上重聡

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テンプレート:基礎情報 アナウンサー テンプレート:Infobox baseball player 上重 聡(かみしげ さとし、1980年5月2日 - )は、日本テレビアナウンサー

来歴・人物

大阪府八尾市出身。最終学歴は立教大学コミュニティ福祉学部。学生時代は、野球選手としても活動していた。

中学時代は少年野球チーム「八尾フレンド」で平石洋介とチームメイト・同い年の親友になり、一緒に進学したPL学園高校時代には野球部に所属しエース投手として活躍し平石以外の同級生に稲田学・古畑和彦・大西宏明など。1998年第70回選抜高等学校野球大会では準決勝松坂大輔を擁する横浜高校と対戦し敗北。同年の第80回全国高等学校野球選手権大会準々決勝でまたしても松坂を擁する横浜高校と対戦、延長17回の末(先発は稲田、上重自身は7回から登板)、敗れたことで有名となった(PL学園対横浜延長17回参照)。夏の甲子園敗退直後、5ヶ月前にPLの監督を退任した中村順司が指揮する第3回AAAアジア野球選手権大会日本代表に古畑、一年後輩の田中一徳と共に選出され優勝に貢献した。

大学時代

立教大学硬式野球部時代には、右ひじを傷めたこともあり一時は外野手コンバートしたが、2年のときに投手に復帰し、同学年の(1998年夏の甲子園初戦で対戦した八千代松陰高校のエースだった)多田野数人と共に投手陣の主力として活躍。

2000年10月22日に、東京六大学野球秋季リーグ戦の対東京大2回戦で、36年ぶり史上2人目の完全試合を達成(この時のウイニングボールは上重直筆による「完全試合」のサイン入りで野球体育博物館に展示された)。

しかし、大学3年ごろからアナウンサー志望の意思も表明し、そのためのセミナーに参加するなどしていた。また、当時ひじの故障に悩まされ、4年時には主将を務めるもこの頃は思った球を投げられなくなっていた。プロ野球からも声がかかっていたが、自らその進路を断念。本人は、高校時代の甲子園出場時にインタビューを受けた経験がアナウンサーを目指すきっかけとなったと語っている。六大学リーグ戦通算30試合登板、9勝3敗、防御率2.31。

日本テレビ入社後

2003年、日本テレビとフジテレビテレビ朝日の就職試験を受けて全社から内定をもらったが、男性アナウンサーの活躍を考え、日本テレビへ入社。同期入社のアナウンサーは、鈴江奈々森麻季右松健太望月浩平。入社後は、主にプロ野球をはじめとするスポーツ中継を担当。2007年から2008年まで放送された東京六大学野球リーグ戦の中継も実況を担当。スポーツ以外では、情報番組司会などを担当。2010年4月から、『ズームイン!!サタデー』の5代目総合司会を務める。番組内の愛称は「エース上重」(原辰徳が最終命名。 なお、それに伴い彼自身が持つコーナー名も「エース上重は見た!」とされている)。

アナウンサーとして勤務する一方、2005年2月7日萩本欽一が創設し監督を務める社会人野球クラブチーム茨城ゴールデンゴールズ」のキャンプで入団テストを受験、萩本より「監督」枠として採用[1]。その後、投手として正式登録された[2][3]。また、2009年には、日本テレビアナウンサーユニット「ベアーズ」のメンバーに抜擢された[4]

出演番組

各種スポーツ中継

脚注

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  1. 欽ちゃん球団:日テレ上重アナが入団 松坂のライバル - 『MSN-Mainichi INTERACTIVE テレビ』2005年2月10日付(ソース:『スポーツニッポン』同8日付。リンク先は、インターネット・アーカイブ2005年2月10日付保存キャッシュ)
  2. 最初に上重の名が掲載された、ゴールデンゴールズ特設サイト(リンク先は、インターネット・アーカイブ2005年3月20日付保存キャッシュ)
  3. 『欽ちゃんとの約束 欽ちゃん球団〈茨城ゴールデンゴールズ〉奮闘記 ゴールデンゴールズオフィシャルブック』(2005年、竹書房発行。コード:ISBN 9784812421789)の「ゴールデンゴールズ2005年選手名鑑」にも、上重のプロフィールが明記。
  4. ベアーズ情報ページ - 『日テレダベア』内
  5. 協賛社:アクエリアスインフォマーシャルを兼ねる。「日本テレビアナウンサー」の肩書は表記されていない。当時の放送についてつづられたページ - 『TVでた蔵』より
  6. 『Yahoo!テレビGガイド』内で配信された日本テレビからの番組情報

関連項目

外部リンク

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