十五年戦争

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十五年戦争(じゅうごねんせんそう)とは、1931年(昭和6年)の満州事変から1945年(昭和20年)ポツダム宣言受諾による太平洋戦争太平洋以外の地域も含む、大東亜戦争)の終結に至るまでの約15年間弱にわたる紛争状態と戦争を、総称した呼称である。日本の先の戦争を、原因から結果まで総じて論じることが可能であるため、学者・有識者などによって便宜利用される。しかし途中に非戦争状態の時期がある不連続性(満州事変の終結、上海事変の勃発と終結、日中戦争の開始)という問題と、歴史学・政治学でしばしば用いられるような一定の観点に基づく概念にすぎないため、一つの戦争であるとの誤解を招くことから、現在学校教育ではこの語は用いられない。

この呼称は評論家の鶴見俊輔1956年(昭和31年)に「知識人の戦争責任」(『中央公論』1956年1月号)のなかでこの言葉を使用したのが最初とされ、鶴見は3つの段階に分けている。満州事変から1942年(昭和17年)夏頃の太平洋戦争の戦況悪化までの期間を戦争景気と呼ぶことがある。

  1. 満州事変(1931年9月18日 ~ )
  2. 日中戦争支那事変)(1937年7月7日 ~ )
  3. 太平洋戦争(1941年12月8日 ~ )

満州事変から日中戦争に至る対中膨脹戦略の連続性に着目した「15年戦争」という呼称は、一部の辞書[1]や新聞などで取り扱われているが、満州事変は1933年に塘沽協定により停戦が成立している。また、その4年後の中国軍による偶発的発砲から起こったとされる盧溝橋事件(日中戦争)についても日本は「局面不拡大」「平和的折衝の望みを捨てず」と閣議決定[2]をしているが、鶴見は満州事変から日中戦争を経て太平洋戦争に至る(大東亜戦争)過程を日本の連続的な対外膨張戦略ととらえて14年間(15年にわたる)に及ぶ戦争を「十五年戦争」として総括している。

背景

日中戦争が起こるまでに、日中摩擦が起こっている。第一次世界大戦後、日本は21か条の要求を中国に提示した。それに対し中国人は反発し五四運動、前後して日貨排斥運動が起こった。1928年、日本は北伐から山東省権益を守るべく山東出兵を行い、済南事件で日中双方は衝突した。

関東大震災金融恐慌世界恐慌、その後のブロック経済化の流れ等で負った深刻な経済的ダメージを、日本は満州進出、後には南方進出(大東亜共栄圏)で取り戻そうとした。しかし、軍部の政治的な発言力が強まり、「満州は日本の生命線」として、また、朝鮮に代わる「本土防衛」のための緩衝地帯として、満州進出を進める日本は、満州国を承認しない列強との対立が深刻化し、ついには全面戦争に至った。

経過

1929年12月、南京で発行されていた月刊誌『時事月報』に、中国文で『田中義一上日皇之奏章』が発表される。

1931年満州事変の当初、日本政府の方針は「事局不拡大」だったが、関東軍は無視して事変の拡大を進め、満州国の建国を後押しし、日本政府は結局、満州事変を事後追認した。

1933年日本は満州国を承認しない他の国際連盟加盟国と対立、満州国を否認する決議が採択されると、抗議として国際連盟を脱退した。

1937年盧溝橋事件勃発。日本は1931年の満州事変によって満州国という緩衝国家を得たが、それが同国を日本によって作られた傀儡政権とみなす国際連盟各国、特に民族主義を刺激された中国国民政府との関係を悪化させていた。この年7月に勃発した盧溝橋事件以後、両国の険悪の度合いは増し、8月の第二次上海事変を期に泥沼の日中戦争に引きずり込まれていく。12月、日本軍は国民政府の首都南京を落としたが、国民政府は、最初漢口に、漢口陥落後は重慶に遷都し交戦を継続した。

1938年1月、近衛文麿首相は「国民政府を対手とせず」の声明を発表。日本は蒋介石の重慶政権を否定した。同年、国家総動員法が成立し、日本は日中戦争に全力を投入、国力をすり減らして行く。

1939年ノモンハン事件勃発、日本はソ連の脅威と陸軍装備の劣勢を認識するも、事実を隠匿したために、結局日本軍の得た教訓は、「対戦車攻撃には火炎瓶が有効」といった程度だった。

1940年には、日本は汪兆銘の南京政府を中国における正当な政権として承認。同年9月、日本は、英米がナチス・ドイツの傀儡政権と認識するヴィシーフランスとの合意に基づき、北部仏印に進駐した。同時期、日本は、日独伊三国軍事同盟を締結した。

ドイツと同盟し、軍事力を背景にアジア諸国に対する勢力拡大を図る日本に、警戒心を刺激されたイギリスやオランダ、アメリカなどの周辺諸国は、石油鉄クズなどの日本への輸出を制限し(ABCD包囲網)、日本に経済的圧力を与えた。

その後も近衛文麿首相などによって戦争回避のための日米交渉が継続されたが、1941年、日本の南部仏印の占拠を機に日米関係は絶望的に悪化、石油や鉄クズの日本への輸出が完全に停止した。こうした状況が続き、次第に日本の世論は「対米開戦やむなし」に傾いていく。

11月、中国および仏領インドシナからの全面撤退や日独伊三国軍事同盟の即刻破棄などを提案したアメリカのハル・ノートに対して反発した日本は、モスクワに迫るドイツ軍の成功を見て、同年12月8日、英米と開戦、英米の太平洋東南アジアにある領土を攻撃し、太平洋戦争が勃発した。条約上の義務はなかったが、同盟国のドイツとイタリアも、アメリカに宣戦布告した。

日本軍首脳部は、膨大な国力差のあるアメリカとの戦争を、真珠湾攻撃などの緒戦で戦果を挙げた時、もしくは同盟国ドイツが欧州で勝利した時に、スイスバチカン等の中立国を通じて講和する、という(甘い)見通しで始めた。しかし、緒戦こそ善戦したものの、戦争が長引くにつれ、経済力と技術力に勝る米国に押し返され、1945年5月、頼みの綱のドイツは降伏し、同年8月8日、ソ連が対日参戦、「ソ連を通じての講和」の構想も不可能になり、ほぼ同時に広島と長崎への原爆投下もあり、最終的に同年9月2日、日本も降伏文書に調印した。

略年表

前史

1931年

1932年

1933年

1934年

1935年

1936年

1937年

  • 国民政府、重慶に首都移転。

1938年

  • 1月 - 日本、「爾後国民政府を対手とせず」のいわゆる近衛声明発表。国民政府との和平交渉を打ち切った。
  • 4月1日 - 日本、国家総動員法公布。
  • 5月5日 - 国家総動員法、施行。
  • 12月 - 汪兆銘、重慶を脱出。

1939年

1940年

1941年

1942年

1943年

1944年

1945年

関連項目

参考文献

外部リンク

  • テンプレート:Cite book
  • 蘆溝橋事件処理に関する閣議決定国立国会図書館資料)