メタリカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年8月25日 (月) 20:05時点における58.188.42.124 (トーク)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox Musician メタリカ (Metallica) は、1981年ジェイムズ・ヘットフィールド (Vo/G) とラーズ・ウルリッヒ (Dr) らが中心になって結成された、アメリカ合衆国ロサンゼルス出身のヘヴィメタル・バンド(後に本拠地をサンフランシスコに移した)。

概要

初期はスレイヤーアンスラックスメガデスと共に「スラッシュメタル四天王」の一角と言われたが、その後グルーヴ・メタル、オルタナティヴ・ロックなどへの接近を経て、現在の立ち位置を確立。「問題作」の多さが取りざたされることも多いが、1990年代に全米アルバム総売り上げ4位、現在では世界中で1億1000万枚を記録するなど、ヘヴィメタル・バンドのトップに君臨し続けている。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第61位。

バンド名の由来

ラーズの友人であるサンフランシスコ地区メタル・プロモーターのロン・クインターナが新しいメタル雑誌の名前を、ラテン語で「金属」を意味する『Metallica』にしようとした際、ラーズがすぐに別の名前『Metal Mania』を提案し、『Metallica』という名前は自分とジェイムズが始めたバンド名にすることを決めた。

音楽性とその影響力

スラッシュメタルというジャンルの先駆者としても知られ、1stアルバムではNWOBHMモーターヘッドの両者の影響を存分に受けた、ハードコア的でもあるヴァイオレントさの横溢するスピードメタルであったが、2nd~4thアルバムでは叙情的なフレーズと冷徹なリフのコントラストを練られた構成の楽曲のなかで表現する、オーセンティックな美意識にも通ずるヘヴィメタルへと変化した。フレーズとリフともに古典的なハードロックやヘヴィメタルの様式とは微妙に異なっており、いずれもジェイムズのプレイスタイルも含めて冷やかさを感じさせる。逆にカークのプレイはストレートかつエモーショナルで、このような正反対のツイン・ギターの絡み合いがメタリカのサウンドを決定づけている。

5thアルバムでは、スピードよりもグルーヴを重視した作風に変化し、当時のヘヴィメタルに留まらず、後のニューメタルラウドロック等のロック・シーンに多大な影響を与えた。このグルーヴへの傾倒は6th・7thにおいて決定的となり、メンバーの音楽的なバックグラウンドを反映させた多彩なアプローチを盛り込んだオルタナティヴ・ロックに傾斜し、ヘヴィメタルシーンにおいて広く物議を醸すこととなる。

他アーティストの楽曲のカヴァー・ヴァージョンもレパートリーにしており、ディープ・パープル(『スモーク・オン・ザ・ウォーター』)(『バーン』)・シン・リジィ(『ウィスキー・イン・ザ・ジャー』)・バッジー(『ブレッドファン』など)・モーターヘッド(『オーヴァーキル』)レインボー(『オールナイト・ロング』)の70年代ブリティッシュ・ハードロックや、ダイアモンド・ヘッド(『ヘルプレス』など)をはじめとするNWOBHM勢の曲、ハードコア・パンクバンドのアンチ・ノーウェア・リーグの曲(『ソー・ホワット』)も含まれており、ここからメタリカのルーツを知ることができる。

歌詞の題材は、自己の内面や死、孤独、狂気、核戦争、司法システムの矛盾、表現の自由などシビアな内容が多く、その中で文学作品や映画からのインスパイアも少なくない。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズフリーは、「彼らは、どのピース&ラブ・バンド以上に、人々をひとつにした」と評している[1]

バイオグラフィ

  • 1981年10月、ラーズ・ウルリッヒジェイムズ・ヘットフィールドを誘う形でメタリカが結成される。
  • 1982年、アメリカのインディーズ・ヘヴィメタル・レーベル「メタル・ブレイド・レコーズ」で製作されていたコンピレーションアルバムの第一弾『メタル・マサカー - Metal Massacre - 』に提供するために「ヒット・ザ・ライツ - Hit The Lights - 」をレコーディング、その直後にデイヴ・ムステインが加入する。
    • 6月、『メタル・マサカー1 - Metal Massacre 1 - 』がリリースされる。
    • 数ヶ月後、オリジナル7曲入りのデモテープ『ノー・ライフ・ティル・レザー - No Life 'Till Leather - 』を制作する。
    • デイヴと他メンバー間の衝突は、ロン・マクガヴニーの脱退を引き起こし、バンドは新たなベーシストを探すこととなる。
    • 12月、新ベーシストとしてクリフ・バートンが加入。
  • 1983年2月にサンフランシスコに拠点を移す。
  • 1984年初頭、ヴェノムのサポートとしてヨーロッパツアーを行う。
    • 6月に2ndアルバム『ライド・ザ・ライトニング - Ride the Lightning - 』発表、年末より大規模な欧米ツアーを敢行。メジャー・レーベルエレクトラとの契約を獲得し、Qプライムとマネージメント契約を締結。
  • 1985年8月、イギリスドニントンパークで開催されたモンスターズ・オブ・ロックに出演。
  • 1986年3月、3rdアルバム『メタル・マスター - Master of Puppets - 』発表(メジャーデビュー)、ビルボード29位にランクイン。50万枚以上の売り上げを記録し、メタリカ初のゴールド・ディスクを獲得する。
  • 1987年8月、初期のカヴァー曲をレコーディングした『メタル・ガレージ - The $5.98 E.P. Garage Days Re-Revisited - 』(EP)を発表。一時期は入手困難のため、かなりの高額で取引されていた。
  • 1988年9月、4thアルバム『メタル・ジャスティス - ...And Justice for All - 』発表。ベースの音が聞こえない、ドラムの音が電子音の様に聴こえることで物議を醸したが、「ワン - One - 」を収録し、映画『ジョニーは戦場へ行った』とのコラボレーションとなった初のミュージック・ビデオも発売され、ビッグ・バンドの地位を築き始めた事も事実である。アルバムを引っ提げたツアーでは、CDジャケットの石像が崩れ落ちる大仕掛けなセットであった。
  • 1989年2月、グラミー賞ヘヴィメタル部門に「ワン - One - 」がノミネート。
  • 1990年2月、グラミー賞ヘヴィメタル部門で「ワン - One - 」が受賞。グラミー賞授賞式においては、フォーマルスーツの慣例を無視して自然体のジーンズ姿で登場した。
    • 10月より、アルバム制作にとりかかる。
  • 1991年8月、5thアルバム『メタリカ - Metallica - 』(通称ブラック・アルバム)を発表。全米初登場1位を4週連続獲得し、全世界で2000万枚を超える大ヒットを飛ばす。3年に亘る長期間のワールドツアーを終えた後、暫く休養期間に入る。
  • 1996年6月、6thアルバム『ロード - Load - 』を発売し、全英・全米1位を記録。
  • 1997年11月、7thアルバム『リロード - Reload - 』発表、全米1位を獲得するものの、2作続けてのこの路線にスレイヤーは「メタリカは死んだ」と発言。ただし、収録曲のほとんどが『Load』のアウトテイクであり、実際は2枚組で発売する案もあった。
  • 1998年11月、カヴァー曲を集めたアルバム『ガレージ・インク - Garage Inc. - 』発表。
  • 1999年11月、メタリカ本拠地のオーケストラサンフランシスコ交響楽団との競演ライヴアルバム『シンフォニー&メタリカ - S&M - 』発表。
  • 2000年4月、ナップスターを相手取り、著作権侵害、デジタル音楽ソフトの違法使用及び不正組織防止条例の違反で訴えを起こす。
  • 2001年1月、ジェイソン・ニューステッドが脱退。
  • 2003年2月、新ベーシストとして元スイサイダル・テンデンシーズオジー・オズボーンバンドのロバート・トゥルージロが加入(ちなみに同年、元ベーシストのジェイソン・ニューステッドがオジー・オズボーンバンドに参加)。
    • 6月、8thアルバム『セイント・アンガー - St. Anger - 』発表。来日公演ではツアー前にキャンセル誤報があったものの、大成功を収めた。ロバートがオーディションにより加入したのは、このアルバムがほぼ完成した後であり、MTVアイコン・アウォードを受賞する際にある意味サプライズ的に加入が公表された。このアルバムでベースを弾いているのは、90年代からのプロデューサーであるボブ・ロックである。
  • 2004年、8thアルバム『セイント・アンガー』が完成するまでの3年間に密着した(1600時間もの膨大なテープを編集した)映画『メタリカ:真実の瞬間- Some Kind of Monster -』が製作され、日本では2005年7月より限られた劇場でのみ上映された。
  • 2006年8月、千葉と大阪で行なわれたサマー・ソニック'06へ参加。アルバム『メタル・マスター - Master of Puppets - 』の発表から20周年を迎えるこの年を記念して、アルバム全曲を曲順通りに演奏した。演奏終了時にヴォーカルのジェイムズ・ヘットフィールドは「Master Of Puppets! Happy 20 years anniversary!」と咆哮、モニタ画面には故クリフ・バートンの遺影が映しだされた。
  • 2006年12月、1989年から2004年までの間にリリースされた21曲のPVを収録したDVD、「ザ・ビデオズ 1989-2004」を発表。ビルボードビデオチャート3位を獲得。
  • 2008年9月、9thアルバム 「デス・マグネティック - Death Magnetic - 」発表。プロデューサーには、前作までのボブ・ロックからリック・ルービンに代わり、制作された。世界25ヶ国でアルバムチャート1位、オリコン初登場3位を獲得。
  • 2009年4月4日、オハイオ州クリーブランドでの授賞式にてロックの殿堂入りを果たした。スピーチは、ライブにゲスト出演するなどの親交を持つレッド・ホット・チリ・ペッパーズフリーが務めた。ライブでは、ジェイソンも参加して「Master of Puppets」「Enter Sandman」の2曲が演奏された。さらに初代ベーシストであるロン・マクガヴニーと、クリフ・バートンの両親、その他メンバーの親族150人も授賞式に出向いた。元メンバーのデイヴ・ムステインは、メガデスとジューダス・プリーストとのヨーロッパツアーに帯同しており参加できなかったが、受賞を祝福する声明が発表された。
  • 2010年9月25日・26日に、さいたまスーパーアリーナにて4年ぶりの来日公演を行う。
  • 2011年10月、ルー・リードとのコラボレーションアルバム「Lulu」発表。
  • 2013年12月8日、米コカ・コーラ・ゼロのスポンサーの下、南極大陸キングジョージ島)公演を行う[2]
  • 2014年1月、グラミー賞で中国のピアニスト、ラン・ランと最優秀ハード・ロック/メタル・パフォーマンス賞でグラミー賞の候補にあがっていたサウンドトラック・アルバム「メタリカ・スルー・ザ・ネヴァー」に収録されている「ワン」を演奏。メタリカがグラミー賞で演奏するのは、生中継が初めて行われた1991年演奏以来。


ナップスター論争

2000年4月に、メタリカがナップスターおよび大学3校を相手取り、著作権侵害、デジタル音楽ソフトの違法使用及び不正組織防止条例の違反で訴えを起こしたのが発端。一部のユーザーから「メタリカはBIGになって金の亡者となった」と非難を受ける一方、ミュージシャン側からは「メタリカの主張に賛同する」という動きが出るなど、一連の社会問題に発展。

2000年7月にナップスターの運営するウェブサイトに対して北カリフォルニア連邦地裁が閉鎖命令を下すものの、2001年2月にサンフランシスコ第9巡回区連邦控訴裁判所が北カリフォルニア連邦地裁の判決を覆し、サイトの継続を認める判決を下す。

2001年7月に、メタリカとナップスターが双方歩み寄る形で決着(詳細は公表されず)。

直接の関連はないが、アル・ヤンコビックが2006年に『Don't Download This Song』という楽曲でこの論争に触れている。

日本公演

メンバー

現在のメンバー

元メンバー

  • ロン・マクガヴニー(Ron McGovney, 1962年11月2日 - ) (B)
    ジェイムズの幼なじみであり、メタリカの初代ベーシスト。デイブの素行の悪さに耐え切れなくなり、脱退する。
  • デイヴ・ムステイン(Dave Mustaine, 1961年9月13日 - ) (G)
    メガデスのデイヴ・ムステインも初期メンバーの一人であり、デビュー前まで所属していたが、ラーズらとの確執により、1stアルバムのレコーディング直前に解雇された。脱退時にムステインは自分が携わったレパートリーをレコーディングしないよう求めたというが、1st・2ndにはムステインのクレジットされた楽曲が収録されている。
    バンドと並行してドラッグの売人をしていたデイヴは、犬にドラッグの番をさせていたのだが、その犬が、ロンの車を引っ掻いたところを見たジェイムズがそれを止めさせようと怒鳴った(デイヴ曰く、ジェイムズが犬を蹴った)ことから、メンバー達とデイヴの確執が始まる。酒癖が悪いデイヴは、あるとき酔っ払ってロンのベースにビールを流し込み、それを知らないロンが電源を入れ感電するという事件があった。それがきっかけでロンは脱退する。それ以降も、酒癖が悪くなる一方のデイヴは、レストランで人に絡み乱闘騒ぎを起こすなど、トラブルメーカーだった。このようなことから、自分達の身にも危険が及ぶのではないかと感じたメンバーにより、解雇される。
    しかし別れの際、ジェイムズは涙を流し、デイヴはバンドをクビになったことを親の死よりも辛い体験だったと語るなどから、お互いに辛い別れで生活態度と人間性により止むを得ず解雇されたことが分かる(「メガデス ドキュメンタリー 狂気の旋律」より)。
    この解雇により長年確執を抱いていた両者だったが、近年公開されたメタリカのドキュメンタリー映画「Some Kind OF Monster」内で、過去の出来事を真摯に受け止め、和解に至る様子を見る事が出来る。
  • クリフ・バートン(Cliff Burton, 1962年2月10日 - 1986年9月27日 ) (B)
    1st~3rdアルバムのベーシストであるが、1986年の事故死以来『伝説のベーシスト』としてカリスマ視されている。ベルボトムジーンズは、彼のトレードマークでもあった。メタリカ以前には、トゥラウマというバンドに在籍していた。
    初期メタリカの音楽性に大きな影響を与えたコンポーザーであり、その影響はクリフの手が入る前の1stアルバムと2nd~3rdアルバムを聴けば判るとおり、最初期のスポンテニアスでややもすると平板だったサウンドに、叙情的ながら冷ややかなニュアンスやプログレッシブな構成美を導入させた。
    また、ベースのジミヘンとも呼ばれる程、奇妙奇天烈且つアグレッシヴなプレイをする個性的なベーシストでもあった。
    1986年9月27日(現地時間)、スウェーデンをツアー中のバスが交通事故を起こし、クリフは不運にもバスの下敷きになり、帰らぬ人になってしまった。そのときのエピソードとして、その日たまたまカークがクリフとベッドの位置をかけてカードをやり、クリフが勝ってベッドを交換、そして帰らぬ人となったのだと言う。後に初期メタリカアイテム、クリフ追悼ビデオ、「クリフに捧ぐ」(素材はライブをファンがカメラで撮影(海外ではコンサートの撮影は違法ではない)したものなどが採用され編集されている)が発売されている。
  • ジェイソン・ニューステッド(Jason Newsted, 1963年3月4日 - ) (B)
    フロットサム・アンド・ジェットサムの元リーダー兼ベーシスト。ピック奏法をメインにハードながら堅実なプレイをこなす、クリフとは正反対のプレイスタイルだった。クリフの死後にその穴を埋めるべく加入したが、加入が決まった際にメタリカの一員になれることに大変喜んだという。このことで、クリフの死の悲しみを拭えないメンバーから反感を買い、加入直後に制作されたアルバム「メタル・ジャスティス」に自身の演奏するベース・ギターパートを収録されない(実際のベース・パートはジェイムスが演奏)、自身のコンポジションがバンドに反映されない(在籍中に作曲者としてクレジットされたレパートリーはわずかに三曲のみであった)などの陰湿なイジメにあった。しかし後に、メンバーがそのことについて認め謝罪し和解している。「自身のサイド・プロジェクトが認められなかった」ことを理由にメタリカ脱退。脱退後はエコーブレインオジー・オズボーンヴォイヴォドで活躍し、現在は自身のバンド、ニューステッドを率いて活動している。

ディスコグラフィ

テンプレート:Main

オリジナル・アルバム

関連項目

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:メタリカ

テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA

テンプレート:Link GA
  1. メタリカ、ジェフ・ベックらロックの殿堂入り
  2. 世界最高峰のモンスターロックバンド「メタリカ」が南極大陸でライブを決行! 地球上のすべての大陸を制覇