陸績

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陸 績(りく せき、188年 - 219年)は、中国後漢末期の政治家学者武将公紀呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)の人。陸襃の孫。陸康の子。陸儁の弟。陸尚(徐夫人の前夫)の年少の叔父。呉の名門である陸氏の一族で、同族には陸遜がいる。

生涯

父の陸康は後漢末期に廬江(現在の江西省廬江県)の太守を務めていたが、寿春(現在の安徽省六安市寿県)に勢力を張った袁術への対応を迫られることとなった。193年、陸績は袁術の下にいた時、食事として出された蜜柑を母親に食べさせたいと思い、隠して持ち帰ろうとし、それを知った袁術が陸績の聡明さに感嘆したという逸話がある(二十四孝)。

後に陸康は袁術と対立し、袁術の部将であった孫策に攻められた。長期の攻城戦で一族の多くが死亡する被害を受け、自身も降伏した直後、その心労から病死した。陸績は一族の長となった陸遜に引き連れられ呉郡に避難していたが、やがて江東を席捲した孫策に仕えるようになった。張昭張紘秦松といった幕僚たちの末席に位置したが、それでも孫策に堂々と意見をしたため、張昭に感心された。

陸績は風貌は凛々しく、博学多才の読書家で知識が広く、中でも天文と暦学に通じており、年長である龐統虞翻とも堂々と交際した。

孫権に招かれて奏曹掾となった。清廉な性格で、孫権に対しても正しいと思うことは何でも諫言したことから、孫権に疎んじられ、中央から退けられて鬱林太守(現在の広西チワン族自治区)に左遷され、2千の兵を率いる立場となった。陸績は足が不自由で学者としての仕事を望み、『渾天図』を作り『周易』『太玄』に注をつけるなど、著述活動に励んだ。

南方の軍役に従事する中で病を得て死去した。33歳であった。自らの死ぬ日を予測し、自分で自分の辞を作った。その中で、自分の死の60年後に中国大陸が統一される事を予言していた。

陸績には宏・叡という男子と鬱生という女がいた。陸宏は会稽南部都尉、陸叡は長水校尉となった。陸鬱生は陸績が鬱林へ赴任した後に生まれ、張温の弟の張白に嫁いだ。聡明な慎み深い女性で、後に張白が政争に巻き込まれて配流された後も、毅然と夫への貞操を守り抜き、決して再婚しようとしなかったという。

天文と暦学に通じていた陸績は、孫権の命によって当時最新の暦を作った。これによって、よりも精確な暦を使用することができ、同時にこれは、魏に対する牽制ともなった(暦の作成は皇帝のみ保有する権利であったため)。

小説『三国志演義』では、孫権の時代に集まった人材の一人として名が挙がる。赤壁の戦いでは降伏派の家臣の一人として登場し、諸葛亮が孫権を曹操と戦わせるため、説得の使者として訪れた際、多くの降伏派の群臣達と彼に論戦を挑むものの、諸葛亮に袁術の前で蜜柑を盗んだ過去をからかわれた上で論破されている。