岩崎弥太郎
岩崎 弥太郎[1](いわさき やたろう、天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)は、日本の実業家。三菱財閥の創業者で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。諱は敏(後に寛)、雅号は東山。別名を土佐屋善兵衛。彌太郎とも書く。
生涯
土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれる。幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主・山内豊熈に漢詩を披露し才を認められる。21歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾するが、安政2年(1855年)、父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父の冤罪を訴えたことにより弥太郎も投獄されるが、この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業の道に進む機縁となった。
出獄後、村を追放されるが、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾。後藤象二郎らの知遇を得る。東洋が参政となるとこれに仕え、藩吏の一員として長崎に派遣されるが、公金で遊蕩したことから半年後に帰国させられる。この頃、27歳で弥太郎は長岡郡三和村の郷士・高芝重春(玄馬)の次女喜勢を娶る。
土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎は、吉田東洋が暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。しかし、必要な届出に不備があったことを咎められ帰国(尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから任務を放棄し、無断帰国したともいわれる)。この直後、大坂に残っていた井上は岡田以蔵らによって暗殺されており、弥太郎は九死に一生を得た。帰国後、弥太郎は長崎での藩費浪費の責任なども問われ、役職を辞した。
慶応3年(1867年)、後藤象二郎に藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。なお、記録上確認できる弥太郎と龍馬の最初の接点はこの時である。弥太郎と龍馬は不仲であったともいわれるが、弥太郎は龍馬と酒を酌み交わすなどの交流があった様子を日記に記しており、龍馬が長崎を離れる際には多額の餞別を贈っている。
明治元年(1868年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。翌、明治2年(1869年)10月、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。このころ、土佐屋善兵衛を称している。廃藩置県後の明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせ、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作った。三菱商会では出自を差別せず、海援隊や士族出身の社員に対しても徹底して商人としての教育を施した。
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土佐山内家が用いていた「土佐柏」
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岩崎家が用いていた「重ね三階菱」
最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。
三菱商会は、明治7年(1874年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得る。明治10年(1877年)の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。しかし、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。
明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失う。大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。また、パシフィック・メール社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(この事業が後の三菱銀行に発展)を考案し勝利した。こうしたライバルとの競争の最中、明治18年(1885年)2月7日18時30分、弥太郎は51歳で病死した。
弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となった。現在では日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。
人物・逸話
- 三菱商船学校(後に官立の東京商船学校を経て、現国立大学法人東京海洋大学海洋工学部)創設者である。
- 日本で初めてボーナスを出した人物である。
- 「年下や後輩に奢ること」を習慣とし、これを家訓として岩崎家に残した[2]。
系譜
岩崎弥太郎とその弟・岩崎弥之助(三菱の2代目総帥)から始まる岩崎家は経済界の代表的な名門家系として知られている。三菱の3代目総帥・岩崎久弥は弥太郎の長男であり、4代目総帥の岩崎小弥太は弥之助の長男、すなわち弥太郎の甥にあたる。家紋は重ね三階菱。
弥太郎には多くの子供がいるが、正妻・喜勢との間に生まれたのは長女・春路(加藤高明夫人)、長男・久弥、次女・磯路(木内重四郎夫人)の3人のみである[3]。次男・豊弥は養子(実父は郷純造)、他の子供は弥太郎と妾(弥太郎の死亡当時6人いた)との間に生まれた子供たちである。なお弥太郎の死後、嫡男・久弥が父・弥太郎の業績に対し男爵を授けられた。岩崎家の2つの本家は華族だが、弥太郎の存命中は岩崎家は華族に列していなかった。
なお弥太郎の娘婿4人の中から、加藤高明及び幣原喜重郎の2人が内閣総理大臣となっている。単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。
孫には入江相政(侍従長、エッセイスト)の妻・君子やエリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜、経済評論家の木内信胤らがいる。
曾孫には鎮西清高(地球科学者、京都大学名誉教授)の妻・由利子やその兄で鎮西と同じく地球科学者の岩崎泰頴(熊本大学名誉教授)、泰頴・由利子兄妹の又従兄で東山農事(小岩井農牧の親会社)の社長を務めた岩崎寛弥(岩崎弥太郎家の4代目当主)、寛弥の従姉で元良誠三(工学者、東京大学名誉教授)の妻・由美子や由美子の妹で槙原稔(元三菱商事社長)の妻・喜久子らがいる。
生活の党所属の元衆議院議員・木内孝胤は弥太郎の玄孫にあたる。
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伝記
- 伊井直行 『岩崎彌太郎 「会社」の創造』 講談社現代新書、2010年5月
- 河合敦 『岩崎弥太郎と三菱四代』 幻冬舎新書、2010年
- 安藤優一郎 『龍馬を継いだ男 岩崎弥太郎』 アスキー新書、2009年
関連作品
- 南條範夫『暁の群像』
- 村上元三『岩崎弥太郎』
- 司馬遼太郎『竜馬がゆく』
- お〜い!竜馬(声:中尾隆聖)
- NHK大河ドラマ「龍馬伝」(2010年、NHK、演者:香川照之)
- この作品は弥太郎の視点から龍馬を描くというコンセプトで、作品内では幼少期より弥太郎が龍馬をライバル視している設定。