嵯峨天皇
嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(かみの)。
系図
系譜
桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。
略歴
兄・平城天皇の即位に伴って皇太弟に立てられる。だが、平城天皇には既に高岳・阿保の両親王がいたことから、皇太弟擁立の背景には、父帝・桓武天皇の意向が働いたといわれている。
このような事情から即位後に甥にあたる高岳親王を皇太子としたが、翌弘仁元年(810年)に平城天皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。この結果、高岳親王は廃されるが、実子を立てる事に気まずさを感じたためか今度はかねてから臣籍降下を望んでいた異母弟の大伴親王(淳和天皇)を強引に皇太弟に立ててしまった(これが承和の変の遠因となる)。
ともあれ、以後表面上は平穏な治世を送り宮廷の文化が盛んな時期を過ごした。弘仁9年(818年)、弘仁格を発布して死刑を廃止した。中央政界における死刑の廃止は以後保元の乱まで338年間続く。だが、当時は農業生産が極度の不振(『日本後紀』によれば、弘仁8年(817年)より7年連続で干害などの被害を受けたとされている)にあり、その結果として当時財政難は深刻であった。また、最末期には墾田永年私財法の改正などを行って大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田・勅旨田の設置などが行われている。
皇子皇女多数おり[1]、その生活費も財政圧迫の原因となった。そこで皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。河原左大臣源融は嵯峨天皇の皇子の一人。
弘仁14年(823年)、財政上の問題を理由(上皇が2人(平城・嵯峨)では財政負担が大きい)に反対する藤原冬嗣の主張を押し切って大伴親王に譲位した。退位後は冷然院・嵯峨院を造営して財政を逼迫させただけでなく、実子正良親王(仁明天皇)が即位すると「皇室の長」として政治に干渉する場面も多くなり、更に淳和上皇や仁明天皇の反対を押し切って自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王を皇太子とするなど、朝廷内で絶大な権力を振るって後に様々な火種を残した。
漢詩、書をよくし、三筆の一人に数えられる。書作品としては延暦寺蔵の「光定戒牒」(国宝)が知られる。また、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている[2]。
后妃・皇子女
- 皇后:橘嘉智子(檀林皇后)(786-850) - 橘清友女
- 妃:高津内親王(?-841) - 桓武天皇皇女
- 妃:多治比高子(787-825) - 多治比氏守女
- 夫人:藤原緒夏(?-855) - 藤原内麻呂女
- 女御:百済王慶命(?-849) - 百済王教俊女
- 女御:百済王貴命(?-851) - 百済王俊哲女
- 女御:大原浄子(?-841) - 大原家継女
- 更衣:飯高宅刀自 - 飯高岳足女
- 更衣:秋篠高子(または康子・京子) - 秋篠安人女?
- 源清(?-?)
- 更衣:山田近子
- 宮人:交野女王 - 山口王女
- 宮人:高階河子 - 高階浄階女
- 宗子内親王(?-854)
- 宮人:広井氏 - 広井弟名女
- 源信(810-868)
- 宮人:布勢武蔵子
- 源貞姫(810-880)
- 源端姫(?-876)
- 宮人:上毛野氏
- 源弘(812-863)
- 宮人:安倍氏 - 安倍楊津女
- 源寛(813-876)
- 宮人:笠継子- 笠縫[3]または笠仲守[4]女
- 源生(821-872)
- 宮人:粟田氏
- 源安(822-853)
- 宮人:大原全子 - 大原真室女
- 宮人:紀氏
- 源更姫
- 宮人:内蔵影子 - 内蔵高守女?
- 源神姫
- 源容姫
- 源吾姫
- 宮人:甘南備氏
- 源声姫
- 宮人:文室文子 - 文室久賀麻呂女
- 宮人:田中氏
- 源澄(?-?)
- 宮人:惟良氏
- 源勝(?-886)
- 宮人:大中臣岑子 - のち藤原有統の妾
- 宮人:橘春子
- 宮人:長岡氏 - 長岡岡成女
- 女嬬:当麻氏 - 当麻治田麻呂女
- 掌侍:菅原閑子
- 生母不明
- 源継
- 源年姫(?-874)
- 源良姫(?-884)
諡号・追号・異名
退位後、洛西の嵯峨院に住み、また嵯峨の山北に葬られたことから嵯峨天皇と追号された。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町にある嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。
嵯峨天皇は承和9年(842年)7月17日、葬られ、遺詔によって国忌荷前は置かれず、「延喜諸陵式」に登載されなかった。嘉祥3年に中納言安倍安仁、宮内大輔房世王が嘉瑞を奉告し、12月30日、また2人が遣わされ立太子の由を奉告し、元暦元年、即位の奉幣使が発遣された。のち陵の所在が失われ、近世、諸陵探査のとき「諸陵周垣成就記」には「山城国葛野郡嵯峨山の北に葬。葬所は不相知候得共、嵯峨二尊院寺内の山に有る。同所清涼寺五大堂前両寺に陵有之候、両寺共に御朱印地」という。「雍州府志」も「扶桑京華志」も八角堂(のち蓮華峯寺陵に治定)と清涼寺の石塔とを並記し、「山城志」が初めて現在の地を推し、のちいずれもがこの説に従った。幕末の修陵のときこの説が採られ、修治が加えられ、竣工にさいして慶応元年5月5日、山陵修輔竣工巡検使柳原中納言が遣わされ、奉幣した。陵号は嵯峨山陵、嵯峨山上陵が通じて用いられたが、嵯峨山陵が嵯峨陵と紛らわしいとして嵯峨山上陵に定められた。現在、大覚寺の西北、嵯峨野の北にある御廟山の山頂に位置する。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
伝承
『日本霊異記』には嵯峨天皇の前世について次のような話が掲載されている。伊予国の石鎚山に寂仙という名僧がいた。天平宝字2年(758年)、寂仙が亡くなるときに「これから28年後、国王の御子に生まれ変わり神野と名乗る」と言い遺した。その28年後の延暦5年(786年)、桓武天皇に皇子が生まれ神野親王と名附けられた。すなわち、嵯峨天皇は寂仙の生まれ変わりであるとしている。