ビリー・ホリデイ

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テンプレート:Infobox Musician ビリー・ホリデイBillie Holiday, 1915年4月7日 - 1959年7月17日)は、アメリカ合衆国黒人女性ジャズ歌手

レディ・デイ」の呼称で知られる。サラ・ヴォーンエラ・フィッツジェラルドと並んで、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の1人に数えられる[1]人種差別や、麻薬アルコール依存症との闘いなど壮絶な人生を送った彼女は、多くの人々を魅了したその声も晩年にはかれ、音域も極端に狭くなっていた。しかし、なお情感豊かな唄声は他に並ぶ者がないほどの高い評価を与えられ、ジャニス・ジョプリンをはじめとする多くのミュージシャンに影響を与えた。

彼女の生涯に於いて代表的なレパートリーであった「Strange Fruit奇妙な果実」や「God Bless' the Child (神よめぐみを)」、「I Love You, Porgy (アイ・ラブ ・ ユー、ポーギー) 」、「Fine and Mellow (ファイン・アンド・メロウ) 」は、後年、多くのミュージシャンに取り上げられるジャズ・ヴォーカルの古典となった。

ジョン・ハモンドに見出され、初レコーディングはベニー・グッドマン楽団と行う。その後、テディ・ウィルソン楽団、カウント・ベイシー楽団らと共演した。特に、著名なミュージシャン達から大きな目標とされていたサックス奏者レスター・ヤングとの共演が名高い。

Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第12位[2]

従兄は、プロボクサーヘンリー・アームストロング

2000年に、ロックの殿堂入りを果たした。

生涯

女、黒人、そして貧困

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ビリー・ホリデイ
1917年撮影 PD

ビリーことエリノラ・フェイガン・ゴフは、1915年にフィラデルフィアで生まれ、メリーランド州ボルチモアのフェルズ・ポイント地区で育った。

彼女が生まれたとき、母、セイディ・フェイガンは19歳。母子家庭で育てられ、父はクラレンス・ホリデイ17歳とされているが、確かなことは不明。ただ、母が「あなたの父さんはクラレンス・ホリデイ」と言っていたことから、「ホリデイ」を名乗る。

自伝『レディ・シングス・ザ・ブルース』[3]によると、ビリーはこの本の中で15歳の父と13歳の母という「子どものような」ふたりが結婚し、自分はその間に生まれたとされているが、これはビリー本人により捏造された話のひとつである。この自伝は、近年、ジャーナリストたちの尽力により、彼女が自分の出生を脚色していたことが明白になってきた。事実は、彼女が言うほど牧歌的なものではなかったようだ。クラレンスとセイディは結婚しなかったばかりか、クラレンスは生まれた子・エリノラを認知しようとさえしなかった。彼はジャズギタリストであり、夜はナイトクラブで演奏。昼は街頭を流して生活をしていた。母親のセイディにとっても娘の面倒を見る時間など無く、結果、エリノラは母の親族に委ねられてしまう。

母セイディはボルチモアで次々と職を変え、その合間を縫ってニューヨークを訪れては売春を重ねた。親族の家を転々として生活していたエリノラにとっても、日々の生活は楽なものではなかった。従姉アイダの暴力に耐えなければならないうえ、ある日、初めてトラウマ(心的外傷)を経験する。自分を腕に抱き、昼寝させていた曾祖母がそのまま死亡してしまったのだ。幼い彼女は死後硬直した曾祖母の腕で首を絞められて目覚め、パニックを起こす。そのときの心的外傷後ストレス障害からエリノラは何週間もの間、酷い無言症を患うことになった。

数年後、母セイディはエリノラを再び手元に引き取った。だが彼女は相変わらず外泊が多く、そんなある夜、エリノラは近所の男に強姦されてしまう。イギリスの音楽ジャーナリストが著した『ビリー・ホリディ』[4]によると、それは1926年、クリスマス・イブのことだった。朝、当時の恋人と一緒にセイディが家に戻ると、11歳のエリノラ(彼女の自伝には10歳だったと記載)が男とベッドの中に居たのだ。エリノラはすぐに医師の診察を受け、男は有罪になったものの、親の保護と養育が充分ではないと判断されたエリノラは、1925年に補導されたときと同様、カトリックの修道女が運営する施設「よきヒツジ飼いの家」に再送致される。1927年2月まで生活した修道院は、13〜18歳の黒人少女が集められた更生施設だと謳っていたが、内情は虐待や暴行が日常茶飯事のように行われ、しかも事実上の感化院であった。

1928年、セイディは娘を取り戻し、ニューヨークへと移り住む。娘を売春宿に預けて再び売春を始めるが、1929年には母と共にエリノラまでが売春の容疑で逮捕、留置されたという記録が存在する。

やがてビリーは、禁酒法時代のハーレムの真ん中で、非合法のナイトクラブに出入りするようになった。大量のアルコールと朝まで響きわたるジャズ。無一文で、住むところも追い立てられる状況の中、地元のクラブで「Body & Soul (身も心も)」を唄うビリーに、観客は皆、涙したと伝えられる。様々なクラブで仕事をするようになったホリデイは、ハーレムの有名なジャズクラブ「ポッズ&ジェリーズ」でも唄い始めた。この頃、エリノラの父クラレンス・ホリデイはフレッチャー・ヘンダーソン楽団で演奏しており、彼女は父親との再会を果たしていた。

そんな中、偶然に導かれるように彼女はサックス奏者のケニス・ホーロンと出会い、彼と共にクイーンズとブルックリンで最初の契約を手に入れる。エリノラ、15歳。芸名を決める時期がきた。何でもよかった訳ではない。幼い頃、自分に会いに来た父が男の子みたいな娘をからかって「ビル」と呼んでいたことを覚えていた彼女は、そのニックネームに、父の姓をつけて芸名とした。不世出のジャズ・シンガー、「ビリー・ホリデイ」の誕生である。

最初の成功・出会い

ビリーが数々のミュージシャンと出会いを重ねられたことの影には、父クラレンスの影響も多少あるだろうが、何より彼女自身が持っていた才能のためであった。特にボビー・ヘンダーソンとは、ハーレムにあるいくつかのクラブを一緒に回り、やがてコンビを組むまでになる。大恐慌下のアメリカでは、人生はバラ色ではなかった。ビリーはチップを得ることで満足し、「Trav'lin' All Alone (トラヴェリン・オール・アローン) 」や「Them There Eyes (ゼム・ゼアー・アイズ) 」を唄う頃にはそこそこの蓄えができていた。

1933年コロムビアレコードのプロデューサー・ジョン・ハモンドがクラブ「モネッツ(Monette's)」で穴埋めを務めていたビリーの唄を偶然耳に留め、その才能を見出す。彼は早速コロムビアのスタジオに彼女を呼び、既に契約を交わしていたもう一人の若いミュージシャン、クラリネット奏者ベニー・グッドマンとのセッションを企画する。この日、彼女は「Your Mother's Son-in-Law (ユア ・ マザーズ ・ サン ・ イン ・ ロウ) 」と「Riffin' the Scotch (リフィン ・ ザ ・ スコッチ) 」を唄い35ドルを受け取る。翌年、若い才能を求めて人々が集まることで知られるアポロ・シアターで、彼女はボビー・ヘンダーソンと共演。しかし、それからしばらく経ち、ボビーが既婚者であったこともあり、二人は別れる。

ビリーは将来性のある様々なミュージシャンと出会う機会に恵まれたが、その中にはフレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板スターであったレスター・ヤングもいた。ビリーとこのサックス奏者はすぐに意気投合する。レスターはビリーのことを「レディ・デイ」と呼び、ビリーは彼を“サックス奏者の代表”という意味で「プレジデント」、時には略して「プレズ」と呼んだ。ステージを終えた後、二人は夜が明けるまでクラブをはしごして歩いたという。

絶頂期

歴史に残るジャズピアニストであり作曲家であるデューク・エリントンとも共演した。デュークは、1935年に発売された自身の短編映画『シンフォニー・イン・ブラック』にビリーを起用し、「Saddest Tale (サディスト・テール) 」を唄わせた。同時期に、彼女は若いサックス奏者ベン・ウェブスターとも共演し始める。

1935年7月2日、プロデューサーのジョン・ハモンドは、ニューヨークを拠点とするブランズウィック・レコードから発売するレコードを企画。サックスのベン・ウェブスターに加えて、クラリネットにはベニー・グッドマンピアノテディ・ウィルソントランペットジョン・トゥルーハートベースジョン・カービー、そしてコージー・コールドラムスに迎え、「What a Little Moonlight Can Do (月光のいたずら) 」と「Miss Brown To You (ミス・ブラウン・トゥ・ユー) 」を録音。ベストメンバーでレコーディングされた楽曲は、見事その年のベストセラーに輝いた。ビリーにとって順風満帆の時期であった。情事も途切れることはなかったが、一方では母セイディに小さなレストランをもたせ、明け方、朝食に立ち寄ることも少なくなかったという。

テディ・ウィルソンと組んで多くの契約をこなしながら、ビリーはニューヨークにおけるジャズ・スターの一人になる。親密な雰囲気を得意とするビリーのスタイルは、ベッシー・スミスやそれに続くシンガーたちが好んで立つ“大舞台”向きではなかったが、レスター・ヤングと組んだレコードは売れ、やがて彼女はカウント・ベイシー楽団やアーティ・ショウ楽団とも共演するようになる。 ビリーは白人オーケストラと仕事をした最初の黒人女性であり、当時のアメリカでは画期的な出来事であった。しかし、彼女に対する人種差別は消えず、アーティ・ショウ楽団との地方巡業の途中で切り上げざるを得なくなってしまう。ジム・クロウ法の激しい南部の州では、黒人であるビリーは彼らと一緒に唄うことが出来ないばかりか、楽団員と一緒のホテルを予約することも、レストランに入ることすらできなかったのだ。

『奇妙な果実』

バンドから独立しニューヨークに戻ったビリーはクラブで唄い続ける。契約はジョン・ハモンドが取ってきたが、とりわけ「カフェ・ソサエティ(“Cafe Society”)」の専属歌手としての仕事は特筆に値するだろう。ニューヨークに開店した「カフェ・ソサエティ」は、出演者も観客も人種を問わず同席できる、当時のアメリカでは革新的なクラブである。ビリーの酒量が増え、舞台の合間にマリファナを吸うようになったのはこの頃である。また彼女がレズビアンとの関係を重ね、「ミスター・ホリデイ」の異名を取ったのもこの時期であった。

1939年3月、ルイス・アレンという若い高校教師が一篇の詩を綴り、それを読んだビリーは強く心を動かされた。それこそが、"Strange Fruit"(『奇妙な果実』)だったのだ。人種差別リンチによって殺された黒人が木に吊るされている、残酷でおぞましいアメリカ南部の景色。ビリーは、その詩の中に父・クラレンスの最期を見ずにはいられなかった。そのことをビリーは自伝の中で"― It wasn't the pneumonia that killed him, it was Dallas Texas.-" (パパが死んだのは肺炎のせいなんかじゃない。テキサス州のダラスが殺したのよ)と綴っている。父クラレンスが亡くなったのは1937年3月1日のことだった。巡業中に風邪から肺炎を併発したのだが、治療を受けるために回った幾つもの病院はどこも診療を拒絶。黒人であるクラレンスを閉め出した。しかもそこは、南部で最も人種差別の激しい地域の一つ、テキサス州ダラスであった。

南風に揺れる『奇妙な果実』。黒人に対する差別、横行するリンチのメタファーは、以後、カフェ・ソサエティとビリーにとってのテーマソングになる。この歌は論争を巻き起こし、間もなく発売されたレコードは大変な成功を呼んだ。

1941年にビリーは"Gloomy Sunday"(『暗い日曜日』)を取り上げる。本作は1930年代ハンガリー語から英訳されたものであったが、政治色は薄れていたにも拘らず『奇妙な果実』に続くヒットとなった。

苦悩

麻薬、そして母の死

これに続く数年間、ビリー・ホリデイは録音や契約を増やし、成功への道を歩み続ける。ロイ・エルドリッジアート・テイタムベニー・カーターディジー・ガレスピーというそうそうたるミュージシャンたちと仕事をする反面、私生活は、彼女が唄う歌と同じくらい荒れていた。彼女はトロンボーン奏者であり、麻薬の密売人でもあったジミー・モンローと関係を深め、母親と住む家を出て早々に結婚する。彼はビリーにアヘンを教え、次いでコカインを覚えさせた。

ジミーと結婚はしたものの、ビリーの情事は終わらなかった。彼女はやがてビバップのトランペット奏者ジョー・ガイと出会い、ジョーの影響で今度はヘロインに手を出した。黒人として初めて立ったメトロポリタン歌劇場での晴れやかな舞台でも、デッカと契約を交わしたときも、彼女はジョーの支配下にあり、ヘロイン漬けだったと言われる。 ビリーは当時を振り返ってこう語っている。 ―「私はたちまちのうちにあの辺で最も稼ぎのいい奴隷の一人になりました。週に1,000ドルを稼ぎましたが、私にはバージニアで綿摘みをしている奴隷ほどの自由もありませんでした」―[5]

やがて、ビリーについて「契約を守らない」、「よく舞台に遅れる」、「歌詞を間違える」といった噂が囁かれ始める。それを払拭するように、1945年、ジョー・ガイはビリーのために大掛りなツアー『ビリー・ホリデイとそのオーケストラ』を企画するが、巡業が始まってしばらく経った頃、一行の耳にビリーの母セイディの訃報が飛び込んで来た。レスター・ヤングが「公爵夫人(デュシェス)」と呼んだ、母の死。ビリーは嘆き悲しみ、鬱状態に陥る。アルコールと麻薬への依存はさらに深まり、結局ツアーは途中で打ち切られてしまうのだった。

1947年、大麻所持により逮捕。その年にジミーとの離婚を機にジョーとも別れた彼女は、ウェストヴァージニア州オルダーソン連邦女子刑務所で8ヵ月間服役生活を送る。だが、それによりニューヨーク市でのキャバレー入場証が失効してしまい、それから12年間キャバレーへの出演ができなくなってしまう。

逮捕・服役

第二次世界大戦終結後、ビリーは頂点を極める。彼女はピアニストのボビー・タッカーとのコラボレーションを開始する。レコードの売れ行きは順調で、1944年にはデッカと契約、1946年2月にはニューヨークのタウンホールを制覇した。

同時期、ビリーは自身の個性と切っても切り離せない作品群…「Lover Man (ラヴァー・マン) 」、「Good Morning Heartache (グッド・モーニング・ハートエイク) 」(アイリーン・ウィルソンが彼女のために書いた)と出会い、彼女自身の作曲による「Fine and Mellow (ファイン・アンド・メロウ) 」、「Billie's Blues (ビリーズ・ブルース) 」、「Don't Explain (言い訳はやめて) 」、そして、「God Bless The Child (ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド) 」を世に送り出す。

また、アーサー・ルービン監督の映画『ニューオーリンズ』にも出演。平凡な長編映画であったが、ルイ・アームストロングウッディ・ハーマンといった有名なジャズメンが一堂に会した作品だった。

だが同じ頃、彼女はジョー・ガイとよりを戻し、今度はLSDに手を出す。1947年初頭、マネージャージョー・グレイザーは解毒治療のために彼女を私立クリニックに入院させるが失敗に終る。結局、数週間後にビリーは麻薬不法所持で逮捕され、懲役1年の刑に処される。それからというものスキャンダルは途切れず、経済的にも追い込まれていった。彼女の報酬は麻薬と取り巻きの男たちのポケットへと消えていった。

彼女が出所したのは1948年3月16日だった。品行方正を認められての釈放だったが、彼女の心身は破壊されていた。

1948年3月27日、彼女はカーネギー・ホールの舞台に立つ。晴れやかな声、髪に挿した梔子の花、彼女は力尽きるまで唄う。21曲、アンコールに応えて更に6曲。公演は大成功だった。

ジョン・レヴィ、借金、そして断ち切れぬ麻薬

出所後、ビリーは〈道徳的資質〉基準に違背した廉(かど)で労働許可を没収される。最早ニューヨークのクラブ(およびアルコールを提供するあらゆる場所)で唄うことはできない。唯一の例外は舞台でのコンサートであったが、幾晩も連続して大ホールを聴衆で埋めることは困難だった。加えて、ジョー・グレイザーとその後彼女のマネージャーとなるエド・フィッシュマンとの間のエージェント戦争にも巻き込まれてしまう。

相次ぐ災難にもかかわらず、彼女はラジオでライオネル・ハンプトンと共演し、ストランド・シアターではカウント・ベイシーとも共演している。この頃から彼女の相手を務めるようになったのは、ジョン・レヴィという二流どころのギャングだった。嘲笑を込めて〈アル・カポネ〉と呼ばれていた男である。彼女はまた、良家の出身で一時期マレーネ・ディートリッヒとの浮名も流したことのある女優タルーラ・バンクヘッドとも関係を結ぶ。[6]

一方で彼女のヘロイン漬けの生活は続き、労働許可の没収により仕事をニューヨーク以外の場所に求めざるを得なくもなっていた。契約条件は不利になり、ギャラも少なくなっていったが、ジョン・レヴィは彼女の稼ぎをすべて吸い上げ、彼女を脅すようになる。折も折、彼女はサンフランシスコで麻薬不法所持により逮捕される。これに対して、タルーラ・バンクヘッドは自分のコネ、とりわけFBI長官であったエドガー・フーバーとの関係を駆使して彼女の釈放に尽力する。だが、災難は続く。彼女は相変わらずジョン・レヴィの暴力を受け続け、伴奏者であり友人であったボビー・タッカーは彼女と袂を分かつ。警察は執拗に彼女を追い回し、ヘロイン所持で何度も逮捕されそうになる…。メディアは隙あらば彼女に牙を剥き、襲いかかろうと待ち受けた。1950年の〈ダウン・ビート〉9月号にはこのようなタイトルが躍っている―《 「ビリー、またも災難」 》…。

1949年、デッカでの録音のとき、ビリーがリズムを合わせられなくなるという事態が起きた。ホレス・ヘンダーソンレスター・ヤングルイ・アームストロングなどが相手だった。遅れたり早過ぎたり、あるいはアルコールによって次第にべたついてゆく発声[7]。デッカは1950年の契約更新を行なわなかった。ビリーは借金で首も回らなくなってしまう。ジョン・レヴィは彼女の稼ぎをすべて懐に入れ、請求書は一切払おうとしなかった。この男と別れたとき、彼女はかなりの金銭を失うことになったが、一方で一定の自由を取り戻すことができた。だがニューヨークで唄うことの叶わぬビリーは、長いツアーをこなさなければならなくなる。1950年末、彼女はシカゴで〈ハイノート〉の舞台を若き日のマイルス・デイビスと分かち合い、再び成功に恵まれる。

一時代の終わり

昔の恋人ルイ・マッケイとの再会と、成功への回帰

1951年、ビリー・ホリデイはアラジンという小さなレコード会社で何枚かのレコードを吹き込むが、批評家からは不評を買う。彼女はデトロイトで昔の恋人ルイ・マッケイと再会する。彼女が16歳のときにハーレムで知り合った男だが、その時には結婚をし二人の子供の父親となっていた。彼はビリーの新たなマネージャー役に納まり、彼女のキャリアの復活に貢献する。彼女は西海岸に落ち着き、ノーマン・グランツのレーベル〈ヴァーヴ〉と契約する。ここで彼女は自分に相応しいパートナーたちに巡り会う。トランペットチャーリー・シェイヴァーズギターバーニー・ケッセルピアノオスカー・ピーターソンベースレイ・ブラウンドラムスアルヴィン・ストーラーサックスフリップ・フィリップス。『ビリー・ホリデイ・シングス』のタイトルで売り出されたレコードは鮮やかな成功を収め、引き続きその他の幾つかのセッションが録音される。にもかかわらず労働許可は再び却下され、彼女は肉体的負担の大きいツアーとコンサート(アポロ劇場、カーネギー・ホール)に頼る生活を強いられる。

1954年、ビリーは昔からの夢を実現する。初のヨーロッパ・ツアーである。ルイ・マッケイとピアニストのカール・ドリンカードを伴い、彼女はスウェーデンデンマークベルギードイツオランダフランスパリ)、スイスを回る。彼女がパリに立ち寄ったのは観光のためで、その後イギリスに向かい、そこでのコンサートは大成功を収める。このツアーは実り多く、ビリーにとっては最良の思い出の一つとなった。帰国すると、麻薬にもアルコールにもめげず、彼女は超人的な力を発揮する。カーネギー・ホールで唄い、ニューポート・フェスティバルに出演し、サンフランシスコで、ロスアンゼルスで唄い、ヴァーヴのための録音も続けた。〈ダウン・ビート〉誌は特別に彼女のための賞を設け、授与する。彼女は新しい伴奏者として若いメムリー・ミジェットを雇う。彼女との関係は単なる友情以上のものへと発展する。メムリーはビリーが麻薬を断つよう励まし手伝うが、失敗に終わる。彼女の影響を喜ばなかったマッケイによって、メムリーは追い払われる。

1955年4月2日、ビリー・ホリデイはカーネギー・ホールで催されたチャーリー・パーカー(3月12日死去)の追悼コンサートに出演する。サラ・ヴォーンダイナ・ワシントンレスター・ヤングビリー・エクスタインサミー・デイヴィス・ジュニアスタン・ゲッツセロニアス・モンクなどと並んで、ビリーがコンサートの終わりを告げたのは朝の4時頃であった。1955年8月、彼女はヴァーヴのために新しいアルバムを録音する。『ミュージック・フォー・トーチング』。ジミー・ロウルスのピアノ、ハリー・“スウィーツ”・エディソンのトランペット、バーニー・ケッセルのギター、ベニー・カーターのアルトサックス、ジョン・シモンズのベースそしてラリー・バンカーのドラムスを伴奏に彼女が実現した傑作の一つである。その後、彼女は西海岸でクラブの仕事を得る。

アルバム『レディ・イン・サテン』

1956年、ビリーはルイ・マッケイと共に麻薬不法所持で逮捕される。新たな裁判が予定される。彼女の自叙伝《レディ・シングス・ザ・ブルース》が出版される時期―この自叙伝は実質的には彼女のファンであった新聞記者ウィリアム・ダフティが、それまでに行なったインタビューを編集し直したものだった―、彼女は再度解毒治療を試みる。だが、彼女の健康は次第に蝕まれてゆく。彼女の新しいピアニストのコーキー・ヘイルは後にビリーの苦渋の様子を証言している。憔悴、麻薬とアルコールによる頽廃、いつもは長袖で隠してはいるが遂には手まで覆うようになった注射針の痕、疲労、体重の減少、舞台前の酔態。マッケイと共に裁判に掛けられると想像しただけで彼女は恐怖に陥る。そして、そのマッケイは徐々に彼女から遠去かって行った。

彼女はニューポートのフェスティバルに登場し、またCBSテレビの〈ザ・サウンド・オヴ・ジャズ〉にも出演する。主な共演者はレスター・ヤングコールマン・ホーキンスベン・ウェブスタージェリー・マリガンそしてロイ・エルドリッジ。また若き日のマル・ウォルドロンが彼女の新たな伴奏者として登場する。

1957年3月28日、ルイ・マッケイとビリーはメキシコで結婚するが、これは裁判で互いに不利なことを証言しないためであった。いずれにしても、二人の間は既に終っていた。判決(12ヶ月の執行猶予)が言い渡されると、マッケイはビリーの許を去り、ビリーは離婚手続きを開始する。1958年2月、彼女は新曲ばかりを揃えた『レディ・イン・サテン』を録音する。伴奏は編曲を担当したレイ・エリスが率いるオーケストラだった。それは胸を刺すようなアルバムだった。1959年録音の『ビリー・ホリデイ』とだけ題された最後のアルバムにも匹敵するような悲痛さを感じさせた。彼女はまた1958年10月のモントレー・ジャズ・フェスティバルにも参加し、11月には二度目のヨーロッパ・ツアーを行なう。イタリアで彼女の唄は野次で迎えられ、公演は切り上げられた。パリでは、オリンピアでの公演をようやくのことで勤めたものの、彼女は憔悴し切っていた。ツアーは風前の灯だった。彼女はマル・ウォルドロンとベースのミシェル・ゴードリーとともにマース・クラブの出演を引き受ける。聴衆はみな彼女の唄に惹きつけられ、ビリーはここで成功を収める。マース・クラブを埋めつくした聴衆の中にはジュリエット・グレコセルジュ・ゲンスブールといった当時の有名人たちの顔もあった。

当時の記憶を作家フランソワーズ・サガンはこう綴っている。

《 それはビリー・ホリデイだった。だが、彼女ではなかった。痩せ細り、年老い、腕は注射針の痕で覆われていた。……眼を伏せて歌い、歌詞を飛ばした。まるで嵐に揉まれる船上で手すりにでも掴まるかのようにピアノにもたれた。集まった人々が拍手を送ると、彼女は聴衆に向って皮肉とも哀れみともとれる眼差しを投げかけるのだった。それは自分自身に対する容赦ない眼差しでもあったのだろう。 》[8]

晩年

何年も前から、ビリーは病に侵されていた。両脚には浮腫が出現していたし、何よりも肝硬変が悪化していた。それでも彼女は酒を止めることができなかった。朝から晩まで酒を飲み続けた。2回目のヨーロッパ・ツアーで彼女は疲労していたが、数ヵ月後には再びロンドンへ渡り、『チェルシー・アト・ナイン』というテレビ番組に出演している。帰国は困難を極めた。1959年3月15日、ビリーはレスター・ヤングの訃報を耳にする。埋葬のとき、レスターの妻はビリーが唄うことを拒絶、嘆きと悲しみにビリーは泣き崩れる。葬儀からの帰路でビリーはこう呟いたと伝えられる…『あいつら、唄わせてくれなかった。この次はあたしの番だわ』

翌4月7日、彼女は44歳を迎える。マサチューセッツでの複数の契約を果した後、5月25日にはニューヨークのフェニックス・シアターでのチャリティー・コンサートで唄っている。舞台裏では友人たちが彼女のあまりの変貌に驚き、ジョー・グレイザーなどは彼女を入院させようとするが、彼女は聞き入れなかった。5月30日、彼女は自宅で倒れ、ハーレムのメトロポリタン・ホスピタルに入院を認められる(その前にニッカーボッカー病院で入院を拒否されたのは、麻薬常習者は昏睡状態にあっても受け入れられないという理由からだった)。

肝硬変以外にも、腎不全の診断が下される。メタドン治療が施され、少しずつ回復するかに見えた。アルコールと煙草は禁止されていたが、ビリーは隠れて喫煙を続けた。更に悪いことに、6月11日、彼女のハンカチ箱の中から僅かな白い粉が発見される。彼女は逮捕され、病室で何日間か警察の監視下に置かれる。裁判は彼女の回復を待って行なわれることになった。回復は順調に見えたが、7月10日、病状は急変する。腎臓感染と肺鬱血が認められた。ルイ・マッケイとウィリアム・ダフティが病床に駆けつけた。7月15日早朝、ビリーはローマ・カトリック教会の最後の秘蹟を受ける。

1959年7月17日朝3時10分歿。 44年の生涯であった。

葬儀は1959年7月21日、セント・ポール教会で行なわれた。3,000人の群集が参列し、人の波はコロンバス・アベニューまで続いた。遺体はブロンクスのセント・レイモンド墓地にある母親の墓石の下に埋葬された。1960年、ルイ・マッケイは彼女の棺を別の墓に移動させた。その死に当って、ビリーが唯一の相続人であるこの前夫(まだ離婚手続きは完了していなかった)に遺したのは1,345ドルであった。しかし僅か6ヵ月後の1959年末には、彼女のレコードの印税は10万ドルに上った。

尚、彼女を死を悼んで彼女の伴奏者であったマル・ウォルドロンが「Left Alone (レフト・アローン)」を制作している。

ビリーの声は時が経つにつれて変化しており、それは一聴で判断し得る。1930年代半ばの最初の録音では弾みのある、少女のような声が際立っている。1940年代初頭までに、演技力が目立つようになり、“奇妙な果実”や“ I Cover the Waterfront ”のような彼女のテーマソングが録音されたのもこの頃である。多くの人は彼女の唄声に、可憐さや悲しみ、熟練と洗練といった特徴を認めてきた。年を重ねるにつれて薬物依存症の影響で声域は損なわれ、声質もかなり変わり、やや聴き苦しいものとなった。

声の中の人生

耳にした途端それと判る声、如何なる分類にも収まりきらない声―。それが、ビリー・ホリデイの声だった。20歳にして既にビリーはお手本とする「声」、とりわけベッシー・スミスルイ・アームストロングの声から解放されていた。彼女の唄声の独特の音色、そのスタイル、アメリカのジャズ愛好家はこぞってこれを認めた。やや間延びした発音は、殆ど気がつかないほどの遅れを伴う独特のリズム感・シンコペーションによってバランスを保ち、ゆったりした節回しが彼女の唄声に独特のスイングを醸し出しているのである。20歳のビリーは、若干かすれた声音ながら、完璧に明瞭で、聴く者を唸らせる歌唱法を身につけていた。加えて、わずかなビブラートが特定の言葉に相応しい重みをもたせていた。

ビリー・ホリデイは「唄う」のではない。遊ぶという言葉がもつあらゆる意味において「遊ぶ」のだ。彼女は子供であり、同時にアーティストだった。1930年代には既に、この独特で内面的な響きは彼女の声を特徴づけるものとなっていた。それはまた、彼女が大衆的な人気から縁遠かった理由でもある。その生涯を通じて、ビリーにはベッシー・スミスの力強さやエラ・フィッツジェラルドの軽快さが欠けていたが、幸いにして、ビリーは好意的な時代の空気に迎えられた。それは主に二つの要因によるものだった。マイクの普及と、スローな歌、すなわちラブソングとブルースの流行である。若いときから一流のジャズメンと競演できたことは、彼女の才能を刺激し開花させた。


不節制な生活は、当然ながらビリーの声に影響を与えた。1940年代になると、コンサートやレコーディングにあたって苦労することが多々あった。「声の通りをよくするために」と言い訳をし、彼女はジンコニャックを口にした。新しい歌詞が容易に覚えられず、レパートリーを増やすことすら苦労した。加齢と共に、あれほど知られていた歌唱法はどこかべとついたものになり、かすれ声は耳障りな嗄声になっていった。40歳の肉体的へ疲労が加わり、ビリーが苦しみながら唄っている様は聴き手にも明らかだった。ふらふらと揺らぎ続ける彼女の歌声に、聴き手は彼女が自信を失っているとさえ感じたのである。

だが同時に、彼女が歌に全霊を注いでいることも耳にできた。その魅力は、アルバム『レディ・イン・サテン』まで生き続ける。オーケストラの指揮もしていたアレンジャーのレイ・エリスは、レコーディング時に付きつけられるビリーのあまりに難しい要求に疲れ果て、ミキシングを拒否した。が、後日このアルバムに収められた「 I'm A Fool To Want You (恋は愚かというけれど)」や「 You've Changed (心変わりしたあなた)」を聴き、歌を際立たせるその限りない悲しみを感じ取った彼は、彼女の“唄”を残すことの芸術的な意味を理解する。その後、彼女と共にレコーディングしたアルバム『ビリー・ホリデイ』は、ビリーの遺作となった。

彼は『レディ・イン・サテン』をレコーディングしたときの思い出を書き記している。

《…一番感動的だったのは、「恋は愚かというけれど」のプレイバックを聴いていた時だろう。彼女の目からは涙が溢れていた。 (中略) アルバム制作終了後、私はコントロール室内に入って全テイクを聴いた。私は彼女の唄いぶりには満足できなかったことを認めねばならないが、感情を込めてではなく、音楽的にしか聴いていなかったのだろう。数週間後ファイナル・ミックスを聴くまでは、彼女の唄いぶりが本当はどんなに素晴らしいものかが解らなかった。》[9]

影響

他のアーティストや構成に対するビリー・ホリディの影響力は否定し難い。 彼女の人気があがると、すぐにスタイルを真似しようとする歌手が現れたが、いずれも成功しなかった。彼女の影響はむしろもっと若いアーティスト達に感じ取ることができる。若い彼らはとりわけビリーの無造作なスタイルを学んでいた。フランク・シナトラはビリーを絶賛し、彼女の人生の終焉に於いては、最も近しい友人の一人になっていた。アビー・リンカーンもまた同様である。 他の多くのアーティストと同じく、ビリー・ホリデイの音楽とその影響力が真に理解されたのは没後からであった。彼女の死後、アルバムの売り上げは下がるどころか反対に伸びるばかりだった。 1970年代に入ると、ダイアナ・ロスエスター・フィリプスニーナ・シモンらが何のわだかまりもなくレディ・デイの直系を任じた。1972年には、ダイアナ・ロスがビリーの自伝に基づいた映画 Lady Sings the Blues / レディ・シングス・ザ・ブルース (邦題『ビリー・ホリディ物語/奇妙な果実) でビリー役を演じた。この作品は商業的にも大成功し、ダイアナ・ロスはアカデミー賞女優賞にノミネートされることとなる。全く異なる音域でのビリーの影響を感じさせたのは、ジャニス・ジョプリンだろう。

メイシー・グレイも、ビリーの影響を認めている。[10]

また、U2は、1987年にビリーへのトリビュート・ソングであるシングル「Angel of Harlem(エンジェル・オブ・ハーレム)」をリリースしている。

生前は、エラ・フィッツジェラルドサラ・ヴォーンほどの知名度はなかったものの、ビリー・ホリデイはジャズの歴史に於いてユニークな地位を占める存在となった。生涯を通じて人種差別性差別と闘い、乱れた生活にもかかわらず名声を勝ち得た彼女は、現在、20世紀で最も偉大な歌手の一人に数えられている。また、彼女の名は、しばしばアフリカ系アメリカ人のコミュニティからも、ゲイのコミュニティからも引き合いに出され、差別を声高に反対して、同権を求めて立ち上がろうとした彼女の早くからの努力に対して敬意が払われている。

註釈

  1. コリアー、ジェイムズ・リンカン著《ホリデイ、ビリー》、The New Grove Dictionary of Music and Musicians、出版社L.ナンシー
  2. テンプレート:Cite web
  3. 自叙伝《レディ・シングス・ザ・ブルース》:1956年、新聞記者ウィリアム・ダフティによりそれまでのインタビューをもとに編集出版された。邦題『奇妙な果実 -ビリー・ホリデイ自伝』油井正一・大橋巨泉 訳 晶文社刊。
  4. ノンフィクション書『ビリー・ホリディ』94年初版、スチュアート・ニコルソン著。邦題『『ビリー・ホリディ―音楽と生涯』鈴木玲子訳 日本テレビ放送網刊
  5. ビリー・ホリデイ&ウィリアム・ダフティ著『レディ・シングス・ザ・ブルース』:1956年。
  6. シルヴィア・フォル:P.199~201、この関係はおおっぴらなものであったにもかかわらず、国会議員の娘であった女優タルーラ・バンクヘッドは、ビリーの自叙伝の出版に際し該当部分の記述を削除するようビリーに圧力をかけた。【シルヴィア・フォルはフランスの作家、引用著書は後出5.1にある《ビリー・ホリデイ》と思われる】
  7. 同上P.216
  8. フランソワーズ・サガン著『私自身のための優しい回想』(新潮社刊、ガリマール著、1984年
  9. レイ・エリス、1997年5月:〈レディ・イン・サテン〉復刻版CD(1997年)ライナーノーツより。(対訳:安江幸子)
  10. 1999年、彼女は次のように語っている。「ビリー・ホリデイは私に大きな影響を与えました。私が本気で勉強した最初のシンガーは彼女でした」([1]

雑学

  • 背丈は、165cmであった。
  • 祖父は、ヴァージニア州アイルランド系農園主が黒人奴隷の女性に産ませた子の1人。
  • ブラック・アイド・ピーズは、コカコーラCMで、ビリー・ホリデイへの称賛を歌った。
  • アメリカのモデル、マーシディーズ・イヴェットがビリー・ホリデイのポーズで肖像写真を発表し、ビリーの悲しげな雰囲気を上手く捉えていると好評を呼んだ。
  • 1994年9月18日に、アメリカ合衆国郵便公社が記念切手を発行した。
  • ボルチモアのラファイエット・アンド・ペンシルベニア・アベニューの一角に、ホリデイの銅像が建っている。
  • 1929年12月24日に、隣人ウィルバート・リッチに強姦されている現場を、母セイディー(1945年10月6日没)に見つかったが、リッチは3か月間で出獄した。
  • 2005年4月に、生誕90周年を記念して、コロンビア大学のラジオ放送局“WKCR-FM”([www.WKCR.org]) がビリー・ホリデイ音源のマラソン放送を行なった。

参考文献

  • 『奇妙な果実 -ビリー・ホリデイ自伝(原題『レディ・シングス・ザ・ブルース』)』(ビリー・ホリデイ著、構成:ウィリアム・ダフティ、翻訳:油井正一大橋巨泉清和書院1957年筑摩書房1963年、晶文社(初版)・1971年、晶文社(再版)・1998年、 ISBN 4794912560
    • 原著『Lady Sings the Blues』ISBN 0140067620
  • Julia Blackburn, With Billie, ISBN 0375406107
  • John Chilton, Billie's Blues: The Billie Holiday Story 1933-1959, ISBN 0306803631
  • Donald Clarke, Billie Holiday: Wishing on the Moon, ISBN 0306811367
  • Angela Y. Davis, Blues Legacies and Black Feminism: Gertrude "Ma" Rainey, Bessie Smith, and Billie Holiday, ISBN 0679771263
  • Leslie Gourse, The Billie Holiday Companion: Seven Decades of Commentary, ISBN 0028646134
  • Farah Jasmine Griffin, If You Can't Be Free, Be A Mystery: In Search of Billie Holiday, ISBN 0684868083
  • Chris Ingham, Billie Holiday, ISBN 1566491703
  • Burnett James, Billie Holiday, ISBN 0946771057
  • Jack Millar, Born to Sing: A Discography of Billie Holiday, ISBN 8788043045
  • 『ビリー・ホリディ―音楽と生涯(原題『ビリー・ホリディ』)』スチュアート・ニコルソン著。翻訳:鈴木玲子 日本テレビ放送網 1994年初版
    • 原著Stuart Nicholson, Billie Holiday, ISBN 1555533035

外部リンク

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