宇多天皇
宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる(詳細は皇子女の欄参照)。
目次
略歴
光孝天皇の第七皇子であり、母は桓武天皇の皇子仲野親王の娘・皇太后班子女王であった。父光孝天皇は即位後に関白藤原基経の外孫であり、陽成天皇の弟であった貞保親王をはばかり、元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女を臣籍降下させて源氏とした。定省王もその一人であり、源定省と称した。この臣下時代、殿上の間の御椅子の前で在原業平と相撲をとり、二人の体が椅子にぶつかったため手すりが折れたという話が残っている[1]。
仁和3年(887年)には光孝天皇が重態に陥ったが、後継を指名しなかった。実力者の基経は天皇の内意が定省にあるとして、朝議を一決した。定省は8月25日に皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に皇太子に立てられた。定省は基経の異母妹である尚侍藤原淑子の猶子であり、後宮に強い影響力を持っていた淑子は定省後継を熱心に推薦した。しかし基経自身は特に定省を気に入っていたわけではなかった[2]。立太子したその日のうちに光孝天皇が崩じたため践祚し、11月17日に即位した。
阿衡事件
テンプレート:Main 宇多は即位後間もない11月21日に、基経に再び関白としての役割を果たすよう勅書を送った。しかしこの手続きの際に左大弁橘広相の起草した「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言に基経が立腹し、政務を拒んで自邸に引き籠もってしまう。翌年6月になって宇多はついに折れ、勅書を取り消した上に広相を解官せざるを得なかった。寛平3年(891年)1月に基経が死去するに及んで、ようやく親政を開始することが出来た。なお宇多が勅願寺として仁和寺を建立したのはこの阿衡事件の最中の仁和4年のことである。
寛平の治
テンプレート:Main 天皇は基経の嫡子時平を参議にする一方で、源能有など源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流から離れた人物も抜擢した[3]。この期間には遣唐使の停止、諸国への問民苦使の派遣、昇殿制の開始、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などが行われた。また文化面でも寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、これらが多くの歌人を生み出す契機となった。
譲位
宇多は寛平9年7月3日(897年8月4日)に突然皇太子敦仁親王を元服させ、即日譲位した(醍醐天皇)。この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている(後述の『大鏡』にある陽成上皇の言がその暗示と考えられている)。譲位にあたって書かれた『寛平御遺誡』には右大臣源能有の死に強い衝撃を受けたことが書かれており、これを譲位と結びつける見方もある。
新たに即位した醍醐には自らの同母妹・為子内親王を正妃に立て、藤原北家嫡流が外戚となることを防ごうとした。また譲位直前の除目で菅原道真を権大納言に任じ、大納言で太政官最上席だった時平の次席としたうえで、時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた[4]。しかしこの人事は権門の公家には不評で、公卿が職務を拒むという事件に発展した。道真は宇多に願ってかかる公卿らに出仕を命じてもらい、ようやく新政がスタートした[5]。
昌泰の変
宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方で仏道に熱中し始めた。昌泰2年(899年)10月24日には出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに比叡山や熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分に行えなくなった。
テンプレート:Main 昌泰4年(901年)正月、道真は宇多の子で自らの婿でもある 斉世親王を皇位に即けようとしていたという嫌疑で、大宰府へ左遷された。この知らせを受けた宇多は急遽内裏に向かったが、宮門は固く閉ざされ、その中で道真の処分は決定してしまった。日本史学者の河内祥輔は、宇多は自己の皇統の安定のために醍醐の皇太子決定を急ぎ、結果的に当時男子のいなかった醍醐の後継をその弟から出すことを考えるようになった。加えて醍醐が許した基経の娘・藤原穏子の入内にも反対したために、これに反発した醍醐が時平と図って法皇の代弁者とみなされた道真を失脚させたという説を提示している。それでも晩年には病気がちの醍醐天皇に代わって、実際の政務をみていた可能性もあると考えられている。
延喜13年3月13日(913年4月22日)には後院の亭子院で大掛かりな歌合「亭子院歌合」を開いた。これは国風文化の盛行の流れを後押しするものとなった。 承平元年7月19日(931年9月3日)に崩御。日記に『宇多天皇御記』がある。
陽成との関係
陽成上皇との関係は微妙だった。宇多は皇位に即く前に陽成に仕えており、神社行幸の際には舞を命じられたこともあった[6]。『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話[7]が残っているが、陽成が復位を画策しているという風説は宇多を悩ませた。
保延年間に書かれた『長秋記』(保延元年6月7日条)によれば、陽成上皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとしたために、上皇といえども勅許なく内裏に入る事は罷りならないとこれを退けたが、後に昌泰の変が起きた際には醍醐天皇に菅原道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇自身がこの先例を盾にそれを阻まれたという記載がある。
系図
后妃・皇子女
第一皇子敦仁親王(のちの醍醐天皇)は、女御(贈皇太后)藤原胤子の子。藤原胤子は内大臣藤原高藤の女で、宇多天皇が臣籍にあった時からの妻の一人。
女御は他に藤原温子、橘義子、菅原衍子、橘房子。藤原温子は関白藤原基経の女で、宇多帝即位後に入内した。女御藤原胤子が病没後、皇太子敦仁親王を猶子とし、醍醐天皇即位に伴い、皇太夫人となる。晩年は東七条宮に住んだため、東七条后、七条后とも呼ばれた。
橘義子からは斉世親王があり、彼は菅原道真の女を妻としたことから、後年菅原道真の誣告に際してその名が取り沙汰された。菅原衍子は道真の女。
皇子・皇女多数。宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜り、臣籍降下した。 宇多天皇から出た源氏を宇多源氏といい、藤原胤子の子・敦実親王から出た系列が最も栄えた。敦実親王の子・源雅信は左大臣を務め、その女・倫子は藤原道長の正室となり、一条天皇中宮彰子や関白頼通の母となった。朝廷貴族としての地位を維持した子孫としては、公家の庭田家や綾小路家(ともに羽林家)などがあり、また雅信から近江に土着した武家の佐々木氏が出ている。
『大和物語』において、宇多天皇は亭子院、敦慶親王は故式部卿の宮、依子内親王は宇多天皇女五宮、孚子内親王は桂皇女として、それぞれ登場する。
- 女御(皇太夫人):藤原温子(872-907) - 藤原基経女
- 女御(贈皇太后):藤原胤子(?-896) - 藤原高藤女
- 女御:橘義子 - 橘広相女
- 女御:菅原衍子 - 菅原道真女
- 女御:橘房子(?-893)
- 更衣:源貞子 - 源昇女
- 依子内親王(895-936)
- 更衣:徳姫女王 - 十世王女
- 孚子内親王(?-958)
- 更衣:藤原保子 - 藤原有実女
- 更衣:源久子
- 更衣:藤原静子
- 尚侍:藤原褒子 - 藤原時平女
- 宮人:伊勢 - 藤原継蔭女、藤原温子女房
- 生母不明
- 行中親王(?-909)
- 成子内親王(?-979)
- 源臣子
諡号・追号・異名
通説では譲位後の在所の名称より宇多天皇と追号されたと言われているが、実際の居宅は仁和寺御室・亭子院・六条院を主としていたという(宇多院は元は父の光孝天皇の親王時代の邸宅で、宇多天皇はここで成長したからだという説もある)。 また、寛平法皇、亭子院(ていじのいん)、朱雀院太上天皇などの名称でも呼ばれた。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷にある大内山陵(おおうちやまのみささぎ)に治定されている。公式形式は方丘。
火葬後、拾骨のことがないまま土を覆って陵とされた。所在は早く失われ、江戸時代末になって現在の大内山陵に治定された。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
注釈
その他
京都市バスで、宇多野方面のバスの系統番号は59代天皇と同じ番号、59系統である。
参考文献
- 遠藤慶太『平安勅撰史書研究』(皇學館大学出版部、2006年) ISBN 4876441316
- 森田悌『平安時代政治史研究』(吉川弘文館、1978年) ISBN 4642020888
- 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年) ISBN 4642021612
- 坂上康俊『律令国家の転換と「日本」 日本の歴史05』 (講談社学術文庫、2009年) ISBN 978-4062919050
- 北山茂夫『平安京 日本の歴史4』(中公文庫、1973年)
関連項目
外部リンク