大倉財閥
大倉財閥(おおくらざいばつ)は、大倉喜八郎によって設立された日本の中堅財閥である。十五大財閥の1つに数えられていた。
沿革
大倉喜八郎は天保八年(1837年)に越後国新発田に生まれ、18歳で江戸に出た。21歳で独立、大倉屋という乾物店を開き、その後鉄砲屋を開業。その後貿易事業へと乗り出した彼は、大久保利通、伊藤博文、山県有朋らとの親交を深め、一代にして大財閥を築き上げた。
進取の気性に富む大倉喜八郎は、1872年に自費で海外視察を敢行。1873年に帰国し、日本人による初の貿易商社大倉組商会を東京銀座二丁目に創立し、1874年には我が国企業として初めての海外支店をロンドンに開設した。1881年には土木事業に進出、日清戦争を背景に軍需品輸入会社の内外用達会社を設立した。1893年には、大倉組商会と内外用達会社を引継ぐ合名会社大倉組を組織した。銀行業には手を染めず、1900年には大倉商業学校(現、東京経済大学)、1907年には大阪大倉商業学校(現関西大倉中学校・高等学校)を創立した。
1917年、土木建設部門を大倉組土木(現大成建設)に、石炭採掘、鉄鋼販売を大倉鉱業に、残りの主力商事部門を大倉商事として再編した。戦後、財閥解体により、1946年、内外通商と改称して出発。大倉商事は世界各地に事務所網を張り巡らし、RCAやキャタピラー等欧米の一流会社の日本代理店に指名されていた。
大倉喜八郎の長男である大倉喜七郎は、父の後を継いで、1922年、帝国ホテルの会長、1924年、大倉組頭取に就任した。戦後、公職追放を経て帝国ホテル社長への復帰を渇望したが、それがかなわないと見るや、1958年にホテルオークラを創設した[1]。
日本貿易会を構成する17社の一員として準大手総合商社であった大倉商事は、経営不振に陥り、1998年6月に大倉喜八郎の曾孫・大倉喜彦(1939-)を社長に抜擢して再建の道を探ったが、1998年8月に自己破産に追い込まれた。かつて200社を超えた旧大倉財閥ゆかりの企業もすでに葵会を構成する直系八社(大成建設、日本無線、東海パルプ、ニッピ、大倉事業、中央建物(旧大倉鉱業)、ホテルオークラ)に減ってしまっており、大倉商事に救いの手を差し伸べることはできなかった。大倉商事がその125年の歴史に幕を引いたことで、大倉財閥は実質的に解消された。大倉喜彦は中央建物社長に就任。ホテルオークラ取締役、ニッピ監査役、東海パルプ監査役等を兼務し、大倉財閥系企業の連携に一役買っている[2]。
大倉財閥企業群(上場会社)
- 大成建設(旧大倉土木)
- ホテルオークラ(三菱地所や大成建設等のグループ)
- 帝国ホテル(三井不動産グループ)
- 川奈ホテル(2002年5月に民事再生法を申請。同年8月にコクド(現:プリンスホテル)が買収)
- 千代田火災海上(現:あいおいニッセイ同和損害保険)
- 日清製油(日清オイリオグループ)
- 東海パルプ
- 帝国繊維
- 日油(旧:日本油脂)
- 日本無線(現:日清紡グループ)
- 日本化学工業(1)
- サッポロビール(サッポロホールディングス傘下)
- リーガルコーポレーション
- ニッピ(旧:日本皮革、リーガルコーポレーションの兄弟会社)
- 太陽生命保険(T&Dフィナンシャルグループ)
- 太陽火災海上保険(日本興亜損害保険に合併)
- キッズステーション(大倉商事の100%子会社ネオサテライトビジョンにより開局)
- AVNET JAPAN (大倉エレクトロニクス株式会社)
- 三和電氣興業(サンワコムシスエンジニアリング)
脚注
関連項目
- 張麗玲(大倉商事出身の映像プロデューサー、大富代表)
- 千代田生命保険(後のAIGスター生命保険、現ジブラルタ生命保険)
- 千代田火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)
- 本渓湖炭鉱
- 丸紅エアロスペース(大倉商事倒産時の宇宙航空機部門を母体とし設立された。ロッキード事件以降宇宙航空機分野の強化を命題とする丸紅の資本を受け入れて丸紅エアロスペースを設立)