荊州
荊州(けいしゅう)は中華人民共和国にかつて設置された州。現在の湖北省の一帯に相当し、楚の古名でもある。
先秦時代
戦国末期、秦荘襄王(子楚)の諱を避けて、秦が楚を「荊」と改称したのが地名の始まりである。
漢代
前105年(元封5年)、前漢により全国を13州に分割した際、荊州が設置された。その管轄範囲は現在の河南省南陽市から湖北省、湖南省善意区を管轄していた。
後漢になると荊州は南陽郡、南郡、江夏郡、長沙郡、桂陽郡、武陵郡、零陵郡の7郡を管轄していた。
魏晋南北朝時代
208年(建安13年)の赤壁の戦い後、荊州は北部の南陽郡及び南郡は曹操、中南部は劉備及び孫権により分割された。曹操は南郡、南陽郡より襄陽郡、南郷郡を設置、南郡、零陵、武陵は劉備に、江夏、桂陽、長沙は孫権に、南陽、襄陽、南郷の各郡は曹操により分割され、それぞれが3郡を支配したことより「荊襄九郡」と称されることとなった。
219年(建安24年)、荊州牧であった劉備の守将・関羽が曹操・孫権により滅ぼされると荊州は曹操と孫権により二分割された。三国時代、魏の荊州は南陽郡、江夏郡、襄陽郡、南郷郡、新城郡、上庸郡、魏興郡の7郡を管轄、呉の荊州は南郡、江夏郡、長沙郡、湘東郡、桂陽郡、臨賀郡、零陵郡、衡陽郡、武陵郡、建平郡、宜都郡の11郡を管轄した。
西晋が成立すると荊州は州治が襄陽県に設置され下部に23県を管轄した。
南北朝時代になると州数は増加傾向があったが、その管轄区域は縮小している。南朝宋は荊州の州治を襄陽郡としたが、斉により南郡、北魏により山北郡に遷されている。
隋代
隋朝が梁を滅ぼすと荊州を設置、3郡7県を管轄した607年(大業3年)、郡制施行に伴い荊州は南郡と改称され下部に10県を管轄した。隋朝の行政区分に関しては下表を参照。
隋朝の行政区画変遷 | ||||||||||
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区分 | 開皇元年 | |||||||||
州 | 荊州 | 南荊州 | 平州 | 鄀州 | ||||||
郡 | 南郡 | 新興郡 | 監利郡 | 南平郡 | 河東郡 | 宜都郡 | 漳川県郡 | 遠安郡 | 永寧郡 | 武寧郡 |
県 | 江陵県 枝江県 |
広牧県 安興県 定襄県 |
紫陵県 雲沢県 |
公安県 孱陵県 永安県 |
松滋県 聞喜県 譙県 |
宜昌県 宜都県 帰化県 受陵県 佷山県 |
当陵県 安居県 |
- | 長寧県 | 長林県 |
区分 | 大業3年 | |||||||||
郡 | 南郡 | |||||||||
県 | 江陵県 枝江県 安興県 紫陵県 公安県 松滋県 宜昌県 長楊県 当陽県 長林県 |
関連項目
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