交州

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交州(こうしゅう)は、古代中国において現在のベトナム北部を中心に置かれた行政区域。武帝が置いた十三刺部の一つ、交趾に由来する。

漢代

前111年元鼎6年)、漢朝南越国を滅ぼすと、その故地に交趾刺史部を設置し、十三刺部の一つとした。当時の交州は漢朝最南端の領域であり、下記9郡を管轄した。

後漢初期には徴姉妹による独立政権が3年間存在したが、間もなく馬援により平定され中原の統治下に組み込まれた。192年初平3年)、チャム族区連が日南郡象林県令を殺害し自立、日南郡の大部分を勢力下に収めチャンパ王国を立て、漢朝とは順化県を境界としている。

203年建安8年)、後漢朝は交趾刺史部を交州と改称、広信県(現在の広西チワン族自治区梧州市)を州治とし、後に番禺県広東省広州市)に遷り、現在の広東省・広西省の大部分とベトナムのトゥアティエンフエ省以北の地域を統轄した。

三国時代

後漢末の混乱期、交州は士燮の統治を受けた。中原に比べ比較的安定していたため中原より多くの人士が移住し中原文化を伝え交州の発展に寄与し、また続く三国時代では各政権に登用され中国史に大きな影響を与えている。

211年建安16年)、劉備益州攻略に際しては歩騭を交州刺史に任命し、交州を呉の勢力下においている。223年章武3年)に劉備が薨去すると士燮は益州の豪族であった雍闓を離反させ呉に帰順させることに成功している。226年黄武5年)に士燮が死去すると現在の広西チワン族自治区北海市合浦を境界に、北部に広州を新設した。呂岱、戴良をそれぞれ広州、交州刺史とし、士燮の子である士徽を九真太守としたが、その待遇に不満を有す士徽が反乱、呂岱は交州及び九真に攻め入り反乱を平定するとともに、再び広州と交州が統合されている。

263年炎興元年)、が滅亡した。これより先、交州で呂興が反乱を起こし、の支援を獲得しようとした。魏は元蜀漢の将軍の霍弋に対処させた。呂興はまもなく内輪もめで功曹の李統に殺されたが、霍弋は爨谷、馬融を相次いで派遣した。呉は即座に攻略できないとみて、広州を再設置して魏に備えた。西晋が成立すると、病死した馬融の後任として楊稷を派遣し呉の大都督であった薛珝、蒼梧太守の陶璜を退け、西晋が交州の支配権を確立している。しかし271年(西晋の泰始7年、呉の建衡3年)、陶璜が守将の楊稷を降伏させ、再び交州は呉の支配下となった。

279年、広州の郭馬が呉に反乱を起こすと、交州にも反乱軍が侵攻した。呉は鎮圧できないまま西晋の侵攻を招き、280年に呉は降伏、中国は西晋によって再統一された(呉の滅亡)。

両晋南北朝時代

280年太康元年)に西晋が中国を統一して以降、交州は南朝各朝代により統治された。南朝以降は南は愛州・徳州に分割され現在のゲアン省とトゥアティエンフエ省境界まで、東は越州・安州に分割され広西省南流江の河口まで境界が遷り、以後は紅河デルタ一帯のみの領域に限られた。542年大同8年)には竜興県李賁が反乱、544年天徳元年)には「万春」を建国している。しかし翌年梁朝の陳霸先により反乱は鎮圧された。

隋唐代

571年太康3年)、李仏子が交州で自立したが、後に隋朝に帰順することを拒絶したため隋軍により捉えられ長安に護送、以降交州は隋朝の統治を受けることとなった。

唐朝が成立すると嶺南地方は交州広州桂州容州邕州の5都護府に分割され「嶺南五管」と称されている。624年武徳7年)には交州都督府と、679年儀鳳4年)には安南都護府と改称され、以降交州は安南と称されることとなった。

関連項 目

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