法正
テンプレート:三国志の人物 法 正(ほう せい、176年 - 220年)は、中国後漢末期の参謀・政治家。劉備に仕えて活躍した謀臣。字は孝直。扶風郡郿県(陝西省眉県)の人。曾祖父(または高祖父)は法雄[1](後漢の南郡太守)。祖父は法真。父は法衍。子は法邈。
生涯
建安元年(196年)、飢饉に遭ったため同郷の孟達と共に益州牧の劉璋に身を寄せた。劉璋の下では新都県令や軍議校尉に任じられたが、あまり重用されることはなかった。
その後、かねてから「劉璋では大事をなせない」と考えていた法正は、親友の張松と共に劉備の益州攻略に協力することにした。法正は張松と共に劉璋に進言し、曹操と断交させ劉備と盟約を結ばせた。さらに張魯の脅威を利用して劉璋を再び動かし、劉備の下に使者として赴き、密かに自身や張松と協力して、劉備に益州へ入るよう勧めた。個人的に親しかった彭羕が劉備への仕官を求めてきた際には、龐統と共にこれを推挙している(『蜀書』彭羕伝)。その後、鄭度が劉璋に対し焦土作戦を進言したと聞いた劉備が、どう対処すべきかこれを法正に相談すると、法正は劉璋にはその作戦が実行できないと予測し、降伏を勧告する手紙を劉璋に送った。同19年(214年)に成都が包囲されると、劉璋はまもなく降伏した。
劉備が益州の支配に成功すると、その功績により蜀郡太守[2]・揚武将軍に任じられ、中央の政治に諸葛亮と共にあたるとともに[3]、劉備の策謀相談役となった(『蜀書』先主伝)。元の蜀郡太守であった許靖は、劉璋が敗北しそうになると劉備への投降を図ったことから、劉備に疎まれていた。しかし名声の高い人物であったため、法正はその虚名[4]を利用するよう勧めた。
諸葛亮と法正は性向が異なっていたが(『蜀書』法正伝)、公の立場に立って互いに認め合っていた。また、諸葛亮は常に法正の智術を高く買っていたため、法正の蜀郡太守としての不公正な振る舞いも容認した[5]。益州の内、かつて張魯が治めていた漢中は曹操の支配下にあり、夏侯淵・張郃が駐屯していた。同22年(217年)、曹操軍の内情を分析した法正は劉備に漢中侵攻を勧め、自身も軍師として従軍した。劉備の下で適切な進言を行ないつつ[6]、同24年(219年)の定軍山の戦いでも軍監として策を献じ、黄忠に命じて夏侯淵を斬らせるなど見事勝利に導いている。法正の献策を聞き知った曹操は「劉備があのような策を考え付く筈がない。誰かに教えられたに違いないと思っていた」と語ったという。また、「わしは有能な人材をほぼ全て集めたが、なぜ法正のみ手に入れられなかったのだろうか」とも述べた[7]。
その後、劉備が遠征してきた曹操を退け、漢中を制覇し漢中王を称すると、尚書令・護軍将軍に任じられたが、翌25年(220年)に病死した。劉備は何日間も彼を悼み、翼侯という諡号を諡った[8]。死後、子が後を継いで関内侯となり、後に奉車都尉・漢陽太守に昇進した。
章武2年(222年)、夷陵の戦いで劉備が大敗した際、諸葛亮は「法正がおれば、主上(劉備)の東征を止められただろう。もし東征を行なったとしても、今回のような大敗は必ずや避け得ただろう」[9]と嘆いている。
評価
陳寿は「法正は判断力に優れ、並外れた計略の所有者であった。しかし、徳性について賞賛されることは全くなかった。魏臣に当てはめれば程昱・郭嘉に比類する。」と述べている。