孫桓
孫 桓(そん かん、生没年不詳)は、後漢末期から三国時代の人、呉の皇族(宗室)の一人。字は叔武。孫河(兪河)の子(三男)。孫助、孫儀の弟、孫俊の兄。孫韶の従兄弟。孫建、孫慎の伯父。孫丞の従祖父。『三国志』呉志「宗室伝」に記録がある。
生涯
父の孫河は孫策に気に入られて孫姓を与えられ、皇族として迎えられたとも、元々孫姓であったが、兪家の養子となった後、孫姓に戻すことを許されたともいう。
兄二人は県長を務めたものの若くして亡くなった。孫桓は容姿端麗、頭脳明晰で博識であり、議論にも秀れていたとある。孫権は孫桓を「宗室顏淵(皇族における顔淵)」と褒め称え、武衛都尉に抜擢した。華容の関羽討伐に参加し、関羽軍の残党を説得し、5千人を帰順させた(『呉書』)。
その後、25歳で安東中郎将となり、陸遜とともに蜀(蜀漢)の劉備の侵攻の防御にあたった。劉備の大軍は山や谷を埋め尽くすほどであったが、孫桓は武器をふるって命を惜しまず陸遜と力を一にして戦い抜き、劉備を敗走させた(夷陵の戦い)[1]。孫桓は城に通じる道を絶ち、要所要所に軍を配置した。劉備はかつて呉に訪れたとき、京城で孫桓と対面したことがあったが、窮地をようやく脱した末に嘆息して「わしがかつて呉を頼ったとき、まだ小僧に過ぎなかった孫桓ごときに、今はこれまで追いつめられるとは」と言ったという。その後、夷陵での功績により建武将軍・丹徒侯となった。牛渚の督に任じられるが、横江塢を築いている際に急死した。
『三国志演義』では、夷陵の戦いのときに登場し、最初に朱然とともに劉備の迎撃の任務を任される。配下に三人の猛将を擁していたが(李異、謝旌、譚雄)彼等はいずれも緒戦で関興と張苞に破られた。その後、陸遜が大都督として出陣し劉備を撃退するまで夷陵城で防戦を続けた。朱然と異なり、戦死はしていない。
脚注
- ↑ 孫桓は別働隊を率いて夷道に向かったところ、劉備軍の先鋒に包囲された。陸遜に救援を求めたところ、陸遜は既に劉備軍を壊滅させる作戦を用意していたことと、孫桓の兵の士気が高いことと、城は堅固で食糧も豊富であることから、陸遜が作戦を実行に移せば自力で窮地を脱することができるだろうと分析し、援軍をすぐには送らなかった。孫桓は勝利の後に陸遜と対面し、当時は陸遜を恨みに思ったが、劉備軍が壊滅すると当時の陸遜の意図が分かるようになったと語った(「陸遜伝」)。