の命令に服するというありさまであった。

6月、陸遜は蜀軍の陣地の一つを攻撃したが、成果を得られなかった。しかし、この時に陸遜は蜀軍の陣が火に弱いという弱点を見抜いた。陸遜は全軍に指示を出し、夜半に水上を急行して総攻撃を開始した。呉軍は同時に蜀陣に火計を仕掛け、これを散々に撃ち破った。蜀軍は延々と陣営を伸ばして布陣していたため、陣営同士の連携も疎かであり、混乱に陥った。呉軍は40以上の陣営を陥落させた。

劉備は後方の陣営が落とされると馬鞍山まで撤退し陣を敷いたが、呉軍はこれを四方から攻撃し蜀軍は潰走した。その後孫桓などは蜀軍を並行追撃し、次々に退路を遮断した。この中で馮習や王甫張南程畿、馬良ら有能な武官・文官が戦死し、退路を失った黄権も魏に投降、軍船・兵器類が多数奪われた。楊戯の『季漢輔臣賛』では、指揮官に任命されていた馮習一人に責任を負わせているが、これは先帝である劉備を弁護する意図があると思われる。劉備は救援の趙雲・馬忠らに助けられ辛うじて白帝城に逃げ込み、白帝城を永安と改名、ここに留まる。蜀軍の被害は著しく、数万人が戦死した。これにより蜀漢は荊州を完全に失陥した。

戦後

この戦いで意気消沈した劉備は白帝城で病死し、その後を劉禅が継ぎ、国事は諸葛亮に全てゆだねられることになった。呉ではこの大勝を機に再び魏の影響下から脱して独立色を明確にし、魏に対抗するようになる。222年冬、魏は三方面から呉に攻め込んだが、疫病が流行ったため撤退した。

両軍の戦力について

この戦いに参加した呉軍の兵力は、陸遜伝に5万と明記されているが、蜀軍については、本文中には「大軍」とあるだけで明記されていない。文帝記の註(『魏書』)には、222年の2月8日に「劉備の支党4万人と馬2、3千頭が秭帰を出てきました」という孫権からの上書が載せられている。資治通鑑では蜀軍全軍を4万余人、それに加え蜀に与した荊州の異民族である。

先主伝によると「222年の正月に先主は秭帰に駐留し、呉班・陳式の水軍は夷陵に駐屯して陣取った」とあり、「2月に先主は秭帰から諸将を率いて軍を進めて猇亭に駐営した」とある。2月8日に曹丕に届いた上書が蜀軍全体を指すのか、先鋒のみなのか劉備の本体を指すのかは分からない。

また蜀軍の被害は、「斬首したり投降してきたりした者は数万にのぼった」(呉主伝)、「その死者は数万にのぼった」(陸遜伝)、「陸議はその兵8万余人を殺し」(劉曄伝註(『傅子』))とある[2]

三国志演義では

小説『三国志演義』では、劉備が漢中を領有した翌年に死んでいるはずの老将黄忠が劉備に「年寄りは役に立たぬ(この時劉備も六十代)」と馬鹿にされ、敵に突っ込んでいき矢をうけ、その傷が元で陣没することになっている。また、関羽の仇である糜芳傅士仁潘璋朱然馬忠らが張苞関興らの手により次々と戦死するが、これは全くの創作である。また、陸遜は秋から冬の乾燥した時期を待って火攻めを敢行し勝利した、とあるが、実際には夏(6月)である。

他にも、劉備を追ってきた陸遜が、諸葛亮発案の石兵八陣にかかり進軍できずに途中で引き返し、魏の攻撃に対処することになっている。

また劉備の率いる蜀軍の兵力は75万となっているが、蜀漢が滅亡した時の戸籍人口が94万(後主伝)であることを考慮すると現実味に乏しい。

 参戦人物 

脚註

  1. この時点で諸葛亮は戦略の立案執行には関わっていないという説もあるが、一文官や一将軍に過ぎないや趙雲には出兵に反対したという記録がある。ただし敗戦後「法正が健在であれば東征を抑えただろうに」と嘆息したという話が残っていることから、内心は反対だったとも考えられる
  2. 西晋時代に葛洪によって書かれた神仙伝には季意期(先主伝では季意其)という前漢文帝の代より生きていると称す仙人が、劉備から呉討伐の吉凶について求められ、紙に兵馬武器数十万枚を描いて引き裂き、最後に一人の大きな人物を描いて地面に埋め、蜀軍の敗北を予言したという逸話を載せている。ここでは劉備の敗北について「十余万の軍勢のうち、わずか数百人しか帰還することができず、武器も兵糧もあらかた尽きた」と表現されている。ただし先主伝の註での引用では兵力については触れられていない。裴松之の時代の神仙伝そのままとも考えられるし(神仙伝は後世の改変が甚だしいと考えられている)、裴松之が兵力については省略したとも考えられる(裴松之は引用にあたり原文を編集・省略することもあった)。