ホバークラフト
ホバークラフト(英語:hovercraft)は、平坦な面であれば地上・水上・雪上を区別無く進むことのできる乗り物である。この呼称は商標であり、一般呼称はエアクッション艇 (air-cushion vehicle: ACV)または空気浮揚艇。工学上は航空機に分類されるが、日本の法律では主に水上走行することから船舶に分類される。
図鑑や新聞では「ホバークラフト」と呼称される事が多い。大分をはじめ運航された地域では建造元である三井造船が「ホーバー」と呼んだため、「ホーバー」の呼称が一般的である。
仕組み
ホバークラフトは上から吸い込んだ大量の空気を艇体の下に吹き込み続けることで浮上する。艇体下部はスカートと呼ばれる合成ゴム製のエアクッション用側壁が四方に垂れ下げられており、吹き込まれた空気を十分な高さで保持する。この側壁下部と水面または地面との隙間から常に空気が漏れ出ることにより完全に艇体の全てが空中に浮かぶため、平坦な面上では接触抵抗が全く発生しない。この隙間より大きな凹凸でもスカート部によって作られたエアクッションの高さまでは、金属製の艇体に接触することが避けられる。
スカート部への空気の圧縮を止めれば、エアクッションが失われて艇体の底部がそのまま水面または地面と接触する。水上でそのような事態が起きても水中へ沈まないように、艇体は船と同様の水密構造を備える。
ほぼ全ての機種では飛行機のように空気を押すことで推進力を得るためのプロペラを備えるが、例外的に水中にスクリュー・プロペラをもつ機種もある。浮上しているため水面や地面の抵抗を受けずに高速に航行できる。平坦な場所であれば陸上でも使用できるが沼地以外では凹凸が障害となるために、実際には水上で利用されることが多く、ほとんどは船舶としての扱いを受ける。ゼロ速度飛行機の一種である。
長所と短所
- 長所
- 水陸両用で、特に他の乗り物では航行や走行が困難な浅瀬や湿地でも、エアスカートの高さ程度までの凹凸なら速度を落とさずに移動できる
- 通常の船舶よりはるかに高速である
- 水中や地表の環境に与える影響が少ない
- 機雷、魚雷、地雷が反応しにくい
- 短所
- 浮上と推進に大量の空気を圧縮・加速し続けるために、多くのエネルギーを消費して燃費が悪く騒音と振動も大きい
- エアクッションによって船体を支えるため、2乗3乗の法則による制約を受けて大型化が難しい
- 波浪や強風など悪天候に弱く英仏海峡では大きな事故を経験した
- スカートに大きな破損を受け、エアクッションが失われると、浮揚に障害を生じる (大型艇のスカート部は小分けされているため軽微な損傷による影響は無い)
- 半消耗品であるスカートの維持交換コストも運用費を押し上げる。
- 操縦に特殊な技能が要求される
- わずかな斜面でも直進性が失われるため、陸上での運用には制約が大きい
- 保守を行なう港湾には上陸用斜面が求められる
- 特に民生分野では、水陸両用車と同じく水上、陸上でそれぞれ異なる規制・法律が適用されるため、水陸両用の特性を発揮しにくい
商標
「Hovercraft」は、イギリスのブリティッシュ・ホバークラフト社 (British Hovercraft Corporation) の商標であるが、同社が一般名称としての使用を認めているため、正式名称である「Air-Cushion Vehicle」 (ACV=エアクッション艇) よりも「Hovercraft」や「ホバークラフト」と呼ばれる方が普通になっている。
用途
民間旅客用
開発当初、ホバークラフトは高速性や水陸両用などの特性から「夢の乗り物」、近未来の交通機関として注目された。一例として、1973年刊行の小説『日本沈没』(小松左京著)にも、ホバークラフトが日本の交通機関として一定の成功を収めている「未来」が描かれている。実際には特に1960~70年代にかけて民間航路への投入が相次いだが、次第に前述の様々な短所(騒音・振動、高い運航コスト、悪天候に弱い、他の船舶と桟橋を共用できず、上陸用スロープなど専用の設備が必要となる、など)が浮き彫りとなり、徐々に民間航路からは駆逐されていった。2001年以降はホバークラフトの民間定期航路はわずかにイギリスに残るのみとなっている。
イギリス
発祥の地イギリスでは、英仏間のドーバー海峡で海上高速輸送を実現するため、1966年にホバーロイド社が、複数の連絡航路でホバークラフトを就航させ、各地に専用発着場(Hoverport)が作られた。中には発着場のすぐ脇を通る列車から直接乗り換えられるように、専用駅が作られているケースもある。当初はブリティッシュホバークラフト(BHC)社建造ののSRN6型艇による旅客のみの運航だったが、数年で車載が可能な大型のSRN4型艇を導入した。1968年には、イギリス国鉄(BR)もフランス国鉄(SNCF)の協力のもと、シースピード社を立ち上げ、SRN4型艇による運航を始めた。一時期はフランス国鉄がセダム社建造によるフランス製ホバークラフトN500型艇を提供したが、故障が多く数年で引退している。1981年、経営効率化のためホバーロイドとシースピードの両社は合併し、新たにホバースピード社が設立され、運航を引き継いだ。複数あった英仏連絡航路は、やがてドーバー・カレー間に一本化された。ユーロトンネル開通後も活躍を続けたが、ホバークラフトの艇体老朽化とシーキャット型高速船への置き換えに伴い、2000年10月を以てホバークラフトの運航を終了した。最後まで残った2隻のSRN4型(プリンセス・アン号とプリンセス・マーガレット号)は、イギリスのホバークラフト・ミュージアムで展示保存され、公開中である。 イギリス国内で唯一残る定期航路は、ポーツマス海岸の駅前からワイト島への連絡用にホバートラベル社が運航する便で、API-88型艇により現在も旅客輸送を続けている。
北欧
冬場に海面凍結がある北欧では、ホバークラフトが利用された。デンマークのコペンハーゲン国際空港と海を隔てて対岸のスウェーデンのマルメの間は連絡橋が開通する以前に、SASスカンジナビア航空のホバークラフトが運航された。API-88型艇による運航だったが、カタマラン型高速船への置き換えによって運航終了となった。
中華人民共和国
中華人民共和国では、黄河の観光遊覧用に一時期用いたが、到着時には船体が泥で真っ黄色になり、毎便の運航前に洗い流し作業が必要だったという。
香港では、イギリス統治下の1970年代に、香港油麻地フェリーがブリティッシュ・ホバークラフト社製のホバークラフトを大量に購入し、中環 (セントラル) から香港市街地内の美孚、尖沙咀東部 (チムサーチョイ・イースト)、北角 (ノースポイント)、太古城、柴湾、観塘や、ニュータウンの荃湾、青衣、屯門、黄金海岸、離島の長洲島、ランタオ島、坪洲島などへの航路を相次いで開設し、香港市民の日常的な交通手段として発達させた。 しかし、地下鉄や新たな海底トンネルの開通によって乗客を奪われ、2000年までにこれらの航路はすべて廃止された。 また香港からマカオや、広州、蛇口 (深圳) への航路にもホバークラフトが就航したが、現在では別の高速艇に置き換えられた。
日本
日本では、かつて宇高航路や大分空港航路等、各地で運航されていたが徐々に廃止され、最後に残った大分空港航路の廃止に伴い2009年10月末を以てホバークラフトによる民間定期航路は全て消滅した。
軍事用
普及が進んでいない民生分野と異なり、軍事用のホバークラフトは徐々に活躍の場を広げつつある。民生分野では障害となった前述の欠点は、軍事分野ではさほど問題とはならず、逆に高速性や、一般の船舶では侵入が難しい浅瀬や海岸での行動の自由など、軍事作戦の幅を拡大させる長所が注目された。軍事用ホバークラフトはかつては主に近海・浅海域や河川の哨戒などに投入されていたが、大型・高性能化するに従い上陸作戦にも応用されるようになっている。
哨戒用
ベトナム戦争中に米海軍が水陸両用の新兵器として、Patrol Air Cushion Vehicle (PACV)の名称で数隻を実戦に試験投入した。投入されたのはサンダース・ローSR.N5をライセンス生産したベルSK-5で、一種の河川哨戒艇であったが、大騒音によって敵に事前に察知されやすいこと、ゴム部分に被弾するとすぐに行動不能になるなど艇体が脆弱であることがデメリットとされた。さらには陸上運用も可能であることが米陸軍との確執を生んで評価は芳しくなく (陸軍も試験運用した)、結局、本格的に運用される事は無かった。
しかし、現在でもイギリス、グリフォン・ホバーワーク製のホバークラフトは各国海軍、沿岸警備隊に納入されているほか、中国人民解放軍海軍もこの発想に近いと思われる小型のホバークラフト724型 (戦車揚陸艦に搭載可能) を運用する。
イギリス製のホバークラフトは革命前のイランにも輸出され、イラン海軍に配備された。革命後は支援途絶により非稼動とも考えられたが、一部はイラン・イラク戦争当時から現在に至るまで、ペルシャ湾沿岸における同軍の哨戒・兵員輸送に活用されているという。
揚陸用
21世紀現在、軍事用ホバークラフトは揚陸時の輸送任務においても大きな役割を担っている。ホバークラフト(エア・クッション型揚陸艇)は従来型の揚陸艇よりも遥かに高速で侵攻できるほか、上陸可能な海岸線も拡大するため、揚陸作戦に柔軟性をもたらすことが可能となる。従来の小さいペイロードでは人員や軽車両の運搬がせいぜいだったが、技術の向上により艇体が大型化すると、重量のある主力戦車などの輸送も可能となり、揚陸作戦への本格的な投入が実現した。
米海軍や海上自衛隊では、輸送艦や強襲揚陸艦に搭載し、上陸用舟艇として利用する。軍事用ホバークラフトでは代表的なLCAC-1級エア・クッション型揚陸艇の場合、50トンを超える主力戦車を1両運搬するだけの能力を持つ。韓国海軍や中国人民解放軍海軍も、それぞれLCAC-1級に類似した揚陸艇を製造し、ドック型揚陸艦に搭載している。
ソビエト海軍でも輸送用の大型ホバークラフトを開発・運用したが、西側諸国とはまた異なる発展を見せた。大別して大型の揚陸艦に搭載される「舟艇型」と、独立・独航して揚陸輸送を行なう「高速揚陸艦型」の2種があり、後者の代表としてはアイスト型、ポモルニク型が存在する。いずれも登場当時は世界最大の軍事用ホバークラフト(エア・クッション型揚陸艇)であり、多連装ロケット弾発射機など相当な武装も施されている。一部はギリシャ、韓国にも輸出されている。
一方、舟艇型としてはイワン・ロゴフ級揚陸艦に搭載可能なレベド(レベッド)型、ムレナ型が開発されたが、イワン・ロゴフ級の活動が低下するに従い陸上基地で運用されるようになり、2012年現在、発展は停滞している。なお、これらの中型ホバークラフトにも機関砲などの武装が施されている点も、西側とは異なる思想が窺われる。
救難・救命用
ホバークラフトを救難・救命用として活用している例もある。グリフォン・ホバーワークス社は空港での飛行機事故に対応した救難ホバークラフトを提案しており、シンガポール・チャンギ国際空港やブラジル・リオデジャネイロ国際空港などでの導入実績がある。また、同社は遠隔地医療へのホバークラフトの応用も提案している。イギリスの海難救助団体RNLI(Royal National Lifeboat Institution)傘下のRNLIホバークラフト・ライフボートでも、グリフォン・ホバーワーク・470TDをベースとした救命艇数隻を運用している。日本においても、研究者の間で災害時の救難用としてホバークラフトの利用・導入の提案が成されているが、具体化はしていない[1]。
レジャー用
純粋なレジャー、レクリエーション用のホバークラフトも存在する。水上バイクなどと同様の1~3人乗り程度の小型艇で、日本ではオールジャパンホヴァークラフト社やAQM(アクアマリーン)社などが製造・販売を行っている。水上バイクと同じく高速でありながら、水陸両用性を併せ持っているため、愛好者も少なからず存在し、全国横断的な団体(全日本ホバークラフト協会)も組織されている。これも水上バイクと同様、サーフィンなどのイベントにレスキュー用として用意される例もある。
その他の用途
カナダではホバークラフトが砕氷船に使われている。特別の砕氷設備は必要なく、氷上を走行するだけで自重により氷が割れる。
歴史
1877年にイギリスの技術者テンプレート:仮リンクが地面効果で水の抵抗を軽減させることを考案し、模型での実験に成功した。
最初の完全に動作した硬質な船底を持つホバークラフトは、オーストリアのテンプレート:仮リンク [2]が設計し、オーストリア=ハンガリー帝国海軍 (KaiserlicheでありKönigliche Kriegsmarineでもある) によって建造された"Seearsenal" である。1915年に完成した。全長13m、全幅4m、5人乗りで32ノットだった。初期のホバークラフトの研究、開発はオーストリア=ハンガリー帝国で進められたが、財政難で中止された。
コンスタンチン・ツィオルコフスキー (Konstantin Tsiolkovsky) による論文 "Air Resistance and the Express Train"[1][2] (1927年) では、初めて科学的見地から地面効果と空気浮上の計算について執筆されていて、 それをもとにソ連の技術者であるテンプレート:仮リンクは空気浮上艇の開発を始め、1930年代半ばには約20隻の空気浮上による実験的な攻撃・魚雷艇を建造した。最初の試作機であるL-1はとても単純、双胴型で3機のエンジンを搭載した。2基の空冷式M-11航空機エンジンは水平に内蔵し、3基目は推進に用いた。実験では 130 km/hを記録した。当時の水上を航行する船舶では最も速い部類に入った。
21世紀現在、主流となっている軟質のエアスカートが付いている形式のホバークラフトを発明したのは、イギリスのクリストファー・コッカレルである。コッカレルは1952年にワイト島で1号艇を作り、1955年の試作品を民間の航空機メーカーや造船会社に持ち込んだが採用されなかった。そこでイギリス軍の支援の下で秘密裏にサンダース・ロー SR.N1を開発したが、1959年にプロトタイプを公開しドーバー海峡を横断するデモンストレーションに成功した。その後、高い波や障害物を越えられるよう、ゴム製のエアスカートを発明した。
日本における歴史
日本での定期航路は1967年、九州商船による熊本県の天草航路 (島原⇔熊本・百貫港⇔本渡) が初めてで、三菱重工が英国の技術導入で製作したSR.N6型艇「ひかり」を使用した。同艇は1967年1月に日本に到着したあと3ヶ月ほどテスト航海を繰り返したのち7月より商業運行が開始された。その後、伊勢湾航路の志摩勝浦観光船に移り、蒲郡・西浦・鳥羽の間と鳥羽・二見浦遊覧で就航した。昭和40年代は海上輸送の高速化に注目が集まっていた時期で、三井造船も強力なガスタービンエンジンを搭載したホーバークラフトを開発。日本海、伊勢湾、瀬戸内海、別府湾、鹿児島湾、八重山諸島、沖縄海洋博会場などを約80km/hで駆けめぐった。
そのうち、黎明期に建造されたMV-PP5型やMV-PP15型のエンジンには、ヘリコプター用を改良した石川島播磨重工業製の軽量、高出力のガスタービンエンジンが使用されたが、後の時代に建造されたMV-PP10型では経済性に優れるディーゼルエンジンが搭載されるようになった。
MV-PP5
1970年代からその姿がテレビや図鑑・雑誌によく登場したため、ホバークラフトと言えばMV-PP5の姿を想像する人が多い。三井造船千葉事業所にて建造。当初は50名程度の定員だったが、後に船体延長し70名程度の定員になった艇もある。延長型はMV-PP5 mk2と呼ばれた。ガスタービンエンジン1基を用いて浮上と推進を行っていた。一部は韓国へ輸出された。
かつては次の各地でMV-PP5による旅客輸送があった。
- 伊勢湾では、1969年から1979年まで名鉄海上観光船が蒲郡・西浦・伊良湖・鳥羽間で運航。蒲郡駅から路線バスに乗って竹島地区にあるバス停「ホーバークラフト前」で降り、そこから乗船していた。出航してまず 10 分で西浦温泉の桟橋に着き、そこを経由してさらに 35 分で鳥羽の港湾センター前 (旧ぶらじる丸の脇) の専用乗り場へ達した。便によっては伊良湖を経由した。志摩勝浦観光船の便と交互にダイヤが組まれていた。
- 大阪南港・徳島間では、1974年12月21日から1976年9月1日まで日本ホーバーラインが、所要 40 分で運航した。
- 国鉄~JR四国が、1972年から1988年まで岡山県の宇野駅と香川県の高松駅の間の瀬戸内海で運航した。当時、同じ区間を通っていた宇高連絡船だと1時間かかったところを僅か23分で結んだ。両駅とも当時は海に面していて、宇野駅ではホームの先端にホーバー乗り場があり、高松駅も駅舎すぐ脇の海際が乗り場だったので、列車からの乗り換えに便利であった。しかし瀬戸大橋が開通して列車で海を渡れるようになったため、その前日を以て連絡船と共に廃止された。
- 別府湾では、1971年から大分ホーバーフェリーが、大分・大分空港間でMV-PP5を運航していた。1995年までは別府・大分間の便もあった。末期の頃は日本唯一のホーバー航路として、MV-PP5の最後の活躍の場だったが、新型のMV-PP10へ置き換えが進み、2003年に最後の1隻がリタイアし、姿を消した。
- 鹿児島では、1972年から1977年まで空港ホーバークラフトが運航した。指宿から鹿児島、又は桜島を経由して錦江湾を北上、鹿児島空港からの道路が海とぶつかる加治木へのアクセスとしていた。加治木から空港へはバスや車での移動が必要であった。ここでは運航をフライトと称した。船体色は黄色一色であり、指宿での客の乗降は、潮の干満に応じて桟橋に接岸したり砂浜に上陸したりしていた。
- 沖縄の八重山諸島では1972年から1982年まで、八重山観光フェリーが、石垣島・黒島・小浜島・竹富島・西表島間で運航した。就航当初は港湾設備がなかった島もあり、簡素なベンチとタラップだけが置かれた砂浜に直接上陸した。現在も航路は残るが、ウォータージェット船に移行した。
建造されたのは以下の19隻。
- はくちょう (三井造船所有艇。国鉄宇高航路の予備艇だったが、後に岡山県の玉野海洋博物館で屋外展示されていた。老朽化のため1988年に解体。)
- はくちょう2号(三井造船所有艇。名鉄海上観光船にリースされていた。)
- はくちょう3号 (大分ホーバーフェリー 途中からmk2へ改造、1995年に解体。)
- ほびー1号 (大分ホーバーフェリー 途中からmk2へ改造、1991年に解体。)
- ほびー2号 (大分ホーバーフェリー 衝突・転覆事故により1976年に解体。)
- ほびー3号 (大分ホーバーフェリー 途中からmk2へ改造、1990年に解体。)
- かもめ (三井造船所有艇。国鉄にリースされ、宇高航路の初代ホーバーとして就航していたが、後に2代目の「とびうお」が就航すると、予備艇となった。1991年に解体。)
- こうりゅう<蛟龍> (八重山観光フェリー→引退後は西表島大原の竹富町離島振興総合センターで屋外展示されたが、1996年に台風被害で大破したため解体。現在はプロペラのみ展示保存されている。)
- エンゼル1号 (空港ホーバークラフト)
- エンゼル2号 (空港ホーバークラフト→大分ホーバーフェリー)
- 赤とんぼ51号→ほびー6号 (日本ホーバーライン→大分ホーバーフェリー 途中からmk2へ改造。最後まで残ったPP5であったが、2003年に解体。)
- 赤とんぼ52号→ほびー7号 (日本ホーバーライン→大分ホーバーフェリー 大分で一旦船籍登録されたが、他艇への部品取りに転用。)
- エンゼル3号 (空港ホーバークラフト)
- エンゼル5号 (空港ホーバークラフト→大分ホーバーフェリー 途中からmk2へ改造、2002年に解体)
- Hanchang No.1 (「ハンチャン1号」韓国で就航。38名乗り。)
- Hanchang No.2 (「ハンチャン2号」韓国で就航。38名乗り。)
- Hanchang No.3 (「ハンチャン3号」韓国で就航。39名乗り。)
- とびうお (建造時からmk2。国鉄が購入し「かもめ」に代わって宇高航路で就航。そのままJR四国に引き継がれたが、1988年の宇高航路の廃止後、1989年3月に建造元の三井造船が買い戻す。1991年に解体。)
- Hanchang No.4 (「ハンチャン4号」韓国で就航。39名乗り。)
既に全艇ともリタイアして解体されてしまい、現存しない。
MV-PP15
MV-PP5の大型化を目指し、1970年代に以下の4隻が建造された。旅客定員155名で、ガスタービンエンジン2基を搭載した。操縦席が2階にあり、客室にはトイレもあった。
- しぐなす (当初は三井造船所有艇→日本海観光フェリー)
- しぐなす1号 (当初は三井造船所有艇→琉球海運)
- しぐなす2号 (当初は三井造船所有艇→琉球海運)
- しぐなす3号 (当初は三井造船所有艇→琉球海運)
1975年の沖縄国際海洋博覧会開催時に、琉球海運が海洋博会場エキスポ港と那覇新港の間をスピード輸送し、有名になった。また、日本海観光フェリーにより能登半島の珠州飯田港と佐渡ヶ島の小木港の間で運航された。試験航行で東京港に来たこともあり、建造元の三井造船本社に近い竹芝桟橋のあたりを走行する雄姿を見ることができたが、1980年代に入って全艇が役目を終えて解体され現存しない。
MV-PP10
下記の4隻が就航していた。全艇三井造船玉野事業所製である。旅客定員100〜105名。浮上用2基と推進用2基、計4基のディーゼルエンジンを搭載。
- ドリームアクアマリン (旧 ドリーム1号)
- ドリームエメラルド (旧 ドリーム2号)
- ドリームルビー (旧 ドリーム3号)
- ドリームサファイア
いずれも大分ホーバーフェリーの大分・大分空港間で新たに就航していたが、同航路の休止後、2010年に売却された。売却先は非公表だが、2011年頃4隻揃って香港の海上に留置されていたのが中国語の画像掲示板で確認されていた。 ところが2012年11月、中国船籍の貨物船により突如再び国内に運び込まれ、ドリームアクアマリン、ドリームエメラルド、ドリームルビーの3隻が、熊本県の八代新港の一角で現在も放置。各艇とも汚損破損が見られるが、特にドリームアクアマリンは火災により客席部分が焼失している。残りのドリームサファイアについてはその後どうなっているか不明。
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焼損したドリームアクアマリン 2013年1月13日撮影
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八代港に戻ってきたドリームエメラルド 2013年1月13日撮影
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八代港に戻ってきたドリームルビー 2013年1月13日撮影
空気浮上システム
空気浮上システムの浮上方式
静圧式空気浮上
送風機で圧縮空気を車両の下部に送り込む事で浮上する。現在でもローラレスコンベア[3]やエアー浮上式フリーベアユニット[4]や半導体ウエハーや液晶ガラスの搬送装置[5]やエアホッケー、免震装置などに使用される。
動圧式空気浮上
空気との相対的な運動によるラム圧や揚力等によって空気力学的に浮上する。空気軸受やハードディスクのヘッドの浮上やエクラノプラン等の地面効果翼機やエアロトレイン等に使用される。構造上、静止時には浮上できない。
空気浮上システムの浮上方式 (浮上方法による分類)
加圧式空気浮上
空気を加圧することによって浮上する。特別な制御を行わなくても安定した浮上高を得られる為、実用化されている空気浮上の大半はこの方式に含まれる。
負圧式空気浮上
負圧により吸引力を生じる事によって浮上する。安定した減圧は困難な為、浮上高さが低く、軌道に高精度が要求され、浮上高を維持する為の精密な制御が必要とされる為、実用化されている例は確認されない。
技術的な特徴
車輪等との比較
- 利点
- タイヤ等の支持体による転がり抵抗がない。
- タイヤ等の支持体や軌道の磨耗がないので交換が不要で当該部品に関しては消耗品が無く、稼働率が高い。また磨耗に伴う粉塵等を排出しない為、クリーンルーム内での搬送等に適する。
- 鉄車輪よりも接地圧が低い為、構造体の応力を分散させる事が可能なので建設費を低減出来る。
- 欠点
- 浮上する為には空気を送り続ける必要がある為、エネルギーを消費する。
- 重量物を持ち上げる場合には(加圧できる圧力に限界があるので)広い面積が必要。
- 浮上する為の送風機の騒音がある。更に推進にプロペラ等を使用すると顕著になる。
- 摩擦を利用したブレーキが利かないので停止時には強制接地かエアブレーキか逆噴射装置が必要。
- 軌道との摩擦が無いので推進装置はプロペラやジェット等の推進装置かリニアモーター等の車輪と比較して推進効率の低い推進手段を用いる必要がある[6]。
- 重量が超過すると浮上が困難になるので乗車定員または積載量を厳格に守る必要がある。
- 乗車人数または積載量によって浮上に要するエネルギーが変動する。
磁気浮上式との比較
- 利点
- 欠点
- 維持費が高い
- 浮上する為の送風機の騒音がある。更に推進にプロペラ等を使用すると顕著になる。
- トンネル内での走行が不安定。特に動圧式空気浮上の場合は顕著になる。
- 静圧式空気浮上の場合、高速化すると流入する空気を一定量に維持することが困難になる場合がある。
ホバートレイン
テンプレート:Main ホバートレインは車輪式による粘着の限界があるとされた300km以上の速度における次世代高速鉄道の有力候補として1960年代から70年代にかけて各国で開発が進められたが、様々な問題点があることが明らかになり高速鉄道としての開発は打ち切られた。その後、空港のターミナル間の輸送等、一部の用途において使用される。
アエロトラン
テンプレート:Main フランスで1965年から1977年にかけて開発が進められた。サラン、ルーアン間に建設された全長 18 kmのテンプレート:仮リンクで1974年3月5日に運転速度 417.6 km/h、瞬間最大 430.4 km/h の記録を樹立した。
TACV
1965年の高速鉄道法により連邦鉄道委員会(FRA)は高速鉄道の研究予算をつけた[7] 。 さらにUAC ターボトレインの成功によりTracked Air Cushion Vehicle (TACV)計画の下で複数の試作機の製作が承認された[8]。TACVはリニア誘導モータによってテンプレート:Convertの性能の高速列車を想定した。異なる要素技術が異なる試作機で試験された。
1969年12月、エネルギー省は複数の計画の為にコロラド州、プエブロに高速鉄道試験センター(HSGTC)の建設を採択した[7]。 TACV計画の為にはエネルギー省は異なる試作機の為に試験線の建設費を払ったが試験線の建設は遅かった[9]。
LIMRV
バーティンのチームがまだリニア誘導モーターを使用していなかった頃にTACV計画はリニア誘導モーター(LIM)の開発に注力していた[7]。 ギャレット・エアリサーチは(車上一次式)LIMに電力を供給する為に3000 hpのガスタービンを備えた車輪式で標準軌の軌道上を走行するリニア誘導モータ試験機(LIMRV)を製造した[9]。
LIMRVの試験軌道はギャレットが試作機を納入した時点ではプエブロ近郊のHSGTCはまだ完成していなかった。軌道の内側のリアクションレールは設置中だった。軌道の準備が整うとリニア誘導モータ、発電機と軌道の力学的試験は進行して1972年12月にテンプレート:Convertに達した[7]。速度は試験線の全長(6.4 マイル)と試作機の加速度によって制限された。より高速で推進するように2基のJ-52エンジンが追加された。これらのエンジンはJ-52の推力が抵抗と釣合うように逆噴射するように出来ていた。 これにより軌道を数マイル延伸せずにより高速の試験を目指した。1974年8月14日、LIMRVは従来の軌道上での世界記録となるテンプレート:Convertを樹立した[10]。
TACRV
TACV計画の第2段階はターボファンエンジンを動力とする空気浮上式のTracked Air Cushion Research Vehicle (TACRV)の試験だった[7]。 ボーイングとグラマンが設計を提案してグラマンの案が採択された[11]。 グラマンのTACRVは1972年に発表された[7]。グラマンの努力はTACV計画の大部分の予算を獲得してテンプレート:Convertの軌道の建設を確実にしたがリニア誘導モータ推進の為のリアクションレールは設置されなかった。ジェットエンジンによる推進のみでテンプレート:Convertに達したに過ぎない[9]。
UTACV
第3段階のTACV計画は座席を備えたリニア誘導モーター式空気浮上列車のUrban Tracked Air Cushion Vehicle (UTACV)で完成した[7] 。ロー・インダストリーズはバーティンのエアロトレインの設計を基に[11]契約を取り、1974年にプエブロのHSGTCへ試作機を納入した[9]。
しかし余ったお金は殆ど無かったのでロー社の試作機はわずかテンプレート:Convertの軌道で最大速度はわずかテンプレート:Convertだけ可能だった。UTACVの試験準備が整った時点で大半の予算は使い切った状態でそれ以上の予算は出なかった。電源供給システムの必要、低エネルギー効率、騒音の水準が問題となった[9]。ロー社の試作機の最後の試験は1975年10月に終了した[9] 。以来、プエブロの施設は交通技術センターとして知られる従来の鉄道車両の試験に現在でも使用される。
ホバートレインへ引導を渡す磁気浮上鉄道
磁力で列車を浮上する概念はホバートレインの試験中において検討されてきた。当初、この方法は非現実的であると信じられてきた。もし、システムが電磁石を使用していたなら制御装置は法外なほど高価になる事が予想され、当時、鉄道車両を持ち上げるほど強力な磁石は無かった[12]。
パワーエレクトロニクスの進歩により電磁石による浮上式鉄道が現実味を帯びてきた。1960年代末に磁気浮上式鉄道が再び注目されるようになりいくつかの計画がドイツと日本で始まった。同時期、Laithwaiteは浮上と推進を司る新型のリニア誘導モータを発明した事により従来の(車上一次式)LIMのような電源の不要な軌道の建設が可能になった。どちらの場合でも列車の浮上に必要なエネルギーはホバートレインの浮上に必要なエネルギーよりも大幅に少ないエネルギーですむ。
1970年代初頭、様々な磁気浮上式鉄道が世界中で検討された。ドイツ政府は提案された案のどれが優れているかを明らかにする為に複数の異なるシステムに出資した。1970年半ばの時点でこれらのいくつかの計画はホバートレインのような騒音や砂塵を巻上げたり多くのエネルギーを費やさずにホバートレインと同水準の成果を生み出した。
既存のホバートレインの計画は既存の資金で継続されていたが磁気浮上式鉄道への関心の高まりと従来型の高速鉄道の導入の両方により徐々に下火になったと考えられる[13]。
トラックトホバークラフト
テンプレート:Main イギリスでも空気浮上式鉄道の研究が進められた。フランスのアエロトランがガスタービンでプロペラ(ダクテッドファン)を回転させて推進したのに対してトラックトホバークラフトはリニア誘導モーターで推進した。ホバークラフトを開発したグループはリニア誘導モーターが知られるようになった1961年頃以降にリニア誘導モーターの概念を取り入れた。1963年から実物大の開発の基にする為にリニア誘導モーターの概念を使用した試験機が走行を始めた[14]。小型の試験機は凸型のモノレールの軌道上を走行する狭胴型の旅客機のような形状の車両だった。水平面は走行路面で垂直の部分は案内と軌道を保持する強度を維持する構造だった[14]。
開発チームは縮小された模型の製造の為に追加予算を確保した。Hytheに大きな円形の試験軌道を地上から約3フィートの高架上に建設した。ここでは基本的な配置が変更され、軌道の断面形状が凸から凹に変更された。これにより車両の床が平坦になり、幅が広がった[14]。 この形式は1965年に走行し、次年度に開催されたホバーショー '66で公開された。後に軌道の側面の上部に設置されたリニア誘導モータで動くようになった[15]。 この時点で計画は資金不足により中断された。同時期、英国鉄道は従来の列車の高速走行の障害となる蛇行の問題に関する広範な研究プロジェクトに取り組んでおり、適切な支持装置を開発することによって解決される可能性が示唆された。英国鉄道は空気浮上式鉄道の概念に関する興味を失い、まもなく先進旅客列車(APT)の開発に注力するようになった。これによりHytheのチームは彼らが提案していた実物大の試験機の予算が得られなくなり、ホバーショーではフランスが空気浮上式鉄道の開発を先導する事に苦情を呈した。
1967年、政府は空気浮上式鉄道の開発を国立物理学研究所に移管した[16]。ほぼ同時期にリニア誘導モータの開発において功績のあったLaithwaiteは英国鉄道との関係を断絶した。2チームは共同で実物大のトラックトホバークラフトの試験機を作る努力を続けた。Laithwaiteの説得とイギリスがフランスに勝つという要因の組み合わせにより、すぐに政府の資金援助を得られた。
1970年にロンドン北部に試験軌道の建設が始まった。この場所が選ばれた理由は全長20マイルの試験線を敷設する為の平坦な土地が得られたからだったが予算は最初のわずか4マイル分のみだった。建設費のさらなる高騰によりわずか1マイルのみ建設された。試作機のRVT 31は1973年に速度試験を始め、1973年2月7日にケンブリッジシャーの実験線で向かい風20マイルの中で 167 km/h (104 mph) の速度に達した[17] 。 この成功にもかかわらず政府は2週間後にさらなる予算を中止した[18]。関心が英国鉄道の一部に留まった事と各種高速化の努力の間での内紛の組み合わせがAPTを強く勧める独立審査委員会の形成を促した。 1973年に予算が打ち切られた事により計画は中止され、現在は実験機がテンプレート:仮リンクに保存されている。開発関係の書類はイングランドのハンプシャーにあるテンプレート:仮リンクに展示されている[19][20]。
空気浮上式新交通システム
成田空港シャトルシステムのようなターミナル間の移動など世界各地の空港や大学等で運行されている[21]。当初はリニア誘導モーター(LIM)を使用していたが、近年ではケーブルカーと同様に鋼索で推進する例が主流となりつつある。これは技術的には一見後退した様にも見えるが、低速での推進効率においてはリニア誘導モーターよりも優れているからである。
関連項目
脚注
外部リンク
テンプレート:公共交通- ↑ Charles Coulston Gillispie, Dictionary of Scientific Biography, Published 1980 by Charles Scribner's Sons, ISBN 0684129256, p.484
- ↑ テンプレート:Ru icon Air cushion vehicle history
- ↑ ローラレスコンベア
- ↑ エアー浮上式フリーベアユニット
- ↑ 第7~8世代サイズ対応の空気浮上式水平型枚葉搬送装置
- ↑ 推進手段として成田空港シャトルシステムのように低速、短距離での推進効率が高いケーブルで推進する例もある。
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 7.6 テンプレート:Cite journal
- ↑ Volpe 1969, p. 51
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ 11.0 11.1 Volpe 1969, p. 53
- ↑ 現在でも永久磁石の反発力だけで浮上する事は困難である。
- ↑ また空気浮上式鉄道の開発に積極的に取り組んでいた国ほど磁気浮上式鉄道の開発には消極的な傾向がある。
- ↑ 14.0 14.1 14.2 "Hovertrain", British Pathé, 1963
- ↑ "Track Section Chosen for UK Hovertrain", Flight International Air-Cushion Vehicles supplement, 17 November 1967, pp. 71–72
- ↑ Hythe 1967, p. 36
- ↑ "Video of RTV 31 test run", BBC News, February 1973
- ↑ "Dropping the tracked hovercraft", NewScientist, 22 February 1973
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 超高速新幹線―東京・大阪一時間 中央公論新社 ISBN 9784121002723
- ↑ 一部は廃止されたものもある。