駱統
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駱 統(らく とう、193年-228年)は、中国三国時代の呉の武将。字は公緒。駱俊の子、駱秀の父。会稽郡鳥傷の人。
父は陳国の相に昇進していた時、陳国に侵攻した袁術に殺された。生母は駱統が八歳の時、華歆の側室となっていった。駱統は生母と別れて、父の正室である義母と食客達を引き連れ、故郷に帰ることになった。故郷では飢饉に苦しめられたが、駱統は自分の食事を減らしてまで、義母や後家となっていた姉によく仕えた。
その後、20歳の時に、会稽太守となった孫権に仕えた。孫権は駱統の腕を見るために鳥程の相としたが、ここで優れた行政手腕を発揮し、功を挙げたため、喜んだ孫権から功曹に任じられ、騎都尉とされた。さらに孫権の従兄弟孫輔の娘を娶る事まで許された。
駱統は数十もの上書を行い、孫権の施策の是正に務め、孫権もこの意見を受け入れた。建忠中郎将となり、弓兵三千人を率いた。淩統が亡くなると、その軍勢の指揮を任された。伝染病が流行し、民衆が疲弊するのを見て、これを憂えた駱統は孫権に上疏を行い、孫権を感嘆させた。
222年に劉備が侵攻してきた時、陸遜に従ってこれを破るという功績を挙げ、偏将軍となった。同年、魏の曹仁が濡須に攻めてきた時、部将の常雕に命じて中洲を攻撃させたが、駱統はこれを厳圭と共に撃退した。この功績により、新陽亭侯に任じられた。
その後、濡須の督として防衛を任されるなど、軍事面でも孫権から厚い信任を受け、重用された。
228年、36歳の若さで病死した。
小説『三国志演義』では、名前しか登場しない。