ヨシップ・ブロズ・チトー
テンプレート:Redirectlist テンプレート:政治家 ヨシップ・ブロズ・チトー、またはヨシップ・ブロズ・ティトー(セルビア・クロアチア語: Sr-JosipBrozTito.ogg Josip Broz Tito / Јосип Броз Тито </span>、1892年5月7日 - 1980年5月4日)は、第二次世界大戦からその死まで、最もユーゴスラビアに影響を与えた政治家であり、大統領、ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者である。「ティトー元帥」という呼び名でも知られている。
本名はヨシップ・ブロズ。「チトー(Tito)」という名前は、「お前(Ti)があれ(to)をしろ」という横柄な文章から取られたもので、冗談のネタになることもあった。
目次
略歴
- 1920年 ユーゴスラビア共産党に加入。
- 1934年 ユーゴスラビア共産党の政治局の一員となる。(チトーという通称を使い始める)
- 1941年7月4日 ドイツ軍への武力抵抗を呼びかけ。
- 1941年-1945年 人民解放軍(パルチザン)の総司令官を務める。
- 1945年-1953年 ユーゴスラビアの首相兼国防相(首相職は、1963年6月29日まで継続)。
- 1948年 スターリンと断絶。(コミンフォルムから追放、東欧で「チトー主義者」狩り)
- 1953年1月13日-1980年 ユーゴスラビア大統領。
- 1961年 ユーゴスラビアのベオグラードで、非同盟諸国首脳会議を開催。エジプトのナセル、インドのネルーらと会談。
- 1963年4月7日 終身大統領となる。
- 1980年5月4日、スロベニアのリュブリャナの病院で死去。
生涯
生い立ち
チトーは、オーストリア=ハンガリー帝国の構成国・クロアチア=スラヴォニア王国の領内、今のクロアチアの北西部、ザゴリェ地方(Hrvatsko Zagorje)のクムロヴェツで生まれた。父親のフラニョはクロアチア人で、母親のマリヤはスロベニア人で、彼らの7番目の子供であった。少年時代を、ポドスレダにいる母方の曽祖父の所で過ごしたのち、クムロヴェツの小学校に入学し、1905年に卒業している。
1907年、のどかな田舎から一転して、シサクの錠前屋の見習として働き出した。そこでチトーは労働運動に関心をもつようになり、初めてメーデー(5月1日、労働者の日)を祝った。1910年、冶金工の組合に加入すると同時に、クロアチアとスラヴォニアの社会民主党にも加わっている。1911年から1913年にかけて、オーストリア=ハンガリー帝国内を転々としながら働く。
従軍~ロシア革命との出会い
1913年の秋から、徴兵により兵役に就いており、1914年5月には、軍の主催するブダペストのフェンシング大会で準優勝し、銀メダルをもらっている。第一次世界大戦の勃発により、ヴォイヴォディナにあるルマ(現在はセルビア領)に送られた。チトーは、そこで反戦争的な宣伝を流布したことで逮捕され、ペトロヴァラディン要塞に収監された。1915年、再びロシアを攻撃するために、中央ヨーロッパのガリシア地方に送られた。ブコヴィナでは榴弾砲により重傷を負った。同年4月には、部隊全員がロシアの捕虜となった。
病院で数ヶ月療養したのち、1916年の秋、ウラル山脈にある労働収容所に送られた。1917年4月、チトーは戦争捕虜たちのデモを組織したとして逮捕された。後に脱走して、1917年の7月16日から17日にかけて起きたサンクトペテルブルクのデモ(七月蜂起)に参加している。警察から逃れるため、フィンランドまで逃げたが、結局捕まり、ペトロパブロフスクの要塞に3週間閉じ込められた。クングールの労働収容所に入れられたのち、列車に乗った際に逃亡した。1917年11月、シベリアのオムスクで赤軍に参加した。1918年春には、ロシア共産党へ参加した。
党活動~第二次世界大戦
テンプレート:See also 1920年に帰国してユーゴスラビア共産党に参加。1928年に逮捕され、5年間投獄された。1934年以降コミンテルンで働き、1936年発生したスペイン内戦では、国際旅団の「ディミトロフ」大隊の指揮官の一人として従軍した。彼の最初の妻はヘルタ・ハースで、第1子が1941年の5月に生まれている。
第二次世界大戦中の1943年12月、ナチス・ドイツによるユーゴスラビア占領下で、抵抗運動の指導者となったチトーは、民主的な臨時政府の設立を宣言した。この間、彼の活動は連合国によって直接的に支援されており、1944年6月には、彼のパルチザンを支援するために、バルカン半島で活動するイギリス空軍部隊が編成されている。しかし、彼がスターリンに接近しようとすることに対して、司令部にいるイギリスやアメリカ軍の将校とたびたび険悪になった。戦争が終結すると、これらの軍隊は撤収した。
第二次世界大戦後
戦後も最初の内はスターリン主義に基づきユーゴスラビアは歩んでいったのだが、あまりにも改革が徹底していた為周りの東欧諸国に影響力を持つようになる。更にモスクワからの自立を意図し、それを恐れたスターリンは1948年にユーゴスラビア共産主義者同盟をコミンフォルムから除名する。翌年にはソ連との友好相互援助条約も破棄された。その後、ソ連から彼を狙う暗殺団が度々送り込まれるがチトーは秘密警察に暗殺団を全て検挙させた。逆にモスクワのスターリン宛に電報を送り「刺客を送る用意がある」と揺さぶり、ソ連による支配化を諦めさせた。
それを受ける形もあり、後に自らも非同盟を喧伝していることから、政治学上、ユーゴスラビアは東側諸国とは見なされていない。
その後、チトーは1950年に「工場を労働者に」という演説を行い、「労働者にとってただ一つの(資本主義国との)違いは、ソ連では失業が無い、ただそれだけである」と発言する。その後、企業に対する労働者自主管理(経営概念はあるが、資本は労働者所有であり、経営者は労働者が求人する)と、各共和国の大幅な自治権を特徴とするユーゴ独自の自主管理社会主義を建設していった。また冷戦下に社会主義国でありながらソ連に追放されたことから、非同盟運動に接近し、チトーは第三世界のリーダーの一人となる。1953年にはギリシャといった北大西洋条約機構加盟国と友好協力条約を結ぶ。こうしたチトーの政治思想はスターリン主義者によってチトー主義と呼ばれ、他の社会主義国においては反体制派粛清の口実にもされた。
内政面では、そのカリスマによって各共和国・民族のバランスを取り、連邦の維持に腐心。特に、純然社会主義体制でありながら与党の中に制限野党を作り、独裁色が強く複数政党政治とは言えないものの、それに準じた制度を取り入れたことや、新聞などによる体制批判、即ち言論の自由をある程度許したことは、特筆に値する。また、民族主義による排外思想家は、秘密警察による監視・摘発の対象になった。社会主義非同盟運動第一人国として、自らの体制批判は許され民族主義的言動は排除される国家だった。しかしながら、民族主義を弾圧し、体制が維持できたのは、チトーのカリスマのおかげである所が大きく、チトーの個人的影響力に頼る体制の維持方法は、後述するような内戦を招いたとする意見もある。
1980年1月20日、循環障害により壊疽を起こした左足を切断する手術を受けたが、その後も体調は思わしくなく、腎機能障害、肺炎、心不全、胃腸内出血、肝機能障害などを起こし、5月4日にスロベニアのリュブリャナの病院で死去した。5月8日に行われた葬儀には世界中から多くの人が参列し、その中にはソ連のブレジネフ書記長、日本の大平正芳首相もいた。
死後
このいびつに配置された多民族による社会主義連邦国家において、チトーの作り上げた体制における「自由」は、絶えず分裂の引き金となりながらも、チトーのカリスマと宥和政策によって、国内の民族主義者の活動が抑えられ、ユーゴスラビアを一つの統一国家に収斂されていたが、チトーの死後、カリスマがいないこの体制は徐々に崩壊していった。
カリスマ亡き後の「自由」は、即ち多民族それぞれの民族主義、分裂主義、偏狭な他民族排除主義の勃興を許すことになる。冷戦崩壊後の1990年代には民族間の対立や紛争が激化し、一連のユーゴスラビア紛争が勃発。各共和国は独立を勝ち取るための紛争に突入。2006年にはモンテネグロ独立により、連邦は完全に瓦解した。
セルビア当局が国立銀行の金庫で緊急時に使えるようにしていた可能性がある、金貨約2700枚や貴金属製品約250個、現金約2万6千米ドルなどを見つけた[1]。
脚注・注釈
脚注
注釈
参考文献
- ウラジーミル・デディエ(en)(高橋正雄訳)『チトーは語る』河出書房、1953年(新時代社、1970年)。
- V.ヴィンテルハルテル(田中 一生訳)『チトー伝 ユーゴスラヴィア社会主義の道』 徳間書店、1972年。
- (島田 浩訳)『ヨシプ・ブロズ・チトー 非同盟社会主義の歩み』恒文社、1974年。
- 恒文社編『チトー 英雄の生涯 1892-1980』恒文社、1980年。
- ズボンコ・シタウブリンゲル( 岡崎 慶興訳)『チトー・独自の道 スターリン主義との闘い』サイマル出版会、1980年。
- 高橋正雄『チトーと語る』恒文社、1982年。
関連項目
外部リンク
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