陸康
陸 康(りく こう、126年 - 195年)は、後漢末期の人物。字は季寧。祖父の陸続は、後漢書独行伝に伝が立てられている。父は陸褒。子に陸儁・陸績。孫に陸尚(孫権の徐夫人の前夫)・族孫に陸遜がいる。
呉郡呉県(現在の蘇州市)の人。若いころ義烈を以って称えられ、刺史の臧旻により茂才に挙げられ、渤海郡高成県令となった。治績を評価されて光和元年に武陵太守となり、つづいて桂陽・楽安の守りを評価された。
霊帝の時代、銅銭を鋳造する財源を確保するため、耕地に税をかけようとしたことに反対し、上表した。しかしその表現について大不敬であるとの讒言を被り、檻車によって廷尉に引き渡された。侍御史の劉岱がこれを担当し、釈明したために免官で済み、後に召されて議郎となった。
霊帝の末ごろに、揚州廬江郡の賊である黄穰らが、隣接する荊州江夏郡の蛮夷ら十余万と結び、乱を起こしたため、朝廷は陸康を廬江太守として派遣した。陸康は賞罰を明らかにして黄穰らを撃破し、残りの者の降伏を受け入れ乱を鎮めた。
献帝が即位すると天下は大いに乱れたが、陸康は困難を冒して孝廉と計吏を送った。詔書によって忠義将軍の官を加えられ、秩石は中二千石だった。194年、寿春を本拠としていた袁術が、徐州牧陶謙の死に乗じて徐州を攻めようとし、陸康に兵糧の援助を求めてきたが、陸康はこれを拒絶し交戦状態となった。 陸康は袁術が送り込んできた孫策率いる袁術軍に、廬江郡の治所である舒を囲まれる。足掛け2年にわたる包囲のあと、舒は陥落、陸康はその1月ほど後に病に斃れ死去した。享年70。宗族百余人は離散し、飢えに晒されて半数近くが死亡した。 朝廷はその守節を哀れみ、子の陸儁を郎中とした。[1]
攻撃前に逃れた親戚達は陸遜の統率で揚州へ戻り、後に一族を挙げて孫権に仕えることになった。