森下卓
テンプレート:Infobox 将棋棋士 森下 卓(もりした たく、1966年7月10日 - )は、将棋棋士。花村元司九段門下。棋士番号は161。福岡県北九州市小倉区(現:小倉南区)出身。竜王戦1組通算17期、名人戦A級通算10期。
目次
棋歴
10歳の頃、父に教わり将棋を始める[1]。1978年、12歳で、早くも奨励会に合格し、入会。
1983年9月に17歳でプロデビュー。以来、後に「羽生世代」と呼ばれる棋士達とともに「チャイルドブランド」の一角として活躍する。
1984年、第26期(1985年度)王位戦の予選を4連勝で勝ち抜いてリーグ入りし、頭角を現す。なお、この王位リーグでは2位タイの成績を残したが、同星の中原誠との残留決定戦で敗れ、残留に失敗している。
第47期(1988年度)C級2組順位戦で9勝1敗・1位の成績を収め、順位戦初昇級。同時昇級者は日浦市郎と佐藤康光。
1990年、新人王戦の決勝三番勝負で、大野八一雄を2-0を破って優勝(棋戦初優勝)。 第六回天王戦で優勝(全棋士参加棋戦初優勝)
1991年(1990年度)、全日本プロトーナメントの決勝五番勝負で、桐山清澄を3-1で下して優勝。
2007年、第28回JT将棋日本シリーズで渡辺明竜王、佐藤康光JT杯覇者(棋聖・棋王)、森内俊之名人らタイトル保持者を連破して優勝。2008年、第29回JT将棋日本シリーズは、決勝で弟弟子の深浦康市王位を破って2連覇し、「自分でびっくりしました」[2]と語った。しかし同年の順位戦では4勝8敗の不振によりB級2組への陥落が決定した。
不名誉なニックネーム
若手時代に竜王戦、名人戦、棋聖戦、棋王戦(2回)、王将戦で合計6回もタイトル戦の挑戦者になりながら一度もタイトル奪取できず、無冠の帝王と呼ばれ、そのことは「将棋界の七不思議」の一つとも言われた。タイトル獲得無しの挑戦6回は、最多記録である。
- 1990年度 棋聖戦(後期) 屋敷伸之に1-3で敗れる。
- 1991年度 竜王戦 谷川浩司に2-4(持将棋1)で敗れる。
- 1994年度 棋王戦 羽生善治に0-3で敗れ、初代永世棋王獲得を許してしまう。
- 1994年度 順位戦A級1年目で、中原誠との7勝2敗同士のプレーオフを制して羽生名人に挑戦。しかし、1-4で敗れる[3]。
- 1996年度 棋王戦 羽生に0-3で敗れる。
- 1998年度 王将戦 羽生に1-4で敗れる。
1990年の新人王戦で優勝するまで、決勝まで何度も勝ち進む実力がありながら何故か決勝で負けてしまうため、「準優勝男」「シルバーコレクター」と呼ばれた。その後も、何度も準優勝している。
- 1985年、新人王戦決勝三番勝負 1-2で井上慶太に敗れる。
- 1986年度、早指し新鋭戦 決勝で小野修一に敗れる。
- 1987年度、早指し新鋭戦 決勝で塚田泰明に敗れる。
- 1987年度、早指し将棋選手権戦決勝 有吉道夫に敗れる。
- 1991年度、早指し新鋭戦 決勝で佐藤康光に敗れる。
- 1991年、新人王戦決勝三番勝負 0-2で森内俊之に敗れる。
- 1991年度、全日本プロトーナメント決勝五番勝負 羽生に2-3で敗れる。
- 1992年、銀河戦 決勝で郷田真隆に敗れる。(ただし当時は非公式棋戦)
- 1996年度、全日本プロトーナメント決勝五番勝負 谷川に2-3で敗れる。
タイトル挑戦や棋戦準優勝が多いということは、それだけ勝数が多いということであり、タイトル獲得がないまま30代のうちに「八段昇格後250勝」の規定で九段昇段という珍記録を達成した(2000年以降では初)。獲得賞金・対局料ランキングの上位の常連でもある。また、2010年8月19日には史上14人目の通算800勝(将棋栄誉敢闘賞)を達成したが、タイトル経験のない棋士の達成は初である。
棋風
- 研究熱心な居飛車党である。しかし、向かい飛車などの振り飛車も時折用いる。
- 矢倉戦法の一つである森下システムを考案した。これにより、(遅れ馳せながら)2005年度将棋大賞の升田幸三賞特別賞を受賞。
- 基本的に受け将棋であり、先に相手に攻めさせてからのカウンターを得意とする棋風である[4]。
- 『駒得は裏切らない』という言葉を残しているほど駒得を重視し、歩得にも非常にこだわりを持つ。「1歩損は自分が8枚、相手が10枚だから2歩損。3歩損は6枚対12枚だから2倍。」が口癖である。従って終盤になると駒台に持ち駒が溢れることが多く、中でも歩が貯まることが多いため、将棋界では駒台に歩が5枚ある状態を「1森下」と呼ぶことがある[5]。
人物
- 師匠の花村元司九段は元・真剣師であり、異色の棋風で知られる。森下は花村から懇切丁寧な指導を受け、何百番も練習将棋をしてもらったと言われるが、森下は正統派の将棋を指す[4]。
- 極めて礼儀正しく、知人をみつけると100m先であってもお辞儀をするという噂が出るほど将棋界一の律儀者と言われる。また、夜型の棋士が多い中で生活も極めて規則正しく、毎日朝5:00に熱いシャワーを浴びて目を覚ます。その一方で、森下は日頃の雑談が楽しいという、棋士仲間(女流棋士も含む)の間での評判がある。
- NHK杯戦などで解説役を務めるとき、自分の考えに合わない手を対局者が指すと、低めの声の、ゆっくりとした批判口調で「これは驚きましたね」「ほー、こう指すもんですか」と言う。1局の中で何回も言うこともある。
- 羽生が七冠を達成した際、周囲からは賞賛する声が多い中で、森下は「棋士全員にとって屈辱です。」と発言し、一人気概を見せていた。なお、羽生が七冠となる過程の名人戦と棋王戦は森下自身が挑戦し奪取に失敗したものであった。
- 2005年度の棋士総会での理事選挙に立候補し当選、日本将棋連盟の出版、総務、経理担当理事を勤めた。2007年5月の理事選挙に出馬せずに退任した。
- 2007年3月に腹膜炎で手術のため入院。この影響で当時対局が予定されていた棋聖戦決勝トーナメントなど数局が不戦敗又は延期になってしまった。
- 2008年10月からの半年間、NHK将棋講座の講師を務めた(アシスタントは熊倉紫野)。
- 記録係の「残り○分です」というかけ声に対し、しばしば「はい」と声を出して答える棋士がいるが、森下もその一人である。藤井猛によると、対局時計の機械の秒読み声にも「はい」と答えるという。
- 2014年に第3回将棋電王戦に副将として出場。強豪プログラムのツツカナを相手に得意戦法の一つである矢倉で立ち向かうも、135手で敗退した。
- 2014年前後に心境の変化があり、座右の銘は「淡々」から「情熱」に変化したという。
昇段履歴
昇段規定は、将棋の段級 を参照。
- 1978年 6級 = 奨励会入会
- 1981年 初段
- 1983年9月21日 四段 = プロ入り
- 1987年1月14日 五段(勝数規定)
- 1989年10月3日 六段(勝数規定)
- 1992年3月8日 七段(勝数規定)
- 1994年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
- 2003年12月12日 九段(勝数規定)
主な成績
タイトル挑戦
- 登場回数合計6、獲得0
一般棋戦優勝
- 全日本プロトーナメント 1回(1990年度=第9回)
- 新人王戦 1回(1990年度=第21回)
- 勝ち抜き戦5連勝以上 3回 - 第12回(1989年度、6勝)、第13回(1990-1991年度、6勝)、第16回(1994年度、8勝)
- 天王戦 1回(第6回)
- JT将棋日本シリーズ 2回(2007年度=第28回、2008年度)
- 優勝合計8回
在籍クラス
竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。
将棋大賞
- 第15回(1987年度) 新人賞
- 第17回(1989年度) 敢闘賞
- 第18回(1990年度) 殊勲賞・勝率第一位賞(0.757)・最多勝利賞(56勝)・最多対局賞(74局)
- 第19回(1991年度) 技能賞
- 第22回(1994年度) 技能賞
- 第33回(2005年度) 升田幸三賞特別賞 「森下システム」
表彰
主な著書
- 将棋基本戦法 居飛車編(1997年9月、日本将棋連盟、ISBN 4-8197-0336-6)
- 8五飛を指してみる本(2001年11月、河出書房新社、ISBN 4-309-73131-7)
- 森下の対振り飛車熱戦譜(2002年11月、毎日コミュニケーションズ、ISBN 4-8399-0594-0)
- なんでも中飛車(2003年9月、創元社、ISBN 4-422-75101-8)
脚注
- ↑ 平成10年版「将棋年鑑」(日本将棋連盟)
- ↑ 当時、講師として出演していたNHK将棋講座の中での発言。
- ↑ 特に第1局は森下が終盤まで勝勢だったが、最後の最後で大ポカが出て大逆転負けした。この時BSで解説していた田中寅彦は「あと数手で名人が投了します」とまで断言していた。
- ↑ 4.0 4.1 師匠の花村は奇抜な攻めの手を指すことを好む棋士であり、また、棋界には珍しく、弟子に将棋を教える(奨励会在籍の弟子と将棋を指す)ことが非常に多かったらしい。森下の受けの強さは、その、花村の攻めを受けている間に身についたものであるという説がある。
- ↑ 森下卓六段(当時)の軍事機密 - 将棋ペンクラブログ・2013年1月30日