ミラノ公国
ミラノ公国(Ducato di Milano)は、1395年から1535年(断続あり)までイタリア北部の都市ミラノを首都として存在した公国である。
歴史
ヴィスコンティ家は1311年にはすでにミラノの僭主であった。ミラノは、アルプス越えの大通商路の合流点に位置していて、手工業、工業(繊維、冶金)と農業(干拓技術、運河、灌漑)の重要な中心に変っていた。
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1378年 - 1402年)は一族の広大な領地(ロンバルディア、ピエモンテとヴェネトの一部、エミリアとイタリア中部のいくつかの都市など)を統合した、そして1395年、神聖ローマ皇帝ヴェンツェルからミラノ公の称号を授かった。
ジャン・ガレアッツォが死ぬと、息子のジョヴァンニ・マリーアは父が征服した領地の維持ができず、公国は解体した。
1412年、ジョヴァンニ・マリーアは暗殺され、弟のフィリッポ・マリーアが後を継いだ。公国は再建され、父の時代の拡張政策も再開し、ヴェネツィア共和国との対立に入った。 戦争は10年(1423年 - 1433年)続き、フェラーラの和によって終了、ブレシアとベルガモをヴェネツィアに割譲した。
1435年には、ナポリ王国でジョヴァンナ2世が後継者を遺さずに死んだ。王位はヴァロワ=アンジュー家とアラゴン王家で争われ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティはヴェネツィア、フィレンツェと同盟を組み、アンジューに与した。しかしミラノはアラゴン家の支配下となった。そしてフランチェスコ・スフォルツァ率いる旧同盟軍に敗北した。
次の年の1441年、フィリッポ・マリーアはクレモナの和に調印し、ヴェネツィアに領土の一部を譲渡し、クレモーナを婚資に一人娘のビアンカ・マリーアをフランチェスコ・スフォルツァの妻にした。
1447年にフィリッポ・マリーアが亡くなると、ミラノでは継承戦争が勃発した。 ミラノは共和国宣言を発布し、スフォルツァ家に防衛させたが、その立場を利用してフランチェスコ・スフォルツァがミラノ公を僭称した(1450年)。
ヴェネツィアはロンバルディアでの支配権の拡大を期待して、アラゴン王アルフォンソ5世やドイツ王フリードリヒ3世(1440年 - 1493年)と手を組んでスフォルツァ家に対抗した。 戦争は4年にわたり、その間にオスマン帝国軍によってコンスタンティノポリスが陥落した(1453年)。エーゲ海におけるヴェネツィアの領土を一時的に返却し、イタリア5大国はローディの和(1454年)を調印した。 その平和条約では、スフォルツァ家がミラノの君主に認められ、ヴェネツィアはその領地をアッダ川まで広げ、アラゴン王アルフォンソ5世はナポリ王として最終的に認められ、対オスマン帝国戦でイタリア神聖同盟を組むことになった。
ローディの和により達成された政治均衡は、ロレンツォ・イル・マニフィコの死(1492年)とシャルル8世のイタリア侵攻(1494年)まで続いた(後のイタリア戦争)。
フランチェスコ・スフォルツァの息子ガレアッツォ・マリーアは、圧政が原因で陰謀により殺され、その息子のジャン・ガレアッツォが母親ボーナ・ディ・サヴォイアの摂政により、叔父のルドヴィーコ・イル・モーロに簒奪されるまで統治した。
同じく、フランチェスコ・スフォルツァの息子であるルドヴィーコ・イル・モーロは甥のジャン・ガレアッツォの後見人という地位を獲得し、彼をパヴィーア城に監禁し、そこで1494年に毒殺した。 イル・モーロとアラゴン王フェルナンド2世の対立が激しくなっていった。ジャン・ガレアッツォはナポリ王フェルディナンド1世の孫ベアトリーチェ・デステと結婚しており、正当な後継者の権利を一部を持っていた。 ルドヴィーコ・イル・モーロはナポリ王国に復讐するためにシャルル8世を扇動した(1442年までナポリ王位はアンジュー家に属した)。
ミラノ公国は、1494年以降フランスとスペインがイタリア半島を巡って相争うイタリア戦争に巻き込まれ、その戦場となり荒廃した。1535年、ミラノはスペインによって征服され、独立を失った。