多田野数人
テンプレート:Amboxテンプレート:DMC テンプレート:Infobox baseball player 多田野 数人(ただの かずひと、1980年4月25日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(投手)。
目次
経歴
プロ入り前
東京都墨田区出身。八千代松陰高校在学中のテンプレート:By(高校3年時)、第80回夏の甲子園の東千葉大会[注釈 1]では4回戦以外を無失点で抑え(防御率0.23)、チーム打率.196(甲子園出場校の中では地方大会最低打率)の同校を甲子園出場に導いた。本大会は初戦でPL学園高校に敗れた。
高校卒業後、立教大学観光学部に入学。大学時代には松坂世代の1人として和田毅(早稲田大学)、土居龍太郎(法政大学)、長田秀一郎(慶應義塾大学)、一場靖弘(明治大学)らと投げ合い、大学通算56試合で20勝16敗、防御率1.51、奪三振334(通算5位)の成績を残す。特に和田とは全日本選抜でチームメイトとなり現在も親交がある仲だが、この2人は「右の多田野、左の和田」と並び称されるほど高い注目を浴びる存在だった。また、前述の夏の甲子園1回戦で対戦したPL学園のエース上重聡は同じ立教大学の同期生で同じ投手として野球部のチームメートになり、共に戦った。上重とは現在も親交があり、一緒に野球の観戦などもしている。第1回世界大学野球選手権日本代表にも選出され同チームの指揮官山中正竹法大監督の期待に応え3位入賞に貢献。
東京六大学野球リーグ屈指の右腕投手と高く評価され、プロ野球ドラフト会議での上位指名は確実と見られていたが、後述のスキャンダルにより日本球界での指名を受けることなく渡米。その後、コロラド・ロッキーズとアリゾナ・ダイヤモンドバックスの入団テストを受けるも獲得は見送られていたが[1]、クリーブランド・インディアンスの入団テストに合格し、マイナー契約を結んだ。多田野はこの契約を主導したインディアンスのジョン・ファレル育成部長(現ボストン・レッドソックス監督)を「恩師」と仰いでいる[2]。
インディアンス時代
1Aからスタートしたテンプレート:Byシーズンは3Aまで昇格した。
翌テンプレート:By4月24日(現地時間)には日本人21人目のメジャー昇格を果たした。日本でのプロ球界を経ることなくメジャー昇格した日本人選手は、マック鈴木に続き2人目である。7月2日(現地時間)のシンシナティ・レッズ戦ではメジャー初先発初勝利を挙げた。
テンプレート:Byシーズンまでの2年間で主に中継ぎとしてメジャー15試合に登板した。しかし、メジャー契約の選手が故障者リスト入りなどしたときの代わりとして使われるだけであった。
テンプレート:By4月1日(日本時間)付でインディアンスから戦力外通告を受けた。
アスレチックス傘下・独立リーグ時代
4月4日(日本時間)にはオークランド・アスレチックスとマイナー契約を結び、メジャーへの挑戦を続けた。同年のシーズン終了後には日本へ戻り、9月22日から10月12日まで四国アイランドリーグにスポット参戦した。所属チームは徳島インディゴソックスだった。
テンプレート:Byも引き続きアスレチックスとマイナー契約。2Aと3Aで19試合に登板し、8勝7敗、防御率4.86、奪三振133の成績を残すとともに3Aサクラメント・リバーキャッツがパシフィック・コーストリーグで優勝した時の胴上げ投手ともなったが、10月17日に解雇された。アスレチックスに所属した2年間でのメジャー復帰は叶わなかった。 テンプレート:-
日本ハム時代
2007年11月19日に開催されたプロ野球ドラフト会議(大学生・社会人ほか対象)で北海道日本ハムファイターズから1巡目指名を受けた。大場翔太(東洋大学)と服部泰卓(トヨタ自動車)の交渉権獲得に相次いで失敗した後の指名であった(いわゆる外れ外れの1位)。契約金6000万円、新人としては異例の年俸3000万円で契約した(金額は推定)。なお、この3000万円の年俸に関して、12球団の申合せ事項で定められた最高標準額(年俸1500万円)を超える額であるとの指摘もされているが、日本ハム側は「年俸に関しては上限は無い」との解釈をしてこの契約に至った[3]。
テンプレート:By1月6日、都内でランニング中に転倒し左手首を骨折。1月18日、破片状になった骨の回復手術を受け、患部にも手首固定のためプレートを埋め込まれる。シーズン開幕まで2か月以上のリハビリおよび調整を行い、同年5月2日に一軍登録。その日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で先発し、7回を被安打1、失点0に抑え、日本球界初登板で勝利投手となった。その後もローテーション投手として好投を続け前半戦で6勝を挙げたが、8月以降の防御率は8点台と不調で、後半戦は1勝しか挙げられなかった。被本塁打の多さや、一度好投した相手でも二度目以降の登板では崩れる場合が多いことが課題として残った。
テンプレート:Byは、初登板の試合で8回1失点の好投でチームの開幕からの連敗を3で止める活躍を見せる。しかしその後は不安定な投球が続き、5月にシーズン2度目の二軍落ちとなる。一軍復帰後初の登板となった7月10日の千葉ロッテマリーンズ戦では、ロッテ打線を9回二死まで無安打無得点に抑えたが、大松尚逸に右前安打を許し、惜しくもノーヒットノーランを逃す。それでも後続を断ち、プロ入り後初の完投と完封を達成した。夏場はローテーションに加わったが9月に2試合連続で大量失点を喫し、またも二軍落ち。以後、先発では起用されなかった。クライマックスシリーズ、日本シリーズでは出場資格者の一人に選ばれるも、実際に出場の出番は無かった。シーズン終了後、左手首に埋め込まれていたプレートを手術で除去した。
テンプレート:Byは体調不良に悩まされ、最終的には4月に2試合登板したのみに留まり、10月2日に戦力外通告を受ける。その後12球団合同トライアウトを受験、幾つかの球団が獲得の動きを見せていたものの、いずれの球団とも契約には至らなかった。だが12月17日、日本ハムと再契約することが決まった[4]。
テンプレート:Byは、4月と5月にそれぞれ一度ずつ福岡ソフトバンクホークス戦に中継ぎとして登板。その後、交流戦期間中に再び一軍昇格。いずれも先発としてではなく、大量点差のついた試合の建て直しで登板することが多かった。ちなみに、9月8日の福岡ソフトバンクホークス戦で内川聖一にソロ本塁打を打たれるまで、11試合連続無失点を記録していた。(イニング数は20回と1/3)。
テンプレート:By4月16日、埼玉西武ライオンズ戦にておよそ2年ぶりに1軍の試合で先発登板し、見事2009年8月27日以来963日ぶりの勝利を挙げた[5]。また、チーム事情により谷間での先発起用が何試合かあったものの、シーズンを通して先発ローテーションを1年守り抜き、18試合に登板して6勝(5敗)、防御率3.70という成績を残した。2012年のレギュラーシーズンは、多田野復活を印象づけるシーズンとなった。11月1日、読売ジャイアンツとの日本シリーズ第5戦で、日本シリーズ初登板を果たす。3回表2死2塁の場面で2番手として登板し、無失点で切り抜けるが、直後の4回表、バッターボックスに立った加藤健へのインハイの初球が主審の柳田浩一によって危険球と判定され、退場処分となった(日本シリーズでの退場処分は1969年の阪急ブレーブスに在籍していた岡村浩二以来43年ぶりで通算2人目。危険球での退場は史上初めて)。しかし多田野の投じた球は打者には当たっておらず、この判定を巡ってテレビや新聞、インターネットなど、各地で大きな議論を呼んだ[6]。この一件について多田野は、「だます方(加藤)もだます方。だまされる方(柳田)もだまされる方」と発言した[7]。
テンプレート:Byは4月に二度先発として登板したが、いずれも5回持たずに降板し敗戦投手となった。その後は二軍でも防御率4点台後半と振るわず、一軍の先発陣が不安定な中でも登板機会が巡ってこなかった。シーズン終盤の9月にようやく昇格すると、23日の楽天戦でロングリリーフとして5.2回1失点の好投を見せた。このことにより先発登板の機会を得た30日のロッテ戦では、6四死球を出しながらも6回途中まで無安打に抑え、勝利こそ挙げられなかったが、7回無失点と復調を印象付けた。
スキャンダル
2002年の夏ごろからネット掲示板や週刊誌で「ゲイビデオに多田野そっくりの男が野球部の後輩たちと出演している」との噂が流れ、立教大学野球部の監督が事実を認めた[8]。
この頃、多田野はプロ野球ドラフト会議の目玉選手の1人とされていて、自由獲得枠での獲得を目指した複数のプロ球団による争奪戦が展開されていた。特に有力視されていたのは横浜ベイスターズだったが、直前で指名を回避し、その理由を「諸般の事情を総合的に検討した結果」と説明した[9]。その後、福岡ダイエーホークスが獲得に乗り出すなどの動きもあったが、結局同年秋のプロ野球ドラフト会議ではどの球団も多田野を指名しなかった。当時のスポーツメディアは、その理由を「故障のため指名回避」と伝えた。これには、同会議直前に多田野が右肩と右肘の治療を理由にインターコンチネンタル杯出場を回避していた事実も関係している。
2004年にメジャーデビューするも、アメリカでもゲイビデオ出演の過去が伝えられた。同じロッカーで着替えもシャワーもオープンという米国スポーツ界では同性愛は依然としてタブーであり、当時[10]は北米4大プロスポーツリーグ(MLB、NFL、NBA、NHL)で現役時代に同性愛者と告白した選手はおらず、多田野はゲイビデオ出演についてコメントが迫られた。2004年1月23日に記者会見で「大学時代に(そのような)ビデオに出たことがあり、今はとても後悔しています。当時は若くお金が必要でした。たった一度の過ちであり二度と同じ間違いはしません」「僕はゲイではありません。これだけははっきりと真実を伝えたかった」と説明した[11]。
この釈明を経て多田野はチームメートに受け入れられ、アメリカで野球をプレーし続ける道を得ることになった[11]。
日本ハム入団以降は、元同僚の森本稀哲のジョークのネタにされる[12]ほど、受け入れられている。
選手としての特徴・人物
大きく振りかぶりながら最終的に野手のような手投げで投げる、ギクシャクした独特の変則フォームを駆使する。岩本勉はその手投げから「ガチョーン投法」と命名し、『FFFFF』では多田野自身に許可をもらっている。この投法は股関節など体の硬さに由来し、投球時の踏み出しが普通の投手ならば6-7足分のところ、多田野は4足分程度であり、突っ立ったままのようなフォームになる(それ故、どの球種を投げてくるのか予測が付かない特徴がある)。しかし体の軸がしっかり安定しているため、コントロールが安定している。ボールを離すぎりぎりまで体が開かない特徴もある。総じて体の回転よりも後ろから前へ手を突き出す独特のフォームはアメリカで会得したという[13]。上記のように、あまりにも独特な投球フォームで投げるため、高校時代と大学時代に指導者からフォームを直すよう指摘されたこともあった。大学時代は「最速153km/hの本格派」と謳われていたが(しかし本人が語るところによれば、実際の当時の最高球速は148km/hだったらしい)、メジャーリーグから帰ってきたときは最速140km/h程度で、どのボールも微妙に揺れて芯やタイミングを外す、というメジャーリーグ特有の投球術を身に付けていた(ただし球速が落ちたのは左手首が完治しておらず投球の際に上手く折り畳めないことが影響しており、完治後は最大145km/h程度出るようになった)。
球種はスライダー、ツーシーム・ファストボール、サークルチェンジ、フォークボールなど。サインは5種類[14]と明かしている一方、後述のスローボールにもサインがあると語っている[13]。特にスライダーは切れ味が鋭く、「鬼スライダー」とも呼ばれる[注釈 2]。サークルチェンジは数種類投げ分け、もっとも遅いものは球速90km/h台である。また、近年はフォークボールが大きな決め球となっている。
他に大きな山なりの弧を描く、60-70km/hの超スローボール「ただのボール」を持つ(「イーファスピッチ」と呼ばれることも)。メジャー時代、アレックス・ロドリゲスに対して投げ、三塁手へのゴロに討ち取ったこともある。日本でも2008年6月18日のセ・パ交流戦・広島東洋カープ戦(広島市民球場)でスコット・シーボルに対して用い、遊撃手へのゴロに打ち取った。本人によると「流れを変えたかった」[15](このときはテレビカメラの撮影範囲外まで投球が上がり、「消える魔球」と呼ばれてスピードガンによる計測も出来なかった。広島市民球場の球速表示では107km/hと出たがそれを下回る速度なのは明らかであり、誤作動してしまったものと思われる[16])。なお、この時の球速は同年6月19日放送の『イチオシ!』(北海道テレビ放送)と『プロ野球ニュース』(スカイパーフェクTV!・フジテレビ739)においては約40km/h、同日放送の『スーパーJチャンネル』(テレビ朝日系)では48km/hという計算結果を出した。テレビ番組で多田野が特集される際には、この場面の映像が頻繁に使用されている。また、テンプレート:By4月21日の福岡ソフトバンクホークス戦(東京ドーム)においても松中信彦に対して「流れを変える」べく投じているが、このときは見送られ、その打席では本塁打を打たれている。テンプレート:By5月8日には福浦和也に対し「ただのボール」を投じ、センター前に初めてヒットされた。通称「多田野ボール」などと呼ばれてきたが、墨田区出身ということもあり、テレビ画面からはみ出すほどの高さに放るさまから東京スカイツリーにあやかって、「スカイツリーボール」に改名する案も持ち上がった[17]。
四死球が少ないことや、パワーのある相手に長打を打たれやすいことも特徴として挙げられる。また、ボーク癖がどうしても治らず、度々ボークを取られる場面が見受けられる。2008年5月16日のソフトバンク戦では1試合3ボークを記録している。1年目のシーズンオフに『FFFFF』(北海道テレビ放送)のインタビューにて「セットポジションの静止の基準でアメリカとの違いを大きく感じ、戸惑った」と語っている。このボーク対策として、2009年シーズン序盤、二軍にいる際にセットポジションのスタイルを変えた。変更前は顔前にグラブを掲げる静止方法だったが、変更後では腰の前にグラブを固定する静止方法にしている。その成果か、近年ではボークを取られることが減ってきている。
前半戦では安定した投球を披露することが多いものの、シーズンを通して夏場に弱く、大量失点を喫すことも度々見られる[18]。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | CLE | 14 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | .500 | 225 | 50.1 | 55 | 6 | 18 | 0 | 3 | 39 | 2 | 0 | 30 | 26 | 4.65 | 1.45 |
テンプレート:By2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 16 | 4.0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 2.25 | 1.00 | |
テンプレート:By2 | 日本ハム | 19 | 19 | 0 | 0 | 0 | 7 | 7 | 0 | 0 | .500 | 439 | 105.1 | 107 | 18 | 22 | 1 | 1 | 61 | 4 | 7 | 57 | 56 | 4.78 | 1.22 |
テンプレート:By2 | 13 | 12 | 1 | 1 | 0 | 5 | 5 | 0 | 0 | .500 | 302 | 70.1 | 71 | 10 | 27 | 0 | 3 | 46 | 3 | 2 | 45 | 45 | 5.76 | 1.39 | |
テンプレート:By2 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | 39 | 8.2 | 10 | 0 | 3 | 0 | 0 | 8 | 1 | 0 | 5 | 5 | 5.19 | 1.50 | |
テンプレート:By2 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | ---- | 139 | 34.1 | 35 | 4 | 6 | 0 | 3 | 17 | 0 | 1 | 12 | 12 | 3.15 | 1.20 | |
テンプレート:By2 | 18 | 17 | 0 | 0 | 0 | 6 | 5 | 0 | 1 | .545 | 372 | 90.0 | 92 | 9 | 17 | 0 | 1 | 48 | 2 | 1 | 41 | 37 | 3.70 | 1.21 | |
テンプレート:By2 | 4 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | .000 | 81 | 19.1 | 11 | 3 | 11 | 1 | 1 | 6 | 2 | 0 | 8 | 6 | 2.79 | 1.14 | |
MLB:2年 | 15 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | .500 | 241 | 54.1 | 59 | 6 | 18 | 0 | 3 | 40 | 2 | 0 | 31 | 27 | 4.47 | 1.42 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB:6年 | 75 | 53 | 1 | 1 | 0 | 18 | 20 | 0 | 2 | .474 | 1372 | 328.0 | 326 | 44 | 86 | 2 | 9 | 186 | 12 | 11 | 168 | 161 | 4.42 | 1.26 |
- 2013年度シーズン終了時
背番号
- 32 (2004年 - 2005年)
- 16 (2008年 - 2010年)
- 65 (2011年 - )
個人記録
- 初記録(NPB)
- 初登板・初先発・初勝利:2008年5月2日、対東北楽天ゴールデンイーグルス9回戦(札幌ドーム)、7回無失点
- 初奪三振:同上、3回表2死に渡辺直人から空振り三振
- 初完投・初完封勝利:2009年7月10日、対千葉ロッテマリーンズ9回戦(札幌ドーム)
- 初安打:2008年5月29日、対東京ヤクルトスワローズ2回戦(明治神宮野球場)、5回表無死に石川雅規から投手前内野安打(セーフティバント)
- 初記録(MLB)
- 初勝利:2004年7月2日、対シンシナティ・レッズ(グレートアメリカンボールパーク)、7回2失点
- その他記録
- 9回二死で逃したノーヒットノーラン:上記2009年7月10日の試合。多田野は9回表二死までロッテ打線を無安打(四球4、味方野手の失策による出塁1)に抑えていたが、31人目の打者・大松尚逸に安打を打たれノーヒットノーランを逃した。日本プロ野球では通算23例目、パシフィック・リーグでは10例目(8人目)。
- 日本シリーズで史上初の危険球退場:2012年11月1日、対読売ジャイアンツ、日本シリーズ第5戦(札幌ドーム)
登場曲
- フォール・アウト・ボーイ『Beat It feat. John Mayer』(2008年 - 2009年)
- レディ・ガガ『バッド・ロマンス』(2010年 - 2011年)
- リアーナ『ウィ・ファウンド・ラヴ』(2012年 - )
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
- テンプレート:MLBstats
- 個人年度別成績 【多田野数人 (北海道日本ハムファイターズ)】 - 日本野球機構オフィシャルサイト
テンプレート:Sister テンプレート:北海道日本ハムファイターズ テンプレート:北海道日本ハムファイターズ2007年ドラフト指名選手
引用エラー: 「注釈」という名前のグループの
<ref>
タグがありますが、対応する <references group="注釈"/>
タグが見つからない、または閉じる </ref>
タグがありません- ↑ Tribe Ignores Past, Reaps Reward - Baseball America
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Wayback - デイリースポーツ(2007年11月27日)
- ↑ テンプレート:Cite press release
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Wayback - デイリースポーツ(2012年11月1日)
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 週刊現代、2002年10月28日号および同日の東京スポーツ
- ↑ 日刊スポーツ、2002年10月31日号
- ↑ 9年後の2013年に、ジェーソン・コリンズが米国4大スポーツ(NBA)の現役選手として初めて同性愛者であるとカミングアウトをした。
- ↑ 11.0 11.1 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 13.0 13.1 テンプレート:Cite journal
- ↑ すぽると、フジテレビ系列、2008年6月12日放送。
- ↑ 報道ステーション、テレビ朝日系列、2008年6月18日放送。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ [1] テンプレート:リンク切れ