ピーター・アーツ
ピーター・アーツ(Peter Aerts、男性、1970年10月25日 - )は、オランダの北ブラバント州アイントホーフェン出身のキックボクサー。ドージョー・チャクリキ、K1 Aerts Dojo所属。
目次
概要
K-1 GRAND PRIX '94、'95、'98王者であり、K-1史上初のグランプリ2連覇および3度目の優勝を成し遂げたほか、17度の決勝トーナメント最多出場、16年連続の決勝トーナメント最多連続出場、6度の決勝トーナメントファイナル最多出場などの記録を持つ。K-1の第1回大会から参戦し、アンディ・フグとアーネスト・ホースト、マイク・ベルナルドとは「K-1四天王」として並び称された。
大木をなぎ倒す樵の意である「The Dutch Lumberjack(ダッチ・ランバージャック)」[1]の異名を持つ。この異名はアルバでマーク・ラッセルに1ラウンドKO勝ちした試合後に、ラッセルのトレーナーがアーツのことをランバージャックと呼び、アーツの父も樵だったこともあって自身も気に入り、定着したと語っている[2]。
入場の際にはバッファローチェックの赤いジャケットを羽織り、さらに赤い帽子を被るという、北米の樵たちの伝統的なスタイルで入場しているが、このジャケットと帽子はバス・ルッテンからプレゼントされたものと語っている[3]。なお、帽子は青色や緑色など、赤色以外の物を被って入場したこともある。
主な入場曲はMisirlou。
来歴
生い立ち - 1992年
1970年10月25日に誕生。ボクサーだった祖父と叔父[4]の影響から自身もボクサーを目指していたが、自身が8歳か9歳頃に母親からボクシングをすることを反対される。そのためにテコンドーを習うも満足できず、14歳でキックボクシングに興味を持つが母親はそれがどんなスポーツかを知らなかったためにすんなり習わせてくれたという。15歳の頃に叔父と口論になり、その後に対決した際には蹴り技で叔父の肋骨を2本折った[5]。
1987年12月、ピーター・ピータース戦でプロデビュー[5]。
1988年11月20日、アーネスト・ホーストと対戦し、判定負け。
1991年11月18日、フランク・ロッブマンと対戦して勝利。アーツはこの試合を「何とか勝ったけれど、もの凄く大変な試合だった」と語り、ロッブマンを今までで一番強かったと思った相手として挙げている[5]。
1992年4月9日、フランスで開催された興行で8年間キックボクシング界で無敗を誇っていたモーリス・スミスに判定勝ち。同年5月14日、リングス 光臨にてキックボクシングルールで行われたアダム・ワット戦をヒジ打ちで2ラウンドKO勝ち。同年10月4日、格闘技オリンピックIII 〜カラテワールドカップ '92〜で佐竹雅昭とキックボクシングルールで対戦し、引き分け。
1993年 - 1996年
1993年3月7日、オランダで開催されたTHE NIGHT OF THE SHOCKでモーリス・スミスと再戦し、4ラウンド終了間際に放った右ハイキックで失神KO勝ち。
4月30日、初開催されたK-1 GRAND PRIX '93へ参戦。優勝候補と目されていたが、トーナメント1回戦で当時日本では無名の選手であったアーネスト・ホーストに判定負け。
その後はK-1を主戦場にし、1994年、1995年とK-1 GRAND PRIXを2連覇した。なお、K-1での2戦目となる1993年9月4日のK-1 ILLUSION 風林火山 "林の章"におけるディーノ・ホームズ戦から1996年3月10日のK-1 GRAND PRIX '96 開幕戦におけるジャン・クロード・リビエール戦までの間にかけて記録した14連勝はK-1における最多連勝記録であり、またこの間、K-1以外で行った試合も含めると19連勝を記録している。
1996年5月6日のK-1 GRAND PRIX '96 決勝戦では前年12月9日のK-1 HERCULESにおける対戦では1ラウンドKO勝ちを収めたマイク・ベルナルドと再戦。3ラウンド、ベルナルドの左フックでKO負けを喫しリベンジを許した。なお、この試合はアーツにとってK-1のリングで初のKO負けを喫した試合となった。
9月1日、K-1 REVENGE '96ではベルナルドとのラバーマッチに臨むもローキックが下腹部に入り1ラウンド反則負けを喫し、10月8日、K-1 STAR WARS '96ではベルナルドと四度目の対戦をするも、ベルナルドの右フックで3ラウンドKO負けの3連敗を喫した。
1997年
3月16日、K-1 KINGS '97では前年王者アンディ・フグと初対戦し、左膝蹴りで1ラウンドTKO勝ち。
4月29日、K-1 BRAVES '97ではジャン・クロードと対戦し、右ハイキックで2ラウンドTKO勝ち。
7月20日、K-1 DREAM '97ではジェロム・レ・バンナとK-1 GRAND PRIX '94 決勝戦以来二度目の対戦をし、右ハイキックで2ラウンドKO勝ち。なお、このバンナ戦は後にアーツ自身が選ぶ自身のベストバウトの一つに挙げている[6]。
9月7日、K-1 GRAND PRIX '97 開幕戦ではジェームズ・ウェーリングと対戦し、右ハイキックで3ラウンドKO勝ち。
11月9日、K-1 GRAND PRIX '97 決勝戦では準々決勝でマイク・ベルナルドに右ボディストレートで3ラウンドTKO勝ちするものの、準決勝でフグに判定負け。
なお同年、所属していたドージョー・チャクリキを離脱。後にメジロジムに移籍。
1998年
4月9日、K-1 KINGS '98では前年度K-1GP王者アーネスト・ホーストと対戦し、ダウンを奪って判定勝ち。
6月6日、K-1 FIGHT NIGHT '98ではアンディ・フグとのWKA世界ムエタイスーパーヘビー級タイトルマッチに臨み、判定負けで王座奪取に失敗。
7月18日、K-1 DREAM '98ではフランシスコ・フィリォと対戦。ダウンを奪って優勢だったが、自らキックを蹴った際に右脛に裂傷を負い、1ラウンド終了時ドクターストップでTKO負け。
9月27日、K-1 GRAND PRIX '98 開幕戦ではシニサ・アンドリヤセビッチと対戦し、2ラウンドTKO勝ち。
12月13日、K-1 GRAND PRIX '98 決勝戦では準々決勝の佐竹雅昭戦、準決勝のマイク・ベルナルド戦を共に1ラウンドTKO勝ちし、決勝のアンディ・フグとの対戦では左ハイキックで1ラウンドKO勝ちを収めて1993年のブランコ・シカティックに続く全試合KOもしくはTKO勝ちでの優勝ならびに史上初の3度目のGP優勝を果たした。なお、決勝大会での全試合1ラウンドKOもしくはTKO勝ちはK-1史上初であり、他にはK-1 WORLD GP 2009 FINALにてセーム・シュルトが達成したのみである。
1999年
2月3日、K-1 RISING SUN '99でのマイケル・マクドナルド戦から7月18日、K-1 DREAM '99でのサム・グレコ戦までの5試合全てをKOもしくはTKO勝ち。その結果、前年のシニサ・アンドリヤセビッチ戦から9試合連続でKOもしくはTKO勝ちとなり、これはK-1におけるKOもしくはTKOでの最多連勝記録である。
10月3日、K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦ではロイド・ヴァン・ダムと対戦し判定勝ち。
12月5日、K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦の準々決勝でのジェロム・レ・バンナ戦では試合開始から15秒で右ハイキックによるダウンを奪うも、ロープ際に追い詰められての左フックを浴びて1ラウンドKO負けを喫した。
2000年
1月25日、K-1 RISING 2000では武蔵と対戦し延長1ラウンドTKO勝ち。
4月23日、K-1 THE MILLENNIUMではレイ・セフォーと対戦し右ローキックで3ラウンドKO勝ち。
5月12日、K-1 WORLD GP 〜ヨーロッパ&ロシア地区A予選〜ではアンドリュー・トムソンと対戦し1ラウンドKO勝ち。
7月7日、K-1 SPIRITS 2000ではシリル・アビディと対戦し右ストレートにより1ラウンドTKO負け。
8月20日、K-1 WORLD GP 2000 in 横浜のグランプリ予選トーナメント1回戦にてアビディと再戦するも、背筋挫傷によるタオル投入で1ラウンドTKO負け。その結果、自力での決勝大会進出を逃すこととなり、最終的に主催者推薦での決勝大会進出を果たすこととなった。
12月10日、K-1 WORLD GP 2000 決勝戦の1回戦で三度、アビディと対戦し判定勝ちするも、眉間をカットしたため準決勝を棄権した。なお、決勝トーナメントにおいて次の試合を棄権したのはこれがK-1史上初のケースである。
2001年
2月4日、K-1 WORLD GP 2001 世界地区予選 オランダ大会ではスチュアート・グリーンと対戦し1ラウンドKO勝利。
3月17日、K-1 GLADIATORS 2001ではミルコ・クロコップと対戦し判定負け。
4月15日、K-1 BURNING 2001 〜火の国熊本初上陸〜ではノブ・ハヤシと対戦し5ラウンドTKO勝利。
8月11日、K-1 WORLD GP 2001 in ラスベガスでは予選トーナメント決勝でステファン"ブリッツ"レコと対戦し、右ストレートで3ラウンドKO負け。その結果、2年連続で自力での決勝大会進出を逃すこととなり、最終的には前年に続き主催者推薦での決勝大会進出を果たすこととなった。
12月8日、K-1 WORLD GP 2001 決勝戦の1回戦ではフランシスコ・フィリォと対戦し、2ラウンド終了時の足の甲骨折によるTKO負け。
2002年
4月21日、K-1 BURNING 2002 〜広島初上陸〜ではニコラス・ペタスと対戦し膝蹴りで1ラウンドKO勝利。
6月2日、K-1 SURVIVAL 2002 〜富山初上陸ではアンドレイ・キルサノフと対戦し判定勝ち。
7月14日、K-1 WORLD GP 2002 in 福岡ではアレクセイ・イグナショフと対戦し判定負け。
10月5日、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦ではグラウベ・フェイトーザと対戦し判定勝ち。
12月7日、K-1 WORLD GP 2002 決勝戦の準々決勝ではレイ・セフォーと対戦し、ローキックを効かせて優勢に試合を進めたが判定負け。
2003年
3月30日、K-1 WORLD GP 2003 in SAITAMAではステファン"ブリッツ"レコと再戦。しかし、右脛裂傷によるドクターストップで3ラウンドTKO負け。
6月29日、K-1 BEAST II 2003ではボブ・サップ率いるビースト軍団の一員としてK-1 JAPAN軍団の中迫剛と対戦し、右ハイキックで2ラウンドKO勝ち。
10月11日、K-1 WORLD GP 2003 開幕戦 ALL STARSではジェレル・ヴェネチアンに判定勝ち。
12月6日、K-1 WORLD GP 2003 決勝戦では準々決勝でアレクセイ・イグナショフと再戦し、延長1ラウンド判定勝ち。準決勝で武蔵と対戦し、判定負け[7]。
2004年
6月6日、K-1 WORLD GP 2004 in NAGOYAではゲーリー・グッドリッジと対戦し、右ローキックで3ラウンドKO勝ち。
9月25日、K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO 開幕戦ではマイケル・マクドナルドと対戦し、判定勝ち。
12月4日、K-1 WORLD GP 2004 決勝戦の準々決勝ではフランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタと対戦。1ラウンドに放った自らの右ローキックで右ももに肉離れを起こして1ラウンドKO負け。
2005年
3月19日、K-1 WORLD GP 2005 IN SEOULではカーター・ウィリアムスと対戦し、判定勝ち。
7月6日、HERO'S 2005では若翔洋と総合格闘技ルールで対戦し、1ラウンドTKO勝ち。
9月23日、K-1 WORLD GP 2005 IN OSAKA 開幕戦ではマイティ・モーと対戦し、2ラウンドKO勝ち。
11月19日、K-1 WORLD GP 2005 IN TOKYO 決勝戦では準々決勝でジェロム・レ・バンナに延長1ラウンド判定勝ちを収めるも、右肋骨を骨折しドクターストップのため準決勝を棄権した。
12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!では大山峻護と総合格闘技ルールで対戦しヒールホールドで1ラウンド30秒一本負け。
2006年
3月5日、K-1 WORLD GP 2006 IN AUCKLANDではセーム・シュルトと対戦し判定勝ち。
5月13日、K-1 WORLD GP 2006 IN AMSTERDAMにおいて、アーネスト・ホーストと対戦するはずだったボブ・サップが契約問題のこじれから試合直前になって試合出場を拒否したため、地元のテレビの解説のために来場していたアーツがその代役として試合開始30分前にホーストとの対戦を承諾。この日の試合を終えたシュルトのトランクスを借りて試合に出場し、判定負けしたものの観客から喝采を浴びた。なお、出場理由についてアーツは「K-1が俺の力を必要としていたからな」と語った。
7月30日、K-1 REVENGE 2006 K-1 WORLD GP 2006 IN SAPPORO 〜アンディ・フグ七回忌追悼イベント〜ではゲーリー・グッドリッジとの再戦し判定勝ち。
9月30日、K-1 WORLD GP 2006 IN OSAKA 開幕戦にてレミー・ボンヤスキーと対戦予定だったが病気のため欠場し、これにより第1回大会からの決勝トーナメント連続出場記録が13年で途絶えたかに見えた。しかし、12月2日、K-1 WORLD GP 2006 IN TOKYO 決勝戦のリザーブマッチで武蔵に1ラウンドKO勝ちを収め、準々決勝第4試合に出場したボンヤスキーとステファン"ブリッツ"レコが共にドクターストップのためリザーバーとして準決勝に出場し、グラウベ・フェイトーザに2ラウンドKO勝ち。決勝戦ではシュルトに判定負けを喫したものの、前年のグラウベに続きリザーブマッチから決勝進出して準優勝を果たしたK-1史上2人目の選手となった。
2007年
6月23日、K-1 WORLD GP 2007 IN AMSTERDAMではボブ・サップと対戦。左膝蹴りでダウンを奪い、そのままサップは立とうとせず1ラウンド26秒KO勝ち。観客からは大ブーイングとともにリングに物が投げ入れられたが、アーツのマイクアピールに対しては歓声が沸き起こった。
8月5日、K-1 WORLD GP 2007 IN HONG KONGではニコラス・ペタスと対戦。右ハイキックで2ラウンドKO勝ち。
9月29日、K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16ではレイ・セフォーと対戦。1ラウンド終了時に右ローキックでダウンを奪い、インターバル終了後セフォーは立ち上がることができず、セコンドからタオルが投入されTKO勝ち。
12月8日、K-1 WORLD GP 2007 FINALでは準々決勝で澤屋敷純一に1ラウンドKO勝ちし、続く準決勝はレミー・ボンヤスキーに判定勝ち。そして決勝戦では前年同様にセーム・シュルトと対戦するも左ストレートを浴びた瞬間、右足に異常を見せダウンし1ラウンドKO負け。試合後、「パンチのダメージはなかったけど、踏み込んだ時にリングが濡れていたので滑って、膝が変な方向に曲がって痛めた。前方十字靭帯を痛めたようだ」と語っている。
2008年
6月29日、K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAではヤン"ザ・ジャイアント"ノルキヤと対戦し3ラウンドTKO勝ち。
「彼が王者のままではK-1がつまらなくなる」という理由で谷川貞治にセーム・シュルトとの対戦を直訴し、4月26日のK-1 WORLD GP 2008 IN AMSTERDAMにてレミー・ボンヤスキー対メルヴィン・マヌーフ戦の勝利者トロフィーを渡すためにリングに上がった際に「開幕戦でシュルトと戦いたい」と対戦をアピール。9月27日のK-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16にてシュルトと対戦して判定勝ちを収める[8]が、この試合の判定は物議を醸した。
12月6日、K-1 WORLD GP 2008 FINAL準々決勝でバダ・ハリと対戦し2ラウンドTKO負け。
2009年
同年、ドージョー・チャクリキに復帰。3月28日、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAではエロール・ジマーマンと対戦し延長1ラウンド判定勝ち。
8月11日、K-1 WORLD GP 2009 IN TOKYOでは西島洋介と対戦し3ラウンドKO勝ち。なお、この試合は西島のリングシューズ着用が認められた試合となった。(シューズ着用によりルールで西島は蹴りが禁止)
9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16ではアリスター・オーフレイムと対戦して判定負け。
12月5日、K-1 WORLD GP 2009 FINALではリザーブファイトでグーカン・サキと対戦し判定勝ち。しかし、本選出場には至らず、第1回大会からの決勝トーナメント連続出場記録が16年で途絶えた。
2010年
4月3日、K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAではK-1世界ヘビー級タイトルマッチで京太郎と対戦し2ラウンドKO負け。試合後の会見では階級を本来のスーパーヘビー級に専念することと試合前から怪我していた肘の手術をすることを表明した。
2010年10月2日、K-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16にファン投票1位で推薦枠として出場。エヴェルトン・テイシェイラと対戦し延長1ラウンド判定勝ち。
12月11日、K-1 WORLD GP 2010 FINALでは準々決勝でマイティ・モーと対戦して1ラウンドKO勝ちし、準決勝でセーム・シュルトと対戦して判定勝ち。決勝でアリスター・オーフレイムと再戦し1ラウンドKO負けで優勝は逃したものの、K-1史上最多記録となる6度目のWORLD GP FINAL決勝への出場を果たした。また、アリスターからは「アーツはK-1だけでなく、全てのスポーツ史上においても偉大な王者だ」と敬意を表された。
2011年
同年、FEGの経営難が表面化し、選手へのファイトマネー未払いが次々と発覚。特に重量級のWORLD GPシリーズは全く興行の目処が立たない状況になり、アーツはプロレス団体IGFと契約。
8月27日、INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜にて鈴川真一と対戦し、KO勝ち。
9月3日、GENOME17にて鈴木秀樹と対戦し、KO勝ち。
12月2日、INOKI BOM-BA-YE 2011にて初のタッグマッチに出場し、ボビー・ラシュリーとのタッグで藤田和之、ケンドー・カシン組と対戦し、ラシュリーが藤田を羽交い絞めにしたところにアーツが右ハイキックを放ってダウンさせ、体固めでフォール勝ちを収めた。
12月11日、「火の国格闘伝説 LEGEND2」ではMr.神風とキックボクシングルールで対戦し1ラウンドKO勝ち。
12月31日、元気ですか!! 大晦日!! 2011にて、藤田とIGFルールのシングルマッチで対戦し、逆片エビ固めでタップアウト負け。
なお、同年には自身のジムであるK1 Aerts Dojoを開設した[9]。
2012年
2月17日、GENOME18ではIGF王座選手権試合でジェロム・レ・バンナと対戦し、腕ひしぎ十字固めでタップアウト負け。
3月20日、GENOME19ではミノワマンとのタッグで鈴川真一、澤田敦士組と対戦し、澤田をKOして勝ち。
同時期に、K-1は主催者がFEGからK-1グローバルホールディングスへと代わって再始動したが、アーツはK-1からのオファーを断り、K-1と対立関係にあるキックボクシング大会GLORYと契約した[10]。
6月30日、IT'S SHOWTIMEでタイロン・スポーンと対戦し3ラウンドTKO負け。なお、当初はこの試合を引退試合となることを表明した[11]が、大会の開催予定地であったスヘルトーヘンボスをはじめ、オランダのほとんどの都市の市長が大規模な格闘技大会の開催に反対の姿勢を表明しているため、開催場所がベルギーのブリュッセルに変更となり、母国での引退が叶わず、加えてGLORYから好条件のオファーが届いたため、引退を撤回。アーツの引退試合を大会の目玉としていた主催者側の都合もあって、この試合は「ベネルクス引退試合」に変更となった[12]。試合後には改めてGLORYと6試合の契約を結んでいることを明らかにし、当面は現役を続行することを明らかにした[13]。
12月31日にDREAM.18 & GLORY 4で行われた16人トーナメントで自身の弟子であるムラッド・ボウジディと対戦。1Rは優勢に試合を進めジャッジ5者からポイントを獲得するも、拳を痛め棄権。一回戦敗退となった
2013年
5月3日のGLORY 8 TOKYOでGLORY 4のトーナメントでジマーマンやレミーに勝利しベスト4に進出している新鋭ジャマール・ベンサディックと対戦。1Rはベンサディックの圧力に押されフックでダウンを奪われるも、2R早々にパンチの連打でダウンを奪い返すと、アーツより20歳近く若いハードパンチャーのベンサディックを正面からの打ち合いで圧倒し、右ストレートと膝蹴りで続けて二度ダウンを奪い2RKO勝ち。
12月21日、GLORY 13 TOKYOでGLORYヘビー級世界トーナメント2012王者リコ・ヴァーホーベンと対戦し、右ストレートで追い込む場面もあったもののローを効かされ僅差の判定負け。この試合はアーツの引退試合としてアナウンスされていたが、アーツは試合後引退を否定した。
2014年
5月30日、ドバイで行われたグローバルFCでデューウィー・クーパーと対戦。試合開始早々に右足を痛めたこともあり攻めきれずドローに終わった。
人物
- 二卵性双生児の息子と娘がいる[4]。
- 若い頃は練習はハードにやりながらも、友人たちと共にパブで酒を飲みまくってバカ騒ぎをする日々を過ごしていたが、試合ではその天性の才能でKO勝ちを連発していた。しかし不摂生が原因で胃腸を壊してスランプに陥ったこともあった。アーツ本人は、当時を振り返って「若い頃の俺は摂生なんてものとは無縁だったな。若い頃よりも今の俺の方が真面目に摂生して練習しているよ」と語っている。
- インタビュー時や関係者やファンの前では、豪快な笑い方をする。
- K-1プロデューサーだった谷川貞治は「アーツはどんな強豪との対戦をオファーしても一度も断ったことが無い」と常々語って感謝を表している。
- 逆にアーツはその強さゆえに他のファイター達から対戦を嫌がられきた。アーツ本人によると「セーム・シュルトやアーネスト・ホーストですら俺を恐れて対戦を断った」と語っている[14]。唯一の例外がジェロム・レ・バンナであり、K-1 GP 99決勝トーナメント組み合わせ抽選会において、前々日の試合直後からバンナはアーツとの対戦を熱望しており、抽選の結果、初戦でアーツ対バンナが実現して大喜びするバンナを見て、「俺と戦うことが決まってこんなに喜ぶのはジェロムくらいだよ」と苦笑いしていた。
- K-1初期からのファイターであるが、総合格闘技に対しても理解的な姿勢を見せており、K-1の興行においてキモvsパトリック・スミス戦が行われた際もそれを認めるコメントを出した。アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラらの元で総合格闘技のトレーニングを積み、HERO'Sでは総合格闘技デビューを果たしたが、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!で大山峻護に敗れたのを最後に総合格闘技から撤退した。
- 自身と共にK-1四天王として並び称されたアンディ・フグとアーネスト・ホースト、マイク・ベルナルド、及び長年のライバルであるジェロム・レ・バンナとは友人でもある。2000年、フグが死去した際のインタビューでは「K-1の選手の中で一番の親友だった。アンディのことは絶対に忘れない」などと涙ながらに語り[1]、バンナは2010年からアーツとともにドージョー・チャクリキで練習するようになり、バンナがアーツのセコンドにも就いている。また、自身のトランクスに666の文字を入れていたことがあるが、これはベルナルドへのジョークであったことを明かしている[4]。2012年2月17日のIGF選手権試合後には、同年2月14日に死去したベルナルドへの追悼コメントをバンナと共に語った[15]。
- 雑誌『ハイパーコロコロ』にて、坂井孝行による読み切り漫画作品『K-1超闘士列伝ピーター・アーツ物語』が掲載された。この作品は、同じく坂井の作品『K-1 ダイナマイト』の単行本2巻に収録されている。
- 自身の引退について語った1万字インタビュー原稿をそのまま広告にした全長30mにおよぶ巨大広告が2013年11月18日から25日まで東京メトロ半蔵門線・渋谷駅に掲出された。[16]
戦績
キックボクシング
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総合格闘技
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獲得タイトル
- I.K.B.F.世界ヘビー級王座
- W.M.T.A.世界ムエタイヘビー級王座
- K-1 GRAND PRIX '94 優勝
- K-1 GRAND PRIX '95 優勝
- K-1 GRAND PRIX '98 優勝
- K-1 WORLD GP 2006 準優勝
- K-1 WORLD GP 2007 準優勝
- K-1 WORLD GP 2010 準優勝
脚注
関連項目
外部リンク
- ピーター・アーツ公式Facebook page in JAPAN
- Peter Aerts Official Website
- K1 Aerts Dojo Official Website
- K-1 選手データ
- SHERDOG 選手データ
- ↑ 「ランバー」とは巨木のことを指し、北米や中欧の大森林地帯で、チェーンソーもなかった時代に斧一本で「ランバー」をなぎ倒す怪力自慢の男たちが「ランバージャック」と呼ばれていた。
- ↑ INTERVIEW: Peter Aerts prepares for Tyrone Spong, June 30, IT'S YouTube 2012年4月25日
- ↑ 週刊少年チャンピオン 2012年 No.25
- ↑ 4.0 4.1 4.2 http://pancration.net/nihongo/peter-aerts-interview-japanese.html
- ↑ 5.0 5.1 5.2 ゴング格闘技259号の引退インタビューより。
- ↑ K-1 WORLD GP 2005 FINALのアリーナ席限定配布DVD内にて。
- ↑ 会場で観戦していたアーネスト・ホーストは「あれはアーツの勝ちか、最低でもドローで延長が妥当だ」と語った。ホーストはK-1 WORLD GP 2004 決勝戦準々決勝の対レミー・ボンヤスキー戦に敗戦後、ジャッジへの怒りを露わにした際にもこの試合の結果に触れ、「明らかにピーターが勝っていたのに武蔵に勝利が行ってしまった」と語っている。
- ↑ この結果、自身の決勝トーナメント連続出場記録を16年連続に更新したうえ、シュルトのGP4連覇および自身の持つK-1における最多連勝記録タイ達成を阻止している。
- ↑ アーツがオランダでジムを開設! K-1公式サイト 2011年5月9日
- ↑ Peter Aerts snubs K-1, signs for Glory Fighters Only 2012年3月20日
- ↑ Peter Aerts Confirms His Final Fight vs Tyrone Spong on June 30 LiverKick.com 2012年1月12日
- ↑ It's Showtime's June 30th Event Moving to Brussels Liverkick.com 2012年1月27日
- ↑ 【It's Showtime】アーツ、スポーンにTKO負けもGloryで現役続行 - MMAPLANET・2012年7月1日
- ↑ 独白!! ピーター・アーツ引退1万字インタビュー完全版!! - GLORY13特設サイト大引退・2013年11月20日
- ↑ 【IGF】ベルナルドへの10カウントゴング! バンナとアーツが追悼コメント GBR 2012年2月17日
- ↑ K-1で最もモテた選手は? 裏話満載のピーター・アーツ引退インタビュー広告が渋谷駅に登場 2013年11月18日(月) 14時00分