イーモラ
テンプレート:コムーネ イーモラ(テンプレート:Lang-it)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州ボローニャ県にある都市であり、その周辺地域を含む人口約6万8000人の基礎自治体(コムーネ)。ボローニャに次ぎ、県内第二の人口を持つコムーネである。イモラとも表記される。
都市の歴史はローマ時代にさかのぼる。ルネサンス期にはカテリーナ・スフォルツァやチェーザレ・ボルジアがこの地を拠点に活動した。15世紀に建築された大聖堂や要塞は都市の歴史的なランドマークとなっている。イモラ・サーキットは、かつてF1サンマリノGPが行われたことで知られる。
目次
名称
標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。
- ロマーニャ語テンプレート:Enlink: Jômla
地理
位置・広がり
ボローニャ県東部、サンテルノ川テンプレート:Enlinkのほとりに位置する都市である。フォルリの西北西約30km、州都・県都ボローニャの南南東約33km、ラヴェンナの西南西約40kmの距離にある。ロマーニャ地方に含まれる。
隣接コムーネ
隣接するコムーネは以下の通り。
- アルジェンタ (FE)
- バニャーラ・ディ・ロマーニャ (RA)
- ボルゴ・トッシニャーノ
- カザルフィウマネーゼ
- カステル・ボロニェーゼ (RA)
- カステル・グエルフォ・ディ・ボローニャ
- コンセーリチェ (RA)
- ドッツァ
- マッサ・ロンバルダ (RA)
- メディチーナ
- モルダーノ
- リオーロ・テルメ (RA)
- ソラローロ (RA)
歴史
古代
この都市はローマ時代の紀元前82年に建設され、独裁官ルキウス・コルネリウス・スッラに因んで Forum Cornelii と呼ばれた。農業と交易の中心地であり、陶器で知られた。
中世
Imola という名前が初めて用いられるのは7世紀である。ランゴバルド人たちはこの地の城砦(現在の Castellaccio. ランゴバルド王クレーフィが築いたとされる)にImola と名付けたのであるが、やがてこれが都市そのものの名前に用いられるようになった。
『ランゴバルド史』を著した8世紀の歴史家パウルス・ディアコヌスによれば、イーモラの地では412年にアタウルフ(西ゴート王)とガッラ・プラキディア(ローマ皇帝テオドシウス1世の娘)の結婚が行われた。ゴート戦争(535年 – 554年)とランゴバルド人の侵入(568年)以後、この地は東ローマ帝国と蛮族が交互に支配を行った。
東ローマ帝国のラヴェンナ総督領テンプレート:Enlinkを経て、ローマ教皇の支配下に入った。以後数世紀にわたってイーモラは、ラヴェンナ、ファエンツァ、ボローニャといった諸都市と抗争し、また都市内でも Castrimolesi(Castro Imolese 出身者) と Sancassianesi(サンカッシアーノ出身者)の紛争が絶え間なく続いた。こうした抗争の中で、イーモラの共和主義的な都市憲章がつくられた。教皇派と皇帝派の争いにおいて、イーモラはおおむねギベリン(皇帝派)に付いているが、ゲルフ(教皇派)に鞍替えをすることもあった(たとえば1248年)。
ルネサンス期
1296年、ギベリンのコンドッティエーレ(傭兵隊長)テンプレート:仮リンクは、ボローニャの支配下にあったイーモラを占拠した。パガーニは1299年にテンプレート:仮リンク(首長)に選出され、1302年の死までその席にあった。
1334年、ローマ教皇ベネディクトゥス12世は、アリドシ家のリッポ2世テンプレート:Enlinkにpontifical vicarの称号とともに、イーモラの都市とその領域の支配権を与えた。アリドシ家の支配は1424年まで続く。
1424年、ミラノの支配者テンプレート:仮リンクに従うコンドッティエーレ(傭兵隊長) Angelo della Pergola が、イーモラの支配権を獲得した。1426年、イーモラは教皇領に戻り、テンプレート:仮リンク(のちに枢機卿となる)テンプレート:仮リンクのもとで新政権が発足する。 その後イーモラは、ヴィスコンティ家などのさまざまなコンドッティエーレたちの支配下に置かれ、現在も残るいくつかの城砦が築かれている。1434年、1438年、1470年にはスフォルツァ家(1450年にミラノ公となる)に引き渡されている。
1473年、スフォルツァ家のカテリーナ・スフォルツァとテンプレート:仮リンク(教皇シクストゥス4世の甥)が婚約した際、イーモラは教皇に引き渡され、ジローラモが教皇からイーモラの領主に任命された(なお、教皇のイーモラ政策は、メディチ家と教皇との対立の原因となり、フィレンツェにおけるパッツィ家の陰謀につながった)。カテリーナとジローラモは1477年に結婚する。フォルリとイーモラの領主となったリアーリオ家のもとで、イーモラに豪華な宮殿や芸術作品をもたらすことになった(たとえば大聖堂や、1488年にフォルリで殺害されたジローラモの墓所である)。
しかしながらリアーリオ家による支配は短く、ボルジア家出身の教皇アレクサンデル6世は、ジローラモの後継者であるテンプレート:仮リンクの地位を奪った。女傑として知られるカテリーナ・スフォルツァは抵抗を試みるが、1499年11月25日にイーモラはチェーザレ・ボルジアによって占領された。1502年にロマーニャ公爵に叙せられたチェーザレは、イーモラに本拠を移して要塞建築を計画した。当時チェーザレの軍事技術者であったレオナルド・ダ・ヴィンチは、チェーザレの命令を受けてイーモラの詳細な地図を描いている。
1503年、アレクサンドル6世の死とともにチェーザレ・ボルジアは失脚する。イーモラではガレアッツォ・リアーリオの派閥と教会の派閥が都市の支配を争い、教会派が勝利を収めた。1504年、イーモラは教皇ユリウス2世に寄進され、教皇領の一部となった。
近代
1796年6月、フランス共和国軍はイーモラを占領した(フランス革命戦争参照)。フランス軍はいったん撤退するものの、1797年2月に再占領し、チスパダーナ共和国に編入した(のちチザルピーナ共和国に統合)。1799年、イーモラはオーストリアによって占領されるが、1800年にフランスによって奪回され、イーモラは再びチザルピーナ共和国に含まれることとなった。以後、イーモラはロマーニャ地方と歴史を共にすることになる。
行政
行政区画
イーモラには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
- Càsola Canina, Chiusura, Fabbrica, Giardino, Linaro, Montecatone, Piratello, Ponticelli, San Prospero, Sasso Morelli, Selva, Sesto Imolese, Spazzate Sassatelli, Zello
姉妹都市
- テンプレート:Flagicon プーラ、クロアチア 2001年
- テンプレート:Flagicon ジュヌヴィリエ、フランス 2002年
- テンプレート:Flagicon ヴァインハイム、ドイツ 2003年
- テンプレート:Flagicon コルチェスター、イギリス 2005年
人物
著名な出身者
- カルロ・フォルリヴェジ - 現代音楽作曲家