マツダ・コスモ

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マツダ・コスモは、1967年昭和42年)5月から1996年平成8年)にかけて、マツダが生産・発売していた乗用車である。

1972年(昭和47年)から1975年(昭和50年)までモデルネームが中断したが、1975年(昭和50年)に復活。1990年(平成2年)からはユーノス・コスモとして作られた。1996年(平成8年)の生産終了以降、コスモの名は途絶えている。

歴史

初代・コスモスポーツ(1967年 - 1972年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 コスモスポーツは、1967年昭和42年)5月に2シータークーペモデルとして発売された。同時に世界初の実用量産ロータリーエンジンを搭載したでもあった。

なお、世界で初めて市販されたロータリーエンジン搭載車は、正確には旧NSUヴァンケル社(現・アウディ)が1964年(昭和39年)に発売したリアエンジン車のヴァンケルスパイダーである。これに搭載されたエンジンは、ロータリーエンジン特有の多くの課題が未解決のままであり、いわば「見切り発売」であった。またそれは、シングルローターのエンジンであった。これに対し、コスモスポーツに搭載された10A型エンジンは、それらの課題を克服して量産に耐えうるものであった。このため10A型エンジンは、世界初の実用・量産ロータリーエンジンである。また、10A型エンジンは、多気筒(マルチローター)ロータリーエンジンとしても世界初の市販車用エンジンであった。

ロータリーエンジンの特性は、それまで各種のロータリーピストンエンジン理論において証明されていた。しかし、100年以上の理論的蓄積にもかかわらずロータリーエンジンは量産されるには至っていなかった。このため、10A型エンジンの搭載車であるコスモスポーツは、ロータリーエンジンを量産車のエンジンとして最初に搭載した記念すべき存在といえる。

1968年8月には、東洋工業株式会社は、mazda110Sの名でコスモスポーツを擁してニュルブルクリンクで行われた84時間耐久レース「マラトン・デ・ラ・ルート」に挑戦した。このレースは、生産車のスピードと耐久性が競われる文字通りのマラソンレースで、ポルシェランチアBMWSAABオペルシムカダットサンなどと激戦を展開した。結果は、完走を果たすのみならずポルシェ・ランチアに次ぐ総合4位(順位は84時間後の走行距離で決められる)入賞となった。参加59台中、完走はわずか26台であった。

コスモスポーツに搭載された10A型エンジンは、それ以降ファミリアロータリークーペ、サバンナRX-3などに搭載された。10A型エンジンは5つのハウジング(2つの筒と3枚の板)で構成されており、開発目的が量産規模の小さいスポーツカー搭載用であるため、エンジンは0813 13 101cの2台のローターハウジング迄含み全て総アルミニウム合金であった。コスモスポーツ以後の量産モデルでは、サイドハウジング(フロント、インターミディエイト、リアの3枚)が鋳鉄に変更されている。コスモスポーツの10A型エンジンは炭素鋼が溶射されており高価かつ手の込んだものであるのに対し、10A型エンジンより後のエンジンでは、特殊鋳鉄を高周波焼入れ加工したものが採用され、量産化・低コスト化が図られている。また、加工法もコスモスポーツの砂型鋳造に対し金型鋳造とされ、大量生産された。

コスモスポーツは、前期型(L10A型)が1967年(昭和42年)に343台販売されたのを皮切りに、1972年(昭和47年)の後期型(L10B型)の最終販売車までの累計で1176台が販売された。コスモスポーツは後進のロータリーエンジン搭載車の礎となったモデルである。この後、1975年(昭和50年)のコスモAPの登場までコスモの名が一旦途絶えることとなった。

発売までのロータリーエンジン開発経緯は、ロータリーエンジンを参照。

プロトタイプ

1963年(昭和38年)10月26日から11月10日に開催された、第10回全日本自動車ショウ(後の東京モーターショー)に、マツダロータリーエンジンとして、400cc×1ローター(35PS)と400cc×2ローター(70PS)の2種類の試作エンジンが出展された。その時の、イラストの中にコスモスポーツが描かれていた。実車の公開はなかったが、その時初めてコスモスポーツが公に公表された[出典 1]

1964年(昭和39年)の9月26日から10月9日に開催された、第11回東京モーターショーに、初めて実車(プロトタイプ)が出展された。搭載されたエンジンは、400cc×2ローター(70ps/6,000rpm)だった。この時、当時の松田恒次社長が自らコスモスポーツのハンドルを握って広島から到着、帰路には各販売会社、メインバンク住友銀行池田勇人首相などを訪問したというエピソードも残っている。

1965年(昭和40年)10月29日から11月1日に開催された、第12回東京モーターショーにもコスモスポーツが出展された。このときの展示は最終生産型として展示され、その時に、全国各地のマツダディーラーに委託して実用化テストを行う事を発表した(その時は詳細を公表せず)[出典 2]

1966年(昭和41年)10月26日から11月8日に開催された、第13回全日本自動車ショーにも続けてコスモスポーツが展示された。実用化テストに基づきさらなる改良が加えられ、1967年(昭和42年)春発売予定、価格未定とアナウンスされた[出典 3]

市販までに、テストは各地のディーラーに委託されたコスモスポーツ60台により、1年の期間を費やして実施され、その間、本社では試作車による10万kmに及ぶ連続耐久テストを含み、総距離300万kmにも達する走行テストが行われた。

前期型

コスモスポーツの前期型L10Aには、10A型ロータリーエンジン(491 cc ×2)が搭載された。9.4の高圧縮比とツインプラグによって110 PS /7,000 rpm、13.3 kgf·m /3,500 rpm を発揮した。車重は940 kg と比較的軽量であった。

エンジン以外の基本レイアウトは、この時代では常識的であったフロントエンジン・リアドライブであるが、当時の日本製乗用車としては相当に高度なスペックが奢られていた。サスペンションは、フロントがダブルウィッシュボーン+コイルスプリングの独立懸架、リアは独立懸架こそ断念されたが、バネ下重量の軽減を図り、ド・ディオンアクスルをリーフスプリングで吊る形式が採用された。ステアリングギアにはクイックなラックアンドピニオン形式を採用している。トランスミッションは4速フルシンクロで、ブレーキは前輪がダンロップ型ディスク、後輪はアルフィン・ドラムであった。なおブレーキは前後2系統が独立したタンデムマスターシリンダー式となっており、どちらかが故障した場合に備えた安全性の高いものとなっていた。

ロータリーエンジンは極力低く、そして後方に配され、のちのマツダアイデンティティーともなるフロント・ミッドシップの発想が既に生かされていた。重量物であるバッテリーは、前期型ではトランクに置かれ、後期型では助手席後部に設けられたツマミで開閉する蓋付きのケースに収められた。

ボディ

ロータリーエンジン搭載用に専用設計されたボディはセミモノコック方式であった。ボディは開口部以外には継ぎ目がなく、ハンドメイドのスペシャルカー然としていた。また、開口部のリッド類は来たるべき高速時代を見越して、全て安全な前ヒンジ(エンジンフードは逆アリゲーター)とされた。デザインにあたっては革新的なロータリーエンジンにふさわしい、大胆かつ斬新なスタイルが望まれた。開発当初、当時の社長である松田恒次から「売り出すつもりのないイメージカーだ」といわれたからこそ、この思い切ったスタイリングが生まれたともいわれる。

全高は1,165 mm と低かった。「軽量コンパクトなロータリーエンジンでなければ成しえないデザインを」という、学芸大卒業のマツダ初のデザイナー小林平治の意図はその低さに結実し、伸びやかなリア・オーバーハング、ボディー中央を走るプレスラインとあいまって、コスモスポーツの未来的なイメージをさらに強調している。ボンネットの低さとエンジンフード(リッド)の小ささは、ロータリーエンジンのコンパクトさを暗示している。また、バンパーを境に上下に分けたテールランプも特徴的である。ただし、全長に比してリアオーバーハングが大きいスタイルのため、運動性の面では不利なものとなり、「スポーツ」の名とは裏腹に、むしろグランドツーリングカーとしての性格が強くなった。

内装

フルパッドのダッシュボードに組み合わされるアルミニウムのインパネは艶消しの黒で統一され、無反射ガラスの7連メーター(左から時計燃料計電流計速度計回転計油温計水温計の順)が整然と並ぶ。内装は天井も含めて黒のビニールレザーのフルトリムとされ、通気性を考慮し、シート中央のみ白黒の千鳥格子柄のウールを使用している。前期型のL10Aは法制化前のため、ヘッドレストが無い。

前後に調節可能(テレスコピック)な3本スポークのウッドステアリングホイール(一部、1970年 - 1971年式:ナルディ社製Φ380)が標準となっている。床敷物は真っ赤な絨毯で、シフトノブは自然に手を下ろした位置にあり、腕を大きく動かすこと無く操作できるショートストロークとなっている。クラリオン製オートラジオトグルスイッチを上下に作動させるタイプのセミオート・アンテナ、メーター照度調節、ホーン音質切替え(市街地用、高速用)、2スピードワイパー(払拭中にスイッチを切っても停止位置に復帰するタイプ。高速時の浮き上がりを防止するフィン付き。)、さらにマップ・足元(ドア開閉連動)・グローブボックス・トランクの各ランプなども標準で装備されていた。

ドアは二段チェッカーであり、スマートに乗り降りできるように考えられていた。座席の後ろには手荷物を置くためのスペースが設けられ、固定用ベルトも装備されていた。リアガラスは非常に曲率の大きなものが用いられ、室内の開放感を高めた。RX-8、および歴代RX-7のリアガラスは、このオマージュとされる。助手席側サンバイザー裏面には鏡、足元にはフットレスト、グローブボックス脇にはアシストグリップも装備された。

販売価格

価格は148万円で、同時期の趣味性の高い車種で比較すると、いすゞ・117クーペの172万円ほどではないが、ダットサン・フェアレディ2000の88万円、日産プリンス・スカイライン2000GT-Bの94万円と比べるとはるかに高価であった。

走行性能

ロータリーエンジンの走りは、レシプロエンジンとはまさに異次元の感覚をもたらした。当時、ほとんどのレシプロエンジン搭載の国産車は4,000 rpm を過ぎたあたりから騒音振動が大きくなり、100 km/h を超える高速走行では会話すら困難となり、怒鳴りあうようにしなければならないこともままあった。しかし、ロータリーエンジンはレッドゾーンの7,000 rpm まで静粛かつスムーズに吹けあがった。

カーグラフィック誌によるマツダ製ロータリーエンジン車の燃費テスト結果を以下に示す。

  • コスモスポーツ (L10A)8.3 km/L(試験距離:公道998 km、サーキット108 km、1967年9月号)
  • カペラロータリークーペGS7.07 km/L(試験距離:4,300.6 km、1970年10月号)
  • サバンナRX-7リミテッド (SA22C)7.68 km/L(試験距離:1,555 km、1978年6月号)
  • サバンナRX-7 GT-X (FC3S)5.0 km/L(試験距離:1,007 km、1985年12月号)
  • アンフィニRX-7 type R (FD3S)5.2 km/L(試験距離:970 km、1992年2月号)

各年代の道路事情やテスト条件の相違などから一概に結論付けられないが、以上の車の中では、燃費性能でトップの値を記録している。

後期型

ファイル:L10B cosmo tm.jpg
コスモスポーツ後期・斜め前方より(トヨタ博物館、2007年2月撮影)
ファイル:1967 mazda cosmo sport 3.jpg
コスモスポーツ後期・後部(マツダミュージアム、2005年3月撮影)
ファイル:1967 mazda cosmo sport 2.jpg
コスモスポーツ後期・右側面(マツダミュージアム、2005年3月撮影)

1968年(昭和43年)7月には早くもマイナーチェンジ(L10AからL10Bに形式変更)が行われ、ラジエーターエアインテークの拡大、ブレーキ冷却口の新設、ホイールベース・全長・トレッドの拡大、トランスミッションの5速化、前後ブレーキへのハイドロマスター(倍力装置)が装着された。ラジアルタイヤ標準化(155HR15)、ポートタイミングの変更にともなう吸入効率向上によるパワーアップ(110 PS /13.3 kgf·m → 128 PS /14.2 kgf·m)等を施された。この結果、最高速は185 km/h → 200 km/h、0-400 m 加速も16.3秒 → 15.8秒となった。

マイナーチェンジによって、当時としては高級品であったヂーゼル機器製のカークーラーがオプションで装着可能となった。このヂーゼル機器製クーラーの価格は40万円を超えたという。ユニットは座席後ろの手荷物スペースに置かれたため、冷風は後方から吹き出す形であった。コスモスポーツ専用設計のクーラーであったため効きは悪くなかったが、発熱量の多いロータリーエンジンのため、オーバーヒート気味となることもままあった。当時の取扱説明書にも「クーラ装着車はクーラ作動時、シフトをTOPおよびO・Tにし、エンジン回転1,500rpm以下の低回転でノロノロ運転している場合オーバ・ヒート気味になることがありますので、このような場合はシフトを2速か3速にして運転してください。」(原文)との記載がある。

また室内のウォッシャー・ワイパー・ディマー・ターンシグナルの4スイッチが、1本のコンビネーション・レバーにまとめられた。3点式シートベルト、調整可能なヘッドレストも後期型より装備された。パーキング(エンジン始動時自動消灯)や非常灯も装備された。

この後期型(L10B)の価格は158万円であった。なお、車両型式名はL10Bとなり、エンジンの排気量は変わらず型式も10A型のままであったが、ポートキャブレターマフラーなどの仕様が数回変更された。

その他

石原慎太郎参議院議員として初登院の際に、国会に乗りつけたことでも知られている。 もともと石原家は広島出身で、マツダがNSU社との契約を結ぶ際の架け橋となったとされる。 (マツダ → 石原家 → 池田総理(日)→ アデナウアー首相西独)→ NSU)

コスモスポーツの発売に合わせ、東洋工業は、1967年6月1日新聞各紙に「世界の注目をあつめてロータリーエンジン搭載車いよいよ登場!」と題する全面広告を出した。その広告は全面であることを生かし、市販量産車としては世界初のエンジンであること、耐久性、革新性、スムーズさ、スタイリング、保証制度、装備、発表会の告知等を訴えるものであった。その翌日の6月2日、今度はトヨタ自動車2000GTの全面広告を出した。このことから、当時のトヨタのマツダ・ロータリーに対する対抗意識が垣間見えるようである。

その後、6月6日から11日にかけて、東京都中央区日本橋高島屋で、コスモスポーツ発表会が開催された。コスモスポーツ1号車が出品され、展示会撮影会・試乗会といった内容であった。

1967年(昭和42年)には、調布 - 八王子間が開通した中央自動車道に、高速パトロールカーとして警視庁第八方面交通機動隊に配備された。 テンプレート:-

1971年 (昭和46年)の特撮テレビ番組『帰ってきたウルトラマン』にて、防衛チームMATの専用車両「マットビハイクル」として後期型が登場している。その未来的なフォルムを生かして、大きな改造は無く(後にリアスポイラー、劇中ではスタビライザーを装備)ほぼ量産車そのままの外観で使用されている。

2代目・コスモAP/コスモL(1975年 - 1981年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表

コスモAP

コスモスポーツ製造中止より3年後の1975年にコスモAPとして復活した。

APとはアンチ ポリューション・公害対策の意味である。オイルショック後にマツダが初めて発表したモデルで、コスモスポーツと路線の異なるスペシャルティカーとなった背景には、北米市場の要求があった。当時は、折からの自動車排出ガス規制の影響によって、スポーツモデルが次々と消えていこうとしている時期であり、その中で登場したパワフルなコスモAPは一際目立つ存在となった。内装、装備に至っても高級感と豪華さを押し出したものとなり、発売直後から高い人気を誇った。

エンジンは135PSの13B、125PSの12A、レシプロの2000、1800の4タイプのバリエーションがあった。前期型は丸型4灯のヘッドランプとL字型のテールランプ、縦基調のラジエーターグリルと、マツダ独自の空力理論[補足 1]に基づくエンジンフード先端の処理が特徴であった。1979年のマイナーチェンジでは、異型角形2灯のヘッドランプと格子調のグリル、横長のテールランプへと変更され、雰囲気が一変した。

コスモの登場により、各社のスポーツモデル開発に火がつき、様々な人気車が生まれた。

輸出名はロータリーエンジン搭載車が「マツダ・RX-5」、レシプロエンジン搭載車が「マツダ・121」であった。

コスモL

コスモAPから遅れること2年、1977年にバリエーションモデルとして追加された。“L”はランドウトップの頭文字で、高級馬車であるランドーレットの屋根形式に由来する名前である。最大の特徴は、その名のとおりランドウトップにある。コスモAPではファストバックであったが、コスモLではノッチバック + ハーフレザーのトップ車両屋根)となっていた。これも北米市場からの強い要求によるもので、マスタングをはじめトヨタカローラおよびセリカなども2種類のバックスタイルのクーペボディをそろえている。

ランドウトップのコスモLはリアシートの頭上高に余裕があり、居住性が良いことと、クオーターウインドウ(オペラウィンドウと呼称していた)が小さく、プライバシーが守れることで、コスモAPとの性能、装備の違いは無くとも、やや高い年齢層に向けた高級モデルとしての位置づけであった。

1979年マイナーチェンジ。APと同様に異型角形2灯のヘッドランプと格子調のグリルへと変更。

市場での評価とは別に、工場内での評価は全く異なるものがあった。ファストバック車両の場合は、プレスした車体パネルを溶接する際、Cピラーの溶接部分が表に出てしまうので、通常は半田で表面を埋めてなだらかに仕上げる工程があった。ランドウトップでは、この工程を省略できたので公害も発生せず、その意味で高い評価を得ることになった。 テンプレート:-

3代目・コスモ(1981年 - 1990年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 1981年に登場した、3代目コスモは4代目ルーチェ姉妹車になった。ボディバリエーションは3種類を揃えたが、それぞれの登場時期は複雑で、まずは9月に2ドア・ハードトップが先行発売され、同年10月1日に4ドア・ハードトップ、2週間後の10月16日に4ドア・セダンとロータリーエンジン搭載車がそれぞれ時期をずらして発売された。空力に配慮されたデザインが特徴であり、ハードトップは4灯式のリトラクタブル・ヘッドライトを持つ。中でも2ドアのCd値は当時としては世界トップクラスの0.32を記録していた。エンジンは当初、従来型と同じMA型4気筒2Lレシプロエンジン(EGIおよびキャブレター仕様)のみが先行発売されたが、2,200ccディーゼルエンジン(セダンのみ)、12A型ロータリーエンジン(573cc×2)も10月16日の4ドア・セダンと同時に追加された。

12A型ロータリーエンジンは新たに6PI(シックス ピー アイ)と名付けられた、6ポート・インダクションを採用、これは従来1ローターあたりプライマリーポート、セカンダリーポートと吸気ポートを2つ設けていたものを、新たにセカンダリーポートをメインポート、補助ポートと分割し、1ローター毎3ポート(2ローターで計6ポート)としていた。これにより燃費や出力の向上を謳っていた。

1982年10月、12A型ロータリー・ターボ車を発売(ルーチェとともに世界初)。耐久性の関係から6PIの採用は見送られた。「全域・全速ターボ」と名付けられたこのエンジンは、1982年当時の国産車の中ではトップクラスの性能を誇り、1980年代に行われる高性能戦争へ先鞭をつけた。

インテリアでは、デジタルながら面積変化で情報を伝えるスピードメーター、サテライトスイッチの影響が見られるメーターナセル両端に配したエアコン、灯火類、ワイパーなどのスイッチ、カセットテープを見せるデザインの正立型カーオーディオ、シートバックの中折れ機構などに特徴がある。

自動車ジャーナリストの三本和彦は、1982年9月にコスモ・ロータリー・ターボを自動車ジャーナリスト3人で茨城県筑波郡谷田部町(現・つくば市)の日本自動車研究所において、谷田部24時間耐久テストを行った。高速耐久トライアルとしては2000GTによるものが有名であるが、6時間時点での2000GTの新国際記録210.42km/hを上回っている(最終的に2000GTは、72時間で平均206.02km/h)。

1983年10月、マイナーチェンジ。個性的なデザインからかルーチェともども販売が芳しくなく、4ドア・ハードトップのフロントマスクを一般的な固定式ヘッドライトへと変更する。同時に4ドア系に13B型ロータリー・スーパーインジェクション(SI)車を設定する。なお、2ドア・ハードトップは従来のリトラクタブル・ヘッドライトを継承した。

1984年9月、2ドア・ハードトップをマイナーチェンジ。「GT」以外の改良を行い、4ドア同様の固定式ヘッドライトに替えられる。

1985年5月、モデル末期のグレード整理とテコ入れとして、レシプロエンジン車に「ジェンティール」シリーズを投入。

ルーチェは1986年にモデルチェンジされたが、コスモはハードトップのみが残り1990年まで継続製造された。

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4代目・ユーノスコスモ(1990年 - 1996年)

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 1990年4月、ユーノスコスモは量産車初の3ローターのロータリーエンジンを搭載した自動車として登場した。キャッチコピーは『クーペ・ダイナミズム』。ボディは2ドアクーペのみ。当時、マツダは販売チャンネルのディビジョン(多チャンネル化。GMでいうシボレーポンティアックビュイックキャデラックのような展開)にはマツダ、ユーノス、アンフィニオートザムオートラマがあり、この車はユーノスブランドフラグシップであった。なお、この車に使用されたユーノスのエンブレムは初代・コスモスポーツのようなローターを象ったものであった。耳目を集めた世界で初めての「CCS」と呼ばれるGPSカーナビ三菱電機と共同開発)を20Bエンジン車に標準搭載していた。また、高級クーペらしく内装にも相応のこだわりがあり、イタリアで誂えたウッドパネルをインパネに装着していた。そのウッドパネルも全面に貼るようなことはせず効果的に配して品よくまとめられていた。さらに、フルオートエアコンの操作はカーナビディスプレイを兼ねるタッチパネルでのみ操作が可能という当時としては珍しい方式であったが、以降各高級車を中心に普及する。なお、カーナビが標準装備されない場合は液晶付きフルオートエアコン操作パネルが付く。エンジンは13B-REWと20B-REWの2種が設定された。いずれもシーケンシャルツインターボである。これは日本車としては初の採用であった。なお20Bは3ローターエンジンである。タイプはTYPE-ECCS・TYPE-E・TYPE-S(前期・中期型)・TYPE-SX(後期型のみ)。1996年まで生産された。プラットフォームマツダ・JCプラットフォームを採用している。

マツダエンジニアの夢であったV12エンジン並の滑らかを持つ、と言われる3ローターエンジンである20Bは非常に高出力で、当初333馬力で設計されていたが当時の通産省の行政指導により(後に2ローターである13B-REWも280馬力を達成する)280馬力の自主規制枠内に収めることが必要でデチューンされ市販された。ターボへの排圧を低くし最高出力を抑えるため13Bに比べ排気ポートが狭く塞がれている。

エキセントリックシャフトや後部のローターの冷却性に難があった。シーケンシャルツインターボは、RX-7(FD3S型)に搭載されているそれとは相違し、プライマリー側とセカンダリー側で異なったサイズのタービンが採用されたが、これがエンジントラブルの原因のひとつとなっている。また1,500rpm以下では充分な圧縮が得られないロータリーエンジン特有の構造ゆえ、燃費は低回転のアイドリングではセルシオ(UCF10型)を上回る燃料消費だったため、渋滞の続く市街地ではリッターあたり1~3km台と非常に悪いものとなっている。20B-REW搭載車のマフラーは高回転域で経路が変更される可変排気機能が採用されており、4本のマフラーが回転により開口ポート数が変化した。外観では13B-REW搭載車のテールパイプが2本出しであるのに対し、20B-REW搭載車のそれは4本出しとなっており、容易に区別が付く。

ターボ過給された3ローターエンジンの大トルクに耐えられる、乗用車向けMT用クラッチが当時は開発されなかったため、AT車のみである。 複雑な負圧制御を行っておりバキュームチューブの更新が欠かせない。

税法上3ローター車は3,500cc以下区分に該当する。 1991年には、ハードサスペンションやBBSのホイールを装着した特別仕様車、TYPE-SXが登場した。 当初の企画にはサンルーフが設定されており、電気系ヒューズにも専用回路が存在するが、先進的な液晶タイプのものを採用が予定されていたものの、ノイズ処理や耐久性などの問題をクリアできておらず、販売の低迷でコスモ自体の採算が見込めなくなったため、断念された。 テンプレート:-

補足

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  1. この空力理論は4代目ファミリアと3代目カペラにも取り入れられている。

出典

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  1. 日本のショーカー1 1954~1969年 P.43,P.55
  2. 日本のショーカー1 1954~1969年 P.79
  3. 日本のショーカー1 1954~1969年 P.90

参考文献

  • 『日本のショーカー1 1954~1969年』(二玄社) ISBN 4-544-91032-3

関連項目

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外部リンク

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