後花園天皇
後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。
略歴
先代の称光天皇は応永29年(1422年)以降、幾度か危篤状態に陥るなど病弱で皇子がなく、称光の同母弟で皇儲に擬せられていた小川宮も応永32年(1425年)に早世したため、その父で院政を敷いていた後小松上皇は、早急に皇嗣を決定する必要に迫られた。正長元年(1428年)称光天皇が危篤に陥ると両統迭立を要求する後南朝勢力がにわかに活動の気配を見せたため、室町幕府将軍に就任することになっていた足利義宣(後の義教)は伏見御所にいた彦仁王(後花園天皇)を保護し、後小松上皇に新帝指名を求めた。同年7月20日に称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となって親王宣下のないまま7月28日に践祚し、翌永享元年(1429年)12月27日に即位した。天皇の即位は、崇光天皇以来、皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家にとってはめでたいことであり、父貞成親王もこれを「神慮」として喜んだ。
即位して以降も後小松上皇による院政は継続されたが、永享5年(1433年)10月に上皇が崩御した後は30年余り親政を行った。この間、各地で土一揆が起こり、永享の乱・嘉吉の乱などでは治罰綸旨を発給するなどの政治的役割も担って朝廷権威の高揚を図った。同11年(1439年)6月に勅撰和歌集(二十一代集)の最後に当たる『新続古今和歌集』が成立。嘉吉3年(1443年)9月には後南朝勢力が土御門内裏に夜襲をかけ、後花園天皇は近衛忠嗣邸に逃れるが、三種の神器の一部を奪われた(禁闕の変)。奪われた神器のうち、剣は清水寺で発見されるが、神璽(曲玉)は持ち去られた。文安元年(1444年)2月に同母弟の貞常王に親王宣下を行い、同4年(1447年)11月父貞成親王に太上天皇の尊号を奉っている。享徳4年(1455年)1月、後二条天皇の5世孫にあたる木寺宮邦康王に親王宣下を行った。長禄元年(1457年)12月嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲って神璽を奪還し(長禄の変)、翌年8月には全ての神器が天皇の手中に帰することになる。寛正2年(1461年)4月、亀山天皇の5世孫にあたる常盤井宮全明王に親王宣下を行った。同3年(1462年)10月皇子の成仁親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』を与えている。同5年(1464年)7月19日成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり、左大臣足利義政を院執事として院政を敷いた。応仁元年(1467年)に京都で応仁の乱が勃発した際、東軍細川勝元から西軍治罰の綸旨の発給を要請されたが、上記とは異なり上皇はこれを拒否。兵火を避けて天皇とともに室町第へ移るも、自らの不徳を悟って同年9月20日に出家、法名を円満智と号した。
文明2年(1470年)12月27日、中風のため室町第で崩御した。享年52。翌3年(1471年)1月2日高辻継長の勘申によって後文徳院と追号されたが、漢風諡号(文徳天皇)に「後」字を加えた追号(加後号)は先例がないとする太閤一条兼良の意見があり、諸卿からの意見も勘案した上で、2月19日に後花園院と改められた。
詩歌管弦に堪能で、『新続古今集』に12首、『新撰菟玖波集』に11句が入集した他、御集がある。闘鶏・猿楽・松はやしなどを好み、また学問にも秀でた。寛正2年(1461年)春、長禄・寛正の飢饉の最中に奢侈に明け暮れる将軍足利義政に対して、漢詩を以って諷諫したというエピソードは著名である(『長禄寛正記』)。
系譜
伏見宮貞成親王(後崇光院。崇光天皇の孫)の第一王子。母は、庭田経有の娘・幸子(敷政門院)。践祚前の正長元年7月17日(1428年8月27日)に後小松天皇の猶子となる。伏見宮家は持明院統の嫡流に当たる。
- 女院:藤原(大炊御門)信子(嘉楽門院、1411-1488) - 藤原孝長女、大炊御門信宗養女
- 生母不詳
- 皇女:照厳女王(?-1464) - 大聖寺門跡
系図
御製
思へただ空にひとつの日の本に又たぐひなく生まれ来し身を(後花園院御集)
在位中の元号
- 正長 (1428年7月28日) - 1429年9月5日
- 永享 1429年9月5日 - 1441年2月17日
- 嘉吉 1441年2月17日 - 1444年2月5日
- 文安 1444年2月5日 - 1449年7月28日
- 宝徳 1449年7月28日 - 1452年7月25日
- 享徳 1452年7月25日 - 1455年7月25日
- 康正 1455年7月25日 - 1457年9月28日
- 長禄 1457年9月28日 - 1460年12月21日
- 寛正 1460年12月21日 - (1464年7月19日)
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、京都府京都市右京区京北井戸町の常照皇寺内にある後山國陵(後山国陵、のちのやまくにのみささぎ)に治定されている。公式形式は石造宝篋印塔。光厳天皇陵と同域に所在する。
文明3年(1471年)1月3日に悲田院にて火葬して埋骨し、翌月、天皇の遺詔によって常照皇寺の光厳天皇陵の傍に移した。幕末修陵の際に光厳天皇陵と併せて「山国陵」と称したが、明治2年(1869年)現陵号に改定。なお、分骨所が京都市上京区般舟院前町の般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)、火葬塚が上京区扇町の大應寺境内にある。この火葬塚は、京都府内における近世以前の皇室の陵墓・火葬塚の中で、学術上最も確実なものの1つであるといわれる。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。