千々石ミゲル
テンプレート:基礎情報 武士 千々石 ミゲル(ちぢわ ミゲル、Miguel 永禄12年(1569年)頃 - 寛永9年12月14日(1633年1月23日)?)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士、キリシタン。ミゲルは洗礼名で本名は千々石紀員(のりかず)。肥前国領主千々石直員の子。大村純忠の甥、大村喜前及び有馬晴信の従兄弟。イエズス会による天正遣欧使節に派遣された正使の一人として、そして4人の正使の中で唯一棄教してキリスト教から離れた事で知られている。
経歴
遣欧と棄教
肥前有馬氏当主有馬晴純の三男であり、肥前国釜蓋城城主であった千々石直員の子として生まれる。
父は肥前有馬氏の分家を開き、千々石氏の名を用いていた。肥前有馬氏と龍造寺氏の合戦で父が死に、1577年に釜蓋城が落城すると乳母に抱かれ、戦火を免れたと伝えられている。その後は有馬晴純の次男として大村氏を継承していた伯父の大村純忠の元に身を寄せていたが、1580年にポルトガル船司令官ドン・ミゲル・ダ・ガマを代父として洗礼を受け、千々石ミゲルの洗礼名を名乗る。これを契機にして同年、有馬のセミナリヨ(イエズス会の神学校)で神学教育を受け始める。
1582年、巡察師として日本を訪れたイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ司祭は既にキリシタン大名であった有馬氏及び大村氏に接近し、日本での布教活動を知らしめる為にカトリック教会の本山であるローマに使節を送りたいと提案した。ヴァリニャーノは原マルティノ、伊東マンショ、中浦ジュリアン、そして大村純忠の甥でもある千々石ミゲルをセミナリヨから選び、正使として共にヨーロッパへと渡った。東洋からの信徒として教皇グレゴリウス13世と謁見し、フェリペ2世ら世俗当主からの歓迎を受けながら見聞を広めた。
1590年、日本に戻ってきた彼らは翌1591年、聚楽第で豊臣秀吉と謁見、秀吉は彼らに仕官を勧めたが、一様に神学の道を志してそれを断った。司祭叙任を受けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続け、1593年7月25日、他の3人と共にイエズス会に入会した。だが千々石は次第に神学への熱意を失ってか勉学が振るわなくなり、また元より病弱であった為に司祭教育の前提であったマカオ留学も延期を続けるなど、次第に教会と距離を取り始めていた。欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている。
棄教後
1601年、キリスト教の棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。棄教と同時に洗礼名を捨てて千々石清左衛門と名を改め、伯父の後を継いだ従兄弟の大村喜前が大村藩を立藩すると藩士として召し出される。大村藩からは伊木力(現在の諫早市多良見地区の一部)に600石の領地を与えられる。
千々石は棄教を検討していた大村喜前の前で公然と「日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押ししている。また藩士としても大村領内での布教を求めたドミニコ会の提案を却下し、更に領民に「修道士はイベリア半島では尊敬されていない」と伝道を信じない様に諭したという。イエズス会の日本管区区長に推挙された原マルティノやマカオへ派遣された伊東マンショと中浦ジュリアンらが教会への忠誠を続ける中、共に欧州でキリスト教の本山を見聞きして来た千々石が反キリストに転じた事は宣教師達の威信を失わせた。
こうした出来事は後に日蓮宗への改宗を迫った加藤清正と並んで大村喜前の棄教とキリシタン弾圧の後押しとなったとする論もある。一方、自身も喜前と(原因は定かでないが)不仲となり、藩政からは遠ざけられた。加えて本家筋として肥前有馬氏を継いでいたもう一人の従兄弟で、やはりキリシタン大名であった有馬晴信の遺臣による暗殺未遂が起きるなど親キリシタン派からも裏切り者として命を狙われた。晩年については現在も謎に包まれているが、2003年に自らの領地であった伊木力で子息の千々石玄蕃による墓所と思われる石碑が発見されており、領内で隠棲したものと考えられる。
伊木力の伝承では大村喜前に対する恨みを弔う為、伊木力から大村藩の方を睨む様にして葬られたという。
参考文献
- 大石一久『千々石ミゲルの墓石発見 天正遣欧使節』(長崎文献社、2005年) ISBN 4888510873
小説他
- 松永伍一『天正の虹』(ファラオ企画、1991年) ISBN 4894091062
- 三浦哲郎『少年讃歌』 文藝春秋 1982年、のち文春文庫、第15回日本文学大賞
- NHKその時歴史が動いた 第173回日本の運命を背負った少年たち〜天正遣欧使節・ローマ教皇謁見の時〜 - 閉鎖。(2004年5月28日時点のアーカイブ)
- 村木嵐『マルガリータ』 文藝春秋 2010年、第17回松本清張賞