一休宗純
テンプレート:Redirect テンプレート:Infobox Buddhist 一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。
生涯
出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されている[1] 。『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだという[2] 。
幼名は、後世史料によると千菊丸。長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号である。
6歳で京都の安国寺[3] の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、13歳の時に作った漢詩『長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となり賞賛された。
応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休も自殺未遂を起こしている。応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指す。
応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。
正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位したが、この即位には一休の推挙があったという[4]。文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持[5]に任ぜられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。
文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)おいてマラリアにより死去。享年88。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内庁が御廟所として管理している陵墓である[6]ため、一般の立ち入りや参拝はできない。
人柄
自由奔放で、奇行が多かったといわれる。以下のような逸話が伝わっている。
- 印可の証明書や由来ある文書を火中に投じた。
- 男色はもとより仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の森侍者(しんじしゃ)という側女や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。
- 木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされる。
- 親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、ふたりで大笑いしたという。
- 正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
こうした一見奇抜な言動は中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者と通じるものがあり、教義の面では禅宗の風狂の精神の表れとされる。同時に、こうした行動を通して仏教の権威や形骸化を批判・風刺し仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らすものでもあった。彼の禅風は、直筆の法語として『七仏通誡偈』が残されていることからも伺える。
この戒律や形式にとらわれない人間臭い生き方は民衆の共感を呼び、江戸時代に彼をモデルとして『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となった。
一休は能筆で知られる。また、一休が村田珠光の師であるという伝承もあり、茶人の間で墨蹟が極めて珍重された(なお、珠光の師という説は現在の研究ではやや疑わしいとされる)。
著書(詩集)は、『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『骸骨』など。東山文化を代表する人物でもある。足利義政とその妻日野富子の幕政を批判したことも知られる。
一休宗純が遺した言葉
- 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし[7]
『一休蜷川狂歌問答』に「門松はめいどのたびの一里づか馬かごもなくとまり屋もなし」という類似の歌がある。 一方『狂雲集』は漢詩集なので和語の歌は収録されておらず、念の為点検したがその様な内容の詩偈も見当たらない。 一般に流布している歌だが、禅文化研究所発行の『一休道歌』には見当たらず、後世の変容である可能性が高い。
- 釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな
- 秋風一夜百千年(秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ)
- 花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの
- 女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
- 世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり
- 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ
- 親死に 子死に 孫死に
(これは仙崖が信者にめでたい言葉を書いてくれと請われ「祖死父死子死孫死」と書いた逸話の誤りだと思われる)出典『禅門逸話集成』禅文化研究所
なおアントニオ猪木らによって「一休の言葉」として流布されていた「この道を行けばどうなるものか…」に始まる言葉は実際には一休の言葉ではなく文言に多少の相違はあるものの、もとは清沢哲夫の「道」という詩であったと見られる(『無常断章』に収録:一部、抜け・間違いあり)。 同じく、一休の遺文として「心配するな、なんとかなる」というものがあったという話も広く人口に膾炙されているが、原典は不明であり、一休に関する事象と断言できない。ある伝記作家が創作したという説もある。
一休宗純に関する研究書・評伝
- 「一休:乱世に生きた禅者」(市川白弦著 東京:日本放送出版協会、1970年12月(NHKブックス 132))
- 「一休:風狂の精神」(西田正好著 東京:講談社現代新書、1977年5月
- 「一休:「狂雲集」の世界」(柳田聖山著 京都:人文書院、1980年8月)
- 「一休」(水上勉著 東京:中央公論社(中公文庫)、改版1997年5月)
- 「一休:その破戒と風狂」(栗田勇著 東京:祥伝社、2005年11月) ISBN 4396612567
- 「一休:「狂雲集」訳注」(柳田聖山ほか訳著 東京:講談社<禅入門7>新版、1994年5月)
- 「一休和尚全集」(東京:春秋社全5巻、1997~2003年)
- 「一休和尚大全」(石井恭二/訓読・現代文訳・解読 東京:河出書房新社上下巻、2008年)
一休を主人公とした作品
- 説話
- 『一休咄』で知られている。
- 伝記
- テレビアニメ
- 『一休さん』
- テレビドラマ
- 漫画
- 小説
- テレビバラエティー
- 『日本史サスペンス劇場』(2008年、一休宗純:加藤茶)[8]
- 舞台
- 『TABOO』(野田秀樹・作)
- 吹奏楽
- 『一休禅師〜いま宿花知徳の道へ〜』(作曲者:櫛田胅之扶)
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:Asbox- ↑ 一休皇胤説については、東坊城和長の『和長卿記』明応3年8月1日(1494年8月31日)の条に「秘伝に云う、一休和尚は後小松院の落胤の皇子なり。世に之を知る人無し」とあるが、大徳寺真珠庵に残る一休の真筆「天の沢 東の海を 渡り来て 後の小松の 梢とぞなる」の歌や、『狂雲集』の「憶昔薪園居住時 王孫美誉聴相思(憶ふ昔薪園居住の時 王孫の美誉聴いて相思ふ)」という句などから、後小松天皇の落胤であることが公認であったことが伺われる。『一休和尚行実』『東海一休和尚年譜』などの一休伝記類においても出自を後小松庶子とする。『読史余論』が引用する『南朝記』には、称光天皇の後の皇位継承者として一休を還俗させようとした後小松上皇の院宣に対して「常磐木や 木寺の梢 つみ捨てよ よをつぐ竹の 園はふしみに」(「竹の園」は梁の孝王「修竹園」の故事から皇族のこと。「ふしみ」は伏見宮を指す)と詠んで持明院統正嫡の伏見宮彦仁親王(後の後花園天皇)を推し、皇位を辞退したと伝わる。
- ↑ 母については、日野中納言の娘・照子姫(後に伊予局と称される)とも、藤原顕純の娘・藤侍従とも伝わるが確証はない。昭和36年に公開された『橘姓楠家倉氏系図』には、楠木正儀の三女が後小松天皇の官女となったが「仔細アリテ」退官し一休を生み、早世したと記されている。また、門真市三ツ島には一休の生母のものと伝わる墓があり、一休の母は楠木正儀の子・楠木三郎正澄の三女と説明されている。これらを考え合わせると、当時無位無冠だった楠木氏の女を後宮に入れるために藤原氏の養女としたという可能性もある。南北朝合一後のこととはいえ、まだまだ不穏な動きを見せていた南朝方の女が北朝の後宮で皇子を生むことは難しかったものと考えられる。
- ↑ かつて京都四条街大宮西に位置した禅寺で、現在は廃寺。足利直義によって後醍醐天皇以下、楠木、新田一族ら戦没者の霊を弔うために建てられた。京都十刹の一つ。
- ↑ 『東海一休和尚年譜』より。ただし、今泉淑夫は後花園天皇の即位は幕府の賛成によるもので一休の推挙は無関係だとしている。
- ↑ 大徳寺第48世。虚堂智愚から7世、大徳寺開山・宗峰妙超からは5世(小松茂美編『特別展 日本の書』、東京国立博物館、初版1978年、図版257の解説より)。
- ↑ 宮内庁では落胤説にもとづいて「後小松天皇皇子宗純王墓」としている。
- ↑ 一休さん(一休宗純)の歌「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」はこれで正しいか。この歌は骸骨の付いた杖をつきながら詠んだものらしい。(国立国会図書館レファレンス事例詳細集
- ↑ 日本史サスペンス劇場公式ホームページ