ランゴバルド人
ランゴバルド人(ランゴバルドじん)は中世初期に存在したゲルマニア出身のゲルマン系民族である。ロンバルド、ロンゴバルドとも呼ぶことがある。
ランゴバルドとは「長い顎鬚(あごひげ)」を意味する(英語のlong beardに相当)ランゴバルド人の言葉に由来し、民族の帰属概念として男性が顎鬚を伸ばしていた事に因んでいる。
特に568年にアルボイーノ王に率いられ東ローマ帝国領であった北イタリアを奪取し、774年にカール大帝に滅ぼされるまで200年近く存続したランゴバルド王国を興したことで有名である。北イタリアのロンバルディアという地名もランゴバルド王国に由来している。ランゴバルド人たちはラテン人の現住民達との混血を奨励し、自らの文化を棄てる事で積極的に同化を図った。これにより統治は安定し、王国は蛮族が開いた王朝としては最も長く持った。
フランク人の侵攻によって滅んだ後は同化政策が仇となった事もあり、その形跡の殆どが失われた。一方でエステ家など近世末期まで生き抜いたランゴバルド貴族も存在した。
歴史
8世紀に出来た『テンプレート:仮リンク』によると、「ランゴバルド」という民族名の由来が描かれている。それによると、ランゴバルド族の旧名はウィンニリ族といい、北方からデンマークにやって来て、その地に勢力を持つヴァンダル族との間に戦いが起こった。この時オーディンとその妻フリッグがこの地に居り、ヴァンダル族はオーディンに戦勝を祈願した。オーディンは日の出時に最初に見かけた方に勝利を与えるとしたが、ウィンニリ族はフリッグに戦勝の祈願をしていた。フリッグはウィンニリ族に、明朝はオーディンの館の東側に並び、その際女性は髪を顔に垂らしておくようにと言った。朝になりフリッグはオーディンを揺り起こして「オーディン、ごらんなさい(オーディン、セー)」と叫んだ。オーディンは跳ね起きて東側の窓を見ると髭の長い人間たちがいた。「あの髭の長い(ランゴバルド)者共は誰だ」とフリッグに聞いた。それはフリッグに戦勝を祈願していたウィンニリ族だった。彼らを先に見たことによってオーディンはウィンニリ族に勝利を与えなければならなくなった。以後ウィンニリ族は、「ランゴバルド族」と呼ばれるようになった。また、フリッグが言った”オーディンセー”は、デンマークの都市オーデンセの名の由来となった[1]。(正確には北欧神話には存在しない伝説である)
その起源は、スカンディナヴィア半島ではないかといわれており、1世紀にパンノニア(ハンガリー)に移動した。568年には、部族の長アルボイーノに率いられ肥沃な土地を求めてイタリアに侵攻した。その3年後の571年、アルボイーノはパヴィアを首都とした王国を設立した。その後もランゴバルド人はイタリア中南部にスポレート公国とベネヴェント公国を建国した。
興亡史
- 488年 - スカンジナビア半島から南下したランゴバルド人が、ドナウ川河畔に出没して略奪行為を行うようになる。ランゴバルド人は戦いの際、白いゲートルを身に着けたという。
- ランゴバルド人がパンノニアに定住。東ローマ皇帝は、イタリアを支配するゴート人等への対策のため、ランゴバルド人の定住を許可し、帝国の傭兵とする。
- 東ローマ帝国はゲピド人対策のため、ランゴバルド王アルボリンにゲピド人の駆逐を命じ、これに応じたアルボリンはゲピド人に勝利する。
- 553年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世はローマを占拠するゴート人を駆逐するために、ローマ軍の将軍ナルセスの援軍としてアルボリン率いるランゴバルド族の軍をイタリアのラヴェンナに派兵する。ゴート人の駆逐には成功するもののランゴバルド軍が略奪行為を行い、ナルセス将軍はランゴバルド軍を撤退させた。
- 565年 - 東方からアヴァール人(Avars)がヨーロッパ中部に侵略し、ランゴバルド人はアバール人と同盟を結んでゲピド人を殲滅した。
- 567年 - アルボリンはパンノニアのゲピド人を虐殺し、ゲピド王クニムンドの頭蓋骨で杯を作って祝った。またクニムンドの娘ロザムンドを妻とした。戦後アバール人はゲピド族から略奪した財宝の半分とゲピド人の領地を要求し、アルボリンはこれを承諾した。アバール人との関係悪化をおそれていたことと、アルボリンの興味はイタリアに向いていたからと言われる。
- 568年 - アルボリンはランゴバルド人の軍勢を率いて西進し、北イタリアに侵入する。ランゴバルド人だけでは数が少なすぎた為、同じゲルマニアの民族であるサクソン人や、テュルク系のブルガール人、ケルト系とも言われるスエビ人などと連合し、数十万人でイタリアに侵入した。当時、イタリアでは東ローマ帝国の支配が弱まり、ローマ教会がほぼすべての行政を行っていた。しかしローマ教会には軍隊がなかったため、ほぼ無抵抗でイタリアは占領されてしまった。東ローマ帝国は東方の紛争に集中していたため、イタリアに派兵する余裕はなかった。
- 570年 - もっとも強くランゴバルド軍に抵抗したイタリアのパヴィア(Pavia)を攻略し、アルボリンはパヴィアを本拠地とした。その後、パヴィア首都としてランゴバルド王国を建国。トスカーナ地方を制圧。公国制などのローマ帝国の行政制度も継承し、強固な支配体制を築く。
- 572年 - イタリアのヴェローナ(Verona)で、一族をアルボリンに虐殺されたアルボリンの妻ロザムンドが、アルボリンを暗殺。ロザムンドは寝室でアルボリンの剣を鞘から抜けないように細工し、愛人のヘレミカスにアルボリンを襲わせたという。ロザムンドはアルボリンの財宝を持って、ヘレミカスと東ローマ帝国領のラヴェンナ(Ravenna)に逃亡。東ローマ帝国の総督ロンギヌスの庇護を受けた。ロンギヌスの求婚を受けたロザムンドはヘレミカスを暗殺しようとしたが、ヘレミカスに無理心中された。ロザムンドによるアルボリン暗殺は、東ローマ帝国が後ろ盾になったとも言われる。
- 590年 - ランゴバルド人はローマに侵入、ランゴバルド人の有力貴族はイタリア半島を切り分けた。
- 605年 - 東ローマ皇帝はランゴバルド人に和平を申し入れた。ラヴェンナとローマ、ラヴェンナとローマを結ぶ街道を侵略しないことを条件に、すでにランゴバルド人が占拠している北イタリアや南イタリアの各公国所有を承認した。
- 701年 - パヴィアで諸公国がランゴバルド王位を巡って内戦が勃発。その中でアリペルト2世が王位を得た。
- 703年 - イタリアのコマチーナ島(Comacina)で、アリペルト2世は服従しないランゴバルド貴族のハウスプランド公一族を惨殺し、遺児ユートプランドをバヴァリア(Bavaria:オーストリア)地方に追放した。
- 712年 - 20歳になったユートプランドはバヴァリアの兵を率いてアルプスを越えて進軍。パヴィア郊外でアリペルト2世の軍と衝突した。戦争はアリペルト2世軍の方が優勢だったが、アリペルト2世は劣勢と勘違いして逃亡、部下の信頼を失い、逃亡途中、川で溺死した。ユートプランドはランゴバルド貴族から推されて王位に就き、パヴィアを首都とするランゴバルド王国の王となった。ランゴバルド人のための法を整備し、平和と繁栄をもたらした。また、熱心なキリスト教徒であり、ランゴバルド人にキリスト教への改宗を進めた。
- 725年 - ローマ教皇グレゴリウス2世に恭順と友好の意志を示し、同盟を提唱したが、認められなかった。グレゴリウス2世は東ローマ皇帝との同盟を優先したためである。
- 727年 - 東ローマ皇帝レオ3世がイコン廃止令を発布したため、ローマ教皇は皇帝を非難し、ローマ教会と東ローマ皇帝の間に亀裂が深まった。ローマ教皇がローマ皇帝に逆らったのは、これが初めてといわれる。
- 730年 - ローマ教皇グレゴリウス3世は、ランゴバルド人によるイタリア半島統一を阻止するため、ランゴバルド王国の飛び地である中南イタリアのスポレート公国、ベネヴェント公国の領主を説得し、ユートプランドへの反乱を起こさせた。
- 740年 - ユートプランド王は反乱を鎮圧、スポレート公トランサムンドを解任して修道院に幽閉。ランゴバルド王国は全盛期を迎える。イタリア半島をほぼ手中に収め、東ローマ帝国の影響力を払拭した。
- 744年 - 在位31年でユートプランド王死去。
- 772年 - デシデリウス王がイタリア半島の唯一の抵抗政治勢力であるローマ教会を弾圧し、イタリア全土を統一しようとした。教皇ハドリアヌス1世はフランク王国の王カールに援助を要請。
- 773年 - 晩春カール大帝がアルプスを越えて3万人前後の軍隊でパヴィアに進軍。約1年で全ランゴバルド領を征服。ランゴバルド王国は滅亡。
ランゴバルド王国の遺産
- ロンバルディア地方の文化
- 一部の建造物はイタリアのロンゴバルド族:権勢の足跡 (568-774年)の名前で世界遺産に登録されている。
- ゲルマン法の中でももっとも整備されたゲルマン法の成立
- 暗黒時代と呼ばれる中世の中で北イタリアの経済復興をもたらした
- 北イタリア諸都市の繁栄と独立自治(都市国家)の基礎を築き、ルネサンスの基礎となったテンプレート:要出典