イタリア統一運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イタリア統一から転送)
移動先: 案内検索

イタリア統一運動(イタリアとういつうんどう)は、19世紀(1815–1871)に起こったイタリア統一を目的とした政治的・社会的運動である。イタリア語リソルジメントRisorgimento)と呼ばれ、日本語でもそのまま用いられる。

中世以降、イタリアは小国に分裂し、各国家はオーストリアスペインフランスの後ろ楯で権力争いが行われていた。19世紀の初頭にイタリアは、他の多くの欧州諸国と同じく、ナポレオンの勢力圏に入り、諸改革が行われた[1]。ナポレオン没落後はオーストリア帝国の影響の下で旧体制が復活したが[1]カルボナリマッツィーニ青年イタリアを中心とした勢力により、イタリアの統一と封建制度の打倒が目指された。

1848年革命に伴う「ローマ共和国」の失敗後はサルデーニャ王国を中心とし、オーストリアに対するイタリア独立戦争Guerre di Indipendenza Italiana)が行われ、オーストリア支配下のロンバルディア(旧ミラノ公国)がサルデーニャ王国に併合された。また、トスカーナエミリア=ロマーニャウンブリアなどの中部イタリアは住民投票によってサルデーニャ王国への併合を決めた[1]。この時の各勢力の旗には、現在のイタリア国旗である赤白緑の三色旗を基本としたものが用いられた。その後、ジュゼッペ・ガリバルディは私設軍隊である千人隊を率いてシチリア島に上陸し、最終的には南イタリア両シチリア王国を征服した。彼はこの功績により国民的英雄とされた[2]

1861年にはイタリア王国が建国され、統一は一応の成立を見る。1866年にはヴェネツィア1870年ローマなどの教皇領の残りを併合し、半島の統一は終了するが、イタリア人(イタリア系の文化を持つ者)が住む土地全てを統一の対象としたこの運動において、未回収地の併合はその後も政治課題として残った(イレデンタ回収主義[3])。最終的に未回収のイタリアがイタリア王国に統合されるのは、第一次世界大戦におけるイタリアの戦勝の後であった。

語源と期間

リソルジメントの語源はカミッロ・カヴールが発行した新聞『イル・リソルジメント』(il Risorgimento)である[4]。この言葉はイタリア語でri + sorgere + mentoに分けることができる。それぞれ、再び、昇る(発生する、立ち上がる)、事(-mentoは動作を名詞化する)を指し、リナシメント(rinascimento:ri + nascere + mento)、すなわちルネサンスの「再び、生まれる、事」に対応する[5]

リソルジメントの起源については統一直後はウィーン体制以降とする見方であったが、近現代のイタリア史の研究者の間では18世紀後半の啓蒙主義の時代にまで遡るとする解釈またはフランス革命およびその後のナポレオンによるイタリア統治を出発点とする見方がなされている[4][6]。イタリア統一は1870年の普仏戦争の際のイタリア王国軍によるローマ占領でほぼ完了した[4][7]

背景

中世以降のイタリア

5世紀西ローマ帝国の滅亡以来、イタリアとよばれた地域、つまりイタリア半島と、その付け根のアルプス以南の大陸部分と、サルデーニャシチリアなどの島々は、ゲルマン人東ローマ帝国イスラム勢力などの外来勢力に分割され、統治されてきた。

11世紀から13世紀にかけて、イタリアでは次第にテンプレート:仮リンクが発達するようになった[8]。この体制はルネサンス時代に絶頂に至るが、16世紀後半から17世紀にイタリアは深刻な経済的・社会的衰退に陥り始めた[9]教皇国家を含むイタリア諸国は列強国(とりわけハプスブルク家神聖ローマ帝国スペインヴァロワ家/ブルボン家フランス)の代理戦争の場と化した。

18世紀に入るとフランス、ドイツイギリス啓蒙思想が高まり[10]、ピエモンテ公国をはじめとするイタリア諸国でも啓蒙主義改革が行われ、特にトスカーナ大公国ではヨーロッパで最も先進的な改革が実施されている[11]

18世紀末時点のイタリアにはサルデーニャ王国ジェノヴァ共和国テンプレート:仮リンクパルマ公国モデナ公国ヴェネツィア共和国、トスカーナ大公国、テンプレート:仮リンクサンマリノ共和国教皇国家そしてナポリシチリア王国が分立しており、旧ミラノ公国など一部はハプスブルク君主国の支配下にあった。

ナポレオン体制

1789年のフランス革命の勃発はイタリアの知識層にも影響を与え革命運動を活発化させ、革命家たちは「ジャコビーノ」(ジャコバン主義者)や「パトリオット」(愛国者)と呼ばれた[1][12]。二度に渡ってイタリアに侵攻したナポレオンはオーストリア軍およびイタリア諸国軍を破って半島部を征服し、ピエモンテ、トスカーナ、ローマをフランスに併合した。また、北東部から中部にはイタリア王国を建国させ養子のウジェーヌ・ド・ボアルネを副王に任命し、南部のナポリ王国には親族(兄のジョゼフ・ボナパルト、次いで妹婿のジョアシャン・ミュラ)を国王となし、フランス帝国衛星国とした。

ナポレオン覇権下のイタリアでは旧体制(アンシャン・レジーム)を撤廃すべく、行政・税制諸改革が行われ、ナポレオン法典が導入された[13][14]。この経験から、イタリア知識層の中に統一意識が芽生えるようになる[1]。その一方で、ブルジョワ層が目指す社会改革は、農民をはじめとする大衆の利益には必ずしもつながらず、強い抵抗を引き起こしている[1][15]

1813年から1814年のナポレオン体制の崩壊とともに、それまでナショナリズム感情を利用して王位を維持していたフランスの衛星国家では反政府蜂起が引き起こされた[16]。1814年にナポリ王のジョアシャン・ミュラ(ジョアッキーノ1世)はナポレオンを見限ってオーストリアと同盟し、イタリア副王ウジェーヌ・ド・ボアルネと敵対した[17]。ナポレオンが退位するとウジェーヌは領土をオーストリアに引き渡し、イタリア王国は崩壊した[18]

翌1815年に百日天下でナポレオンが復位するとミュラはナポレオンの側についてオーストリアに宣戦布告し、イタリアの自由主義者たちに外国勢力を駆逐してイタリア統一を成し遂げようと呼びかけたが、応じる者は少なく敗北して処刑されている[19][20]

ウィーン体制

ナポレオンの敗北の後のウィーン会議(1814-15年)では欧州大陸の再編が話し合われた。イタリアについてはナポレオン以前の諸国が再建され[nb 1]、列強国(特にオーストリア)の直接または間接的支配下に置かれた[21]

ウィーン体制下のイタリアではオーストリア帝国に属する北東イタリアのロンバルド=ヴェネト王国、北西部のピエモンテサルデーニャ島を支配するサヴォイア家のサルデーニャ王国、中部イタリアには教皇国家、トスカーナ大公国、モデナ公国、パルマ公国、テンプレート:仮リンク(1829年にモデナ公国に併合)、ルッカ公国(1847年にトスカーナ大公国に併合)、サンマリノ共和国そして南イタリアにはブルボン家両シチリア王国が成立した[22]。1859年までこの枠組みに大きな変更はなかった。(冒頭地図参照)

これらの復古政府はナポレオン体制下での行政や法制度をおおむね引き継いでいたが、サルデーニャ王国やモデナ公国では反動的な政策が取られた[23]

この当時、イタリア統一に向けての闘争は主にオーストリア帝国とハプスブルク家に対するものであり、これは北イタリアを支配しており、それ故にイタリア統一に対する最も強大な障害であったためである。オーストリア帝国は、帝国の他の領域に対すると同様に、イタリア半島において発達しつつあったナショナリズムを弾圧した[24]。ウィーン会議を主宰したオーストリア宰相クレメンス・メッテルニヒは「イタリアという言葉は地理上の表現以上のものではない」と言明している [25]テンプレート:-

初期の革命闘争

テンプレート:Main テンプレート:See also 統一運動初期に最も影響力があった革命家グループは19世紀前半に南イタリアで結成された秘密結社カルボナリ(炭焼党)である。平等と民主主義を標榜する、そのメンバーたちは中産階級や知識人が中心であったが、それ以外の階層の参加もあった[26]。北部や中部にも勢力を拡大し、党員は30万人に達したとされる[27]。この秘密結社は統一運動初期における闘争の中核勢力となり[28]、統一運動の革命家の多くがカルボナリのメンバーであった経歴を有している。

ナポリ革命とシチリア革命

ファイル:Morelli Silvati 1822 Matania 1889.jpg
1822年9月12日、ナポリ革命の指導者は絞首刑に処された。
1889年。Edoardo Matania画。

南イタリアのナポリ王国シチリア王国はスペイン系ブルボン朝の統治下にあった。ナポリ王国はナポレオンに征服されてフランスの衛星国になったが、シチリア王国はイギリスの庇護のもとにブルボン朝が支配権を保持した。ナポリ王国では封建制が撤廃されて、近代的な官僚制度の整備がすすめられ、不徹底で問題を多く残したが農民に土地を分配する土地改革も行われた[29]。シチリア王国ではイギリスの影響のもとで立憲主義が採用され、封建制の廃止と憲法の制定・議会の設置が行われた[30]。ウィーン体制のもとでナポリ王国にブルボン朝が復活すると、両国を統合した両シチリア王国がつくられ、これに伴いシチリア王国の憲法も破棄されてしまい、法令制度もナポリのものがシチリアに押し付けられ、シチリア人の反発が生じた[31]

1820年1月にスペインで立憲革命が発生し、蜂起した革命派軍人はスペイン王フェルナンド7世1812年憲法の復活を承諾させた。同年7月、スペインの革命に触発されたカルボナリの党員テンプレート:仮リンク司祭に指導された両シチリア王国軍騎兵連隊が蜂起し、これにテンプレート:仮リンク将軍の師団が加わり、各地でカルボナリが蜂起して反乱が拡大した[32]。この結果、国王フェルディナンド1世はスペイン憲法と同一の憲法の発布を余儀なくされた[33]。無血クーデターを成功させた革命派は新政府を組織して王国の半島部分を制圧する。

反乱はシチリア島に飛び火し、パレルモを中心に民衆暴動が発生した。シチリアの反乱勢力は独自の統治委員会を設置してナポリからの分離を要求したが、内部分裂から統一した行動が取れず、短期間でナポリ政府軍によって制圧された[34]

これらの事態を脅威と判断した神聖同盟の会議が開かれ、会議に招請された両シチリア王フェルディナンド1世が新政府を裏切って介入を要請したことにより、オーストリアは武力干渉を決定する[35]。ナポリの革命政府では内部対立が起きており[36]、ナポリ政府軍はオーストリア軍の侵攻に抵抗することができず壊滅してしまった[37]。フェルディナンド1世は憲法と議会を廃止し、革命家たちを迫害した[38]。南イタリアのカルボナリは衰退し、歴史家テンプレート:仮リンクを含むシチリアの革命支持者たちの多くが亡命を余儀なくされている。

ピエモンテ革命

サルデーニャ王国はウィーン会議によって旧ジェノバ共和国領を併合して領土を増やしており、その中心地はサルデーニャ島ではなく大陸部ピエモンテ地方のトリノにあり、ピエモンテ国家とも呼ばれる[39]。保守貴族層が支配するサルデーニャ王国では復古政府の成立以降、反動的政策が取られていた[40]。1821年3月にピエモンテのアレッサンドリアで蜂起したテンプレート:仮リンクを指導者とする自由主義将校団は憲法の制定とともに北イタリアからのオーストリアの排除を目標とした[41]。この革命にはフィリッポ・ブオナローティの秘密結社が関与している[42][43]。この蜂起で兵士たちはチザルピーナ共和国(ナポレオン体制下で短期間存在した共和国)の緑・白・赤の三色旗を用いた[44]

国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世カルロ・アルベルトを摂政に指名して退位し、カルロ・アルベルトは革命派将校に譲歩して憲法制定に同意した[42]。だが、第一王位継承者のカルロ・フェリーチェはこれを認めず、軍隊を動員するとともに神聖同盟に援助を求めた[42]。オーストリア軍がピエモンテに侵攻し、一般大衆からの支持を欠いた革命は1カ月程で鎮圧された[45]。サンタローザをはじめとするピエモンテの革命家たちは亡命し[46]、帰国して即位したカルロ・フェリーチェは反動的な統治を行うことになる[47]

中部イタリア革命

両シチリア王国そしてピエモンテでの革命瓦解の後、イタリアは反動の時代となり、革命が起こった両シチリア王国やサルデーニャ王国はもちろん、教皇国家そしてモデナ公国そしてオーストリア支配下のロンバルド=ヴェネト王国ではカルボナリをはじめとする革命運動に苛烈な弾圧が加えられた[48]。だが、1830年にはイタリア統一を目指す革命の機運が蘇り、一連の蜂起によってイタリア半島に一つの国家を作り上げる基礎が形づくられた。

革命思想を弾圧していたモデナ公フランチェスコ4世はサルデーニャ王位の獲得を望んでいた[49]。野心家のモデナ公とカルボナリのエンリーコ・ミズレィとの結託が成立し、モデナ公は革命派の期待を自らに集めることによって北イタリアの王となる思惑から、一転して革命派の支援を行い始めた[50]

1830年にフランス7月革命が勃発し、フランス王が革命家たちによって廃位され、ルイ・フィリップを戴く7月王政が成立した。パリに亡命していた革命家たちはルイ・フィリップと接近してモデナ公を擁する革命に対する積極的な支援が得られるよう働きかけた[51]。亡命者グループの主導権はフィリッポ・ブオナローティが掌握し、イタリア全土での革命を志向していたが、中部イタリアのみの革命を企図していた国内グループと思惑の相違が生じていた[52]

一方、国内派のテンプレート:仮リンクはフィレンツェに亡命していたルイ・ボナパルトと接触してボナパルト主義者との協力関係を築こうとした[53]。だが、このことがルイ・フィリップを警戒させる結果となる[54]。メノッティらが蜂起の準備を進めたが、オーストリアからの警告を受けたモデナ公は浮足立っていた[55]

ファイル:Anonimo - assalto alla casa di Ciro Menotti - litografia - 1887.jpg
モデナ公によるメノッティら革命家の逮捕。

1831年2月、モデナ公は決起寸前でカルボナリの支持者たちを裏切り、メノッティをはじめとする陰謀者たちを逮捕した[56]。だが、直後にボローニャで蜂起が起こり、恐れたモデナ公はウィーンへ逃亡する[56]

同時期に教皇国家テンプレート:仮リンク地域(教皇領北部地区)[nb 2]ボローニャフォルリフェラーララヴェンナイーモラペーザロそしてウルビーノで武装蜂起が発生した。教皇旗として三色旗を採用した一連の武装蜂起は教皇国家全域に広まり、新たに樹立された地方政府は統一イタリア国家の樹立を宣言した。

モデナ公国や教皇国家での反乱はパルマ公国にも広まり、ここでも三色旗が使用された。パルマ女公マリア・ルイーザ(フランス皇帝ナポレオン1世の元皇后)は騒乱から逃れるために町からの避難を余儀なくされている[57]

蜂起した諸州は各々臨時政府を樹立して憲法制定を準備し[56]、「イタリア統合諸州」(Province Italiane unite)の樹立を計画した[58]。メッテルニヒはルイ・フィリップに対して、オーストリアはイタリアの騒乱を放置する意思はなく、フランスの干渉は容認されないと警告した。ルイ・フィリップは軍事援助を差し控えさせ、フランス国内の革命家の拘束さえ行っている[59]

1831年春になるとオーストリア軍がイタリア半島へ侵攻した。この革命も大衆の支持を欠き地域対立から相互の連携も杜撰であり[60]、反乱を起こした諸州は順次制圧され、3月にボローニャが制圧されて革命は瓦解した[55]。これにより揺籃期の革命運動のほとんどが鎮圧されメノッティを含む、多くの急進派革命家が逮捕・処刑された。 テンプレート:-

1830年代から40年代のナショナリズム

テンプレート:Main

急進民主派

ファイル:Giuseppe Mazzini.jpg
ジュゼッペ・マッツィーニ
1860年撮影。

テンプレート:See also カルボナリやその他の秘密結社による革命闘争は指導者層の無能と大衆との乖離を露呈して挫折した[61]。代わってジュゼッペ・マッツィーニのグループが民主派の中心勢力として浮上する。

1827年、マッツィーニは22歳の時にカルボナリに加入して活動に従事したが、1830年に裏切りにより逮捕投獄されている[62]。マッツィーニの回想によれば、サヴォーナ要塞の獄中において彼はイタリアは統一可能であり、また成されなければならないと確信を持ち、ローマを首都とする自由で独立した共和国の構想を策定したという[63]。1831年に釈放されたマッツィーニはマルセイユに亡命した。マッツィーニはカルボナリの指導原理の不明確と組織の欠陥を批判して決別し、亡命者を中心とした青年イタリアLa Giovine Italia)を結成する[64][65]

これ以降、革命家としての活動を通じて形成されるマッツィーニの思想は宗教的要素を強く持ち、その新しい宗教観念に基づいた人間の「義務」が強く主張されていた[66]。彼は自由で平等な人民によって結合された人類アソシエーション(Associazione)の達成を神に与えられた人類の使命とし、その社会は民主的な共和政体であらねばならず、そしてイタリア国民こそが指導的な民族であり、偉大な歴史を持つローマを中心に世界を統合せねばならず[67]、その為に分裂し退廃したイタリアに革命を起こして統一し、国民主権を確立せねばならないと考えた[68]。マッツィーニの新社会構想はイタリアを越えて、人類アソシエーションたる「ヨーロッパ合衆国」での「人民の共和国同盟」の樹立を人類の使徒たる自らの最終目標として掲げている[69]

「自由、平等、人類、独立、統一」をモットーとする[70]青年イタリアは共和主義によるイタリア統一を目標とし、武力闘争を通じた大衆の教育・組織化を標榜した[71]。青年イタリアは1833年にピエモンテで蜂起を計画するが当局に察知されて失敗し、逆に大弾圧を招いた[72]。1834年にはジェノヴァとサヴォワで蜂起を計画するが、これも失敗する[73]

ジェノヴァでの蜂起計画にはニース(当時はサルデーニャ王国領)出身のジュゼッペ・ガリバルディが加わっており、彼は欠席裁判で死刑判決を受けたが、南アメリカに逃亡した[74]。彼はこの地で14年間を過ごし、幾つかの戦争に参加して戦闘経験を積んでおり、1848年にイタリアに帰国する[75]

これらの失敗で青年イタリアは事実上瓦解し[76]、マッツィーニは国際連帯に活路を見出すべく「青年ヨーロッパ」、「テンプレート:仮リンク」、「青年ドイツ」そして「テンプレート:仮リンク」を次々と結成してゆく[77]

この時期、マッツィーニ派とは別にカルボナリ的秘密結社による武装蜂起や蜂起計画が幾度か引き起こされたが、ことごとく失敗し、当局による激しい弾圧を招く結果になっている[78]

穏健自由主義

一方、イタリア政財界では穏健派ナショナリズムが台頭するようになった[79]。穏健派はイタリア統一の必要を絶対視はしておらず、現状の体制を維持しつつ、オーストリアからの独立と現実的な改革を行うべきであると考えていた[80]。代表的な人物には経済的自由主義と連邦制を説いた経済学者カルロ・カッターネオ[nb 3]、「イタリアの希望」(Le Speranze d'Italia)を著したサルデーニャ王国の歴史家・政治家テンプレート:仮リンク(サルデーニャ初代首相:在任1848年)[81]そして国王に穏健な民主改革を説いたサルデーニャ王国の政治家テンプレート:仮リンク(サルデーニャ首相:在任1849年-1852年)がいる[82]

1839年に自由主義知識人による第1回科学者会議(Primo congresso degli scienziati italiani)が開催され、以後1848年まで毎年開かれた。知識人たちが科学技術や社会問題について国境を越えて議論をしたこの会議はイタリア意識形成の一助となった[83]。この会議で労働者の貧困救済を目的とした相互扶助協会が設立された[84]。労働者に対する慈善と啓発を目的とした相互扶助協会は政治的性格を持たなかったが、後に労働組合運動の源泉となってゆく[85]

ファイル:Vincenzo Gioberti iii.jpg
ヴィンチェンツォ・ ジョベルティ

芸術や文化の分野でもナショナリズムへの傾向が強まった[86]。代表的なナショナリズム作品にはマッシモ・ダゼーリョの『テンプレート:仮リンク』(Ettore Fieramosca)とアレッサンドロ・マンゾーニの歴史長編小説『いいなづけ』(I Promessi Sposi)がある[86]。『いいなづけ』の初版はミラノの地域語であったが、1842年版はフィレンツェ語であり、読者がこの言葉を標準イタリア語として共有するようにと意識的に努力している[87]

ピエモンテの聖職者テンプレート:仮リンクは1843年に出版された著書『イタリア人の倫理的、市民的優位について』(Del primato morale e civile degli Italiani)で教皇を盟主とする連邦国家を提案し、聖職者をはじめとする保守的な人々から注目された[88]。1846年に選出された教皇ピウス9世は教皇国家の改革を断行して自由主義的教皇と呼ばれ[89]、教皇を中心とするイタリア改革の機運が高まった(テンプレート:仮リンク[90][91]

これに対して、革命家の多くは共和制を志向していたが、最終的にイタリアを統一する勢力は穏健的な立憲君主制派であった。

だが、こういった統一の機運はローマ教皇庁からの反対にも直面している。教皇ピウス9世はこの地域における権力の放棄はイタリア・カトリック教会に対する迫害につながると恐怖していた[92]。実際、民主主義者たちはカトリック教会に対して嫌悪感を露わにしており、マッツィーニはもはや神の声は教皇ではなく、人民によって語られると教会を攻撃し[93]、イタリア統一後にはガリバルディが教皇位の廃止を主張するほどだった[94]テンプレート:-

1848-49年革命と第1次イタリア独立戦争

テンプレート:Main テンプレート:See also 1848年にはフランスで2月革命が起き、国王ルイ・フィリップがパリから逃亡して共和国が成立した。革命の動きはドイツ、オーストリアそしてイタリアにも波及し、ウィーン体制を終焉させることになる(1848年革命)。

ウィーン体制以降、ロンバルディア地方とヴェネト地方はオーストリアが支配するロンバルド=ヴェネト王国となった。オーストリアはナポレオン統治時代の諸改革を継承し、イタリアの他の地域と比べてはるかに近代的な諸制度が整えられていたが、それでも外国支配に対する反感は根強かった[95]。また、ルネサンス期には栄華を誇ったヴェネツィアはこの時代には衰退しており、人口は減少して貧困者が3分の1を占め、その上にオーストリアが貿易港としてトリエステを重視したためにかつて活発だった造船業も寂れ果てていた[96]。1840年代にはヴェネツィアはやや立て直し、観光客が訪れ、鉄道も通るようになった[97]

1848年1月1日にロンバルディアの市民がオーストリア政府の税収源となっていた煙草の購入を止める不服従運動の形態での騒乱が起きた(煙草一揆)[98]。これから暫くしてシチリア島とナポリでも反乱が発生し、フェルナンド2世は1821年の時と同様の妥協をして両シチリア王国に憲法を発布し、政治犯を釈放した[99]。シチリアは分離独立を要求し、独自の憲法を制定して議会を設置した[100]

ファイル:Donghi 5 giornate 1848.jpg
バリケードを組み戦いに備えるミラノ市民。
Felice Donghi画。1848年。

両シチリアの動きはイタリア諸国に波及し、2月にはトスカーナ大公国でも暴動が起き、これは比較的非暴力なものであったがトスカーナ大公レオポルド2世は憲法を発布させられた。これまで、反動的な政策を固持して来たサルデーニャ王国も3月4日に憲法を制定し[101]、3月15日には教皇ピウス9世が教皇国家の憲法を発布した[102]。これらはいずれも君主によって発布された欽定憲法であり、「憲章」と呼ばれ、主なモデルとなったのはフランスの1830年憲法であり、1814年憲法やベルギーの1831年憲法も参考にされている[103]

一方、オーストリア統治下のロンバルディアでの緊張も高まり、3月13日にテンプレート:仮リンクが起こり[104]、宰相メッテルニヒが罷免されたとの報が伝わると3月18日にミラノとヴェネツィアでも民衆蜂起が起こった[105]。ミラノでは3月18日から22日まで激しい市街戦が行われ、反乱勢力はヨーゼフ・ラデツキー将軍率いるオーストリア軍を退却させ、臨時政府を組織した(ミラノの5日間:Cinque giornate di Milano[106]。ヴェネツィアではダニエーレ・マニンの元でヴェネツィア共和国の再興が宣言される(ヴェネト共和国:Repubblica Veneta[107]

ミラノにはサルデーニャ軍の先遣隊が入城し、臨時政府と協定を結んだ。一方、マッツィーニをはじめとする民主派もミラノに集結する。穏健派はサルデーニャ王国の介入を要請し、これに対してカルロ・カッターネオテンプレート:仮リンクら共和国の樹立を望む民主派はフランスの介入を画策してマッツィーニの協力を求めるが、彼はこれを拒絶し民主派は早々に分裂してしまう[108]

サルデーニャ王カルロ・アルベルトは国内世論の高まりと、ロンバルディア獲得の思惑から、オーストリアに対して宣戦布告した[109]。サルデーニャ王国の参戦は大きな反響を呼び、教皇国家から義勇軍が派遣され[nb 4]、ナポリ政府とトスカーナ大公国も参戦を決めた[110]。だが、オーストリアとの全面衝突を懸念した教皇ピウス9世は4月29日にカトリックと民族主義は相容れないと表明して戦争から離脱する[110]。教皇の宣言は大きな失望を呼び、教皇の革命参加を期待するネオグェルフ主義を終わらせることになった[90]。ナポリ政府もシチリアの反乱鎮圧のために撤兵し、フェルナンド2世は再び反動政策に転じる[111]

サルデーニャ軍はゴーイトペスキエーラでの戦いに勝利したものの、7月24日のテンプレート:仮リンクでラデツキー将軍に大敗を喫する。ラデツキー将軍はミラノを奪回し、8月9日に停戦協定が結ばれた[112]

ラデツキー将軍がロンバルディアの支配を固め、カルロ・アルベルトが敗戦の傷を癒していた頃、イタリアの他の地域では事態がより一層深刻化していた。10月、トスカーナ大公国では民主主義者が政権を掌握した[113]。10月末には反動勢力のヴィンディシュ=グレーツ軍によるテンプレート:仮リンクが起こる。11月には教皇国家首相テンプレート:仮リンクが暗殺され、教皇ピウス9世がガエータに逃亡する事態になった[113]

1849年初めに教皇国家内で制憲議会のための選挙が行われ、2月9日にローマ共和国Repubblica Romana)の成立が宣言された[114]。2月2日にアポロ劇場で開かれた政治集会で、若い聖職者のアルドゥイーニ神父は俗界における教皇の権力は「歴史的欺瞞であり、政治的詐欺であり、そして宗教的不道徳である」と宣言した[115]。3月初旬にマッツィーニがローマに到着し政府に参加した(後に三頭執政の一人に選ばれる)[116]。ローマ共和国憲法では第7条で信仰の自由が定められ、第8条(Principi fondamentali)ではカトリック教会の首長としての教皇の独立が保証され、第5条で死刑廃止、そして第8条(Titolo I)で無料の公教育が定められている[117]

共和派の高揚に行動の必要を迫られたサルデーニャ王カルロ・アルベルトは[118]、亡命ポーランド人の将軍テンプレート:仮リンクを司令官に任じてオーストリアとの戦争を再開させた[119]。だが、サルデーニャ軍は1849年3月23日のテンプレート:仮リンクでラデツキー将軍に敗れ、敗戦の責任を取ってカルロ・アルベルトは退位し、息子のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位した。サルデーニャのイタリア統一またはロンバルディア征服の野望は(一時的ではあるが)頓挫することになった。8月9日に講和条約が締結され、戦争は終わった。ノヴァーラの戦いから数日後にテンプレート:仮リンクで民衆蜂起が発生していたが、オーストリア軍に10日間で鎮圧されている。4月下旬にトスカーナもオーストリア軍に制圧された[120]

革命勢力はローマ共和国とヴェネト共和国のみが残された。4月にテンプレート:仮リンク率いるフランス軍がローマに派遣された。当初、フランス軍は教皇と共和政府との仲介を望んでいたが、共和政府は徹底抗戦を主張した[121]。フランス軍はローマを包囲し、ガリバルディ率いる共和国軍は果敢な抵抗をしたが[122]、2か月間の包囲戦の後、6月29日にローマは降伏し、教皇が復帰した。ガリバルディとマッツィーニは再度の亡命を余儀なくされ、1850年にガリバルディはニューヨークに到着している[123]。一方、オーストリア軍はヴェネツィアを包囲し、1年以上の包囲戦の末、8月24日に占領した[124]。独立派闘士たちはベルフィオーレで公開絞首刑となり(「ベルフィオー レの殉教」事件)[125]、オーストリア軍が中部イタリアの秩序を回復し、革命は完全に粉砕された。

「準備の十年間」とサルデーニャの国政改革

1848-49年革命に挫折した後の10年は「準備の十年間」(decennio di preparazione)と呼ばれる。

民主派の間では、あくまで武装蜂起による統一の達成を主張するマッツィーニと、連邦制による統一を主張するグループとで論争が起こった[126]。武力闘争方針を堅持するマッツィーニは1853年にミラノで蜂起を計画するが失敗した[127]。この失敗により、マッツィーニ派は融合派(Fusi)と純粋派(Puri)に分裂した[128]。マッツィーニは純粋派に与し、テンプレート:仮リンクPartito d'azione)を結成する[129]

1857年にはテンプレート:仮リンクと両シチリア王国とイタリア本土との同時蜂起を計画するが、両シチリア遠征に向かったピカーサのグループには期待した農民の呼応はなく惨敗に終わり、ジェノヴァリヴォルノでの蜂起計画も頓挫する[130]。無謀な蜂起を繰り返すマッツィーニには批判が強まり、袂を分かつ人々も現れるようになった[131]

ファイル:Camillo Benso, conte di Cavour, 1861.jpg
カミッロ・カヴール
1861年撮影。

両シチリア王国、トスカーナ大公国そして教皇国家など革命の際に憲法を制定したイタリア諸国はいずれもこれを破棄したが、サルデーニャ王国だけは憲法を維持した[nb 5]。1852年にコンヌーピォ(結婚:connubio)と呼ばれる中道右派と中道左派との連合により首相に就任したカミッロ・カヴールは優れた議会操縦術で政治基盤を盤石なものとし、サルデーニャ王国の改革を進めることになる[132]

1854年にカヴールは修道院を廃止する法案を国王や保守派・教会の抵抗を受けながらも通過させて教会の影響力を著しく弱体化させ、かつ国王に対する議会の優位を確立した[133]。カヴールは通商協定をイギリス、フランス、ドイツ関税同盟そしてオーストリアと結び、さらに産業育成や銀行業務の拡大、鉄道・海運など社会基盤の整備を振興させ、彼の時代にサルデーニャの経済は大いに発展している[134]。また思想的に隔たりのある民主派との協力関係を構築し、マッツィーニから離れたダニエーレ・マニンらが1857年に結成した「テンプレート:仮リンク」(Società nazionale)を支援した[4][135]

第1次イタリア独立戦争でサルデーニャ王国はオーストリアをイタリアから駆逐する賭けに完全に失敗したが、サルデーニャ王国はロンバルディアを獲得する望みをなお捨てていなかった。カヴールもまた拡張主義の野望を持っていた[136]。カヴールは独力でロンバルディアを獲得することはできないと考え、オーストリアに対抗するためイギリスとフランスからの援助を期待した。英仏の援助を得るためにクリミア戦争(1854年-1856年)に参戦したが[137]、これは失敗に終わり、テンプレート:仮リンクではイタリア問題は無視されてしまった[138]。しかしながら、この戦争によって有用な目的が達成された。すなわち、戦争中に英仏とロシアの両陣営を秤にかけたオーストリアが危険なほどに孤立したからである[138]

イタリア王国の成立

第2次イタリア独立戦争

テンプレート:Main

1858年1月14日にイタリアのナショナリストのフェリーチェ・オルシーニ(カルボナリのメンバー)がフランス皇帝ナポレオン3世の暗殺を図った。オルシーニは獄中から、暗殺未遂による死刑は受け入れるが、ナポレオン3世に対して皇帝の尊厳を満たすためにテンプレート:仮リンクに手を差し伸べるよう懇願した[139]。ナポレオン3世はこの手紙を公開させ、新聞で報じられるとフランスではイタリア解放を求める世論が高まった[140]

青年時代にカルボナリ運動に参加した経験のあるナポレオン3世は[141]、イタリア解放運動に対して好意的であり、青年時代の理想主義、伯父ナポレオン1世のイタリア征服に倣い偉大な業績を挙げたいとする野心、そしてフランスの国益などの複合した思惑からイタリア介入を決意する[142][nb 6]

1858年夏、カヴールはテンプレート:仮リンクでナポレオン3世と会談し、両者はプロンビエールの密約(伊:Patto di PlombièresAccord de Plombires)として知られる秘密協定を調印した[143]。カヴールとナポレオン3世はオーストリアと共同で戦争をすることに合意した。この協定ではサルデーニャ王国はオーストリア領のロンバルド=ヴェネト王国、パルマとモデナの両公国それに教皇国家のレガツィオーネを併合することになるが、その見返りにサルデーニャ領のサヴォワとニースを割譲することになった[139]。トスカーナ大公国は教皇領の一部を加えた上で中部イタリア王国とし、君主をハプスブルク家からフランス皇帝の従弟のプランス・ナポレオンに替え、南部の両シチリア王国は現状のままとされた[144][145]。フランスが侵略者の非難を受けることなく干渉するために、カヴールがモデナの革命運動を使嗾してオーストリアを挑発することになった[146]

当初、物事は計画通りには運ばなかった。モデナの暴動は不発に終わり[147]、密約の内容が外に漏れたことでイギリスが戦争反対の意向を明確にする[148]。1859年3月にサルデーニャ王国は軍の動員と義勇兵を募集を開始し、オーストリアはサルデーニャ軍の武装解除を要求した[149]。緊張が高まる中、ロシアがイタリア問題を話し合う五大国会議を提案するとナポレオン3世が戦争に消極的な態度を示し始め、カヴールを焦燥させた[150]。だが、ウィーン宮廷は既に戦争不可避と判断しており、サルデーニャ王国に対して強硬な内容の最後通牒を発する[151]。これを好都合としたカヴールは最後通牒を拒絶し、オーストリアを侵略者と見せかけ、フランスが介入できるようにした[152]

戦争自体はごく短期間のものであった。オーストリア軍の失策に乗じたフランス=サルデーニャ連合軍は6月4日のマジェンタの戦いで、テンプレート:仮リンク伯爵率いるオーストリア軍に勝利し、オーストリア軍はロンバルディアの大部分からの撤退を余儀なくされ、ナポレオン3世とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はミラノに入城した[153]。両軍の決戦となったのは、ソルフェリーノで行われた、6月24日ソルフェリーノの戦いである。ナポレオン3世とオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフが陣頭に立った血なまぐさい戦闘では、二人の皇帝の無能により両軍とも3万人近い死傷者を出したが、最終的にフランス=サルデーニャ連合軍の勝利に終わった[154]。オーストリア軍はヴェネツィアの背後にあるテンプレート:仮リンクに後退した[155]

フランスはこの時点で講和を模索した。ソルフェリーノの戦場を視察したナポレオン3世は犠牲者の多さに仰天した[156]。彼はヴェネツィアを征服するために要する時間と流血を恐れ、また国内からの反対、プロイセンの介入の可能性そして強力になりすぎるサルデーニャ王国への懸念も相まって戦争から手を引こうとした[157]

7月11日、ナポレオン3世は同盟国のサルデーニャ王国に伝えることなく、ヴィッラフランカでフランツ・ヨーゼフと個人的に会見し、両者は戦争を終わらせることに合意した(ヴィッラフランカの講和[158]。オーストリアはヴェネツィアを保持するが、ロンバルディアはフランスに割譲し、フランスが即座にこの地をサルデーニャ王国に譲渡することになった(オーストリアがサルデーニャ王国に直接割譲することを拒んだため)[159]。その他のイタリアの国境は現状維持となった。戦争勃発とともに君主が追放されオーストリアへ逃れていた中部イタリアのトスカーナ、モデナそしてパルマについては各々復帰させ、レガツィオーネ地域における教皇の支配も回復させることになった。だが、ナポレオン3世がプロンビエールの密約の条件を満たさなかったため、サヴォイとニースを獲得することはできなくなった[160]

サルデーニャ国民はこの裏切りに激怒した。カヴールは戦争遂行を主張したが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が甘受が現実的な選択であると判断したため辞職した[161]。だが、ヴィッラフランカでの仏墺の合意はこれを公式化するテンプレート:仮リンクが11月に締結された時点で死文と化していた。12月、トスカーナ、モデナ、パルマそしてレガツィオーネは「中央統合諸州」(Province Unite del Centroitalia)に統一され、イギリスの勧めもあって、サルデーニャ王国との合併が表明された[162]。フランスは講和に反するこの動きに圧力をかけたが、1860年1月にカヴールが首相に復職して交渉にあたり、ナポレオン3世はサヴォイとニースの割譲を条件にサルデーニャ王国による中部イタリア併合を承認した[163]。1月に教皇ピウス9世はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世をはじめ教皇領侵犯に関与した者たち全員を破門に処し領土の返還を命じたが、もはや効果はなかった[164]。各国で住民投票が行われ、3月20日に併合が実施された。この時点で、サルデーニャ王国は北部と中央イタリアのほとんどを支配した。

千人隊の遠征

ファイル:Gustave-Le-Gray Giuseppe-Garibaldi Palermo-1860 1-1000x1500.jpg
ジュゼッペ・ガリバルディ。
1860年撮影。

テンプレート:See also 1860年の時点で、イタリアには4カ国のみが残された。依然としてヴェネトを統治するオーストリア帝国、レガツィオーネ地域を失った教皇国家、拡大したサルデーニャ王国そして南イタリアの両シチリア王国である。この時点で、カヴールがイタリアの残りの部分のサルデーニャ王国主導での統一を構想していたとは考え難い[nb 7]。なぜなら、これらの地域の経済的な価値は少なく、却って財政的負担になるからである[165]。だが、事態は彼の意図を越えて進展することになる。

両シチリア王フランチェスコ2世(「砲撃王」(Re Bomba)のあだ名で悪名高いフェルディナンド2世[nb 8]の後継者)は15万人の訓練された軍隊を有していた。だが、父王の専制の結果、国内に多数の秘密結社が結成され、さらにスイス政府が自国民が外国の傭兵になることを法律で禁止したため王国のスイス人傭兵が突如本国に帰還する事態が起こってしまった[166]。このためフランチェスコ2世にはあまり信頼できない兵隊のみが残された。これはイタリア統一のための決定的な機会となった。1860年4月、歴史的にナポリの支配に抵抗してきたシチリア島のメッシーナとパレルモで反乱が発生したが、王国軍によって簡単に鎮圧された[167]

1848-49年革命の挫折以降、民主派の一部は共和制に固執するマッツィーニから離れ、サヴォイア家を中心とするイタリア統一に傾き「イタリア国民協会」を結成していた[135]。ガリバルディもこれに参加し、1859年の第2次イタリア独立戦争ではアルプス猟兵隊を組織してオーストリア軍と戦っている。だが、この頃のガリバルディは出身地のニースがフランスに割譲されたことに深い憤りを感じており、以降、カヴールに強い不信感を持つようになっていた[168][nb 9]。彼は自らの支持者とともに町を奪回することさえ計画している[169]。マッツィーニら民主派は立憲君主制を支持する穏健派に取られているイタリア統一の主導権を奪い返すべく、シチリア遠征を企画しており、その司令官としてガリバルディに出馬を要請した[170]

ファイル:Partenza da Quarto.jpg
千人隊の出港。
1860年代画。

1860年5月6日、ガリバルディとおよそ1000人の同志(千人隊I Mille)はジェノバ近くのクァから出港し、5月11日にタラモーネに停泊した後にシチリア島西海岸のマルサーラ近くに上陸した。

サレーミ近くで、ガリバルディの部隊は四散していた反政府勢力を集め、5月14日、ガリバルディはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の名の下で、自らがシチリアの独裁権を掌握したと宣言した[171]。翌5月15日、ガリバルディはカラタフィーミで敵軍を撃破した[172]。この戦い自体は小規模なものだったが、政府軍に対する勝利は島全体に大きな反響を呼び、千人隊に呼応する農民反乱が広まった[173]。ガリバルディは戦勝を重ねつつ、シチリアの首都パレルモへと進んだ。5月26日、ナポリ政府軍のテンプレート:仮リンク将軍が守るパレルモを包囲し、市内では暴動が発生し市街戦となった。

パレルモ市民が反乱派だと判断したナポリ政府軍のランツァ将軍は猛烈に町を砲撃してほとんど廃墟と化させた[174]。英国海軍の提督の仲介で停戦が成立し、ナポリ政府軍はメッシーナへ撤退し、町はガリバルディと彼の小部隊に降伏した[171]

ガリバルディは事前にシチリアに潜入していた民主派活動家テンプレート:仮リンクと協力してシチリア統治を行い、農民の支持を得るために1848年革命の諸措置の復活や製粉税の廃止、共有地の配分を行ったが、農民が彼の意図を越えて貴族や官吏を襲撃し始めたため、農民反乱を弾圧している[175]

千人隊の遠征のニュースは欧州各国の新聞で英雄的な冒険として取り上げられ、ガリバルディの名声が広がり、アレクサンドル・デュマ・ペールヴィクトル・ユーゴーといった文化人が彼を賞賛する論評を出した[176]。一方、フランチェスコ2世は以前の憲法を再公布させるとともにナポレオン3世の介入を要請し、サルデーニャ王国との同盟まで提案したが、これらの努力でもブルボン王家の衰勢を立て直すことはできなかった[177]

パレルモの降伏から6週間後、ガリバルディはメッシーナを攻撃した。7月20日にメラッツォで決戦が行われ、遠征軍が勝利し、ナポリ政府軍はメッシーナに封じ込められた[178]。シチリア島を征服したガリバルディはナポリ艦隊をしり目にメッシーナ海峡を渡り、本土へと進んだ。レッジョ・カラブリアの守備隊は速やかに降伏した。ガリバルディは北へと進軍し、どの土地でも民衆は彼を歓迎し、ナポリ軍の抵抗は衰えていった[179]。8月18日と21日にバジリカータプッリャの住民が自発的にイタリア王国への併合を宣言した[180]

8月末にガリバルディはサレルノ近くのエボリに到着し、9月5日にコゼンツァに至った。一方、ナポリ政府は戒厳令を布告するとともに、9月6日に国王は依然として彼に忠実な4,000の兵士とともにテンプレート:仮リンクまで後退した。その翌日、ガリバルディは列車に乗って少人数の部下とともにナポリに入城し、市民たちは公然と彼を歓迎した[181]テンプレート:-

テアーノの握手

ファイル:VictorEmmanuel2.jpg
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世。1861年撮影。

ガリバルディの成功はカヴールらサルデーニャの穏健派にとって、まったくの悪夢だった[182]。元々カヴールは南部を含んだ半島統一は考えておらず、北イタリア王国の樹立が目標だったが、民主派に主導権を奪われることを恐れた彼は方針を転換した[183]。シチリアの併合を画策するが、ガリバルディの反対もあって成功せず、次いでナポリに工作員を送り込み、ガリバルディの到着前に穏健派による蜂起を画策したが、これも失敗した[184]

一方、容易に両シチリア王国の首都を奪取したガリバルディの軍隊は3 - 4万人となりテンプレート:仮リンクEsercito Meridionale)を称していた[185]。しかし、ナポリ政府軍は5万の兵を持ってヴォルトゥルノ川に沿って戦線を維持しており、ガリバルディの南部軍団はカプアとガエータの要塞を攻略することができなかった[186]

ガリバルディは教皇ピウス9世の政治的意向を無視し「イタリア王国樹立の宣言」をローマから発する意図を表明していた[187]。カトリック教会の支配領域の危機を感じた教皇ピウス9世はガリバルディを支持する者全てを破門に処すると脅した。ガリバルディによるローマ攻撃を恐れた世界のカトリックは教皇軍に資金と義勇兵を送り、亡命フランス人のテンプレート:仮リンクが軍の指揮を執った。

カヴールはガリバルディを抑えるべく、サルデーニャ軍の南部派遣を決めたが[185]、そのためには半島中央部にまたがる教皇国家を通過せねばならなかった。半島のこう着状態の決着はナポレオン3世に委ねられた。もしも、フランス皇帝がガリバルディの思いのままにさせれば、教皇の俗界主権は終焉し、ローマはイタリアの首都となる。だが、ナポレオン3世はカヴールと協議を行い、ローマと「聖ペテロの伝統」には手を付けないことを条件にナポリ、ウルビーノその他の地域をサルデーニャ領とすることで調整した[188]

この様な状況下で、ファンティとチャルディーニ率いるサルデーニャ軍2個軍団が教皇国家へ侵入し、その目標はローマではなくナポリであった。ラモリシエールの教皇軍はチャルディーニ軍団と対したが、9月18日にカステルフィダルトの戦いで撃破されてアンコーナの要塞に包囲され、9月29日に降伏した[189]。10月9日にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が到着し、全軍の指揮を取った。彼に対抗しうる教皇軍はもはや存在せず、サルデーニャ軍は抵抗を受けることなく南下する。

10月、サルデーニャ議会はシチリアと南イタリアの併合を決議した。これに対し、シチリアでは議会が招集され、ナポリでもマッツィーニら民主派が集結して議会召集と憲法制定を準備していた[190]。だが、穏健派がサルデーニャとの合併を問う住民投票を強く要求し、ガリバルディは同意せざる得なくなる[183]。ナポリとシチリアで実施された住民投票の結果、圧倒的多数でサルデーニャ王国との合併が決まった[191]。11月にはサルデーニャ軍占領下のマルケウルビーノでも住民投票が行われ、サルデーニャ王国との合併が決められている[192]

ガリバルディは出身地のニースをフランスに割譲した現実主義者のカヴールを信用していなかったが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の指揮権を受け入れた。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がセッサ・アウルンカに入城したとき、ガリバルディは国王に対して自らの独裁権の返上を知らせた[193]。10月25日にガリバルディはテアーノでヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を迎え、この場面は「テンプレート:仮リンク」としてイタリアの愛国的神話となる[194]

ガリバルディがヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に征服した南イタリアを進んで献上した美談とされるが、実際の会見は感動的なものではなく、サルデーニャ軍の将校は冷淡に接し、国王はガリバルディに正規軍に従うよう手短に命じただけであり、ガリバルディは国王への忠誠ではなく併合を決めたナポリとシチリアの住民投票の結果を受けてこれに従ったものであった[195]。11月7日、ガリバルディは国王と並んでナポリに入城した。彼は半島統一の残りの事業をヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に委ね、自らはカプレーラ島に引退した[nb 10]

サルデーニャ軍の進撃によってフランチェスコ2世は川沿いの防衛線を放棄せざる得なくなり、最終的に彼は精鋭部隊とともにガエータの要塞に立て籠もった。気丈な若い王妃マリーア・ソフィアに支えられたフランチェスコ2世は奮起し、3か月に渡り頑強に抵抗した[nb 11]。だが、欧州の同盟諸国は援助を拒否し、食糧、弾薬が底をつき始め、その上に疫病まで起こったため、守備兵は降伏を余儀なくされた。それにも関わらず、フランチェスコ2世に忠実なナポリ人の幾つかの集団が、貧弱な武器をもって、なお数年間、イタリア政府に対して抵抗を続けることになる(後述南部の反乱)。

ガエータの陥落により、統一運動の目標はほとんど達成され、ローマとヴェネトのみが残された。1861年2月18日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はトリノで第8期サルデーニャ議会を召集した。3月14日に議会はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世をイタリア王と宣言し[nb 12]、3月27日にはローマを首都と宣言した(依然として王国の統治下には入っていなかったが)[196]。この3か月後、生涯の事業をほぼ終えたカヴールが世を去った。彼の最後の言葉は「イタリアはつくられた。すべてが安心だ」である[nb 13]テンプレート:-

ヴェネトとローマの併合

アスプロモンテと9月協定

イタリアの統一はマッツィーニら民主派が望んだ人民革命によるものではなく、サルデーニャ王国によるイタリア諸国の吸収合併という形で完成しつつあった[197]。そして、「アルプスからアドリア海までの自由」を掲げた統一運動は残されたローマとヴェネトに焦点が合わされた。だが、問題があった。教皇の俗界主権に対する挑戦は世界中のカトリック信者から大きな不信の目で見られ、加えてフランス軍がローマに駐留していた。ローマの扱いについては新生イタリア政府内でも意見が別れ、保守派はローマ併合に反対しており、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世もヴェネト地方回収を優先させる考えだったが、生前のカヴールは速やかな併合を主張し、教皇庁やフランスと交渉しており、彼の後継者のテンプレート:仮リンク首相、その次のテンプレート:仮リンク首相もローマ併合を急ぐ考えだった[198]

ファイル:Aspromonte.jpg
アスプロモンテで王国軍にローマへの進軍を阻まれたガリバルディと義勇兵。
1863年頃画。

ローマに対する政府の方針は一枚岩ではなかったが、今や国民的英雄となっていたガリバルディは自分が行動を起こせば、政府は支持すると信じていた[199]。1862年6月に彼はジェノヴァを出航し、再びパレルモに上陸して「ローマか死か」(Roma o Morte)をスローガンに義勇兵を集めた[200]。国王の命令に忠実なメッシーナの守備隊は彼らの本土への渡航を禁止した。2,000人を数える彼の義勇兵集団は南に向かいカターニアから出航した。ガリバルディは勝者としてローマの門をくぐるか、さもなくば城壁の下で死ぬと宣言した。彼は8月14日にメーリトに上陸し、カラブリアの山脈を行軍した。

イタリア政府はこの努力を支持するどころか、強く反対した[201]。チャルディーニ将軍は、義勇兵集団に対してパラビチーノ大佐指揮下の正規軍師団を差し向けた。8月28日に両軍はアスプロモンテで対峙した。義勇兵が偶発的に発砲をし、次いで銃撃戦となったが、ガリバルディはイタリア王国の仲間に対して応戦することを禁じた[202]。義勇兵の中から数人の犠牲者が出て、ガリバルディ自身も負傷し、多くが捕虜となった。ガリバルディは蒸気船ヴァリニャーノ号で護送され、丁重な扱いながら囚人となるが、彼を擁護する世論が高まり、結局、釈放された[203]

一方、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は教皇国家の安全な獲得手段を模索していた。彼はフランス軍のローマからの撤退を条約を通して実現しようとし、1864年9月にナポレオン3世と会見してテンプレート:仮リンクを締結した。協定により、フランス皇帝はイタリアがローマを攻撃しないことを条件に2年以内のフランス軍のローマからの撤退に同意した[204]。この協定にはローマ攻撃をしない意思表示としての遷都の秘密条項が含まれており、これが公にされたことで激しい抗議行動が引き起こされている[204]。1865年に政府所在地は、旧サルデーニャ首都のトリノからフィレンツェへ移され、この地で最初の国会が召集された。

1866年12月、教皇の引き止めにも関わらず、最後のフランス兵がローマを出立した。フランス軍の撤退により、(ヴェネツィアとサヴォイを除く)イタリアから外国軍の兵士の姿が消えた。 テンプレート:-

第3次イタリア独立戦争

テンプレート:Main テンプレート:See also

ファイル:Die Seeschlacht bei Lissa.jpg
リッサ海戦
Carl Frederik Sorensen画。1869年

1866年6月、ドイツの主導権をめぐって争っていたオーストリアとプロイセンが開戦した(普墺戦争)。オーストリアが支配していたヴェネト地方を奪取する好機と考えたイタリアはプロイセンと同盟を結んだ。オーストリアは中立の見返りにヴェネト地方を譲渡するとイタリア政府を説得したものの[205]、4月8日にプロイセンはイタリアがヴェネツィアを獲得することを支持する協定を締結し、6月20日にイタリアはオーストリアに宣戦布告をした。この戦争はイタリア統一のコンテクストの中では第3次イタリア独立戦争と呼ばれる。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はヴェネト地方を奪取すべく軍を率いて急ぎミンチョ川を越え、一方、ガリバルディはテンプレート:仮リンクを率いてチロルに攻め入った。だが、この作戦は大失敗に終わった。6月24日のテンプレート:仮リンクでイタリア陸軍はオーストリア軍に敗れた。そして、7月20日にはリッサ海戦でイタリア艦隊がオーストリア艦隊に大敗を喫する。もっとも、イタリアは完全に運命に見捨てられた訳でもなく、その後、ガリバルディの義勇兵たちが、ベッツェッカの戦いでオーストリア軍を打ち破り、トレントへ進軍している[206]

一方、プロイセン軍は優勢に戦いを進め、事実上の決戦となった7月6日のケーニヒグレーツの戦いで勝利するとプロイセン首相ビスマルクは戦争目的は既に達せられたと判断し、7月27日にオーストリアと休戦協定を結んだ。イタリアは8月12日に公式に武器を置いており、成功裏に進軍していたガリバルディは司令部からの撤兵命令に対して、「従おう」(I obey)とだけの短い電文を返している[207]

戦争ではイタリア軍は弱さを露呈したものの[208]、北方でのプロイセン軍の勝利により、オーストリアはヴェネト地方の割譲に従わざる得なかった。10月12日に締結されたウィーン条約の条項に基づき、オーストリア皇帝は、1859年の戦争と時と同じく、まずフランスにヴェネトを譲渡し、次いでフランスが先年に割譲されたニースとサヴォアとの交換として、10月19日にヴェネト地方をイタリアへ譲渡した[209]。イタリア王国がイタリア人の土地と主張する領土全てが割譲された訳ではなく、南チロル(トレンティーノ)、旧ヴェネツィア共和国領の内のトリエステイストリアなどがオーストリア領に残された。

ウィーン条約ではヴェネト地方の帰属は住民投票の結果によって決められることになっており、10月21日と22日に行われた住民投票でヴェネト地方の住民は圧倒的多数でイタリアとの合併を選択した。僅か0.01%(有権者647,236人中僅か69人)が併合に反対しただけであり[210]、歴史家たちはヴェネチアでの住民投票が軍隊の圧力の元で行われたことを指摘している[211]。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はヴェネト地方そしてヴェネツィアの町に入り、サン・マルコ寺院を参拝した。

ローマ占領

テンプレート:See also

ファイル:Pius ix.jpg
ローマ教皇ピウス9世
1878年撮影

教皇領の大部分をイタリア王国に奪われ、さらにはローマまで脅かされていた教皇ピウス9世は1864年に『誤謬表』(Syllabus Errorum)を公布して自然主義合理主義、宗教的寛容主義社会主義共産主義そして近代的自由主義といった近代思想・文化を誤りであるとして批判し、近代社会との対決姿勢を示している[212]

一方、民主派の動向は未だ共和主義を唱えるマッツィーニが1862年に「神聖方陣」(Falange sàcra)を結成するが、既に彼の影響力は低下しており、勢力を伸ばすことができずにいた[213]。活動の場を国際社会に求め、「国際労働者協会」(第一インターナショナル)に参加し、1866年には「共和同盟」(Alleanza repubblicana)を結成するも、労働運動の潮流はカール・マルクスミハイル・バクーニン階級闘争が主流となっており、マッツィーニの階級調和を求める友愛組合的運動は時代に取り残されていた[214]

この頃、ガリバルディの反教皇主義は過激さを増しており、議会選挙演説で教皇を「強奪者」、教皇庁を「毒ヘビの巣」と罵り、ジュネーブで開催された国際和平会議でも極端な反カトリックの言辞を繰り返し、激しい反発を受けるほどだった[215]。ガリバルディによるローマ攻撃が差し迫るとナポレオン3世はイタリア政府に圧力をかけるが、イタリア政府は曖昧な態度をとり、ガリバルディを完全に抑えようとはしなかった[216]

1867年10月にガリバルディは7,000人の義勇兵を率いてローマを占領するための2度目の軍事的冒険を敢行した。だが、ローマ市内から蜂起を起こす工作は不発に終わり、貧弱な装備の彼の軍隊は、再派遣されたフランス軍部隊が加わって増強された教皇軍により、テンプレート:仮リンクで撃破されてしまう[217]。その後、フランス軍はローマに駐留し続けた。

1869年、教皇ピウス9世は300年ぶりとなる第1バチカン公会議を召集した。公会議では教皇首位説教皇不可謬説が宣言され、改めて近代思想・文化を誤謬として排斥する姿勢を示したが、普仏戦争の勃発により中断を余儀なくされる[218]

1870年7月にフランスとプロイセンとが開戦した。ナポレオン3世は8月にローマ駐留部隊を呼び戻し、教皇国家の防備は著しく弱体化した[219][nb 14]。だが、イタリア政府はセダンの戦い第二帝政が崩壊するまで、行動を差し控えた。ナポレオン3世の敗北が明白になると、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はテンプレート:仮リンク伯爵を教皇ピウス9世の元に派遣し、教皇を保護する名目でイタリア軍をローマに入れると云う形式で教皇の体面を保たせる提案をした手紙を手渡した[220]。だが、教皇ピウス9世はこの提案を拒絶する。 テンプレート:- テンプレート:Quotation

ファイル:BrecciaPortaPia.jpg
イタリア軍の攻撃で破壊されたピア門。

9月11日にテンプレート:仮リンク将軍率いるイタリア軍が教皇国家との境界を越え、教皇との交渉が成立して平和的な入城が出来ることを望んで、ローマへ向かってゆっくりと進軍した[221]。9月19日にイタリア軍はアウレリアヌス城壁の前に到着し、ローマを包囲下に置いた。教皇ピウス9世は敗北は避けえないと理解してはいたが、それでもなお教皇庁は無法な暴力に屈したと世界に示すために、彼の兵士たちに象徴的な抵抗を行うよう命じた[222]

9月20日、3時間の砲撃の後、ベルサリエリ(狙撃兵部隊:Bersaglieri)がピア門を突破して市内に入り、ピア通り(Via Pia)を進軍した。後にこの場所は「9月20日通り」(Via Venti Settembre)と改名される。この戦いでイタリア軍将校4人と兵士49人、教皇軍兵士19人が戦死した。

10月2日、ローマとラティウムでイタリア王国への合併の賛否を問う住民投票が行われた。住民投票の結果を受け、10月9日に併合が実施された。1871年7月1日、フィレンツェからローマへの遷都が行われた。

テンプレート:-

年表

西暦 イタリア統一関連事項 参考事項
1814年 (4月)イタリア副王ウジェーヌ・ド・ボアルネがオーストリアに降伏。イタリア王国崩壊。
(5月)旧イタリア諸国の君主が復帰。
(9月)ウィーン会議。(-1815年)
(4月)ナポレオン退位。
1815年 (4月)ロンバルド=ヴェネト王国成立。
(5月)トレンティーノの戦い、ナポリ王ジョアシャン・ミュラ敗北。
(10月)元ナポリ王ミュラ、銃殺刑に処される。
(3-6月)ナポレオンの百日天下
(6月)ワーテルローの戦い
1816年 (12月)ナポリ王国シチリア王国が統合され両シチリア王国成立。 (7月)アルゼンチン独立宣言。
1818年 (2月)チリ独立宣言。
1820年 (7月)ナポリ革命とシチリア革命 (1月)スペイン立憲革命
1821年 (3月)ピエモンテ革命。サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世退位。カルロ・フェリーチェ即位 (3月)ギリシャ独立戦争勃発。
(9月)メキシコ独立。
1823年 (8月)教皇ピウス7世死去。9月にレオ12世選出。 (12月)アメリカ、モンロー宣言
1825年 (12月)ロシアでデカブリストの乱
1827年 (6月)アレッサンドロ・マンゾーニ作『いいなづけ』出版
1829年 (2月)教皇レオ12世死去。3月にピウス8世が選出。
1830年 (11月)教皇ピウス8世死去。 (7月)フランス7月革命
(11月)ポーランド11月蜂起
1831年 (2月)中部イタリア革命
(2月)教皇グレゴリウス16世選出。
(4月)サルデーニャ王カルロ・フェリーチェ死去。カルロ・アルベルト即位。
(6月)ジュゼッペ・マッツィーニ青年イタリアを結成。
1833年 (4月)青年イタリア、ピエモンテで蜂起を計画するが失敗。
1834年 (3月)青年イタリア、ジェノヴァとサヴォワで蜂起を計画するが失敗。
(4月)マッツィーニ、青年ヨーロッパを結成。
(この年) ドイツ関税同盟成立。
1835年 (3月)オーストリア皇帝フランツ1世死去、フェルディナント1世 即位。
1837年 (6月)イギリスでヴィクトリア女王が即位。
(この年)イギリスでチャーチスト運動
1839年 (10月)第1回科学者会議開催。
1840年 (6月)アヘン戦争勃発(-1842年)
1843年 (8月)ヴィンチェンツォ・ ジョベルティが『イタリア人の倫理的、市民的優位について』を出版。
1846年 (6月)教皇グレゴリウス16世死去。ピウス9世選出。 (4月)米墨戦争開戦(-1848年)
1847年 (12月)カミッロ・カヴール編集の『イル・リソルジメント』刊行。
1848年 (2月)シチリアで反乱が発生。両シチリア王国が憲法発布
(2-3月)トスカーナ大公国サルデーニャ王国教皇国家が憲法発布
(3月)ミラノで反乱。(ミラノの5日間
(3月)ヴェネトで反乱、ヴェネト共和国建国。
(3月)サルデーニャ王国、オーストリアに宣戦布告。(第1次イタリア独立戦争
(4月)教皇ピウス9世が対オーストリア戦線から離脱。両シチリアも反動政策に転じる。
(7月)クストーツァの戦い、オーストリア軍勝利。
(11月)教皇ピウス9世がガエータへ逃亡。
(2月)マルクスエンゲルスが「共産党宣言」を発表。
(2月)フランス2月革命
(3月)第一次ウィーン蜂起メッテルニヒ罷免。(ドイツ3月革命
(3月)ベルリン蜂起。(ドイツ3月革命)
(5月)フランクフルト国民議会成立。
(6月)フランスで六月蜂起鎮圧。
(10月)ウィーンでの十月革命、鎮圧される。
(11-12月)プロイセンで反革命派の巻き返し。
(12月)ルイ=ナポレオンフランス大統領に選出。
(12月)オーストリア皇帝フェルディナント1世退位、フランツ・ヨーゼフ1世即位。
1849年 (2月)ローマ共和国建国。
(3月)ノヴァーラの戦い、オーストリア軍がサルデーニャ軍に勝利。
(3月)サルデーニャ王カルロ・アルベルト退位。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世即位。
(6月)ローマ降伏。ローマ共和国崩壊。
(8月)ヴェネツィア降伏。ヴェネト共和国崩壊。1848-49年革命は完全に瓦解。
(3月)フランクフルト国民議会、ドイツ国憲法を決議。(プロイセン憲法闘争)
(7月)ラーシュタット砦陥落。ドイツ3月革命終焉。
1850年 (12月)太平天国の乱(-1864年)
1852年 (11月)カミッロ・カヴールがサルデーニャ首相に就任。 (12月)ルイ=ナポレオン、フランス皇帝に即位
1853年 (2月)マッツィーニのミラノ蜂起計画が失敗。 (7月)ペリー提督が浦賀に来航
1854年 (3月)クリミア戦争(-1856年)
1856年 (2月)パリ講和会議。クリミア戦争終結。
1857年 (6-7月)カルロ・ピカーサとマッツィーニの南北同時蜂起計画が失敗。
(8月)ダニエーレ・マニンらが「イタリア国民協会」を結成。
(5月)インド大反乱。(-1858年)
(10月)アロー号戦争(-1858年)。
1858年 (1月)ナポレオン3世暗殺未遂事件(オルシーニ事件)。
(7月)プロンビエールの密約
1859年 (3月)第2次イタリア独立戦争開戦。
(6月)マジェンタの戦いソルフェリーノの戦いでフランス=サルデーニャ連合軍がオーストリア軍に勝利。
(7月)ヴィッラフランカの講和
トスカーナ、モデナパルマそして教皇国家レガツィオーネ地方で反乱。
1860年 (3月)サルデーニャとトスカーナ、モデナ、パルマそしてレガツィオーネ地方が合併。
(5月)ジュゼッペ・ガリバルディ率いる千人隊がシチリアへ遠征。7月までに同島を制圧。
(9月)ガリバルディ、ナポリ入城。
(9月)サルデーニャ軍が教皇国家に侵攻。
(10月)ガリバルディとヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が会見。(テアーノの握手
(10-11月)住民投票により、シチリア、ナポリ、マルケウルビーノがサルデーニャとの合併を決定。
1861年 (2月)ガエータ降伏。両シチリア王フランチェスコ2世亡命。
(3月)サルデーニャ議会がイタリア王国建国を宣言。
(6月)カヴール死去。
(2月)ロシア農奴解放令を発布。
(2月)南北戦争開戦(-1865年)
1862年 (8月)ローマ解放を目指すガリバルディの義勇軍がアスプロモンテで王国軍に降伏。(アスプロモンテの変 (9月)リンカーン奴隷解放宣言を行う。
(9月)ビスマルク鉄血演説を行う。
1864年 (9月)フランスとイタリア間でローマに関する9月協定が締結される。
(12月)教皇ピウス9世が誤謬表を公布。
(2月)シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(-10月)
(9月)「国際労働者協会」(第一インターナショナル)結成。
1865年 (12月)イタリア王国、フィレンツェに遷都。 (4月)リンカーン大統領暗殺事件
1866年 (6月)イタリアがオーストリアに宣戦布告。(第3次イタリア独立戦争
(7-8月)クストーツァの戦いリッサ海戦でイタリア軍が敗北。
(10月)ウィーン条約。イタリアがヴェネト地方を併合。
(6月)普墺戦争開戦。
(7月)ケーニヒグレーツの戦い、プロイセン軍勝利。
(8月)プラハ条約、プロイセンとオーストリアが講和。
1867年 (11月)メンターナの戦い、ガリバルディの義勇軍が教皇軍に敗れる。 (4月)パリ万国博覧会開幕。
(5月)オーストリア=ハンガリー帝国成立。
(6月)メキシコ皇帝マクシミリアン処刑。
(10月)マルクスが『資本論』第1部を刊行。
(11月)大政奉還
1868年 (1月)戊辰戦争勃発(-1869年)
1869年 (12月)第1バチカン公会議(-1870年) (11月)スエズ運河開通。
(この年)東京遷都
1870年 (9月)イタリア軍がローマを占領。
(10月)イタリア王国、住民投票によりローマを併合。
(7月)普仏戦争開戦。
(9月)セダンの戦い、プロイセン軍勝利、ナポレオン3世は捕虜になる。
1871年 (5月)イタリアが教皇保障法を制定するも、教皇ピウス9世はこれを拒否。
(7月)イタリア王国、ローマに遷都。
(1月)ドイツ帝国成立。
(3-5月)パリ・コミューン
(8月)廃藩置県
(12月)岩倉使節団出発。

領土の変遷

テンプレート:Legendテンプレート:Legend テンプレート:Legendテンプレート:Legend テンプレート:Legendテンプレート:Legend

※北東部の小国サンマリノ共和国は独立を維持し続けている[223]テンプレート:-

統一以後

国内問題

テンプレート:Quotation

ファイル:Nicola Napolitano.jpg
イタリア軍兵士と殺害された南部の「山賊」ニコラ・ナポリターノ。
1863年撮影

イタリア統一は、民主派の理想とはかけ離れた、「全土のサルデーニャ王国化」という形で成し遂げられた[224]。憲法や行政・関税制度はサルデーニャ王国のものが全国に適用され、そして、官僚や軍の高級士官は旧サルデーニャ王国出身者で占められた[225]。統一時のイタリア経済は工業化された西欧諸国から立ち遅れており[226]、識字率は著しく低く[nb 15]、特に南部では疫病が蔓延した状態だった[227]。加えて、発足時の政府の財政は破綻状態であり、重税が課された[228]。自由関税貿易が全国に適用されたことにより、脆弱な南部の製造業が大打撃を受ける事態[229]やサルデーニャの無償公教育制度を南部にも適用したため、貧しい南部の自治体では義務教育を実施できず識字率が低迷する事態も起こっている[230]。南北の経済格差による問題は完全には解消されず、21世紀に至る現在も尾を引いている[231]

南部の反乱

ファイル:Carmine Crocco foto.jpg
カルミネ・クロッコ

旧両シチリア王国の南部では1860-61年のガリバルディによる征服中から[232]、ブルボン王党派や不満を持った民衆による暴動が頻発しており、新政府はこれらの反乱勢力を「山賊」(brigante)と呼んだ。新生イタリア王国の実態に幻滅した人々はバジリカータカンパニアカラブリアアブルッツォの山岳地帯を拠点に官吏や地主を襲撃し、イタリア政府に対するゲリラ活動を行った。「山賊」の構成員は旧両シチリア王国軍の兵士や農民であり[233]、著名な指導者にはカルミネ・クロッコテンプレート:仮リンクそして女山賊テンプレート:仮リンクがいる。

イタリア政府は1863年に行政官に強権を与えるピーカ法(Legge Pica)を制定し、政府軍の2/3を南部に駐留させ、徹底的な弾圧を行って「山賊」活動を鎮圧したが、政府軍による残虐行為も報告されている[234]。1866年にオーストリアとの戦争が始まると南部の軍隊を引き揚げたため、シチリアで大規模な反乱が起こり、反乱勢力がパレルモを占拠する事態となった[235]。反乱はイタリア政府軍により鎮圧され、政府は「山賊」とマフィアそして聖職者による陰謀であったと主張した[235]。これら政府と南部住民との絶え間ない軋轢から、北部の人々が南部を「未開と貧困の地」と見なす差別意識が生じるようになった[236]

ローマ問題

テンプレート:Main イタリア王国によるローマ併合によって俗界権力を失った教皇ピウス9世は自らをテンプレート:仮リンクprigioniero del Vaticano)と呼び、対決姿勢を崩さなかった。1871年5月にイタリア政府はテンプレート:仮リンクLegge delle Guarentigie)を制定し、教皇の地位の保証、年金の支給、そしてテンプレート:仮リンク(現在のバチカン市国の地域)における教皇庁の統治と独立を一方的に定めた[237]。これに対し、教皇ピウス9世は即座に拒絶の回勅を発する[238]。1874年には「テンプレート:仮リンク」(ふさわしくない:Non Expedit)を宣言し、イタリアの全てのカトリック教徒に対して、国政選挙への立候補と投票を禁じた[239][240]

教皇と断絶したイタリア政府だが、利益もあり、教皇に配慮することなくイタリア全土に対して修道院・宗教団体廃止法を施行することができ、教会の土地を没収し売却益を得た[241]。もっとも、これらの土地は地主層に購入され、農民に配分されることはなかった[242]。教皇庁とイタリア王国との断絶は、1929年に教皇庁とファシスト政権との間にラテラノ条約が締結されるまで50年以上続くことになる。 テンプレート:-

イレデンタ回収主義と二つの世界大戦

テンプレート:Main

イタリア人を単一国家に統一しようとするプロセスは19世紀には完了しなかった。依然として多数のイタリア人が国境外に居住しており、この状況は民族統一主義Irredentismo)を生み出した。

イレデンタ回収主義[3]Italia irredentismo)はイタリア統一後に現れたイタリア・ナショナリズムの論点となった。この主張はイタリア人やイタリアに帰属したいと望む民族を統一しようとする運動である。これは正式な組織ではなく、オピニオン・ムーブメントであり、イタリアは自然国境に達せねばならないとする主張であった。同じ様な愛国またはナショナリズム思想は19世紀の欧州では一般的なものであった。

統一後の時代、一部の人々はイタリア王国の現状に不満を抱いており、イレデンタ回収主義はイタリア統一後もなお外国の支配下にあるイタリア人全てを解放するという大義を自認していた。その土地で話されている言語が彼らが解放すべきイタリア人地域の根拠となり、具体的にはトレンティーノトリエステダルマチアイストリアゴリツィアティチーノ、ニース(ニッツァ)、コルシカ島そしてマルタである。

第一次世界大戦が勃発した時、イタリアはドイツ、オーストリアと三国同盟を結んでいたが、この同盟の参戦要件が加盟国が先に攻撃受けた時となっていたことを理由に中立に留まった[243]。オーストリアはイタリアの中立を望んでいたが、三国協商(英仏露)は参戦を要請した。1915年4月に締結されたロンドン条約により、イタリアはフリウリ、トレンティーノとダルマチアといった未回収地の領有を条件に中央同盟国に対して宣戦布告した。当時のイタリア議会の大半は中立派であったが、テンプレート:仮リンク 首相は参戦運動を利用した脅迫的手段で中立派議員を屈服させて開戦に踏み切っている[244][nb 16]。終戦後のサン=ジェルマン条約でイタリアはイストリアと南チロルの併合に成功しており、各々ヴェネツィア・ジュリアトレンティーノになった[245]。だが、この第一次世界大戦でイタリアは第二次世界大戦を凌ぐ141万人もの死傷者を出しており[246]、戦後は国民の不満から政情が不安定になり、ベニート・ムッソリーニのファシスト政権の成立を促すこととなった[247][248]

第二次世界大戦が勃発し、枢軸国がユーゴスラビアを侵略した後、イタリアはテンプレート:仮リンクGovernatorato di Dalmazia:1941 年から1943年9月)を創設した。これによりイタリア王国は一時的ではあるスプリトコトルとダルマチア沿岸の大部分を併合することになった。また、ヴィシー・フランス占領作戦により、1942年から1943年までフランス領のサヴォワ、コルシカそしてニースがイタリア軍に占領されており、この時期にイレデンタ回収主義の目標がほぼ満たされた。だが、ファシスト政権の敗北により、第二次世界大戦中に獲得したこれらの回収地の全てが失われることになった。

第二次世界大戦以後、イレデンタ回収主義はイタリア政治から消滅した。1947年のパリ講和条約によりトリエステ自由地域(1954年にイタリアとユーゴスラビアに分割)を除くイストリア半島がユーゴスラビアに割譲されることになった。イストリアとダルマチアのイタリア系住民は数千人が残っただけであり、約30万人がイタリアに避難した(テンプレート:仮リンク)。 テンプレート:-

イレデンタ回収主義で領有主張がなされた地域

分離運動

イタリア統一のプロセスはオーストリアの支配を終わらせるという意味で、同時代の人々からは全般的に支持されていた。それにも関わらず、19世紀にも反対者は存在しており(特に併合された諸国の支配層)、この地域主義への支持は現代にも続いている。政党活動に代表される2つの主要な分離運動が存在しており、北部の北部同盟Lega Nord)と南部のシチリア独立運動M.I.S.)である。南部の分離運動は主に王国政府に対する民衆蜂起に由来している(両シチリア独立運動)。北部同盟は国会に議員を送り込んでおり、以前はこの様な運動の国政選挙での得票率は5%に満たなかったが、2008年の総選挙では全国レベルで8%を獲得し躍進を遂げている[249]

ヴェネト地方では自治または独立に向けた機運が高まっている。2009年の選挙では同地方の北部同盟の得票率は28.4%、与党自由の人民(PDL)は29.3%に達した[250]。PDLの主導的議員の中にはイタリア国家の枠組み内でヴェネト地方に自治権(独立ではない)を与える意向を示す者もいる[251]

ボルツァーノ自治県には多数派ドイツ系住民を中心とした完全自治またはオーストリアとの統合を目的とする分離運動があり、この運動は第二次世界大戦後に強まった[252]。分離主義政党は現在でも存在しているが、イタリア政府が自治権を拡大したことによって沈静化している。

評価

テンプレート:Multiple image 統一直後のリソルジメント研究はサヴォイア王家や偉人英雄を称揚する愛国主義的なものであり、学術性に乏しかったが、その一方で、この時期に史料の収集が進められ文献学的リソルジメント研究の基礎が形成された[253]。愛国主義的な官制リソルジメント解釈に対しては社会主義的観点からの批判が行われている[254]

第一次世界大戦後にはベネデット・クローチェやアドルフォ・オモデーオの自由主義史観が主流となった。自由主義的史観ではリソルジメントをイタリア一国のみの動ではなく、ヨーロッパにおける自由主義運動の一環と捉えており、クローチェはリソルジメントを近代自由主義勝利の範例として「19世紀ヨーロッパの傑作」であると肯定的に評価した[255]。ファシスト政権時代にはリソルジメントはサルデーニャ王国による覇権確立に留まるものではなく、民族全体の復興事業であったと位置付けられている[256]

第二次世界大戦後に共和制に移行して自由な王制批判が可能になると、ファシズムの民族復興神話はもちろん、クローチェの自由主義史観にも批判が加えられるようになった。この動きの中で最も影響力があったものが、ファシスト政権時代に弾圧され死亡した共産党指導者アントニオ・グラムシの「テンプレート:仮リンク」である[257]。1949年に公刊された「獄中ノート」でグラシムは統一の過程でジャコバン主義が欠けていたことを指摘し、その為にリソルジメントは大衆参加を排除した不完全なブルジョワ革命・「受動的な革命」に留まったと批判しており、また従来の研究が無視してきたリソルジメントとフランス革命との関連を考察した[258]

戦後期にはグラシムを支持するマルクス主義研究者とこれを批判するテンプレート:仮リンクをはじめとする研究者の間で盛んに論争が行われ、それまで軽視されてきた民主派の動向やリソルジメントで成立した自由主義国家がファシズム国家に変容する過程が研究されるようになった[259]

リソルジメント専門の研究誌としては1908年創刊の『リソルジメント史評論』(Rassegna storica del Risorgimento)がある[260]

モニュメントと祝典

ローマ市のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とイタリア統一の偉業を称えた建築物である。建設はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が薨去した1878年に決定され、1882年に建設用地にカンピドリオが選定され、1884年には設計者として当時28歳のテンプレート:仮リンクが選ばれた。建設は1885年に始められ、このモニュメントは1911年に落成したが、細部についてはファシスト時代に追加変更がなされている。

2011年はイタリア王国成立から150周年にあたり、イタリア統一を記念して、ローマや最初の首都トリノをはじめとするイタリア各地で祝典や展示会が開催された[261]

イタリア統一150周年を記念して、2010年に作曲家テンプレート:仮リンクオペラRisorgimentoを制作している[262]

映像作品

ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサの歴史小説『テンプレート:仮リンク』(Il gattopardo)はイタリア統一を時代背景としており、この小説を原作とした映画『山猫』が1963年にルキノ・ヴィスコンティ監督で制作された。この作品ではバート・ランカスターが題名と同じ紋章を持つ主人公のサリーナ公爵を演じており、彼のリソルジメントに対する反応と貴族社会の没落が描かれている[263]。この作品は第16回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した[263]

その他、この時代を題材とした映画には以下のものがある。

(詳細な一覧はイタリア語版を参照。)

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

注釈

テンプレート:Reflist

出典

テンプレート:Refbegin テンプレート:Reflist テンプレート:Refend

参考文献

テンプレート:Refbegin

テンプレート:Refend

関連図書

テンプレート:Refbegin

  • テンプレート:Cite book
  • テンプレート:Cite book
  • テンプレート:Cite book
  • テンプレート:Cite book
  • テンプレート:Cite book
  • Beales, Derek, and Eugenio Biagini. The Risorgimento and the Unification of Italy (2nd ed. 2003)
  • Davis, John A., ed. Italy in the Nineteenth Century. London: Oxford University Press, 2000. online edition
  • De Cesare, Raffaele. The Last Days of Papal Rome, Archibald Constable & Co, London (1909)
  • De Mattei, Roberto. Pius IX (2004)
  • Hales, E.E.Y. The Catholic Church in the Modern World. Doubleday, 1958
  • Holt, Edgar. The Making of Italy 1815–1870, New York: Atheneum, 1971
  • Smith, Denis Mack. Cavour (1985)
  • Smith, Denis Mack. Mazzini (1996) excerpt and text search
  • Trevelyan, George Macaulay. Garibaldi and the making of Italy (1911) full text online
  • Mauri, Arnaldo. The Adriatic Eastern Shores, a Missed Target in the Italian Unification Process: Political and Economic Involvements, Università degli Studi di Milano, DEAS, WP N°. 2011 - 09, Abstract available at SSRN 1832287.
  • Banti, Alberto Mario. La nazione del Risorgimento: parentela, santità e onore alle origini dell'Italia unita. Torino, Einaudi, 2000
  • Banti, Alberto Mario. Il Risorgimento italiano. Roma-Bari, Laterza, 2004 (Quadrante Laterza; 125)
  • Ghisalberti, Carlo. Istituzioni e società civile nell'età del Risorgimento. Roma-Bari, Laterza, 2005 (Biblioteca universale Laterza; 575)
  • Della Peruta, Franco. L'Italia del Risorgimento: problemi, momenti e figure. Milano, Angeli, 1997 (Saggi di storia; 14)
  • Della Peruta, Franco. Conservatori, liberali e democratici nel Risorgimento. Milano, Angeli, 1989 (Storia; 131)
  • Riall, Lucy. Il Risorgimento: storia e interpretazioni. Roma, Donzelli, 1997 (Universale; 2)
  • Romeo, Rosario. Risorgimento e capitalismo. Roma-Bari, Laterza, 1998 (Economica Laterza; 144) (1ª ed. 1959)
  • Scirocco, Alfonso. L'Italia del risorgimento: 1800-1860. (vol. 1 di Storia d'Italia dall'unità alla Repubblica), Bologna, Il mulino, 1990
  • Scirocco, Alfonso. In difesa del Risorgimento. Bologna, Il mulino, 1998 (Collana di storia contemporanea)
  • Smith, Denis Mack. Il Risorgimento italiano: storia e testi. (Nuova ediz.), Roma-Bari, Laterza, 1999 (Storia e società)
  • Woolf, Stuart J. Il risorgimento italiano. Torino, Einaudi, 1981 (Piccola biblioteca Einaudi; 420)
  • Tomaz, Luigi. Il confine d'Italia in Istria e Dalmazia, Presentazione di Arnaldo Mauri, Conselve, Think ADV, 2008.

テンプレート:Refend

関連項目

外部リンク

テンプレート:Commons category

テンプレート:イタリア

テンプレート:Good article

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:Cite web
    テンプレート:Cite web
  3. 3.0 3.1 テンプレート:Cite web
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 テンプレート:Cite web
  5. 日伊協会(2011),p.8.
  6. 森田(1976),pp.7-11;中川(1971),pp.24-25.
  7. テンプレート:Cite web
  8. テンプレート:Cite web
  9. ダガン(2005),pp.101-110.;北原他(2008),pp.300-304.
  10. テンプレート:Cite web
  11. ダガン(2005),pp.112-125.;北原他(2008),pp.315-332.
  12. ダガン(2005),pp.127-128.;北原他(2008),pp.333-334.
  13. ダガン(2005),pp.133-136.;北原他(2008),pp.344-349.
  14. 南イタリアにおける封建制廃止については右を参照。北原(1971),pp.168-171.
  15. 森田(1976),pp.35-36.
  16. ダガン(2005),pp.140-141.
  17. 森田(1976),pp.36-38.
  18. 森田(1976),pp.37-38.
  19. テンプレート:Cite web
  20. ダガン(2005),p.136.;北原他(2008),p.351.;森田(1976),pp.38-40.
  21. ダガン(2005),pp.142-143.
  22. 北原他(2008),pp.352-355.森田(1976),pp.40-42.;
  23. ダガン(2005),pp.142-143.;北原(1971),pp.177-178;北原他(2008),pp.355-356,360.
  24. ダガン(2005),pp.143-144.
  25. Astarita(2000),p.264.
  26. 森田(1976),pp.58-60.
  27. 森田(1976),p.59.
  28. テンプレート:Cite web
  29. 北原他(1999),p.201.
  30. 北原他(1999),pp.201-202.
  31. 北原他(1999),p.202
  32. 黒須(1997),p.26.
  33. 北原他(2008),p.358;森田(1976),pp.63-65.
  34. 北原他(2008),p.359.
  35. 森田(1976),p.71-72
  36. 森田(1976),pp.66-67
  37. ダガン(2005),p.148.
  38. 北原他(2008),p.360;森田(1976),p.73.
  39. 北原他(1999),pp.195-196.
  40. 北原他(1999),p.198.
  41. 北原(2008),pp.360-361.
  42. 42.0 42.1 42.2 北原(2008),p.361.
  43. フィリッポ・ブオナローティの思想と活動については右を参照。黒須(1997),pp.99-127;北原(1971),pp.187-193.
  44. 森田(1976),p.78
  45. ダガン(2005),p.148.;北原(2008),p.361.
  46. ダガン(2005),p.149.
  47. 北原(2008),p.362.
  48. 森田(1976),pp.86-91.
  49. 北原他(2008),pp.365-366.;森田(1976),pp.92-95.
  50. 森田(1976),pp.93-96.
  51. 森田(1976),p.95.
  52. 北原他(1999),pp.214-216;北原(1971),p.194-197.
  53. 森田(1976),p.100.
  54. 森田(1976),p.101.
  55. 55.0 55.1 森田(1976),pp.101-102.
  56. 56.0 56.1 56.2 北原他(2008),p.367.
  57. 森田(1976),pp.102-103
  58. 森田(1976),p.103.
  59. 森田(1976),pp.104-105.
  60. ダガン(2005),p.152.
  61. ダガン(2005),p.153.
  62. 森田(1972),pp.30,50-52;黒須(1997),p.235.
  63. 森田(1972),pp.63-67;黒須(1997),p.235.
  64. テンプレート:Cite web
  65. 黒須(1997),p.247,249.
  66. 黒須(1997),pp.319-324.
  67. 黒須(1997),p.323.
  68. 森田(1972),pp.63-67.
  69. 黒須(1997),pp.316-317.
  70. 黒須(1997),p.258.
  71. 北原(1971),p.200-201;黒須(1997),p.260.
  72. 森田(1972),pp.76-81.
  73. 森田(1972),pp.81-85.
  74. ガロ(2001),pp.88-93.
  75. 北原他(2008),p.369;ガロ(2001),pp.97-164.
  76. 黒須(1997),p.278.
  77. 黒須(1997),p.279-293.
  78. 森田(1972),pp.99-103.
  79. ダガン(2005),p.156.;北原他(2008),p.370.
  80. ダガン(2005),p.154,156,159
  81. テンプレート:Cite EB1911
  82. ダガン(2005),pp.156-159.
  83. 北原他(2008),pp.370-371.
  84. 北原(1971),p.183.
  85. 北原(1971),p.184.
  86. 86.0 86.1 ダガン(2005),p.158.
  87. 北原他(1999),p.223.
  88. ダガン(2005),pp.159-160.;北原他(2008),p.371.
  89. ロメーオ(1992),p.508.
  90. 90.0 90.1 テンプレート:Cite web
  91. 北原他(2008),p.371.
  92. Hales(1954)
  93. ダガン(2005),pp.154-155.
  94. Guerzoni(1882),Vol. 11, 485.
  95. 北原他(1999),p.196.
  96. 北原他(1999),pp.198-199.
  97. 北原他(1999),p.229.
  98. 森田(1976),pp.145-146;黒須(1997),pp.73-75,77-78.
  99. 北原他(2008),p.376.
  100. 北原他(2008),p.377.
  101. ダガン(2005),pp.160-161.
  102. 森田(1976),p.144.
  103. 北原他(1999),p.229.
  104. テンプレート:Cite web
  105. テンプレート:Cite web
  106. 北原他(2008),p.378-379;黒須(1997),pp.81-84.
  107. 北原他(2008),p.378.
  108. 黒須(1997),pp.84-86.
  109. 北原他(2008),p.379.;ダガン(2005),pp.161-162.
  110. 110.0 110.1 北原他(2008),p.381.
  111. 北原他(2008),pp.381-382.
  112. 北原他(2008),p.382.
  113. 113.0 113.1 ダガン(2005),p.163.
  114. 北原他(2008),p.383.
  115. Ridley(1974),p.268.
  116. 北原他(2008),p.383,385.
  117. テンプレート:Cite web
  118. 北原他(2008),p.384.
  119. 森田(1976),p.157.
  120. 北原他(2008),pp.384-385.
  121. 森田(1976),p.160.
  122. ダガン(2005),p.165.;北原他(2008),p.385.
  123. ガロ(2001),p.227.
  124. 北原他(2008),p.386.
  125. ロメーオ(1992),pp.510-511;ガロ(2001),p.243.
  126. 北原他(2008),p.391.
  127. 森田(1976),pp.175-176
  128. 森田(1976),p.176.
  129. ロメーオ(1992),pp.509-510;森田(1976),pp.176-177.
  130. 森田(1976),pp.179-180.
  131. 北原他(2008),p.391-392;森田(1976),p.180.
  132. ダガン(2005),p.177.;北原他(2008),p.387.
  133. ロメーオ(1992),pp.276-286;ダガン(2005),p.177.
  134. ダガン(2005),pp.177-178.;北原他(2008),p.390.
  135. 135.0 135.1 北原他(2008),pp.392-393.
  136. ダガン(2005),p.174.
  137. ダガン(2005),pp.178-179.
  138. 138.0 138.1 ダガン(2005),p.179.
  139. 139.0 139.1 北原他(2008),p.393.
  140. 北原他(2008),p.393;ランツ(2010),p.103.
  141. テンプレート:Cite web
  142. ガロ(2001),pp.264-265;森田(1976),pp.181-182.
  143. テンプレート:Cite web
  144. 北原他(2008),p.393.;森田他(1976),pp.182-183;;ランツ(2010),pp.103-104.
  145. テンプレート:Cite web
  146. 森田他(1976),p.182;ダガン(2005),p.180.
  147. ダガン(2005),p.181.
  148. ロメーオ(1992),pp.370-373.
  149. ロメーオ(1992),p.373.
  150. ロメーオ(1992),pp.373-381.
  151. ロメーオ(1992),pp.382-387.
  152. 森田他(1976),p.184.
  153. 森田他(1976),pp.184-185;鹿島(2010),pp.442-445.
  154. 鹿島(2010),pp.445-447.
  155. 北原他(2008),p.394;ロメーオ(1992),p.515.
  156. 鹿島(2010),pp.447-448;ランツ(2010),p.105.
  157. 北原他(2008),p.394;森田(1976)pp.186-187.
  158. 森田他(1976),pp.186-187.
  159. 北原他(2008),p.394.
  160. ロメーオ(1992),p.408.
  161. 北原他(2008),p.396.
  162. 森田他(1976),pp.188-186
  163. 北原他(2008),p.398-399.
  164. ルイス(2010),p.239.
  165. ガロ(2001),pp.296-297.
  166. 坂本(1903),p.337.
  167. ガロ(2001),p.297.
  168. ダガン(2005),p.183.
  169. ガロ(2001),pp.293-294.
  170. ガロ(2001),pp.297-300.
  171. 171.0 171.1 北原他(2008),p.402.
  172. ガロ(2001),pp.312-313.
  173. ガロ(2001),pp.313-314
  174. ガロ(2001),p.316.
  175. 北原他(2008),pp.402-403.;ダガン(2005),p.184;北原(1971),p.215.
  176. ガロ(2001),pp.305-310,319-321.
  177. 森田(1976),p.201-202.
  178. 森田(1976),p.197.
  179. ガロ(2001),p.327.
  180. テンプレート:Cite web
  181. ガロ(2001),pp.328-329
  182. ダガン(2005),p.186.
  183. 183.0 183.1 北原他(2008),p.405.
  184. 北原他(2008),pp.403-404.
  185. 185.0 185.1 北原他(2008),p.404.
  186. ロメーオ(1992),p.452.
  187. ガロ(2001),pp.331-332;ロメーオ(1992),p.445.
  188. ガロ(2001),pp.332-333.
  189. テンプレート:CathEncy
  190. 北原他(2008),p.405;ダガン(2005),p.187.
  191. 北原他(2008),pp.405-406.;ダガン(2005),p.187.
  192. 北原他(2008),p.407.
  193. ガロ(2001),p.334.
  194. ダガン(2005),pp.188-189.
  195. 北原他(2008),p.406.
  196. ロメーオ(1992),pp.483-484.
  197. 森田(1972),pp.195-196.
  198. 森田(1976),p.209,211-212.
  199. ガロ(2001),pp.362-365、368-369.
  200. ガロ(2001),pp.367-368.
  201. ガロ(2001),p.369,372.
  202. ガロ(2001),pp.373-374.
  203. 北原他(2008),p.412;ガロ(2001),pp.374-377.
  204. 204.0 204.1 北原他(2008),p.412.
  205. ガロ(2001),p.404.
  206. ガロ(2001),pp.408-409.
  207. ガロ(2001),pp.410-411.
  208. 森田(1976),p.214.
  209. 北原他(2008),p.419;森田(1976),pp.215-216.
  210. ガロ(2001),p.412.
  211. Revel(2002)
  212. テンプレート:Cite web
  213. 森田(1976),p.221.
  214. 森田(1972),pp.205-208;森田(1976),pp.221-222.
  215. ガロ(2001),pp.420-426.
  216. ガロ(2001),pp.427-430.
  217. ガロ(2001),pp.433-440.
  218. テンプレート:Cite web
  219. 北原他(2008),p.200.
  220. 森田(1976),p.223.
  221. ルイス(2010),p.262.
  222. 森田(1976),pp.223-224;ルイス(2010),p.263.
  223. テンプレート:Cite web
  224. 北原他(2008),pp.406-407.
  225. ダガン(2005),p.190、pp.198-199.
  226. 北原他(2008),pp.417-418.
  227. Clark(1985),p.14.
  228. ダガン(2005),p.191;北原他(2008),pp.415-416.
  229. ダガン(2005),pp.190-191.
  230. 藤澤(2011),p.6.
  231. テンプレート:Cite web
  232. 森田(1976),p203;北原(1971),p.216.
  233. 北原他(2008),p.410.
  234. ダガン(2005),pp.195-197;北原他(2008),p.411.
  235. 235.0 235.1 ダガン(2005),p.197.
  236. 北原他(2008),p.411.
  237. 北原他(2008),p.420.
  238. 森田(1976),pp.224-225.
  239. 北原他(2008),p.420;森田(1976),p.225.
  240. テンプレート:CathEncy
  241. 森田(1976),p.227.
  242. ダガン(2005),pp.191-192.
  243. 山崎(2008a),p.71.
  244. 森田&重岡(1977),pp.181-183.
  245. テンプレート:Cite web
  246. 山崎(2008b),p.164.
  247. テンプレート:Cite web
  248. 森田&重岡(1977),pp.206-218.
  249. テンプレート:Cite web
  250. テンプレート:Cite web
  251. テンプレート:Cite web
  252. 北原他(2008),p.513.
  253. 森田(1974),p.241.
  254. 森田(1974),pp.241-242.
  255. 中川(1971),pp.26-28.北原(1971),p.156;藤澤(2011),p.5;黒須(1997),pp.4-5.
  256. 森田(1974),p.242.
  257. 北原(1971),p.157.
  258. 北原(1971),p.157;中川(1971),pp29-31;黒須(1997),pp.6-7.
  259. 中川(1971),pp.31-32;北原(2001),p.113;北原(1971),p.159;ロメーオ(1992),p.521;黒須(1997),pp.7-9.
  260. 北原(2001),pp.114-115
  261. テンプレート:Cite web
    テンプレート:Cite web
    テンプレート:Cite web
  262. テンプレート:Cite web
  263. 263.0 263.1 テンプレート:Cite web
  264. テンプレート:Cite web
  265. イタリア映画祭2011年上映時の邦題。テンプレート:Cite web


引用エラー: 「nb」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="nb"/> タグが見つからない、または閉じる </ref> タグがありません