女犯
女犯(にょぼん)とは、原則として戒律により女性との性行為を絶たねばならない仏教の出家者が、戒律を破り女性と性的関係を持つこと。
概要
仏教の修行は煩悩や執着を断つためのものなので[1]、戒律では僧侶に対して女性との性的関係を一切認めていなかった。この為、寺法のみならず国法によっても僧侶の女犯は犯罪とされ、厳重に処罰されることになっていた。ただし時代による。破戒僧は奈良時代や江戸時代には比較的厳しく取り締まられたのに対し、鎌倉時代や室町時代には公然と法体で俗人と変わらない生活を送る者も少なくなかった。例えば親鸞は公然と尼僧と妻帯し、一休宗純は寺で女性を引き入れ同棲しているが信者から倫理的非難を向けられていない。
一方で戒律には男色を直接規制する条項が無かったため、寺で雑用や僧侶の世話をする寺小姓や稚児を対象とする性行為が行われる場合もあった。
日本では、1872年(明治5年)に太政官布告133号が発布された。僧侶の肉食妻帯が個人の自由であるとするこの布告は、文明開化の一環として一般社会および仏教界によって積極的に受容された。現在では僧侶の妻帯は当然のこととみなされ、住職たる僧侶が実の子息に自らの地位を継がせることを檀家から期待されることも多い。
女犯に対する刑
江戸時代、女犯が発覚した僧は寺持ちの僧は遠島、その他の僧は晒された上で所属する寺に預けられた。その多くが寺法にしたがって、破門・追放になった模様である。 例えば、江戸市中であれば、ふつう日本橋に3日間にわたって晒されることになっていた。寛政8年8月16日には67人(69人とも)の女犯僧が、天保12年3月には48人の女犯僧が晒し場に並ばされたという。また文政7年8月には、新宿へ女郎を買いに行ったことが発覚した僧侶6人が、日本橋に晒されたと記録されている。さらに、他人の妻妾と姦通した女犯僧は、身分の上下にかかわらず、死罪のうえ獄門の刑に処された。
脚注
参考文献
- 石田瑞麿著『女犯――聖の性』筑摩書房。1995年4月発行。ISBN 4480842349