山東出兵

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テンプレート:Amboxテンプレート:DMC 山東出兵(さんとうしゅっぺい)は、大日本帝国1927年昭和2年、民国16年)から1928年(昭和3年、民国17年)にかけて、3度にわたって行った中華民国山東省への派兵と、その地で起こった戦闘。

背景

日本は第一次世界大戦1914年1918年)でドイツ帝国の権益であった山東省と租借地青島膠州湾租借地)、植民地である南洋群島を攻略し、山東省については1919年大正8年)のパリ講和会議およびヴェルサイユ条約によって、ドイツの権益を全て日本が引き継ぐこととなったが、日本はこれに先駆け、中国政府に対して1915年(大正4年)にドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した所謂「21か条の要求」を提出し、5月25日山東省に関する条約山東省に於ける都市開放に関する交換公文膠洲湾租借地に関する交換公文として承認された。また1918年(大正7年)9月には、満蒙四鉄道および膠済鉄道の延長線である済順鉄道(済南‐順徳)、高徐鉄道(高密‐徐州)の借款仮契約が締結されるとともに、山東問題処理に関する取極め[1]が交わされた[2]。日本は青島占領以来8年間、毎年国庫より約2000万円を支出し、産業の奨励と商工業の開発を行い、塩業、漁業、農業や製粉、製糸、精油、燐寸などの諸工業が勃興し、青島の繁栄と貿易の振興がもたらされた[3]。しかし、中国は日本がドイツの山東省権益を継承することに反発し、ヴェルサイユ条約調印直前には、学生を中心にこれに反対する運動が盛んになって五・四運動となり、ヴェルサイユ条約の調印を拒否した。

状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、1922年(大正11年)の日中山東条約及び日中山東還付条約によって青島を含んだ山東省を中国に還付することとなったが、膠済鉄道は日本の借款鉄道とされ、同鉄道沿線の鉱山は日中合弁会社の経営となるなど、日本は山東省に一定の権益を確保した。これは軍縮会議以来、世界規模で進む軍縮の流れによるものでもある(シベリア出兵も本年終了)が、中国は21か条も廃棄するよう求め、日本はこれを拒否した。中国市民はこれに怒り、また日本は1900年義和団の乱(北清事変)以来、北京議定書に基づいて、イギリスアメリカ合衆国ロシア帝国などの列強同様、天津はじめ中国各地に軍を駐留させていたが、これに対する反感も相まって、全国規模で排日・侮日運動が巻き起こった(欧米列強に対する排運動なども行われており、1927年1月に起きたイギリス租界奪取事件など中国民衆による暴動事件が起きるなど危険な地帯にあった)。

山東省における日本人居留民数は、昭和2年末の外務省調査によれば、総計約16940人に達し、そのうち青島付近に約13640人、済南に約2160人であり、投資総額は約1億5千万円に達していた[2]

第一次出兵

1926年(大正15年/昭和元年)、中国の蒋介石は国内の勢力統一、主に軍閥張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始した。立憲民政党第1次若槻内閣幣原喜重郎外務大臣は、不干渉主義を保持していたが(幣原外交)、1927年(昭和2年)3月24日南京事件4月3日漢口事件が起こって、日本人の生命財産が侵害された。戦乱が北部に拡大する可能性が強くなると、4月6日、5カ国の公使は対策のために会議を開き、フランス公使は守備兵力の倍増を提議し、イギリスアメリカ公使は賛成したが、芳沢謙吉日本公使は政府の方針に基づき明答を避け、4月18日にはイギリス公使が2個師団増派を提議したが、日本公使はいまだその必要がない旨を回答した[2]

4月17日、若槻内閣は総辞職し、4月20日立憲政友会田中義一を首班とする田中義一内閣が誕生した。南軍が山東省に接近すると、5月27日、日本は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、山東省へ陸海軍を派遣することを決定。田中首相はイギリスアメリカフランスイタリアの代表を招いて出兵の主旨を説明したが、特に異見はなかった。5月28日、陸軍中央部は在満洲歩兵第33旅団青島に派遣待機させる旨の命令を下し、同旅団は5月30日大連を出発し、翌日青島に入港、6月1日、上陸を完了した[2]

7月3日、北軍の孫伝芳系の周蔭人の指揮下の軍が南軍に加担して、青島奪取を企図し、済南にあった北軍の張宗昌軍がこれを討伐しようとし、また、膠済鉄道と電線を切断されるなど、状況が悪化し、歩兵第33旅団の済南進出が不可能になる恐れが出てきたので、7月4日藤田栄介済南総領事は外務大臣に旅団の西進を申請し、7月5日の閣議でその必要が認められ、旅団は7月8日、済南に進出した。また7月8日の閣議で兵力増派の要請が承認され、在満第10師団の残余と第14師団の一部、内地より鉄道、電信各一個班が7月12日、青島に上陸した。しかし7月に入って武漢軍が蒋介石軍の側面を脅かしたため、蒋介石は7月10日張宗昌に停戦を申し入れたが、北軍は応じず、7月末から8月始めにかけて、南軍は北軍と決戦して大敗した。8月13日、蒋介石は下野を宣言し、北伐続行の見込みはなくなった。こうした状況から、日本政府は8月24日の閣議で撤兵を決定し、9月8日までに撤兵を完了した[2]

日本と関東州大連及び天津から南下した日本軍は首尾よく展開、治安維持活動を開始した。しかし、蒋介石の北伐軍は張作霖に敗北して山東省に入ることなく撤退したため、日本軍もすぐに撤退した。なお、この年に日本領事館が中国共産党及びコミンテルンの策謀によって北伐軍や中国人による暴行や掠奪、陵辱に遭うなど、反日運動は最高潮に達した(南京事件)。

これらの出兵は日本人と日本権益の保護を目的としていて、中国民族主義の伸長を恐れる英米も無条件で歓迎した。[4]

第二次・第三次出兵

1928年(昭和3年)3月、形勢を立て直した蒋介石の北伐軍は広州を出発して北上し、山東省に接近、4月末に10万人の北伐軍が市内に突入した。このため支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され、4月20日午後8時20分、臨時済南派遣隊が済南到着、4月26日午前2時半、第6師団の先行部隊の斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着し、6千人が山東省に展開した(第二次山東出兵)。省内で日本軍と北伐軍が対峙し、睨み合いながらも当初は両軍ともに規律が保たれていた。

しかし、5月3日午前、北伐軍兵士による日本人家屋ならびに日本人への、集団的かつ計画的な、略奪・暴行・陵辱・殺人事件である、済南事件が発生した。5月5日、済南近くの鉄道駅で日本人9人分の惨殺死体が日本軍によって発見された。

5月4日午前、日本は緊急閣議を開いて、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を決定した。5月8日午後の閣議において、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認し、5月9日、第3師団の山東派遣が命じられた(第三次山東出兵)。

5月8日、日本軍は市内に2千人いる日本人保護のために済南城を攻撃、5月10日から11日にかけての夜、北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開した為、5月11日には済南城ならびに済南全域を占領した。

この事件により日本の世論は憤激、中国に対する感情が悪化した。年内中に蒋介石は北伐を完成させぬまま終了し、1929年(昭和4年)には山東全域から日本軍が撤退した。

展開

当時の田中義一内閣東方会議を開いて、中国の内戦である北伐への不干渉を決めており、軍もこの決定に従って不用意に戦線を拡大することはなかった。つまり、当時は文民統制が実行されていたわけである。一方、蒋介石は北伐戦争を妨害されたことを根にもったらしく、このときから日本との戦争を覚悟していたといわれる。

しかしながら、関東州の日本軍は、当時日本の権益であった満州でも実力を誇った張作霖を爆殺する事件(満州某重大事件)を1928年6月4日に起こし、露骨な満州政策を行い始めてもいた。これは日本政府が進めていた軍縮路線(不戦条約宣布とロンドン軍縮条約)と相反するものであり、政府と関東軍を中心とした軍部の軋轢は次第に深まっていくことになる。

脚注

  1. ①膠済鉄道沿線の日本軍隊は済南に一部隊を残留する外、すべてこれを青島に集中すること、②膠済鉄道警備は支那政府において巡警隊を組織してこれに当るべきこと、③膠済鉄道より右巡警隊の経費に充てんがため相当の金額を提供すること、④日本国人を右巡警隊本部および枢要駅ならびに巡警養成所に聘用すること、⑤膠済鉄道従業員中に支那国人を採用すること、⑥膠済鉄道はその所属確定の上は日支両国において合弁経営すること、⑦現下施行の民政はこれを撤廃すること
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 井星英『芸林』「昭和初年における山東出兵の問題点」
  3. 『済南事件を中心として』
  4. 山東出兵①/クリック20世紀

参考文献

関連項目