孫権
テンプレート:基礎情報 中国君主 孫 権(そん けん)は、三国時代の呉の初代皇帝。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。なおよく並べられる曹操・劉備とは(父孫堅が同世代なので)およそ1世代下にあたる。
目次
生涯
家系について
清代の『四庫全書』の記載によると、先祖は春秋時代の兵法家・孫武に遡るとされ、さらに浙江省杭州の富陽市南部に龍門古鎮という村があり、現在は観光地になっている。この村では9割の人の姓が「孫」で、孫権の末裔と自称している。この村の族譜では、革命家の客家の孫文も該当するという。しかし、孫権の祖父を初めとしてどのような家柄の生まれであったのか真偽の程は不明である[1]。
少年・青年期
孫権は、背は高いが胴長短足で、角張った「あご」と大きな口に紫髯(赤ひげだとされる)の持ち主だったと云われる。また、小説『三国志演義』では碧眼(蒼い目)を持つとも描かれ、「碧眼児」と呼ばれる。父の孫堅も「仲謀は只者では無い、貴人の相をしている」と将来を期待したとされる。
ろくに護衛もつけずに叛乱勢力が割拠する地域に駐在したり、虎狩を好むなど、ある種の無邪気さを見せることもあった。
呉の礎を築いた父の孫堅、勇猛で恐れられた兄の孫策を相次いで亡くし、19歳で孫氏軍閥の当主となる。当主となった当初は、山越の反乱が活発になったり、廬江太守の李術が離反したり、弟の孫翊が側近に殺されたり、従兄弟の孫暠が反乱を企てたり孫輔が曹操と内通したりと、政情不安定であったが、父や兄から引き継いだ家臣団をまとめあげると共に、積極的な人材登用を行い、政権を充実させた。
208年(建安13年)には父の仇である黄祖を討ち取った。同年、曹操が大軍を率いて南下してくると、孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。「近ごろ罪状を数えたてて罪びとを討伐せんとし、軍旗が南に向ったところ、劉琮はなんら抵抗も示さず降伏した。今度は水軍八十万の軍勢を整えて、将軍(あなた)とお会いして呉の地で狩猟[3]をいたそうと思う。」孫権はこの手紙を受け取ると群臣たちに示したが、震え上がり顔色を変えぬ者はなかった。[4]豪族の集合体である孫氏軍閥の性質から、帰順派(張昭・秦松等)が多勢を占める中、孫権は抗戦派(周瑜・魯粛等)の意見及び孫権に救援を求めるために魯粛に随行する形で劉備から派遣された諸葛亮の説得により開戦を決断した。孫権は刀を抜くと前に置かれた上奏文を載せるための案(つくえ)を斬りつけて、「部将や官吏たちの中に、これ以上、曹操を迎え入れるべきだと申す者がおれば、この案(つくえ)と同様になるのだ。」と言った。[5]かくして孫権は劉備と同盟を結び、曹操と戦うこととなった。周瑜らは同年の赤壁の戦いで、黄蓋の火攻めにより曹操の水軍を大いに破る。江南の気候や地勢に不慣れな曹操軍は疫病に苦しめられていたこともあって、不利を悟って撤退した。赤壁の戦いの前後に、孫権は10万の兵を率いて、百余日、合肥を攻撃したが、落とすことができずに撤退した。
戦後、劉備は劉表の長子の劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合した。また、孫権は劉備とともに南郡を攻め取り獲得し、劉備の上奏で徐州刺史・行車騎将軍に就任した。その後、程なくして劉琦が死去したために劉備自ら荊州牧となった。孫権と劉備は京城で会見し、赤壁から荊州争奪戦で獲得した領地の領有権について話し合った結果、劉備と協調して曹操に対抗すべきだという魯粛の提案により、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与えることとし、劉備は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなった。
210年(建安15年)、交州刺史の歩騭を派遣して、士燮を服属させ、呉巨を謀殺した。212年(建安17年)から翌年にかけて、曹操と濡須で交戦し、みずから出陣してこれを撃退した。曹操は「息子を持つなら孫権のような息子がいい」と周囲に語ったという。214年(建安19年)、呂蒙・甘寧を率いて曹操領の皖城を降し、廬江太守の朱光と数万人の男女を捕らえた。
孫権は合肥の戦いなどにあっては攻撃時は自ら陣頭に立ち、退却時には最後まで戦場に残って退却の指揮を執るなど勇猛果敢であったが、それが過ぎて軽率である場合もあり、命を落としかけたことも幾度かあった。また張遼の言によると、武芸においては馬をよく操り、騎射が得意であったという。
劉備が益州刺史の劉璋を攻め降して益州を領有すると、孫権は劉備に荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求した。しかし、劉備は涼州を手に入れてから荊州の全領地を返すとして履行をさらに延期した。業を煮やした孫権は3郡を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、呂蒙ら軍隊を派遣し、長沙・桂陽・零陵を奪ってしまった。劉備も大軍を送り込み、全面戦争に発展しそうになったが、曹操が漢中に侵攻したので、劉備は孫権と和解し、長沙・桂陽を孫権に返還し、同盟友好関係が回復した。
217年、曹操が濡須を攻撃したため、呂蒙を大将に任命して防がせた。山越も曹操に呼応して挙兵したが、賀斉と陸遜に命じて撃破した。曹操との戦線が膠着すると孫権は曹操に形式的に臣従を申し入れたため曹操軍は引き揚げた。
劉備が益州と荊州の半分を支配して勢力を拡大する中、219年(建安24年)、荊州の守備を任されていた関羽は軍を率いて北上した。孫権は同時期に合肥を攻撃していたが、荊州が手薄になった隙をついて曹操の誘いに乗り、呂蒙に荊州を奪わせ、退路を失った関羽を捕らえて処刑した。
三国鼎立
荊州の奪取によって劉備と敵対した孫権は、死去した曹操の後を継いだ曹丕に接近した。後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国した曹丕の皇帝位を承認し、形だけ臣下の礼をとって呉王に封ぜられた。北方の安全を確保した孫権は、222年(黄初3年)、荊州奪還のために東進してきた劉備率いる蜀漢軍を夷陵の戦いで大破し、荊州の領有を確実にした。孫権は劉備が白帝に留まっていると聞き、使者を派遣して和睦を請うた。劉備はこれを許可し宗瑋・費禕らを何度も派遣して答礼させた。これによって、三国の領域が確定した。蜀漢を破り和睦したため、魏と同盟する必要のなくなった孫権は、形式上臣従していた魏から離反し、黄武という独自の元号を使い始めた。この年が呉の建国の年とされる。失意の劉備が死去すると、諸葛亮は孫権が劉備の死去を聞けばたぶん異心を抱くだろうと深く心配していたが、鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整えさせた。こうして翌223年(黄武2年)、蜀漢と再び同盟した。以後、呉は蜀漢と結んで魏に対抗し、諸葛亮の北伐など蜀漢の動きに呼応してたびたび魏へ侵攻した。このように、孫権は巧みな外交によって勢力を拡大・維持した。
222年から223年にかけて、呉は3方向から魏に攻められ苦戦したが、朱桓が曹仁を破り、疫病が流行したため、魏軍は退却した。
224年(黄武3年)、魏は再び攻めてきたが、徐盛が長江沿岸に偽の城壁を築いていたため、これに驚いた魏は戦わずして退却した。
226年(黄武5年)、孫権は呂岱を派遣して、士徽の反乱を鎮圧し、交州の支配を強化した。同年、孫権・孫奐・鮮于丹は江夏を攻め、諸葛瑾は襄陽を攻め、孫奐・鮮于丹は高城を落としたが、諸葛瑾は司馬懿らに敗れ、孫権らは撤退した。
228年(黄武7年)、周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出した。陸遜は朱桓・全琮を率いて曹休と戦い、大勝した(石亭の戦い)。
229年には皇帝を称し、呉の初代皇帝(太祖)となるとともに、元号を黄龍と改めた。
234年(嘉禾3年)、蜀軍との同盟により、諸葛亮の北伐と共に荊州と合肥を攻めるが、満寵に苦戦し、曹叡の親征軍が来ると聞くと撤退した。この年から3年間、諸葛恪・陳表・顧承らを派遣して揚州の非漢民族である山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士として6万人徴兵した。
236年(嘉禾5年)に五銖銭500枚、238年(嘉禾7年)に五銖銭1,000枚の価値を持つ貨幣を発行した。
晩年
孫権は229年(黄龍元年)に呉王朝の初代皇帝に即位した。即位の翌年、陸遜の反対にもかかわらず、兵1万をもって、夷州と亶州の捜査を行わせた。しかしこの捜査は失敗に終わり、孫権は部下を処刑した。233年3月、顧雍・陸遜・張昭ら重臣の諫止を聞かず、公孫淵の内通を真実と信じ、彼に九錫の礼物と策命書を届けるのに兵1万を動員した。結果は家臣の予想通り、公孫淵は孫権が派遣した使者を斬り、恩賞を奪った上で魏に寝返ってしまった。激怒した孫権は自ら公孫淵征伐を行おうとしたが、薛綜ら側近達の諫止により思いとどまった。また佞臣とされる呂壱を側近として重用したり(後に悪事が露見して処刑)、王表という神を信じて福を求めたりするなどの失敗が目立つようになった。
241年(赤烏4年)に、朱然や諸葛瑾に命じて、大軍で魏を攻めたが、結局大きな戦果は得られなかった。皇太子であった長男の孫登が33歳で病没すると、孫登の遺表により3男の孫和が太子に指名された。しかし孫権は当時寵愛していた4男の孫覇を孫和と同等の処遇としたため、立太子を期待する孫覇派と、廃太子を防ごうとする孫和派との対立を招いた。後継者をめぐる家臣たちの対立は泥沼化し、やがてそれに嫌気が差した孫権は末子の孫亮を寵愛し出す様になり、250年(赤烏13年)に結局両者を排して彼を太子に立てた。この10年に渡る対立は、家臣団の間に大きな亀裂を生んだほか、太子を擁護した丞相の陸遜が憤死したのをはじめ、多くの家臣が処刑・自殺・追放に追い込まれ、呉という政権の求心力を大きく低下させた(二宮事件)。のちに孫権は、死の床で孫和の無実を悟り、彼の名誉を回復しようと考えたが、孫和を憎悪していた娘の孫魯班の讒言により思いとどまっている。
252年(神鳳元年)、危篤になると、諸葛恪・孫弘・孫峻・滕胤・呂拠らに後事を託し、4月16日、孫権は死去し孫亮が皇帝となった。
陵墓
評価
時勢を読んだ外交を始めとして思慮深さを見せる人物であったが、一方で感情のままに行動を取り部下から諌められた逸話が複数残っている。正史『三国志』の著者の陳寿は、呉主伝の中で「身を低くして恥を忍び、才能の有る者に仕事を任せ、綿密に計略を練る等、越王勾践と同様の非凡さを具えた、万人に優れ傑出した人物であった(屈身忍辱、任才尚計、有勾踐之奇、英人之傑矣。身を屈して恥を忍び、計を重んじ、勾践の奇英あり、人の傑なり)。」と褒める一方、「ただその性格は疑り深く、容赦なく殺戮を行い(然性多嫌忌、果於殺戮(然れども性は嫌忌多く殺戮に果なり))、晩年に至ってはそれが愈々募った。」と批判している。その上で「その結果、讒言が人々の正しい行いを断ち切り、跡嗣ぎ(孫和)も廃され殺される事になった。子孫達に平安の策を遺して、慎み深く子孫の安全を図った者とは謂い難い。その後、代が衰微しやがて国が滅びる事になるのだが、その遠因が彼のこうした行いになかったとは言い切れない」と締めている。また下記の逸話にもあるように無類の酒好きで、部下に酒を勧めるときは、酔い潰すまで飲ませる悪癖を持っていた。酔いつぶれた者に水をかけて叩き起こし、さらに飲ませるという行為にも及んでいたという。
逸話
孫権は呉王に封建されると酒宴を開いて自ら酒を注いで回ったが、虞翻は酔い潰れた演技でやり過ごし、孫権が去るとすぐに居住まいを元の如く正した。孫権は大いに怒り、かつて曹操が孔融を処刑した例を引き合いに虞翻を斬ろうとしたが、大臣の劉基が理を尽くして諭した為に遂に虞翻を許した。後に酔いが醒めた孫権は自分の行いを大いに悔い、「以後は酒宴の場で自分が下した命は無効とする」と触れを下した(『虞翻伝』)。
年譜
- 196年(建安元年) - 15歳のとき、朱治によって孝廉に推挙される。
- 200年(建安5年) - 急死した兄孫策から後継者に指名され、19歳で家督を継ぎ、江東一帯の主となる。曹操の上表により会稽太守・討虜将軍に任じられる。任地には赴かず、呉(現在の蘇州)に本拠を構える。
- 208年(建安13年) - 父の仇である黄祖を討ち取る。曹操に大軍で攻められ家臣には降伏を奨められるも劉備と同盟し、赤壁の戦いに勝利する。
- 209年(建安14年) - 妹を劉備に嫁がせる。
- 210年(建安15年) - 歩隲を交州刺史とし、士燮を服属させた。
- 212年(建安17年) - 本拠地を秣陵に移し、建業と改名。石頭城を改装。
- 215年(建安20年) - 劉備から長沙・桂陽を割譲(返還)される。曹操領の最前線合肥を攻めるが、逆に曹操軍の張遼に捕捉寸前にまで追い詰められる(合肥の戦い)。
- 216年(建安21年) - 濡須口の戦い 前年の合肥の戦いの勝利に乗じて曹操が侵攻してくるも、これを食い止める。
- 219年(建安24年) - 劉備と手を切って曹操と同盟を組み、関羽を討ち取って悲願であった荊州の奪取に成功。曹操の上表により驃騎将軍・荊州刺史に任じられ、南昌侯に封じられる。
- 220年(建安25年/延康元年/黄初元年) - 春正月、曹操が逝去。曹丕が代わって丞相・魏王となり、三月に延康と改元する。冬、曹丕が皇帝を名乗り、年号を黄初と改める。
- 221年(黄初2年) - 四月、劉備が蜀において帝を称する。 本拠地を鄂に移し、武昌と改称する。十一月、魏の朝廷から策命を下され呉王に封じられる。劉備が軍を率いて攻め寄せ、武陵の異民族たちを蜀につくよう誘いかける。孫権は陸遜を総指揮官に命じ、朱然や潘璋らを指揮して進出を防ぎ止めさせる。孫登を王太子に立てる。
- 222年(黄武元年) - 正月から閏六月の間に劉備を夷陵の戦いで破る。九月、呉は3方向から魏の侵攻を受ける。改元を行い「黄武」の元号を立てて、魏から独立する(実質的な呉の建国年)。十一月、大風により溺死する者が数千名にのぼる。曹休が臧覇に命じ徐陵を襲撃させる。全琮と徐盛はこれを追撃して魏の部将尹盧を斬る。 十二月、鄭泉を使者に立てて白帝にいる劉備を聘問(へいもん)し、友好関係を回復するも依然として魏の文帝とも往来があり、次の歳になってからその交わりは絶たれる。
- 223年(黄武2年) - 三月、魏の軍がすべて撤退する。四月、群臣たちが孫権に帝位に即くようにと勧進する。劉備が白帝で逝去し、馮熙を公式の使者として弔問を行わせる。十一月、蜀の使者鄧芝と面会し、呉蜀同盟を結び魏との同盟を破棄する。
- 224年(黄武3年) - 夏、張温を公式の使者として蜀に送る。
- 228年(黄武7年) - 呉の周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出し、呉の陸遜らは曹休と戦い勝利する(石亭の戦い)。
- 229年(黄龍元年) - 皇帝に即位。建業に遷都する。
- 230年(黄龍2年) - 将軍の衛温・諸葛直らに兵1万を率いさせ、夷州および亶州(台湾、沖縄、もしくは日本という説が存在)の探索を行わせる亶州には辿り着けず、夷州の数千人を得るだけで、派遣した兵の大部分を失う。翌年、探索失敗により衛温・諸葛直らを処刑する。
- 233年(嘉禾2年) - 公孫淵に九錫を賜り、燕王に封じる。しかし使者の張弥と許晏を殺され、その首は魏に送られた。
- 237年(嘉禾6年) - 諸葛恪らを派遣して揚州の非漢民族である山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士として6万人徴兵した。
- 250年(赤烏13年) - 二宮事件(孫和派と孫覇派の家督争い)を決着させる。
- 252年(神鳳元年) - 71歳で死去。蒋陵(現在の紫金山南麓。孫権墓・梅花山とも呼ばれ、墓標や石像が残る)に葬られる。
家系図
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続柄
父母
- 父
- 母
- 呉郡の出身。弟に呉景がいる。死後、皇帝に即位した孫権に武烈皇后と追号される。
后妃
- 謝夫人(しゃふじん、生没年不詳)
- 会稽郡山陰の出身。呉夫人が選んだ女性で、孫権の最初の妻であると目される。後に徐夫人と反目し、孫権の寵愛も薄れて早世する。弟の謝承は記録に残るうち最も古い『後漢書』を執筆した。
- 徐夫人(じょふじん、生没年不詳)
- 呉郡富春の出身。孫堅の妹の孫で父は徐琨。孫権に嫁ぐ前は陸尚(陸康の孫)の妻だった。陸尚が亡くなった後、孫権が討虜将軍として呉郡に住んでいた頃に結婚し、孫登の養母となる。しかし、嫉妬深い性格から離縁され、孫権が本拠地を移した後も呉郡に住み続けた。孫登や群臣たちは彼女を皇后に就けるよう進言したが、孫権は拒んだ。孫権が帝位に就いた後病死した。
- 歩夫人(ほふじん、? - 238年)
- 徐州臨淮郡淮陰の出身。歩隲の同族。孫魯班・孫魯育姉妹の生母。最も寵愛され、孫権は立后を望むも、群臣が孫登の養母である徐夫人を推していたために取りやめになった。しかし宮中では彼女は皇后と呼ばれ、死後孫権から正式に皇后の位を追贈された。孫権とともに蒋陵に葬られる。『建康実録』によると、諱は練師(れんし)。
- 王夫人(おうふじん、生没年不詳)
- 徐州琅邪郡の出身。孫和の生母。父は王盧九。息子の孫和が皇太子に立てられると、他の愛姫を皆外に出してしまった。孫魯班に疎まれ失意のうちに亡くなる。死後、孫皓によって大懿皇后の号を授けられる。
- 王夫人(おうふじん、生没年不詳)
- 荊州南陽郡の出身。孫休の生母。孫和が皇太子に立てられると後宮から地方に出された。公安で死去。死後、孫休に敬懐皇后の号を授けられ、敬陵に改葬される。
- 潘夫人(はんふじん、? - 252年)
- 会稽郡句章の出身。孫亮の生母。父は元役人だったが法を犯して死刑になっており、姉と共に官婢となって織室に居た所を偶々孫権の目に留まり後宮に召し上げられ孫亮を産み、亮が太子となった翌年(251年)立后された。生前に孫権の皇后となった唯一の人物。
- 彼女は嫉妬深い上に媚びが上手く、袁夫人(袁術の娘)ら多数の妃を陥れ殺害した。孫権が重体になると、前漢王朝の呂后が夫高祖(劉邦)の死後に政権を掌握した経緯を調べさせた。しかし宮女たちに憎悪され、翌年2月、看病疲れで寝込んでいる間に宮人達が皆で彼女を縊殺、蒋陵に合葬された。
そのほか、袁夫人、謝姫(孫覇の母)、仲姫(孫奮の母)、趙夫人(『三国志』には名が見えないが、六朝期の画家とされる。刺繍が得意で「呉宮の三絶」との言葉を生んだ)といった名が見える。
子
- 男子
- 女子
- 孫魯班(そんろはん、生没年不詳)
- 孫魯育(そんろいく、? - 255年)
- 通称を朱公主、字は小虎。朱拠に嫁いだことから朱公主と呼ばれた。後、劉纂に嫁ぐ。255年、孫峻打倒のクーデターに失敗し、首謀者のひとりとして殺された。
そのほか、劉纂に嫁いだ娘がいる。
関連項目
参考文献
- 陳寿、裴松之注『正史 三国志』、井波律子・今鷹真・小南一郎 訳・解説(ちくま学芸文庫全8巻、1992 - 93年)、※呉書は6・7・8巻、小南一郎訳。
- 王敏 編『中国歴代王朝秘史事典』、河出書房新社、1999年、ISBN 4-309-22339-7。
- 金文京『中国の歴史04 三国志の世界』、講談社、2005年、ISBN 4-06-274054-0。
脚注
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