下田歌子
下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐(ひらお・せき)、安政元年8月9日(1854年9月30日) - 昭和11年(1936年)10月8日)は、明治から大正にかけて活躍した教育家・歌人。女子教育の先覚者。岐阜県恵那郡岩村町(現在の恵那市)出身。
略歴
岩村藩の藩士の家に生まれる。幕末に勤王派の藩士だった父は蟄居謹慎を命じられるが、苦難の中、祖母から読み書きを習い、5歳で俳句と漢詩を詠み、和歌を作るなど神童ぶりを発揮した。書物を読んで善い事だと思うと、すぐに行動にうつす事も多かった。「二十四考」という親孝行を書いた書籍に両親が蚊に刺されるのを防ぐため、自分が裸になって蚊を引き寄せたという内容があり、鉐はそれを実際にやったという事実がある。
元号が明治になり祖父と父は新政府の招聘を受けて東京に出るが、17歳[1]になった鉐もその後を追って上京。そのとき、故郷の国境、三国山の峠で、鉐は「綾錦着て帰らずは三国山またふたたびは越えじとぞ思ふ」という歌を詠んでいる。
1872年(明治5年)、女官に抜擢され宮中出仕する。武家の子として身に付けた礼儀作法や、儒学者の祖父仕込みの学識、和歌の才能で昭憲皇太后から寵愛され「歌子」の名を賜る[2]。宮廷で和歌を教えるようになる。
1879年(明治12年)に剣客の下田猛雄と結婚し宮中出仕を辞する。3年後に夫が病に臥す。看病のかたわら、自宅で『桃夭(とうよう)女塾』を開講。当時の政府高官の殆どがかつての勤王の志士だったため、彼らの妻の多くは芸妓や酌婦だった。世間知らずではないが、正統な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教えた。
1884年(明治17年)、夫猛雄が病死。同年塾の実績と皇后の推薦で、創設された華族女学校の教授に迎えられた。翌年には学監に就任。華族の子女のみが学んだこの学校では古式ゆかしい儒教的な教育がなされた。1893年(明治26年)、女子教育の視察のため2年間欧米へ。英国では王室の子息らが一般校で学び、貴族階級の女子が運動で身体を鍛えていることや、女子と男子とが同じ教育を受けていることにショックを受ける。
帰国後、歌子は「帝国婦人協会」を設立。当時庶民の女性があまりにも男性の言いなりにばかりなっていた姿に心を痛め、「日本が一流の大国と成らん為には大衆女子教育こそ必要。」と女性に教養を授け、品性を磨かせ、自活のチャンスを与えて女性の地位向上・生活改善をはかるべく奮闘した。
1906年(明治39年)、華族女学校は学習院に統合され、陸軍の乃木希典将軍が院長に就任。軍人である乃木と方針をめぐって対立する。
1918年(大正7年)3月、板垣退助伯爵夫人の板垣絹子に招聘されて、東京広尾の『順心女学校』(現校名:順心広尾学園。所在地:東京都港区南麻布)創設にあたっての初代校長となり、女子教育に取り組む。
1936年(昭和11年)10月8日の死去まで、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎も築いた。享年82。
欧米教育視察
1893年(明治26年)春華族女学校学監を務めていた下田は、常宮・周宮御養育主任佐々木高行から皇女教育のための欧米教育視察を拝命した。その目的は皇室の伝統を保持しつつ、両内親王を海外賓客と接しても遜色ない、時代に順応した皇女として教育することだった。初めての海外渡航にあたり、下田は西洋文化を取捨選択し長所のみを受け入れる態度で臨んだ[3]。同年9月横浜を発ち、ブライトンで英語学校に通った後12月にはロンドンへ。そこでエリザベス・アンナ・ゴルドンの知遇を得て、ヴィクトリア女王の孫娘が受けている教育と母親たちの生活に触れた[4]。市井の人と親しく交わる女王一家と、王女が主婦として家庭を支える姿に強い印象を受けた下田は、やがて先々で出会う女性たちが豊富な知識、意志の強さ、行動力を持ち、それが教育と生活習慣によって培われたことを知る[5]。
1894年(明治27年)12月、下田は皇女教育という目的を超え一般の女学校への視察を始めた[6]。1895年(明治28年)の春にはチェルトナム・レディーズ・カレッジ(Cheltenham Ladies' College、以下CLC)で校長ドロシア・ビールと面会[7]。ビールは高齢で多忙だったにもかかわらず、学校の生徒やその家族と同様に下田を気遣い真摯な態度で接した。その厚意を下田は「真の親切」と表し、その人格と学問の深さ、教育に対する高い理想に感銘した。その後下田はケンブリッジ大学の女子学寮ニューナム・カレッジ(Newnham College)と女子教員養成校ケンブリッジ・トレーニング・カレッジ(The Cambridge Training College for Women Teachers、以下CTC。現ヒューズ・ホール(Hughes Hall))を視察[8][9]。さらに湖水地方やスコットランド、仏独伊など大陸の女子学校を訪問。その間1895年(明治28年)5月8日にはヴィクトリア女王との謁見を果たした[10][11]。
これらの視察によって下田はキリスト教の信仰が自主独立と慈善博愛の精神を育み、学校教育や生活習慣の基盤となっていることを理解する。それに加え育児、教育学、衛生、生理、看護法に関する知識は実利主義のもと最新の科学が教授されていた。キリスト教に対する評価は変えたものの、自らの信条を保ち下田は1895年(明治28年)8月に帰国[12]。その直後から皇女教育をめぐる宮中の勢力争いに加わっていくことになる[13]。
人物
容姿と才能に恵まれ、「明治の紫式部」ともあだ名されるが、反面政府の高官との浮名も絶えなかったと言われ、特に平民新聞は『妖婦下田歌子』と題した特集を連載するまでに至った。特に「日本のラスプーチン」とまで言われた祈祷師飯野吉三郎の権力拡大のため尽力したとされ、のちの幸徳事件は飯野の差し金であるとの説もある。
補注
参考文献
書籍
記事
関連項目
関連書籍
- 『下田歌子著作集 資料篇』全9巻 板垣弘子編 実践女子学園 1998-2002
- 西尾豊作『下田歌子伝』咬菜塾 1936
- 平尾寿子『下田歌子回想録』山陽堂 1942
- 『下田歌子先生伝』故下田校長先生伝記編纂所 1943
- 志茂田景樹『花の嵐 明治の女帝・下田歌子の愛と野望』PHP研究所 1984
- 林真理子『ミカドの淑女(おんな)』新潮社、1990 のち文庫
- 『妖婦下田歌子 平民新聞より』風媒社、1999
- 南條範夫『妖傑下田歌子』講談社、1994
- 松本清張『対談 昭和史発掘』(昭和史発掘の単行本に収録されなかった「政治の妖怪・穏田の行者」に、飯野吉三郎との関係が詳細に記されている。なお、本編で引用している牧野伸顕「回顧録」によれば、下田歌子が学習院を罷免された理由には、歌子の行状問題があったとされている。)