昭和電工
昭和電工株式会社(しょうわでんこう、テンプレート:Lang-en-short)は日本の化学工業会社。戦前は森コンツェルンの中核企業であった。森矗昶が設立した日本電気工業と、味の素傘下で、やはり森が経営に参加した昭和肥料の合併により、1939年(昭和14年)6月に設立された。「昭和電工」という社名は、この両社名を組み合わせたものに由来する。
2011年(平成23年)3月7日より、同社グループのスローガンとして「具体化。」(英文では”Shaping Ideas”)が制定され、あわせて鉛筆をモチーフとしたシンボルマークも制定された。
沿革
森矗昶はヨード工場の見習工から出発して、海草からヨードの抽出事業を進めていた「味の素」の鈴木三郎助、鈴木忠治兄弟と手を組んで化学工業会社を興し、1922年(大正11年)に森興業を、1928年(昭和3年)に昭和肥料を設立した。
昭和電工の設立は、森コンツェルンが、新しい化学工業の一大拠点とするため、森コンツェルン傘下の昭和肥料や日本電工などを糾合してスタートした。また、昭和電工の基礎となった総房水産は、森矗昶の父森為吉と、安西浩、安西正夫兄弟の父安西直一が創設したものだった。このようないきさつから、昭和電工は、森一族、味の素の鈴木一族、そして安西一族の共同作業の結果つくられた企業体であった。そのため森曉、安西正夫、鈴木治雄などが社長を務めた。
味の素の創業者鈴木三郎助(二代目)は、もともとヨードの製造販売でライバル関係にあったが、森の会社が経営危機に陥った際に鈴木がこれを救済した事から友好関係に転化した。鈴木は森の経営者・技術者としての才能を高く買い、自身が設立した昭和肥料に森を参加させた。 1931年(昭和6年)4月、昭和肥料は森の指導下で国産初の硫安の製造に成功したが、その数日前に鈴木が他界。森は鈴木の訃報を知って号泣したという。
さらに3年後、森コンツェルン配下の日本電工では、やはり国産アルミニウムの生産に成功した。
2014年の株主総会を得て退任する現相談役の大橋光夫は石油化学工業協会会長や日本化学工業協会会長等を務めた。 日中、日韓の関係が悪化されている中、中国にのめり込んで行く姿勢は、この最高顧問の大橋光夫氏が日中経済界の重鎮であることも影響している。
事業
総合化学大手の一角に数えられているが、電子・情報材料など高収益の事業に注力する事業再構築を行い「脱総合化」を図っている。
- 石油化学事業部門
- エチレン・プロピレン、およびその誘導品である酢酸・アリルアルコールなどを製造。主要製造拠点として大分にコンビナートを所有。
- 化学品事業部門
- 主に川崎製造所において、産業用・医療用ガス、工業用薬品を生産。
- 無機事業部門
- セラミックス(アルミナ)、電気製鋼炉用人造黒鉛電極、電材用ファインカーボンを生産。
- アルミニウム事業部門
- 1934年(昭和9年)に日本で初めてアルミニウム製錬の工業化に成功(1984年(昭和59年)に停止)して以来、アルミニウム材料や高付加価値加工品を生産。現在は、2001年(平成13年)に合併した昭和アルミニウムで行っていた事業が部門の中核となっている。化学メーカーでありながらアルミニウム事業も手がけるメーカーは珍しい。
- HD事業部門
- 2008年(平成20年)にエレクトロニクス事業部門から独立した。ハードディスク事業を手がけており、生産能力と密度記録向上の技術で世界トップを誇り、外販メーカーとしては世界トップクラスのシェアを有する。2009年(平成21年)にHOYAとの事業統合を行うことを発表していたが中止となった[1]。同年4月30日には、富士通(山形富士通)のHDDメディア部門の譲渡契約締結が発表された[2]。
- エレクトロニクス事業部門
- LED、化合物半導体などを手がける。
社長
代数 | 氏名 | 在任期間 | 出身校 |
---|---|---|---|
初代 | 森矗昶 | 1939 - 1940 | 勝浦高等小学校 |
第2代 | 鈴木忠治 | 1940 - 1945 | 横浜商業学校 |
第3代 | 森曉 | 1945 - 1947 | 京都帝国大学文学部 |
第4代 | 日野原節三 | 1947 - 1953 | 東京帝国大学法学部 |
第5代 | 佐竹次郎 | 1953 - 1959 | 東京帝国大学法学部 |
第6代 | 安西正夫 | 1959 - 1971 | 東京帝国大学法学部・経済学部 |
第7代 | 鈴木治雄 | 1971 - 1981 | 東京帝国大学法学部・工学部 |
第8代 | 岸本泰延 | 1981 - 1987 | 東京帝国大学工学部 |
第9代 | 村田一 | 1987 - 1997 | 東京帝国大学工学部 |
第10代 | 大橋光夫 | 1997 - 2005 | 慶應義塾大学経済学部 |
第11代 | 高橋恭平 | 2005 - 2011 | 東京大学経済学部 |
第12代 | 市川秀夫 | 2011 - | 慶應義塾大学法学部 |
沿革
- 1908年(明治41年)12月 - 森矗昶によって総房水産(株)[日本沃度(株)の母体]設立。
- 1926年(大正15年)10月 - 日本沃度(株)設立(これをもって創業とする)。
- 1928年(昭和3年)4月 - 昭和肥料(株)設立。
- 1934年(昭和9年)3月 - 日本沃度(株)が日本電気工業(株)と改称。
- 1939年(昭和14年)6月 - 日本電気工業(株)と昭和肥料(株)が合併、昭和電工(株)設立。
- 1948年(昭和23年) - 昭和電工事件(昭電疑獄)が発覚。
- 1949年(昭和24年)5月 - 東京証券取引所に上場。
- 1964年(昭和39年)
- 1969年(昭和44年)4月 - 大分臨海工業地帯にて大分石油化学コンビナート営業運転開始。
- 1970年(昭和45年)5月 - アメリカ合衆国のユニオン・カーバイド社と合弁でユニオン昭和株式会社を設立。
- 1977年(昭和52年)12月 - 昭和電工建材株式会社を設立。
- 1982年(昭和57年)10月 - セラミックス事業部の関連会社として昭和電工研装株式会社を設立。
- 1982年(昭和57年)3月 - 昭和工事の商号を昭和エンジニアリング株式会社に変更。
- 1986年(昭和61年)2月 - 国内アルミニウム製錬全面停止。
- 1989年(平成元年)
- 11月 - ハードディスクの第1プラント完成。
- 12月 - 東北金属化学株式会社を完全子会社化。
- 1989年頃 - アメリカ合衆国で被害件数1,500件以上、死者38名を出すトリプトファン事件が発生。
- 2001年(平成13年)3月 - 昭和アルミニウムと合併。
- 2004年(平成16年) - 日本ポリテック株式会社を完全子会社化。
- 2005年(平成17年)7月 - 世界初の垂直磁気記録方式ハードディスクおよび世界最小0.85インチ径ハードディスクの量産開始。
- 2006年(平成18年)9月 - 昭和高分子株式会社を完全子会社化。
- 2008年(平成20年)9月 - イギリス・F2ケミカルズ社を完全子会社化。
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)7月 - 昭和高分子株式会社と合併。
国内事業所
- 本社 - 東京都港区
- 支店 - 大阪市西区、名古屋市中村区、福岡市博多区
- 研究拠点 - 千葉市緑区、川崎市川崎区、小山市
- 事業所 - 大分市(コンビナート)、川崎市川崎区、横浜市神奈川区、小山市、秩父市、千葉市緑区、大町市、塩尻市、喜多方市、東長原(会津若松市)、徳山(周南市)、堺市、彦根市
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旭ダム湖空撮
ここから湯野上発電所に送水され、発電された電力は喜多方まで送電される。 - Showa Denko.jpg
神奈川県横浜市神奈川区恵比須町の横浜事業所
- Showa Denko the herd office 14-01.JPG
昭和電工本社ビル(2014年)
関連会社
- 昭和電工アルミ販売株式会社
- 昭和電工エレクトロニクス株式会社
- 昭和電工カーボン株式会社
- 昭和電工建材株式会社
- 昭和電工研装株式会社
- 昭和電工パッケージング株式会社
- 昭和アルミニウム缶株式会社
- 昭和電工セラミックス株式会社
- 昭和電工ガスプロダクツ株式会社
- サンアロマー株式会社(ライオンデルバセルグループ及びJX日鉱日石エネルギーとの合弁)
- 昭光通商株式会社
- 東京アルミ線材株式会社
- 東京液化酸素株式会社
- 東北金属化学株式会社
- 名古屋研磨材工業株式会社
- 新潟昭和株式会社
- 日本酢酸エチル株式会社
- 日本ポリオレフィン株式会社(JX日鉱日石エネルギーとの合弁)
- 日本ポリエチレン株式会社
- 日本ポリテック株式会社
- 芙蓉パーライト株式会社
不祥事
コンプライアンス違反・企業犯罪 コンプライアンスに関しては、対象者が譴責・減給等にとどまるケースが殆どで、対象社員の降格はまずない。社内意識としては低いといえる。
脚注
- ↑ 昭和電工HP内 - HOYA株式会社とのハードディスク関連事業統合の交渉中止に関するお知らせ
- ↑ ASCII.jp - 富士通、東芝および昭和電工とHDD事業売却の最終契約を締結
- ↑ 新潟水俣病新たに3人認定: 産経ニュース: 2009年5月2日.
- ↑ テンプレート:Cite book
関連項目
- 石川一郎
- 鈴木竹雄
- 昭和駅 - 鶴見線の駅。昭和肥料から命名。
- 南大町駅 - 大糸線の駅。信濃鉄道時代、「昭和駅」として建設。
- 昭和天皇 - 1946年(昭和21年)2月19日、同社の川崎工場訪問から第二次世界大戦後の全国行幸を開始した。[2]
- 底質汚染
- 高杉良 - 昭和電工の大分石油コンビナート建設工事をもとに、小説『生命燃ゆ』を執筆。
- 城山三郎 - 創業者森矗昶をモデルに、小説『男たちの好日』を執筆。
- 明星セメント - 現太平洋セメント(旧日本セメント)系の中堅セメントメーカー。設立当時、同じくセメント関連メーカーだった信越化学及び日本カーバイド工業との合弁で設立。
- 古河スカイ(旧スカイアルミニウム) - 前述の旧昭和アルミニウムから生産工程を継承して新日本製鐵(現新日鉄住金)等の出資、加えて主要融資団(旧富士銀行・旧日本興業銀行・旧安田信託銀行(現みずほFG))の支援を受け設立。