卑弥呼

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テンプレート:基礎情報 君主 卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号親魏倭王。後継には宗女の壹與が女王に即位したとされる。

史書の記述

『三国志』の卑弥呼

「魏志倭人伝」の卑弥呼

魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。この鬼道の意味には諸説あり正確な内容は不明。ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。

既に年長大であったが夫を持たず(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。

卑弥呼が死亡したときには、人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当する)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、狥葬者奴碑百餘人)。

「魏書帝紀」の俾弥呼

三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。

朝鮮半島の書物から

朝鮮半島の『三国史記』新羅本紀(1145年成立)による。

  • 173年 - 倭の女王卑弥呼が、使わした使者が訪れた(二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使来聘)。なお中国の歴史書では356年に「新羅」となったと記述されている。
  • 193年 - 倭人が飢えて職を求めて千人も新羅へ渡る。(新羅本紀第二 伐休尼師今 十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人)。

年譜

中国の歴史書による。

  • 建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。『後漢書
  • 永初元年(107年) - 倭国王の帥升安帝に拝謁を願う。『後漢書』
  • 倭国、男性を王とした七、八十年
  • 桓帝霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』
  • 光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書
  • 景初三年(239年) - 卑弥呼、初めて難升米らを中国のに派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(238年))。
  • 正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
  • 正始四年(243年) - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
  • 正始六年(245年) - 難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
  • 正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。
  • 正始九年(248年) - またはその前後
    • 卑弥呼が死に、墓が作られた。(『梁書』では正始年間(240年 - 249年)に卑弥呼死亡)
    • 男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
    • 卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
    • 女王位についた壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
  • 泰始元年(265年) - 倭の遣使が重ねて入貢。『晋書邪馬台国からの最後の入貢。

呼び名

三国志魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝、『三国史記』新羅本紀では表記は「卑彌呼」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。

一説には、中華思想により、他国の地名、人名には蔑字を使っている為に、この様な表記となっている。

また他の一説には、古代日本語を聞いた当時の者が、それに最も近い自国語の発音を当てた為に、また(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として先頭の文字を特別なものとしているというものがある。これは現代日本語でのカタカナの使用や英語での固有名詞の表記、ドイツ語での名詞の表記に似た方法である。

現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明。

  • 日巫女(ひみこ)…太陽に仕える巫女、の意
  • 日御子(ひみこ)…太陽神の御子、の意
  • 日売子(ひめこ)比売后 (ひめごう)〈bi mài hòu〉魏の時代の中国の発音にもおおよそ合致する。 
  • 姫子(ひめこ) 姫御子(ひめみこ)
  • 日女子(ひめこ)― 駒澤大学教授の三木太郎の説。男性の敬称「ヒコ(日子)」に対する女性の敬称。
  • ひむか・ぴむか― 長田夏樹『新稿 邪馬台国の言語 ―弥生語復元―』学生社 2010年。3世紀の洛陽音の復元による。
  • 日向(ひみか・ひむか)― 松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。
  • 甕依姫(みかよりひめ)― 古田武彦が唱えた。風土記に出現する女性に該当。聖なる甕という意。俾弥呼の読みは「ひみか」とする説。
  • 宮居 (ぴやこ、みやこ) - 1937年に藤井尚治が「国史異論奇説新学説考」の中で唱えた説。中国の学者が、「宮居」を人名と誤解したとし[1]、卑弥弓呼は「ミヤツコ(宮仕)」に、卑狗が「ミコ(皇子)」になるとする[1]

など諸説ある。

一方、中国語発音を考慮すると、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。

現代中国語でのピンインでの表記

  • 卑弥呼:Bēi mí hū / Bei1 mi2 hu1
    • (俾彌呼:Bǐ mí hū / Bi3 mi2 hu1)
  • 掖邪狗:Yè xié gǒu / Ye4 xie2 gou3
  • 帥升:Shuài shēng / Shuai4 sheng1
  • 難升米:Nán shēng mǐ / Nan2 sheng1 mi3
  • 伊聲耆:Yī shēng qí / Yi1 sheng1 qi2[2]

いずれにせよ、弥生時代の日本語の発音および当時の中国語の音写の法則については説が確立しておらず、したがってその意味も判然としない。少なくとも現代日本語で解釈するのは学術的に無意味であり、古代日本語の音韻論及び古代漢語の発音を究明する「音韻学」を基本に考察しなければならない。

朝鮮語での読み

現在韓国においては日本語での読みの通りに表記されるが、かつての韓国及び北朝鮮では漢字を朝鮮語読みする。

  • 卑弥呼 / 俾彌呼:비미호(RR:Bi mi ho MR:Pi mi ho)
  • 掖邪狗:액사구(RR:Aek sa gu MR:Aek sa ku)
  • 帥升:솔승(RR:Sol seung MR:Sol sŭng)
  • 難升米:난승미(RR:Nan seung mi MR:Nan sŭng mi)
  • 伊聲耆:이성기(RR:I seong gi MR:I sŏng ki)

卑弥呼の死

魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し以下の様に記述されている。 テンプレート:Cquote

この記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとし、卑弥呼の死も240年から246年までに起きた出来事とする考えもある。

「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死スルヲ以テ」つまり「死んだので」墓が造られた、あるいは、「スデニ死ス」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告喻之」(難升米が詔書・黄幢を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「ヨッテ死ス」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。

天文学者斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では9月4日)に北部九州皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。井沢元彦も『逆説の日本史』でこの説を支持している。[3]さらに、橘高章安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。

しかし、現在の正確な計算では、いずれの日食も、邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり[4]、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。

卑弥呼の墓

卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとする。この墓がどこか様々な説がある。 卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たる。邪馬台国が畿内にあれば卑弥呼の墓は古墳の可能性があり、箸墓古墳宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説もある。一方、九州説では平原遺跡を卑弥呼の墓とする説[5]などがある。

邪馬台国畿内説の奈良県桜井市箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説では、箸墓古墳の後円部は約150mで径百余歩に近いからとする。箸墓の築造年代は3世紀第3四半期頃に絞り込まれつつあり、この説は箸墓を寿陵とみるか否か、および卑弥呼の死去を何年頃と見積もるかに大きく依存することになる。テンプレート:要出典範囲

人物比定

卑弥呼が、『古事記』や『日本書紀』に書かれているヤマト王権の誰にあたるかが、江戸時代から議論されているが、そもそもヤマト王権の誰かであるという確証はなく、別の王朝だった可能性もある。

神功皇后説

『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、記紀の筆者は神功皇后を卑弥呼だと考えていたようである。江戸時代までの日本ではこの記紀の説が正しいものとされ、卑弥呼はヤマト王権の神功皇后だと一般に考えられていた。しかし第二次世界大戦で日本が敗北すると日本の教科書から神功皇后の名前は一斉に削除され知名度もなくなった。、記紀によれば、神功皇后は九州で子(応神天皇)を出産し、朝鮮半島への大規模な軍事行動(三韓征伐)をおこなっている。しかし、これらの重大な事跡について「魏志倭人伝」の卑弥呼の項目には何も記述されていない。また応神天皇は4世紀半ばから後半に実在したと考えられる天皇である。よって神功皇后が実在したとしても4世紀の人物であって、卑弥呼の活躍した時期よりも100年以上のちのことである。このため、神功皇后=卑弥呼説は困難と考えられるようになり、この説を支持する人は戦後少なくなった。ただ最近は、仲哀天皇の第二の后である弟姫日売子(ひめこ)が卑弥呼ではないかとする説もある。日売子(ひめこ)または比売后 (ひめごう)〈bi mài hòu〉魏の時代の中国の発音にもおおよそ合致する。年代も神功皇后の上なので、卑弥呼と生きた時代は合致すると考える人も出て来ている。 また臺與(台与)は神功皇后の妹とされる豊姫であると比定する説もある。(彼女は肥前国風土記に登場する世田姫ではない。)

熊襲の女酋説

本居宣長鶴峰戊申那珂通世らが唱えた説。 本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である[6]。 宣長は日本は古来から独立を保った国という考えに立っており、「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し倭王に封じられたという記述は本居宣長にとって到底受け入れられるものではなかった。本居宣長は「魏志倭人伝」の記述から邪馬台国は九州にあったと結論し、九州の熊襲の女酋長であった卑弥呼が勝手に神功皇后の使いと偽って魏と通交したとした。また、宣長は卑弥呼を姫児(ヒメコ)として、『日本書紀』の「神代巻」に見える火之戸幡姫児千々姫命(ヒノトバタヒメコチヂヒメノミコト)、あるいは萬幡姫児玉依姫命(ヨロツハタヒメコタマヨリヒメノミコト)に比定している[7]。那珂通世も、卑弥呼は九州の女酋であり、朝廷や神功皇后とは無関係であるとする。これらの考えは、九州王朝説へと引き継がれている。

甕依姫説

九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また、「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張している。

倭姫命説

戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を卑弥呼に比定した。

倭迹迹日百襲媛命説

ファイル:Hashihaka kohun aerial.jpg
倭迹迹日百襲媛命の墓と伝えられる、箸墓古墳(奈良県桜井市

孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。近年、卑弥呼と同一人物として推定される候補の中では最有力の説となってきている。

『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。当古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。

この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。

日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命についての三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作」という説話が記述されており、神秘的な存在として意識されている。また日本書紀では、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命と男弟=崇神天皇との関係に類似する。もっとも、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇の親戚にあたるが、姉ではない。そこで、『魏志倭人伝』は崇拝天皇と百襲媛命との関係を間違って記述したのだという説(西川寿勝などが提唱)が存在する。

従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、年輪年代学放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている[8][9]

この説の弱点は、倭迹迹日百襲媛命が、皇族の一人ではあっても、「女王」と呼べるほどの地位と権威を有していたとは、考えにくいことである。

安本美典の批判するところによれば、「「魏志倭人伝」には、卑弥呼が亡くなって国中に争いが起きたと記述があるが、「日本書紀」等我が国の文献では、百襲媛命は天皇の親戚の巫女に過ぎず、亡くなって国中に争いが起きるほどの重要人物だとはとうてい考えられず、両者を同一人物とするには矛盾がある」となる。

宇那比姫説

海部氏勘注系図』『先代旧事本紀』尾張氏系譜に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人は別名、大倭姫(おおやまとひめ)というヤマト王権の女王と思われる名を持ち、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)とも呼ばれる。この日女命を卑弥呼と音訳したとする。日女とは後の姫、媛と同じで、個人名ではなく普通名詞である。またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする[10]

また和邇系図では和邇氏の祖天足彦国押人命の子である押媛命と和爾日子押人命の母をこの宇那比媛命としており[11]、宇那比媛命には配偶者がいたことになる。天足彦国押人命の弟は孝安天皇であることから、卑弥呼の弟を孝安天皇と解釈することができる。

天照大神説

中国の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはず。ヤマト王権の史書編纂者にとって都合が悪い事実であっても何らかの形で記されたはずであり、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。白鳥庫吉和辻哲郎らに始まる[12]。卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命天照大神の説もある。

アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。

卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日248年9月5日の2回、北部九州皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある[13]。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている[14]

安本美典は、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという[15]。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点が見出せるとしている(一方スサノオをアマテラスとの確執から、邪馬台国と敵対していた狗奴国王に比定する説もある)。

魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)はアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは後のヤマト王権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一柱であり(もう一柱はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。

安本美典は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動してヤマト王権になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが『記紀』の神武東征であるとしている[16]

また井沢元彦は『逆説の日本史』で、伊勢神宮はアマテラスを祀った施設で宇佐八幡宮はそのモデルとなった卑弥呼を祀った施設であるとし、卑弥呼が祀られた理由をタタリへの恐怖心と断定している。

この説の難点としては、九州にあった邪馬台国が東遷して畿内に到着したとは限定できず、畿内で卑弥呼女王の邪馬台国や倭国連合も創立されたとする説も十分成り立つところである。また、そもそも「皇祖神たる太陽女神」なる観念そのものがさして古いとはいえない説があり[17]、事実、『隋書』にあり『日本書紀』に記述がない第一回目の遣隋使(名前の記述なし)の記事には、倭国の倭王[18]が天と日を兄と弟としていた(「俀王以天爲兄 以日爲弟」)とある。天照大神という神格は天武天皇の時代に始まるとする説もある[19]。また、天照大神は本来は男性の神とする説もある[20]。また、「ヒルメ」を「日の女」であるから巫女である、とする説は他に「~ノメ」を巫女とする用例がなく(ミヅハノメやイワツツノメなどは巫女とされた例はない)、根拠に乏しい。「大日孁貴」の孁字が説文解字において巫女、妻の意があるとする説は説文解字に「女字也」とのみあることから、これは誤りである。

登場作品

小説
漫画
映画
ビデオゲーム
テレビアニメ

関連項目

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外部リンク

  • 1.0 1.1 国史異論奇説新学説考 藤井尚治 1937年
  • 歴史言語学と日本語の起源 卑弥呼(=pimiho)再論-「呼」の読みについて-1~4歴史言語学と日本語の起源 卑弥呼(=pimiho)再論-「呼」の読みについて-5~7
  • 更に同書では「倭国大乱」は156年の皆既日食を原因とし、その時期を167年169年頃と推定する。また卑弥呼はその中で自身を「太陽の化身」と称して人望を集め民衆を統率したが、248年の狗奴国との戦争中に皆既日食が発生して自身の正当性が崩れた為に大敗して邪馬台国が壊滅寸前にまで至り、その結果王頎の部下の張政が作成した檄文によって弑殺されたとしている。
  • NASAによる241~260年の皆既・金冠日食。一般の天文シミュレータでも確認可能。
  • 奥野正男『邪馬台国は古代大和を征服した』、糸島平原遺跡の研究 など。
  • 本居宣長馭戎概言』、鶴峯戊申襲国偽僣考』、近藤芳樹征韓起源』など。安本美典『江戸の邪馬台国』 柏書房 1991年等を参照。
  • 本居宣長『馭戎概言』
  • 2世紀後半の倭国大乱~孝霊天皇の吉備平定~卑弥呼(百襲姫)誕生
  • 邪馬台国 ナゾ解き続く 化学分析、畿内説に"軍配" 箸墓古墳産経新聞 2009年5月29日
  • 邪馬台国出現 宇那比姫を卑弥呼とする理由
  • 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店 1963年 第三巻P6661
  • 「倭女王卑弥呼考」『白鳥庫吉全集』 第1巻 岩波書店 1969年和辻哲郎『新稿 日本古代文化』 岩波書店1951年井沢元彦 『逆説の日本史』シリーズ小学館1993年
  • 毎日新聞(関西)朝刊 1995年7月25日8月5日
  • 「中国・日本の古代日食から推測される地球慣性能率の変動」(論文)名古屋大学の河鰭公昭、国立天文台の谷川清隆、相馬充は、慣性能率の変動によると疑定される有意な地球の自転速度変化を論じ、自転速度低下率が一定であると仮定していた過去の計算法の精確性に対して疑問を投げかけている。
  • 『卑弥呼の謎』講談社新書 1972年など。
  • 安本美典『神武東遷』(中公新書 中央公論新社 1982年 ISBN 9784121001788、徳間文庫 徳間書店 1988年 ISBN 9784195984840)
  • 岡正雄三品彰英は、本来の皇祖神はタカミムスビであるとしている。
  • 隋書では俀國、俀王。
  • 筑紫申真『アマテラスの誕生』 講談社 2002年、佐藤弘夫『アマテラスの変貌―中世神仏交渉史の視座』 法藏館 2000年
  • 折口信夫『天照大神』 1952年松前健『日本の神々』 中央公論社 1974年、松前健『日本神話の謎』 大和書房 1985年