二条城
テンプレート:Infobox 二条城(にじょうじょう)は京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは、徳川氏によるものである。城跡全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。
徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。
歴史・沿革
さまざまな二条城
日本の歴史書において「二条城」と呼ばれることのあるものは複数ある。当時の二条大路は朱雀大路が廃れた後、都一の大路であり、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」といった。後には、二条通に面していなくても将軍家の屋敷を二条陣または二条城といったテンプレート:要出典。室町時代に平安京の左京にあった唯一の城である。ちなみに右京にも唯一、「西院城(さいのしろ)」があった。二条城と西院城を平安京の両城ともいう。
- 室町幕府13代将軍足利義輝の居城。「二条御所武衛陣の御構え」。
- 室町幕府15代将軍足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城。二条通からは遠く離れていた。ただし平安京条坊制の「二条」(二条大路と中御門大路(現椹木通)に挟まれた地域)には城域の南部分がわずかに含まれる。義輝の「二条御所」とともに「二条」の名を冠して呼ばれるのはこのためと考えられる。
- 織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。二条通にも面さず条坊制の二条にも属していない。二条家の屋敷跡に設けられたための呼称と考えられる[1]。
- 徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城。
現存する二条城は4の城である。1と2は同じ場所に造られたが連続性はない。1を「二条城」と称した例は当時から現代に至るまで無いが2の前史としてここに紹介しておく。2と3は同じものと見る説[2]もあるが、『信長公記』その他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として別のものとするのが現在では通説となっている。2及び3について「二条城」と呼ぶのは4.が完成した江戸時代以降のことであり、4と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。この節では、近世の二条城である4.の前史として1の「武衛陣の御構え」と2と3の「二条城」について略説する。
足利義輝の二条御所武衛陣の御構え
永禄8年(1565年)、戦国乱世のただなかにあって義輝は幕府の重鎮であった斯波氏の屋敷跡に自らの城を築いた。武衛とは斯波氏の職名を由来とし、その屋敷は洛中洛外図にも「ぶえい」として登場する。現在の旧二条城跡地の地名が「武衛陣町」であるのはこれを由来としている。堀もあったが完成寸前(「京公方様御館の四方に深堀高塁長関、堅固の御造作有り。未だ御門の扉以下は出来(しゅったい)せず」『足利季世記』)に三好義継・松永久秀らの攻撃を受け、義輝は自ら太刀を執って奮戦したがあえなく落命した(永禄の変)。合戦後、跡地には真如堂が移された。
足利義昭の二条城
義輝の弟・義昭は織田信長の武力を後ろ盾として永禄11年(1568年)に上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていたが、翌12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けた(本圀寺の変)。この時は京都にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした[3]。
信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられた。建物の多くは本圀寺から移築され(フロイス『日本史』)、細川氏一族で分家・典廐家の細川藤賢の旧邸から、文字通り「鳴り物入り」で名石「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭はここに本拠を移した。この城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われた。山科言経は「石くら」に驚嘆している。石くらとは石垣のことで、この城が初めて本格的に石垣を積んだ城であったことを示している。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。当時は「武家御所」「武家御城」「公方様御構へ」などと呼ばれていた。なお元亀3年(1572年)3月、信長は義昭の強い勧めもあってこの城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。
ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年に義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌天正元年(1573年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。この時、二条城には公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近で幕臣である伊勢貞興と三淵藤英が守備のため置かれたが、織田軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に御殿などは兵士たちによって、破壊されたと伝えられる。
この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。
昭和50年(1975年)から昭和53年(1978年)まで京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この信長の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が京都文化博物館及び西京区の洛西竹林公園内に展示されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木口の内側及び現二条城内に復元されている。また、平安女学院の敷地の一角に「旧二條城跡」と彫られた石碑と説明板(「義昭二条城=二条新御所」説を記す)が立っている。
織田信長・誠仁親王の「二条新御所」
織田信長が烏丸-室町の御池上る付近に設けた城館。
信長は天正4年(1576年)4月に京に滞在した際、二条通南側の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊したが、寺の東側に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入った。二条邸(二条殿・押小路烏丸殿)は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸であった。前住者の二条晴良・昭実(妻は信長の養女)父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徙して(『言経卿記』)空き家となっていたので、信長が上洛した時の宿所とするため、この旧二条邸を譲り受けて、改修を京都所司代の村井貞勝に命じた。
翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどはこの「二条御新造」(「武家御城」とも)に自ら居住し、京の宿所(本邸)として使用する。天正7年(1579年)には、この屋敷を皇太子誠仁親王に献上。同年11月22日に、誠仁親王とその皇子である五の宮(後の邦慶親王)がこの「二条新御所」に移徙した[4]。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠主従はそれを知るや本能寺の信長と合流するため出撃しようとしていた。しかし、そこに村井貞勝父子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条新御所へ移ることを進言した。信忠は誠仁親王らを二条新御所から出した上でここに籠城し、これを攻囲する明智光秀勢と奮戦するが、信忠を始め貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰したテンプレート:要出典。
現在は両替町通御池上ルに「此附近 二条殿址」、室町通御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。付近には「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。なおこの「御池」が現在の御池通の名前の由来となった。跡地には、変の直後、秀吉により信忠の菩提を弔うため大雲院が創建されたが、間もなく秀吉の京都改造に伴い寺町四条下ルに移転させられた。
この二条新御所は義昭の二条城跡に設けられたとする説があるが、山科言経が天正4年9月13日(1576年10月5日)に「右大将家二条新邸を見物」、翌14日(10月6日)には「武家古城を見物」し石垣の取り壊し・搬出されている様子を目撃したことが『言経卿記』に記されているから、明らかに別の場所にあったと考えられる。また誠仁親王当時、禁裏「上の御所」に対し「下の御所」と呼ばれていたから二条新御所は禁裏南方にあったと思われ、御所西にあった義昭の二条城跡に築かれたとするのは不自然である。さらに本能寺の変の際、信忠は陣を妙覚寺から二条御所へ移しているから両者は近傍に在ったと推測される[5]。同じ時、信忠恩顧の小沢六郎三郎は二条新御所に駆けつけたが明智軍に囲まれていたため「町通り二条(二条通のこと)」へ「上が」って御構えに駆け込んだと『信長公記』に記されているから、二条新御所は二条通南方にあったことが明らかであり、この点からも義昭の二条城とは別であったと判断できる。また、先に触れたように乱後、この地に信忠の菩提寺大雲院が建築されていることも有力な傍証となる。
羽柴(豊臣)秀吉の「二条第」
羽柴秀吉(豊臣秀吉)も二条に城を構えている。秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年(1580年)に信長によって没収されてお気に入りであった前関白・近衛前久に献上されている(『兼見卿記』)。皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人が逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり(『明智軍記』)、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。その後天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天守もあった。
聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われ普段は前田玄以が在城した。所在地は二条城の東200メートル、現中京区小川押小路付近、地名に「古城(ふるしろ)町」「下古城(しもふるしろ)町」をのこしている。天正遣欧少年使節を引き連れて聚楽第の秀吉を訪ねた巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは前日に豪華な「秀吉の旧屋敷」に泊ったとあるが、位置、時期から言ってこれがこの二条第であった可能性が高い。
江戸時代の二条城
創建
幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。
- 慶長6年(1601年)5月:関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った(天下普請)。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清が任じられた。
- 慶長7年(1602年)5月:御殿・天守の造営に着工。
- 慶長8年(1603年)3月:落成。但し、天守は慶長11年(1606年)に完成。
- 慶長8年(1603年)2月12日:家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城、同月25日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、27日に二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は2年後の慶長10年(1605年)に家康の息子の2代将軍秀忠が、元和9年(1623年)に孫の3代将軍家光が踏襲するが、曾孫の4代将軍家綱以降は行われなくなった。
- 慶長16年(1611年):二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において家康と豊臣秀頼の会見(二条城会見)が行われる。この時、家康は秀頼の成長ぶりに驚き徳川氏の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣氏を滅ぼすことを決意したともいわれている。
- 慶長19年(1614年):大坂冬の陣が勃発。二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ駒を進めた。
- 元和元年(1615年):大坂夏の陣においては二条城に火をかけ、混乱の中で家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、徳川方についていた古田織部の家臣木村宗喜が捕縛された。このため織部は切腹、家財没収となる事件もあった。
- 元和5年(1619年):秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。この時の縄張(基本設計)は秀忠自らが藤堂高虎と共に行った(秀忠は2つの案から一方を最終選定しただけだが、将軍自らの縄張りであると高虎に持ち上げられたのだった)。
- 元和6年(1620年)6月18日:徳川和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。
行幸
- 寛永元年(1624年):徳川家光が将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。城域は西に拡張され、天守閣も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城の天守を移築した。作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当した。
- 寛永3年(1626年):行幸は寛永3年9月6日(1626年10月25日)から5日間に渡っておこなわれ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。
- 寛永11年(1634年)7月:秀忠死後、家光が30万7千の兵を引きつれ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。
その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年(1750年)には落雷により天守を焼失。さらに京の町を焼き払った天明8年(1788年)の大火の際には、飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。
- 寛永2年(1625年):二条城には、将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。
- 元禄12年(1699年):二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。
- 文久2年(1862年)閏8月:交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。
幕末
- 万延元年(1860年):京都地震が発生し、御殿や各御門、櫓などが傾くなど、大きな被害を受けた[6]。
- 文久2年(1862年):14代将軍徳川家茂の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。
- 文久3年(1863年)3月:家茂は朝廷の要請に応えて上洛をする。
- 慶応元年(1865年):家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る。しかしここで病に倒れ、翌慶応2年(1866年)夏に死去する。
- 慶応2年:二条城では幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定するが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやく12月に二条城において15代将軍拝命の宣旨を受ける。
- 慶応3年(1867年)9月:慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す。10月には大政奉還、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。この時二条城には旗本を中心とする徳川氏直属の兵約5000、会津藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は若年寄永井尚志と水戸藩士約200名が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で押し問答になる。この件は永井の機転で、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。
- 慶応4年(1868年)1月:鳥羽・伏見の戦い。大坂に召還された尚志に代わり、二条城は水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役となっていたが、1月5日(1月29日)に朝廷(新政府)の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡され、太政官代が設置された。閏4月に太政官代は宮中に移転した。
近現代
- 明治3年(1870年):東京奠都後、二条城は留守官の管轄下に置かれる。
- 明治4年(1871年):二の丸御殿は京都府庁舎となる。
- 明治6年(1873年):陸軍省の所管に移された。
- 明治17年(1884年):宮内省の所管となり「二条離宮」と改称した。
- 明治18年(1885年):京都府の新庁舎が完成し移転した後、二の丸御殿の修理が明治25年(1895年)まで行われる。
- 明治26年(1893年) - 27年(1894年):京都御苑の今出川門脇に位置する旧桂宮邸を本丸へ移築し、本丸御殿とする。
- 大正4年(1915年):大正天皇即位の儀式である大典の饗宴場として二条城二の丸が使用され、それに伴い南門や二の丸御殿の附属建物が増築される。
- 昭和14年(1939年):宮内省より京都市に下賜。それ以来「元離宮二条城」という名称となる。
- 第二次世界大戦後、GHQの意向で二の丸北側にテニスコートが作られたが、昭和40年(1965年)に庭園に変えられた。
- 平成18年(2006年)4月6日:日本100名城(53番)に選定された。
- 平成23年(2011年)度から、国宝の二の丸御殿など文化財建造物を中心に城全域の修理や整備を行う予定で一口募金を募っている[7]が、応募は市の期待を大きく下回っている。
東映京都撮影所や京都映画撮影所からは最も近い場所にある城であるが、後述する通り天守が焼失しているなど撮影に使える場所が少ないため、あまり用いられない。時代劇で城のシーンのロケーションとしては、より遠方の彦根城や姫路城のほうがより用いられることが多いテンプレート:要出典。
縄張
立地
二条城はかつて平安京の大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分(二の丸)のみであった。
家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地が比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる聖なるラインの交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。
縄張
縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が二の丸の周りは外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際江戸時代、西堀川通(=現堀川通)の南北には通行を妨げる「釘抜き」が設けられ大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第1期二条城の絵図面の類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわからない。
二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた方位磁石を普請の際に用いたためのとの説があるが[8]、証拠はない。もしそうなら、南北が明瞭な当時の京都でなぜわざわざ磁石を使ったのかという疑問が新たに生じる。聚楽第跡周辺の街路が同様に数度の傾きを持つことから、この傾きを作ったのは秀吉で、家康がその傾きを継承した可能性もあるが、これにも確証がない。
将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。
建造物
外部との出入り口としての城門は東西南北に1つずつある。ただし、南門は1915年(大正4年)に大正天皇の大典に備え新たに造られたもので、本来の城門ではない。正門は堀川通に面した東大手門(櫓門)である。西門(埋門)と前述の南門は外堀を渡る橋がなく使用されていない。北大手門(櫓門)も普段は閉鎖されている。また、この他に城内には5つの城門がある。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門である。なお東大手門は現在創建時と同じく櫓門となっているが、後水尾天皇の行幸を仰ぐ際、上から見下ろすのは不敬として一重門に変えられた。行幸後には再び櫓門に戻された。
二の丸の中心的建造物である二の丸御殿は、東大手門から入って正面の西方に建つ。御殿は築地塀で囲まれていて、正門である唐門は塀の南側にある。それをくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄」(くるまよせ)が見える。二の丸御殿は手前から順に「遠侍」(とおざむらい)、「式台」(しきだい)、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」(くろしょいん)、「白書院」(しろしょいん)と呼ばれる6つの建物が雁行に並び、廊下で接続され一体となっている。大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園がある。遠侍の北側には「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物がある。
本丸御殿は御所の北にあった旧桂宮邸を1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて移築したもので、徳川家の二条城とは本来無関係の建物である。過去には春と秋に期間限定で公開されていたが、耐震性の不足が判明したため2007年(平成19年)春を最後に公開を中止して以降、内部は公開されていない。もともとあった京都御苑内の敷地には、築地塀と表門と勅使門、また庭園や池も現存している。
本丸御殿の南には、洋風庭園がある。
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東大手門。奥に二の丸御殿を囲む築地塀が見える。
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二の丸御殿の「車寄」(右手前)及び「遠侍」
天守
創建時の天守は、『洛中洛外図屏風』に城の北西部分(現在の清流園の辺り)に望楼型の5重天守として描かれている。この天守は慶長期に家康によって現在の二ノ丸北西隅に建てられたもので、大和郡山城天守の移築説がある。記録には小天守や渡廊下の記述があり、天守曲輪を形成していたと考えられる。この天守は3代家光の時に行われた寛永の大改修時に淀城に再び移築された。移築された淀城天守は図面が残されているので、慶長度天守の復元は可能である。
これに代わり、新たに造られた本丸の南西隅に、前年に一国一城令によって廃城とした伏見城の天守が移築された。この寛永期天守は、取付矢倉が付属する層塔型5重5階の天守であったが、1750年(寛延3年)に落雷で焼失して以来、再建されなかった。現在は、天守台のみが残る。天皇が昇った唯一の天守である。
幕末には天守台に高層の火の見櫓が建てられていたことが、古写真より分かる。
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天守台
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寛永度天守指図
移築建造物
- 江戸時代におよそ4度本丸の建物を仙洞御所に移築したが、その度に火災に遭っている。
- 横浜市中区の三渓園に聴秋閣(三笠閣)が移築現存し、国の重要文化財に指定されている。
- 京都市東山区にある豊国神社の唐門は、以心崇伝が二条城の唐門を下賜されたものを、明治になって神社を再興する際、金地院から譲られ移築したもので、国宝に指定されている。
庭園
二の丸庭園
別名「八陣の庭」。小堀遠州の代表作として挙げられることも多い桃山様式の池泉回遊式庭園[9]である。池には3つの島が浮かぶ。池の中央やや北よりにもっとも大きい蓬莱島があり、その北に亀島、南に鶴島がある。亀島は亀の形に、鶴島は鶴の形に石が組まれている。蓬莱島は亀島と共に見えるアングルからは鶴の形に、鶴島と共に見えるアングルからは亀の形に石が組まれていて、常に鶴亀の一組を表現する趣向となっている。池の北西部には、二段の滝がある。池の南に広がる芝生の部分は、寛永の行幸の際には行幸御殿が建てられていた場所であり、こちら側が庭園の第1正面となる。第2正面は東(大広間)側、第3正面は北(黒書院)側という三正面式の設計である。
本丸庭園
本丸御殿が移築された後に作庭が始まり、1896年(明治29年)に完成した洋風庭園。日本庭園と異なり、池や枯山水ではなく、芝生と植樹を中心とした回遊式の庭園である。
清流園
二の丸の北大手門付近に1965年(昭和40年)に作られた和洋折衷庭園。
文化財
世界遺産
古都京都の文化財を構成する17の遺産の1つとして、世界遺産に平成6年(1994年)12月に登録された。
国宝
- 白書院(御座の間)(附 附属の間、黒書院白書院間渡廊)
重要文化財
城が宮内省から京都市に移管された後の1939年(昭和14年)10月28日に上記二の丸御殿の6棟を含む24棟が国宝保存法に基づく「国宝」(旧国宝)に指定され、1944年(昭和19年)に本丸御殿4棟が追加指定された。その後、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行に伴い、旧国宝はすべて重要文化財として指定されたものとみなされることとなった。
- 建造物
- 本丸御殿(旧桂宮邸)
- 玄関
- 御書院
- 御常御殿
- 台所及び雁之間
- 二の丸御殿
- 唐門
- 築地
- 台所
- 御清所(附 廊下)
- 本丸櫓門(附 袖塀(南方・北方))
- 東大手門(附 多門塀(外面南方、外面北方、内面南方、内面北方))
- 北大手門(附 多門塀(外面東方、外面西方、内面東方、内面西方))
- 西門(附 多門塀)
- 鳴子門(附 袖塀)
- 桃山門
- 北中仕切門
- 南中仕切門
- 東南隅櫓(附 多門塀(西方))
- 西南隅櫓(附 多門塀(北方、東方))
- 土蔵(米蔵、二の丸御殿北方)
- 土蔵(北米蔵)
- 土蔵(南米蔵)
- 東南隅櫓北方多門塀[10]
- 絵画
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本丸櫓門
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東大手門
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北大手門
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北中仕切門
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桃山門
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東南隅櫓
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西南隅櫓
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土蔵(南米蔵)
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二の丸御殿唐門と築地
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二の丸御殿大広間
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二の丸御殿大広間(左は蘇鉄の間)
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二の丸御殿黒書院
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二の丸御殿黒書院(右は大広間)
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二の丸御殿白書院
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本丸御殿御常御殿
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本丸御殿玄関
史跡
二条城の外堀を囲む道路も含めて、二条城全域が1939年(昭和14年)11月30日に「旧二条離宮(二条城)」の名で史跡に指定された。
特別名勝
二の丸御殿障壁画
徳川家康が二条城の造営に着手したのは慶長6年(1601年)であるが、現存する二の丸御殿の建物群はその20数年後の寛永期に大改修されたものである。後水尾天皇の二条城行幸に備えて、寛永元年(1624年)から御殿の大改修が始まり、同3年(1626年)に完成した。二の丸御殿が寛永期に新築に近い改修を受けていることは川上貢らの調査で判明しており、建物内の障壁画についても寛永期の作であることが土居次義、武田恒夫らの研究で明らかになっている。[11]
御殿の正門である唐門を入ると、正面に遠侍及び車寄があり、以下、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の各建物が南東から北西へ雁行形に配置される。各建物は入側や渡廊下で連結されている。遠侍及び車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が国宝に指定され(遠侍及び車寄は1棟に数える)、これらの建物の各室の床(とこ)、床脇(棚)、帳台構、襖、障子腰、長押上壁などには狩野探幽ら狩野派の絵師による障壁画が描かれている。御殿の建物はおおむね寛永期の状態を伝えるが、改変された部分もある。各建物の屋根は現状は瓦葺きであるが、当初は杮葺きであった。貞享3年(1686年)に建物の破損検分を行った際の記録によれば、当時すでに瓦葺きであったので、屋根葺き材の変更時期は1686年をさかのぼることは明らかである。[12]
本丸御殿は、明治以降、昭和14年(1939年)に京都市に下賜されるまでの間は京都府庁や二条離宮として使用され、その間に障壁画の破損が進んだ。大広間と黒書院の外面の腰高障子も明治期に新たに入れられたもので、当初は使われていなかったものである。日本の城郭の御殿は明治以降に破却されたものが多いなかで、二条城二の丸御殿は、一部に改変や破損があるとはいえ、オリジナルの建物と障壁画がともに現存するという意味で貴重な存在である(名古屋城本丸御殿では、障壁画は大部分が現存するが、建物は太平洋戦争の空襲で焼失した)。
遠侍は二の丸御殿のうちもっとも手前に位置し、かつ、もっとも大規模な建物である。棟を南北に向けた入母屋造、瓦葺きの建物で(以下に述べる二の丸御殿の諸殿はいずれも入母屋造、瓦葺き)、面積は1,048平方メートル。登城した大名や家臣らの控えの場となった建物である。平面は正方形に近く、間取りは東西・南北とも3列構成で、北東に位置する勅使の間(上段・下段に分かれる)から逆時計回りに、一の間、二の間、三の間、柳の間(四の間とも)、若松の間、帳台の間があり、これらに囲まれた中央部には芙蓉の間と物置がある。物置以外の各室に障壁画があり、いずれも金地濃彩である。勅使の間は上段が21畳、下段が35畳。上段には二間半幅の押板形式の床(とこ)と棚、帳台構を備えるが、付書院はない。このような大規模な御殿の主室に付書院を設けないのは異例である。床に向かって左の入側境(通常、付書院の設けられる位置)には腰高障子を嵌める。画題は上段が楓、下段が檜の大樹を主とした金地濃彩画である。一の間、二の間、三の間の障壁画の画題はいずれも竹虎図で、これらの室には虎の間の別称がある。遠侍(玄関)の障壁画に虎を描くことは名古屋城本丸御殿などにも例があり、来訪者を威嚇する意図があるという。障壁画の筆者については狩野山楽との伝えもあるが、研究者は狩野甚之丞の筆と推定している。『二条御城御指図』(宮内庁書陵部蔵)には遠侍の障壁画の筆者を「真節」としており、これは「真設」(甚之丞の号)を指す[13]。なお、この甚之丞については、名古屋城本丸御殿対面所の障壁画の筆者とされる甚之丞とは別人(または制作時期が大きく異なる)の可能性が指摘されている[14]
式台は遠侍の西に接して建つ東西棟の建物である。面積は332平方メートル。登城した大名らの取次の場となった建物で、手前に式台の間、その裏手に老中一の間、老中二の間、老中三の間がある。各室の障壁画はいずれも金地濃彩である。式台の間は48畳で、床(とこ)、棚、付書院等の設備はない。式台の間の障壁画は松の巨木を描く。[15]
大広間は式台の西に接して建つ南北棟の建物である。面積は784平方メートル。二の丸御殿の諸殿のうちもっとも格式が高く、将軍の表向きの対面に用いられた、公式的・儀礼的空間である。一の間(上段の間)、二の間(下段の間)、三の間、四の間(鑓の間とも)、帳台の間からなる。一の間は48畳で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備え、天井はもっとも格の高い二重折上格天井とする。障壁画は松の巨木を主題とする。式台と大広間の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野采女すなわち狩野探幽の筆とあり、伝承どおり探幽の作とみなされている。[16]
蘇鉄の間は式台と黒書院をつなぐ、南北棟の渡廊下状の建物である。明治期に板敷に変更されているが、江戸時代には畳敷の部屋であった。[17]
黒書院は蘇鉄の間の北西に接して建つ東西棟の建物である。「黒書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「小書院」と呼ばれていた。面積は569平方メートル。大広間が公式的・儀礼的な表向きの対面の場であったのに対し、黒書院は内向きの対面の場であり、将軍の御座所でもあった。規模は大広間より一回り小さい。一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間からなり、二の間、三の間、四の間は障壁画の画題から、それぞれ桜の間、浜松の間、菊の間ともいう。一の間は24畳半で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備える。このうち、棚を北面東端から東面北端にかけて矩折り(L字形)に配置するのが特色である。一の間の天井は格天井だが、大広間の一の間のような二重折上とはしていない。障壁画は式台、大広間と同様、松を主題とするが、床貼付絵は松に梅、柴垣、小禽鳥などを配し、松樹には残雪を表すなどして早春の季節感を表す。さらに床脇(棚)の壁貼付の竹図と合わせて松竹梅を表している。黒書院の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野尚信の筆とあり、伝承どおり尚信の作とみなされている。[18]
白書院は黒書院の北に建つ南北棟の建物で、御殿の建物群のうちもっとも奥に位置する。黒書院とは渡廊下を介して接続する。「白書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「御座之間」などと呼ばれていた。面積は318平方メートル。大広間や黒書院に比べて規模が小さい、内向きの建物である。将軍の休息所、寝所として使用された。障壁画は他の諸殿が金地濃彩を主としているのと異なり、白書院の障壁画は淡彩が主体となっている。間取りは黒書院と同様、一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間からなるが、規模は黒書院より小さい。一の間は15畳で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備える。一の間の天井は格天井だが、二重折上としていないのは黒書院一の間の天井と同様である。障壁画は淡彩の山水画で、中国の西湖の情景を表したものである。白書院の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野興意(狩野興以)の筆とあるが、筆者については異説もあり、2012年に東京都江戸東京博物館で開催された「二条城展」では「狩野長信または興以筆」とされていた。[19][20]
- 二条城二之丸御殿障壁画 954面(附62面)
- 遠侍障壁画 273面(附8面)
- 紙本金地著色楓檜桃小禽図 47面 床(とこ)3、違棚壁5、帳台構4、襖4、壁貼付4(うち2面後補)、長押上小壁13、障子腰12(うち6面後補)、上下段境小壁2(勅使之間)
- 紙本金地著色花卉図 4面 違棚天袋4(勅使之間)
- 附 紙本著色草花図 4面 違棚天袋4(勅使之間)
- 紙本金地著色竹林群虎図 46面 襖8、壁4、障子腰20(うち10面後補)、長押上小壁14、(一之間)
- 紙本金地著色竹林群虎図 26面 襖8、障子腰12、長押上小壁6(二之間)
- 紙本金地著色竹林群虎図 30面 襖12、壁貼付2、長押上小壁8、障子腰8(三之間)
- 紙本金地著色柳薔薇図 25面 襖8、障子腰10、長押上小壁7(柳之間)
- 紙本金地著色若松図 27面 襖8、壁貼付3、長押上小壁10、障子腰6(若松之間)
- 紙本金地著色葡萄図 24面 格天井24(若松之間)
- 紙本金地著色竹芙蓉黄蜀葵図 20面 襖16、壁4(芙蓉之間)
- 紙本著色萩図 4面 壁4(帳台之間)
- 附 紙本著色芦雁図 4面 帳台構4(帳台之間)
- 板絵著色杉戸絵 20面 芍薬図2、萩兎図2、竹虎図4、羊図4、柳手鞠花図2、手鞠豆鳥四十雀図2、芦雁図2、桜小禽図2
- 式台障壁画 62面(附18面)
- 紙本金地著色松図 19面 壁5、長押上小壁14(式台之間)
- 附 紙本著色花鳥図 18面 障子腰18(式台之間)
- 紙本金地著色及板絵著色芦雁図 13面 襖2、壁1、障子腰6、杉戸絵4(老中一之間)
- 紙本金地著色芦雁図 10面 襖4、壁2、障子腰4(後補)(老中二之間)
- 紙本金地著色雪中柳鷺図 10面 襖2、壁4、障子腰4(後補)(老中三之間)
- 板絵著色杉戸絵 10面 唐獅子図2、枯木山荒図2、松鶴図4、紅葉鹿図2
- 大広間障壁画 191面(附17面)
- 紙本金地著色松竹錦鶴図 31面 床(とこ)3、違棚壁5、帳台構6、壁2、戸襖6、長押上小壁9(一之間)
- 紙本金地著色花卉図 4面 違棚天袋4(一之間)
- 紙本金地著色水仙図 6面 付書院障子腰4、付書院脇壁2(一之間)
- 紙本金地著色松孔雀図 27面 襖4、壁1、戸襖14、長押上小壁8(二之間)
- 紙本金地著色松孔雀図 33面 襖8、壁2、戸襖14(うち1面後補)、長押上小壁9(三之間)
- 紙本金地著色松鷹図 46面 襖10、壁3、戸襖18(うち2面後補)、長押上小壁15(四之間)
- 紙本金地著色花鳥図 6面 帳台構4、戸襖2(帳台之間)
- 附 紙本著色竜田風俗図 7面 壁7(帳台之間)
- 附 紙本著色武蔵野図 10面 長押上小壁10(帳台之間)
- 板絵著色杉戸絵 38面 柏鳩図6、槇山羊図4、紅葉図2、柳鷺図4、牡丹図2、枇杷栗鼠図2、桜図6、松鷺図2、竹雀図2、芦雁図2、柳蔦白鷺図2、蘇鉄図4
- 黒書院障壁画 198面(附19面)
- 紙本金地著色松桜柴垣禽鳥図 30面 床(とこ)3、違棚壁12、帳台構5、戸襖2、付書院脇壁2、長押上小壁6(一之間)
- 紙本墨画淡彩楼閣山水図 14面 違棚壁8、付書院障子腰4、長押上小壁2、(一之間)
- 紙本金地著色桜花雉子図 20面 襖4、壁1、戸襖14、長押上小壁1(二之間)
- 紙本金地著色楼閣山水図 9面 長押上小壁9(二之間)
- 紙本金地著色松図 23面 襖14(うち1面後補)、壁1、戸襖8(三之間)
- 紙本金地著色浜松図 10面 長押上小壁10(三之間)
- 紙本金地著色菊図 19面 襖10、壁貼付3、戸襖6(四之間)
- 紙本金地著色秋草扇面散図 11面 長押上小壁11(四之間)
- 紙本金地著色牡丹図 16面 襖12、壁2、戸襖2(牡丹之間)
- 紙本金地著色梅図 6面 戸襖6(牡丹之間)
- 紙本著色梅図 8面 戸襖8(牡丹之間)
- 紙本金地著色松椿図 4面 帳台構4(帳台之間)
- 附 紙本著色名所風俗図 13面 壁9、戸襖1、長押上小壁3(帳台之間)
- 附 紙本著色秋草図 4面 長押上小壁4(帳台之間)
- 附 紙本著色松柳白鷺図 2面 長押上小壁2(帳台之間)
- 板絵著色杉戸絵 28面 岩上雉子図2、枯木小禽図2、柴垣朝顔図2、泊舟白鷺図2、花篭図2、百合図2、紅葉図2、若竹図2、柴垣芙蓉図2、柳図2、躑躅小禽図2、透垣柴陽花図2、柳笹図2、蘇鉄図2
- 白書院障壁画 230面
- 紙本淡彩西湖図 31面 床(とこ)3、違棚壁5、帳台構4、襖4、戸襖2、長押上小壁7、付書院脇壁2、付書院障子腰4(一之間)
- 紙本著色撫子図 4面 違棚天袋4(一之間)
- 紙本著色花卉図 53面 格天井53(一之間)
- 紙本淡彩西湖図 24面 襖8、戸襖8、長押上小壁8(二之間)
- 紙本淡彩山水人物図 23面 襖6、壁1、戸襖8、長押上小壁8(三之間)
- 紙本淡彩雪中梅竹柳小禽図 21面 襖2、壁5、戸襖5、長押上小壁9(四之間)
- 紙本著色秋草図 18面 帳台構貼付4、壁5、戸襖1、長押上小壁8(帳台之間)
- 板絵著色柴垣芙蓉図・苅田雁図 2面 板壁2(廊下)
- 板絵著色杉戸絵 54面 桃花鸚哥図2、松椿頬白図2、牡丹図2、枝垂桜図2、芦鷺図2、青楓山雀図2、柳鷺図2、透垣柴陽花図2、枯木鳩図2、芙蓉図2、柳萱草図2、林檎図2、杜若図2、渓流水禽花梨図2、林檎図2、鴨図2、楊梅図2、松樅図2、芦雁図2、紫陽花図2、躑躅笹図2、小手鞠図2、松尾長鳥図2、透垣桜図2、梔子鶺鴒図2、椿図2、芙蓉図2、
出典:昭和57年6月5日文部省告示第98号
展示・収蔵館
築城400年記念 展示・収蔵館(略称:展示・収蔵館)は二条城の敷地内東方にある施設であり、1982年に重要文化財に指定された二の丸御殿障壁画の原画を保管している。築城400年を記念して2004年3月に竣工され、2005年10月10日に開館した。御殿におけるレイアウトと同様に並べられた障壁画を、ガラス越しに鑑賞できる[21]。
現地情報
- 所在地 - 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
- 交通 - 京都市営地下鉄東西線二条城前駅からすぐ
- 入城料金 - 一般600円、中学生・高校生350円、小学生 200円
- 展示・収蔵館入館料 - 小学生以上100円
- 開城時間 - 8時45分-16時(閉城17時)
- 二の丸御殿観覧時間 - 8時45分-16時
- 展示・収蔵館開館時間 - 9時-16時45分(受付は16時30分まで)
- 休城日 - 12月26日-1月4日、毎年12月・1月・7月・8月の毎週火曜日(当該日が休日の場合、その翌日を休城日とする)
脚注
参考文献
- 北島正元『徳川家康』中央公論社、1963年6月、162 - 163頁。
- 『二条城』歴史群像 名城シリーズ (11)、1996年5月、41頁。
- 『不滅の建築 11 二条城二の丸御殿』、毎日新聞社、1989
- 『週刊朝日百科 日本の国宝 62 二条城』、朝日新聞社、1998
- 村田治郎、関野克『元離宮二条城』、小学館、1974
- 大森健二「二条城の建築について」『元離宮二条城』(小学館、1974)
- 土居次義「障壁画 二ノ丸御殿遠侍・白書院」『元離宮二条城』(小学館、1974)
- 武田恒夫「障壁画 二ノ丸御殿大広間・式台・黒書院、本丸御殿」『元離宮二条城』(小学館、1974)
- 『二条城二の丸御殿と名古屋城本丸御殿』、名古屋城特別展開催委員会刊、2012
関連項目
外部リンク
- 元離宮二条城 - (京都市文化市民局)
- 元離宮二条城ストリートビュー
- 二条城城下町
- Wikimapia航空写真
- 二条城 攻城団
- ↑ 信長公記天正4年4月条「二条殿御構へ御普請の事」には「二条殿御屋敷幸い空間地にてこれあり」とある。
- ↑ 広辞苑、平凡社日本歴史地名大系など
- ↑ この城が二条にあったとするのは「信長公記」永禄12年2月2日(1569年2月17日)条「二条の古き御構へ堀をひろげさせられ」が初出か。
- ↑ なお、この際信長は五の宮を猶子としたとされており、これを正親町天皇の五の宮である誠仁親王にあてる誤解があるが、正しくは親王の五の宮が猶子となったのである。
- ↑ フロイス「日本史」には「(信忠は)宿舎にしていたその寺院は安全でなかったので、駆け付けた武士たちとともに、近くに住んでいた内裏(天皇)の息子(親王)の邸に避難した」とある。
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ 二条城一口城主募金 テンプレート:Ja icon
- ↑ 1613年、平戸でサリングが磁北のずれを測定したが、それによれば磁北は真北に対し東に「2度50分」ぶれていた。このぶれは、現在の二条城のぶれとほぼ一致するが、渡辺真経の研究によればこの時期は磁北が急激に東に変化していく時期にあたっており、測定の10年前の二条城創建時の磁北のぶれは東に約1度であったと考えられる。ただし渡辺自身この研究自体まだ確実とは言えないとしている。(渡辺久雄「条里制の研究」を参照)
- ↑ 中心に池を配し、その周りを歩いて鑑賞する庭園
- ↑ 「東南隅櫓北方多門塀」は、昭和19年の本丸御殿追加指定時の官報告示(昭和19年9月5日文部省告示第1058号)では、東南隅櫓の「附」とされている。昭和27年の二の丸御殿国宝指定時の官報告示(昭和27年10月16日文化財保護委員会告示第21号、指定は3月29日付)には「東南隅櫓北方多門塀」は見えない(参照:文化財建造物保存技術協会編・刊行『国宝・重要文化財建造物官報告示』、1996)。平成2年版の文化庁編『国宝・重要文化財建造物目録』(第一法規、1990)では「東南隅櫓北方多門塀」は東南隅櫓の「附」とされている。
- ↑ 『週刊朝日百科 日本の国宝 62 二条城』、p.7 - 38(筆者は大和智); 同書p.7 - 52(筆者は西和夫)
- ↑ 『週刊朝日百科 日本の国宝 62 二条城』、pp.7 - 38 - 7 - 39(筆者は大和智)
- ↑ (大森、1974)、pp.283 – 284; (土居、1974)pp.318, 326 - 328
- ↑ 『二条城二の丸御殿と名古屋城本丸御殿』、p.115
- ↑ (大森、1974)pp.285 - 286; (武田、1974)p.346
- ↑ (大森、1974)pp.286 - 287; 『元離宮二条城』(小学館、1974)図版解説p.450; 狩野博幸「二の丸御殿の障壁画」『週刊朝日百科 日本の国宝 62 二条城』、pp.7 - 46 - 7 - 47
- ↑ 『週刊朝日百科 日本の国宝 62 二条城』、p.7 - 44(大和智)
- ↑ (大森、1974)pp.289 - 290; (武田、1974)pp.347, 353, 358, 361; 『元離宮二条城』(小学館、1974)図版解説pp.453 - 454
- ↑ (大森、1974)p.291; (土居、1974)pp.332 - 333
- ↑ 二条城展(江戸東京博物館)
- ↑ 築城400年記念 展示・収蔵館