ドゥブロヴニク

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ドゥブロヴニクテンプレート:Lang-hrテンプレート:Lang-itテンプレート:Lang-la)は、クロアチアアドリア海沿岸のダルマチア最南部に位置する都市及び基礎自治体で、ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の郡都である。ボスニア・ヘルツェゴビナの唯一の海港であるネウムが回廊状態で分断しているため、クロアチア本土とは陸続きではない(→飛び地)。

1979年世界遺産に登録された旧市街は「アドリア海の真珠」とも謳われる美しい町並みを誇る。アドリア海沿岸でも傑出した観光地であり、多数のクルーズ船が寄港する他、地中海各都市とフェリーで結ばれドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の中心都市となっている。人口は2011年に行われた国勢調査で42,641である。そのうち、約28,000人はドゥブロヴニク市街に居住している。2001年の国勢調査ではクロアチア人は住民の88.39%を占めていた。

ドゥブロヴニクは歴史的に海洋貿易によって栄えた都市で、中世ラグーサ共和国アマルフィピサジェノヴァヴェネツィアなどと共に5つの海洋共和国に数えられ、アドリア海東側では唯一のライバルである都市国家ヴェネチア共和国だけであった。巧みな外交術と豊富な富に支えられ15世紀から16世紀にかけてはとくに特筆するほど発展している。1970年代、恒久的に戦争による破壊から守るために非武装化されたが、1991年のユーゴスラビア崩壊に伴う紛争でセルビア・モンテネグロ勢力によって7ヶ月間包囲(ドゥブロヴニク包囲)され砲撃により多大な損害を蒙った。

歴史

町の起源は古くローマ帝国時代、あるいはそれ以前に溯るとされている。町のイタリア語名ラグーサは、当時のラテン語名ラグシウムに由来する。歴史的に7世紀頃ラウス (Laus) と名付けられていた岩島に近くの都市エピダウロス (Epidaurus) からのダルマチア人の避難民が、スラヴ人の侵略から逃れるために成立したとされる[1] 他、8世紀からのビザンチンバジリカや城壁の一部などの新たな考古学的な発見を基にした説もあり、従来からの説が異議を唱えられることもある。バジリカは当時、相当に大きな居住地が形成されていたことを示している。また、科学的な類似性によってラグーサは紀元以前に大規模な建築が行われた説も増えてきている。「ギリシャ説」は最近の発見によって増えてきており、ドゥブロヴニク港周辺での発掘で多くのギリシャ様式の遺物が発見されている。市内の主要道路の穴からは自然な砂が現れ、ラウス (Laus)、ラウサ島 (Lausa) 説は否定された。

アントゥン・ニチェティッチ博士 (Antun Ničetić) の「ドゥブロヴニク港の歴史」(Povijest dubrovačke luke) によれば、ドゥブロヴニクはギリシャ人船員によって成立されたとしている。鍵となる要素は古代船は1日当たり45-50海里の航海をし、夜間は休息と停泊するための砂浜が必要であったことである。停泊地の理想としては新鮮な水源が付近にあることであった。ドゥブロヴニクは2つを兼ね備えており、ギリシャ人の居住地として知られたブドヴァコルチュラ島の95海里離れた2つの地点を結ぶ中間に位置していた。

ラグーサ共和国

テンプレート:See also

東ゴート王国崩壊後、町はビザンティン帝国の下保護国の都市国家として沿岸部のセルビア人などと交流があった。十字軍の後、ラグーサはヴェネチア主権(1205年-1358年)の下に入り、ダルマチアの都市として権利を得ている。1358年、ザダル平和条約が結ばれ隷属関係にあったハンガリー王国から独立を果たす。14世紀から1808年までラグーサは自由国として存続した。15世紀から16世紀にかけて最盛期を迎えヴェネツィア共和国や他のイタリアの海洋都市国家がライバルであった。1272年にラグーサ共和国は自治権を獲得し、ローマ法や地元の慣習を成文化している。法令には都市計画や公衆衛生上の検疫に関する規則も含まれていた[2]

ラグサ共和国の時代、この町ではイタリア系とスラヴ系の住民が一貫して共存し、共に繁栄を支えていた。もともとイタリア系住民が住んでいた島の部分とスラヴ系住民の住む対岸の集落の間にある海峡を埋め立てることによって、両者の一体化はさらに進んだ。共和国では早い段階から現代的な法体系が整備されており、1301年には医療制度が確立しており1317年に現在でも営業している最初の薬局が開業している。1347年養老院1377年には隔離病棟が開かれた。1418年には奴隷貿易は廃止され、1432年孤児院が開かれている。1436年に約20kmの水道施設が完成している。そもそもこの町は後背地であるボスニアやセルビアで産出される鉱石の積出港として栄えていたが、15世紀にオスマン帝国がバルカン半島の内部へと進出してくるとその宗主権を認め、ヴェネツィアがオスマン帝国と度々戦争状態に入りその都度停滞したのとは裏腹に、かつてヴェネツィアが独占的に果たしていた東西交易の中での役割をより確かなものとしていった。貴族階級を含め、17世紀まで共和国の住人のほとんどはラテン由来の人々であったが周辺部からクロアチア人が移住するようになった。 同時期、スラヴ系とラテン系の住民が一緒に住むようになり、スラヴの要素とルネサンス期のイタリア文化が影響しあいラグーサはクロアチア文学のゆりかごとなった。

共和国の経済は一部は土地の開発によってもたらされたが、大部分は海洋交易によるものであった。巧みな外交術は交易を助け、ラグーサの商品は自由に海を行き交い都市には巨大な商船団が存在した。各地で居住地も発見されている。多くのスペインポルトガルからのマラーノユダヤ人をラグーサはひき付けた。1544年、ほとんどをポルトガルの難民で占めた船が着岸したとバルタサール・デ・ファリア (Balthasar de Faria) がジョアン王に報告している。 隆盛を極めたラグーサ共和国だが、1667年に発生した壊滅的な地震の後、アドリア海交易の不振と相まって徐々に後退を始める。地震では5,000人を超える市民が死亡し、公共の建物のほとんどは破壊された [3]1699年、共和国はクロアチア本土にある2つの小区画の領地をオスマン帝国に売り、前へ進めるベネツィアの軍とオスマン軍との戦いに巻き込まれるのを避けた。今日、これらの土地はボスニア・ヘルツェゴビナに属しボスニア・ヘルツェゴビナでは唯一、アドリア海に接する町であるネウムである。

1806年、周辺部をナポレオンの軍隊に包囲され、ロシア・モンテネグロ艦隊の3,000発の砲撃によってラグーサ共和国は1ヶ月の包囲に降伏した[4]。ナポレオンの最初の要求は自らの軍隊の自由な通行で、領土の占領や圧力ではなくフランスはラグーサの友人であるとした。しかしながらその後、フランスの軍は港を封鎖し共和国政府を強制し市内へ軍を進めた。1808年オーギュスト・マルモンはラグーサ共和国を廃しナポレオンの初の国家となるイタリア王国に統合され、フランス支配下のイリュリア州となる。

オーストリア=ハンガリー帝国

1814年1月29日オーストリア=ハンガリー帝国は町を占領しウィーン会議によって、ハプスブルク領テンプレート:仮リンクの一部とされた。この時期の産業は限られており、いくらかの絹や皮革加工、酒造、油の生産などであった。週に3度、トルコのキャラバンが町のバザールにやって来た。ハプスブルク支配時の20世紀初期に観光開発が始まり、新たな港や1970年代まで存在したドゥブロヴニク市電が整備されている。フランツヨーゼフ1世マクシミリアンの夏のヴィラが沖合いのロクルム島に築かれた。

1921年から1991年

第一次世界大戦後の1918年オーストリア=ハンガリー帝国が新たに後のユーゴスラビア王国となるスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の都市となる。都市の名称もラグーサから公式に現在のドゥブロヴニク変えられた。第二次世界大戦時にはナチスの傀儡国家であったクロアチア独立国の一部であった。イタリア陸軍が最初に占領しドイツ国防軍はその後、1943年9月8日に占領し始めている。1944年10月チトー率いるパルチザンがドゥブロヴニクに入りその結果、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部となる。パルチザンは市内に入ると直ぐに約78名の市民に対し裁判無しに死刑を宣告した。その中にはカトリックの聖職者も含まれていた[5]

ユーゴスラビア崩壊

それまで観光客で賑わっていたドゥブロヴニクへの砲撃は1991年から1992年にかけて続いた。1991年はユーゴスラビアから相次いでクロアチアやスロベニアが独立を宣言した年で、クロアチア社会主義共和国は現在のクロアチア共和国へ名称が変わっている。1970年代の早い段階で、世界遺産に登録されている旧市街地は戦争による惨事から避けるため非武装化が行われたが1991年の独立宣言後、ユーゴスラビア人民軍に残っていたセルビア・モンテネグロによって町は攻撃されている。

当時モンテネグロの政権はセルビア人政府に忠誠を誓うモミル・ブラトヴィッチ (Momir Bulatović) が担っており、ドゥブロヴニクがクロアチアに残ることは歴史的にモンテネグロの一部である為に容認出来ないと宣言している[6]。この宣言にも関わらず、ドゥブロヴニク市内で多数を占めるのはクロアチア人でモンテネグロ人の居住者は少数であり、セルビア人は人口の6%を占めるだけであった[6]。この要求にはミロシェビッチが送り込んだ民族主義者の大セルビア主義が関係している。

1991年10月1日にドゥブロヴニクへユーゴスラビア人民軍 (JNA) が攻撃を開始し、その後ドゥブロヴニク包囲が7ヶ月間続いた。12月6日には最大の砲撃が行われ、19人が死亡し60人が負傷している。クロアチア赤十字社によればこの攻撃により114人が死亡したとされ、ドゥブロヴニク包囲では犠牲者に著名な詩人であるミラン・ミリシッチ (Milan Milisić) が含まれていた。海外メディアは旧市街の損害や人的犠牲を大きく大袈裟なくらいに批判した[7]。紛争終結後は砲撃による旧市街の損害は復旧が進んだ。修復はユネスコのガイドラインに忠実に元来の姿に戻されている。2005年にはもっとも被害を受けた箇所も復旧しており、紛争の被災地を示した地図を城門近くで見ることが出来る。旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷でのJNAの大将や将校の起訴内容にはこの砲撃も含まれている。

ドゥブロヴニクの言葉

ドゥブロヴニクの公用語は1472年までラテン語が使用されていた。その後、ラグーサ共和国は公用語にラテン語と同系のロマンス諸語の一種であるラグーサ方言のダルマチア語を採用すること決め、議会での討議の場でのスラヴ語の使用は禁止された。上流階級 (Gospari) は自分たちの言葉を数世紀にわたって保持していたが、徐々に廃れていった。ラテン系の言葉が公用語として使われてはいたが、共和国のほとんどの地元住民はスラヴ語を使用していた。1698年の P. A. Tolstoj による記録に残されている。彼らは共和国に常に誇りを持っていたため、自分たちのことをラグーサ人を意味するラグーサン (Ragusan)、ラグセオス (Raguseos) と呼んでいた[8]ダルマチア語は市内で話されていたが、イタリア語も話されておりヴェネツィア語トスカーナ方言の影響も強かった[9]

地区

テンプレート:Historical populations

  • ボサンカ (Bosanka) 139人
  • ブレセチネ (Brsečine) 99人
  • チャイコヴィツァ (Čajkovica) 149人
  • チャイコヴィチ (Čajkovići) 24人
  • ドニェ・オブリェノ (Donje Obuljeno) 210人
  • ドゥブラヴィツァ (Dubravica) 37人
  • ドゥブロヴニク (Dubrovnik) 28,113人
  • ゴルニェ・オブリェノ (Gornje Obuljeno) 121人
  • グロマツァ (Gromača) 141人
  • クリシェヴォ (Kliševo) 55人
  • クネジツァ (Knežica) 120人
  • コロチェプ (Koločep) 165人
  • コマラツ (Komolac) 313人
  • ロプド (Lopud) 249人
  • ロジツァ (Lozica) 136人
  • リュバチュ (Ljubač) 62人
  • モコシツァ (Mokošica) 1,946人
  • ムラヴィニャツ (Mravinjac) 80人
  • ムルチェヴォ (Mrčevo) 86人
  • ノヴァ・コシツァ (Nova Mokošica) 5,921人
  • オラシャツ (Orašac) 625人
  • オソイニク (Osojnik) 297人
  • ペトロヴォ・セロ (Petrovo Selo) 22人
  • ポブレジエ (Pobrežje) 121人
  • プリイェヴォル (Prijevor) 441人
  • ロジャト (Rožat) 339人
  • スジュラジュ (Suđurađ) 203人
  • スステイェパン (Sustjepan) 306人
  • シパンスカ・ルカ (Šipanska Luka) 211人
  • シュメト (Šumet) 173人
  • トルステノ (Trsteno) 221人
  • ザトン (Zaton) 1,001人

交通

ドゥブロヴニク市内にはテンプレート:仮リンクがあり、中心部から20kmほど離れたコナヴレのチリピ (Čilipi) 近くに位置する。国際空港からは欧州各都市へアクセスすることが可能で、多くの観光客の玄関口となっている。空港とドゥブロヴニク旧市街やクロアチア各都市や近隣国とを結ぶ長距離バスターミナがあるグルージュ (Gruž) へはバスが運行されている。深夜まで走り市内の路線網が良く整備され高頻度な路線バスも運行されている。しかしながら、ドゥブロヴニクへは他のクロアチアの主要都市への鉄道路線がない[10]1975年まではボスニア・ヘルツェゴビナの主要都市であるモスタルや首都サラエヴォまでオーストリア=ハンガリー帝国時代に建設された軌間760mmの狭軌鉄道が運行されていた。今日、ボスニア・ヘルツェゴビナへの交通手段は路線バスや車などしかない。ザグレブ、ラヴチャ (Ravča) を結ぶA1ハイウェーがドゥブロヴニクへ延長される計画もある。ペリェシャツ半島を通る橋が計画され、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内を経由しないルートが検討されたがこれは資金的な問題により計画が中止され、現在はボスニア・ヘルツェゴビナ領内を通過する高速道路の建設についてボスニア・ヘルツェゴビナ政府と交渉することが検討されている。しかしながら、2013年7月からクロアチアが欧州連合に加盟することから国境の管理問題がある[11]

教育

ドゥブロヴニクは多くの教育機関も立地しており、ドゥブロヴニク国際大学ドゥブロヴニク大学などの大学の他、海員学校、観光専門校、ザグレブ大学大学院の研究所、アメリカンカレッジの経営や技術学部、クロアチア科学芸術アカデミーの歴史研究所などがある。

気候

ドゥブロヴニク周辺の気候は典型的な地中海性気候の一種に属し穏やかで雨が多い冬と乾燥した夏がやって来る。しかしながら、独特の風や雷が起こりやすいなど他の地中海性気候とは異なっている。10月から4月にかけてアドリア海からは心地良くない冷たい突風であるボーラが吹き付け、年間を通して雷は発生しやすい。夏でも風が起こる時には暖かさや晴天は破られる。気温は地域や地区により若干異なる。通常、7月と8月の昼間の最高気温は29℃で夜間の最低気温は21℃である。春や秋はさらに快適で、最高気温は20℃から28℃で経過する。

テンプレート:Weather box

  • 年平均降雨日 109.2日
  • 年間日照時間 2,629時間
  • 1日の平均日照時間 7.2時間

姉妹都市

文化・世界遺産

テンプレート:Infobox 毎年夏に45日間にわたり、コンサートや競技会などを含む文化的な催しであるドゥブロヴニクサマーフェスティバルが開催されている。2月3日はドゥブロヴニクの守護聖人であるブラシウスの祝日で、大きなパレードや祝祭が行われ数日間続く[12]。 旧市街は1993年から2002年に発行された50クーナ紙幣の裏側に描かれている[13]。 聖ブラシウスの像は市内の周辺で見ることが出来る。ブラシウスはヴェネツィアへの福音者マルコと同様に重要で、旧市街にある大きな教会の一つである聖ブラホ教会の名称にも因んでいる。アルボレトゥム・トルステノ (Arboretum Trsteno) は世界で最古の植物園で1492年以前に遡る。また、ヨーロッパでは3番目に古い薬局があり、1317年に遡り現在でも営業しているなど旧市街地は古い建物を誇っている。イギリスの劇作家ジョージ・バーナード・ショー1929年にドゥブロヴニクを訪れ「この世の天国が見たければ、ドゥブロヴニクに行かれよ。」と述べている。ドゥブロヴニク湾には72ヘクタールの木に覆われたロクルム島があり、伝説によれば1192年リチャード1世が難破した後、岸にたどり着いたとされている。現在、島には城壁や植物園、ナチュラリストビーチがある。

1667年の大震災ではドゥブロヴニクのルネサンス期の建物は少数だけ生き残ったが、幸いなことに建築遺産としては十分に残っている[14]。 ルネサンス期遺産で最も輝かしいものは16世紀以来のスポンザ宮殿で現在は公文書館として使われている[15]。 レクター宮殿 (Rector) はゴシック・ルネサンス様式の建物で優美な曲線と絢爛豪華な階段を表して、現在は博物館として使われ[16]、建物のファサードは1993年から2002年にかけて発行された50クーナ紙幣に旧市街と共に描かれている。聖サヴィオゥール教会はルネサンス期の名残を留め、隣は多くの観光客が訪れるフランシスコ会修道院である[17][18]。 フランシスコ会修道院の図書館には30,000冊の蔵書、22のインキュナブラ、1,500もの貴重な手書きの文書が保管されている。15世紀の銀と金メッキのクロスや銀の香炉、18世紀のエルサレムの十字架も含まれる。ドゥブロヴニクではもっとも敬愛されている聖ブラシウス教会(聖ヴラホ教会)は18世紀に建てられた。ドゥブロヴニクのバロック様式の大聖堂は18世紀に建てられ、聖ブラシウスの聖遺物と共に象徴的である。ドミニコ会修道院は城壁の外側に似ているが、内側にはゴシック・ロマネスク様式の教会と美術館を含んでいる[19][20]。 ドミニコ会修道院の貴重な財産は図書館に保管されている220以上のインキュナブラや多くの手書きの写本や図絵で、アーカイブにはこれら貴重な品々が保管されている[21][22][23]。 ドゥブロヴニクの顔でもあるドゥブロヴニク城壁は周囲約1,900mあり、厚さ5メートル、高さ20メートルの堅牢な市壁[24]。最初に造られたのは7世紀とされるが今日見られる主要な部分は12世紀から17世紀にかけて造られている。

  • ドゥブロヴニク旧市街
    • ピレ門
    • プラツァ通り(ピレ門から続く石畳のメインストリート)
    • ドミニカ修道院(宗教博物館)
    • フランエヴァッキ修道院
    • スポンザ宮殿(ブローデルが『地中海』を書くのにインスピレーションを得たと言われる古文書館[7000巻の手稿本、10万点の法令文]はこの宮の二階にある。)
    • ルザ広場
    • 司教宮殿(歴史博物館)
    • 聖イヴァン砦(海洋博物館)
    • 聖ヴラホ(ブラシオス)教会
    • 大聖堂
    • 城壁(旧市街を囲んでいる。通行でき、カフェや展望台も有る。内戦で甚大な被害を受けた。)

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core

ゆかりの人物

イメージ

パノラマ

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ギャラリー

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Commons&cat

テンプレート:クロアチアの世界遺産テンプレート:Croatia-stub

  1. Researches on the Danube and the Adriatic by Andrew Archibald Paton (1861). Contributions to the Modern History of Hungary and Transylvania, Dalmatia and Croatia, Servia and Bulgaria-Brockhaus Chapter 9. page 218
  2. Naklada Naprijed, The Croatian Adriatic Tourist Guide, pg. 354, Zagreb (199), ISBN 953-178-097-8
  3. Earthquake Monitoring and Seismic Hazard Mitigation in Balkan Countries by Eystein Sverre Husebye
  4. Dalmatia and Montenegro: Volume 2 by Sir John Gardner Wilkinson
  5. テンプレート:Cite web
  6. 6.0 6.1 テンプレート:Cite web
  7. Joseph Pearson, 'Dubrovnik’s Artistic Patrimony, and its Role in War Reporting (1991)' in European History Quarterly, Vol. 40, No. 2, 197-216 (2010). [1]
  8. テンプレート:Hr icon Jezik, lingvistika i politika: Ilirski iliti slovinki jezik(2003年8月20日時点のアーカイブ
  9. テンプレート:It icon テンプレート:Cite web
  10. テンプレート:Cite web
  11. Croatia to build a corridor through BiH instead of Pelješac Bridge New Europe 2012-05-12
  12. Dubrovnik news
  13. Croatian National Bank. Features of Kuna Banknotes: 50 kuna (1993 issue) & 50 kuna (2002 issue). – Retrieved on 30 March 2009.
  14. テンプレート:Cite web
  15. テンプレート:Cite web
  16. テンプレート:Cite web
  17. テンプレート:Cite web
  18. テンプレート:Cite web
  19. テンプレート:Cite web
  20. テンプレート:Cite web
  21. テンプレート:Cite web
  22. テンプレート:Cite web
  23. テンプレート:Cite web
  24. 田中一生「世界遺産の中世都市」/ 柴宣弘編著『バルカンを知るための65章』明石書店 2005年 104ページ