千住博
千住 博(せんじゅ ひろし、1958年 - )は日本画家。東京都生まれ。
概要
日本画の存在やその技法を世界に認知させ、真の国際性をもった芸術領域にすべく、講演や著述など幅広い活動を行っている。自然の側に身を置くという発想法を日本文化の根幹と捉え、自身の制作活動の指針としている。
代表作のウォーターフォールは1995年ヴェネツィア・ビエンナーレ絵画部門で名誉賞を受賞。
1998年より大徳寺聚光院の襖絵制作にとりかかり、2002年の伊東別院完成に引き続き、2013年京都本院の襖絵が完成。
弟は作曲家の千住明、妹はヴァイオリニストの千住真理子、父は工学博士の千住鎮雄、母は教育評論家でエッセイストの千住文子。
2007年より2013年3月まで京都造形芸術大学学長を務めた。現在東京藝術学舎学舎長。ニューヨーク在住。
人物
絵を描く行為の起源を旧石器時代の洞窟壁画まで遡り考え、当時人々は超自然的な存在と交信するために暗い洞窟の中で絵を描いたと考えている。本来洞窟内部の暗闇の中で宗教的な目的から描かれた絵が、次第に明るい方へと場所を移した結果、人々に見られるタブロー(絵画作品)としての意識が芽生えたのではないかと、画家の視点から考察している。[1]
日本の芸術における最良のエッセンスの多くは、良寛、松尾芭蕉、紀貫之、藤原定家などの詩歌の世界に見出されると論じる『日本の芸術論』(安田章生著、創元社)から多くを学んだと語っている。[1]
代表作の「滝」はそれ自体が絵の具を流しての「滝」なのであり、「滝の描写」ではない。ここに絵画のイリュージョンから抜け出せなかった歴史からの展開を試みているとし、また、テーマと技法と手段が完全に一致した実証と述べている。[2]
21世紀は9.11から始まったと考えている。20世紀後半、ショックやセンセーションをテーマにした現代美術がニューヨークやロンドンを席巻していたが、9.11テロの事件後、世界の価値観が一変したことを感じたと語っている。[1]
「画家は常にインスピレーションが来る『危険』に満ちている」と語っている。[3]
2009年まで名前の博の右上の点は取っていた。理由として若い頃、自分の実力は点が一つ足りないくらいが丁度と心得て、人一倍頑張ろうと思ってあえて点を取っていたとしている。しかし50歳を過ぎて京都造形芸術大学の学長に推挙され、点が一つ足りない先生では学生も困るだろうし、そろそろ良いかなと思って普通の字に戻したとしている。
「宋元画は人類史上の頂点を極めた。比類ないレベルの絵画」と台北にある故宮博物院を30年近くぶりに訪れた際に語っている。[4]
来歴
1958年1月7日東京都杉並区和泉町で、工学博士の千住鎮雄と、エッセイストの千住文子の長男として生まれる。当時、父が学位論文を書き終えたときだったので、博士の博をとって名付けられた。3、4歳の頃から家中の壁や襖をキャンバスにして絵を描いていた。幼稚園の頃はピアノを習い、また小学校受験勉強として塾で絵の勉強を始める。[5]
1964年慶應義塾幼稚舎(小学校)に入学。6歳頃から兄妹3人でヴァイオリンを習い始める。美術部に所属。運動会の駆けっこを描いた絵が学校代表で展覧会に出品される。父の仕事の関係で4年生の時に6ヶ月間アメリカに家族で滞在する。車でアメリカ大陸を横断し、ヨセミテ国立公園、グランドキャニオン、ニューヨークシティ、ナイアガラの滝などを旅する。帰国後、横浜郊外に引っ越す。[5]
1970年慶應義塾普通部(中学)に入学。美術部、水泳部などに所属。絵は好きだったが、当時は画家やマンガ家になるつもりはなく、その気持ちは高校に進学してからも変わらなかった。高校時代のある日、所属していた美術部の部室に先輩が持ち込んだデザイン雑誌を目にし、永井一正、田中一光など日本発のグラフィックデザインに衝撃を受ける。同時期、建築の世界にも興味を持ち始め、美術系の大学へ進学することを決意する。[6]
高校2年の秋、美術の担任だった毛利武彦先生の勧めで日本画のグループ展に行き、岩絵の具と出合う。岩絵の具を使って絵を描きたいという強い思いから、日本画専攻の予備校に通い始める。
2年の浪人生活を経て、1978年東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻に入学。
1982年東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。学部の卒業制作は、千住によれば「大いなる失敗」。「描きすぎて、本当につまらなくなってしまいました。でも、それで初めて”筆を置くとき”を知ったのです」と語る。[7]
同大学院へと進み、1984年、修士課程修了作品「回帰の街」が首席で大学の買上げとなり、どんな苦労をしても画家としてやっていこうと心に誓う。[7] 同大学院博士課程へと進み、稗田一穂に師事。博士課程修了作品が東京大学買上げとなる。 卒業とともに作品を精力的に発表し始める。この時期、筆一本で生活できるようになるまで河合塾で予備校の講師をしていた。
大学卒業後の80年代後半は、主として風景をモチーフにして絵を描く。「東京育ちのため、新潟の山並みに全部違う木が生えていたのを見て、初めは植えられたのだと思った。しかし人から自然に生えているということを教わり、本当に驚いた。必然的にそこでビルのテーマが終り、風景へと向かうようになりました」と語っている。[7]
1993年に発表した「フラットウォーター」に至る経緯として、「(大学を卒業後)ビルじゃない何かを描かなければいけないと思いながらも、しかし、それが何なのか分からない。焦りを感じつつ、そんな状態が約10年ぐらい続いていました。奈良の古寺からパプアニューギニアまで、本当に手当たり次第、何でも描きました。その中で最終的にハワイのキラウエア火山の溶岩が海に流れ込む『フラットウォーター』へ至り、さらに『滝』に出合った。そこで時間表現という私のテーマが整理整頓された」と語っている。[7] 布施英利によると、当時プロデューサーとも言える役割を担っていたギャラリストの三條弘敬が考えるアメリカ進出への足掛かりとして、文化的にも地理的にもちょうどアメリカと日本の中間に位置するハワイを選んだとしている。[8]
「フラットウォーター」を発表した1993年6月ニューヨークのマックスウェルデビッドソンギャラリーでの個展は好評を博し、ニューヨークの美術誌「ギャラリーガイド」の表紙を飾る。
1995年のヴェネツィア・ビエンナーレに出品した滝は縦3.4メートル、横14メートルの大作で、題名は「THE FALL」だった。滝の意味ならば「THE FALLS」となる。「THE FALL」というのはアダムとイヴが楽園を追放されたという「墜落」の意味だと語っている。[2] 日本館は隈研吾の会場設計のもと、館内全域に水を張り、すべての作品が水面に反射するという会場構成だった。床に水を張る工事を請け負った現地作業員の仕事が、ガスバーナーなどを作品のすぐそばで使用するにもかかわらずかなり大雑把だったため、作業員の不注意によって溶けたコールタールが滝の絵に付着してしまう。その場にいた千住は、とっさの判断で画面に付着したコールタールを左の素手で取り払い、大火傷をしてしまい、救急病院で治療を受ける事態となってしまう。幸いにも利き手の右手が無傷だっため、無事修復作業を終え、初日を迎えることが出来た。6月10日の授賞式では手に白包帯の姿で名誉賞の金色の楯を受け取っている。[2]
1998年、大徳寺聚光院別院全襖絵の制作を大徳寺聚光院から依頼される。どんなに時間がかかってもいいから、と三十代のまだ若い作家に依頼する聚光院の姿勢に恐れ入ったと語っている。また自分を推薦して下さった松井力さんに大変感謝している。[9]
2003年、大徳寺聚光院別院のために描いた襖絵が「大徳寺聚光院の襖絵展」として東京国立博物館で日本で公開された。制作の様子はNHKテレビ「77面の宇宙」として放映された。制作を通して自分の限界をたびたび思い知らされたが、これに打ち克つ方法は、自分の過信を正し、本当の実力が如何ほどかを認め、正面からこれに立ち向かうことだったと語っている。[10]
2003年、六本木のグランドハイアット東京の3階ホワイエに、幅25メートルの白黒の滝の作品を完成させる。オーナーである森ビルの故・森稔社長(当時)が「好きにしなさい」と言ってくださり、「それでは」といって本当に好きに制作させてもらった作品だと語っている。会場構成はインテリアデザイナーの杉本貴志。[10]
2003年秋、ニューヨーク・メトロポリタン美術館の主任研究員を務めている小川盛弘氏から、1954年に戦後の日米友好関係の再構築を願う官民あげての努力により、日本からアメリカへの贈り物として、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の中庭に建造、展示された「松風荘」という日本建築の襖絵の制作を依頼される。「松風荘」は設計が吉村順三、第11代伊藤平左エ門により施工された書院造りの純日本建築。「松風荘」はMoMAの中庭で1954年から2年間で25万人が見学するほどの好評を博した後、フィラデルフィアのフェアモントパークに移転された。1976年、米国生誕200年祭を機に、フィラデルフィア市からの依頼に応じ、「松風荘」は日本からの基金によって修復工事が行われた。千住は20面に及ぶ全作品とその著作権を寄贈することを小川氏に伝え、襖絵の制作を引き受ける。
2004年、羽田の東京国際空港第2ターミナルの到着ロビーに幅14メートルの「朝の湖畔」、空港ショッピングモールの天井に畳60畳の天井画、空港エスカレーターホールの上にはタテ6メートル、ヨコ18メートルの和紙を用いた立体作品を制作。建築家シーザー・ペリ氏の信頼と日本空港ビルデングの門脇邦彦社長(当時)のバックアップの下、満足の行く仕事が出来たと語っている。この空港ターミナルのアートワークの仕事を依頼された時は、ちょうど大徳寺聚光院別院の襖絵を終えたばかりの頃で、休む間もなくこの仕事に取り掛かることになってしまったが、むしろそれで良かったと語っている。
2007年、「松風荘」の襖絵が完成。これにちなみ、フィラデルフィア市が2007年4月27日をHiroshi Senju Dayと制定し、毎年、フィラデルフィアでこの記念日の近辺に講演会が開催される。[10]同年京都造形芸術大学学長に就任。2013年3月まで3期6年務める。
2009年、ベネッセアートサイト直島の「家プロジェクト」に参加。全長15メートルの「空(くう)の庭」という崖の作品を完成させる。崖の背景にはあえて銀を使用した。それは銀が経年変化で黒変していくためで、時間が作品を少しづつ変えていき、去年見た作品と今年見る作品では別の作品になっていくという「無常感を視覚化したもの」であると語っている。銀の使用については尾形光琳の「紅白梅図屏風」からヒントを得たと語っている。[10]
2010年、APEC JAPAN 2010の会場構成を担当し、各国首脳が自分の絵の前で首脳会議を開き、その映像が広く世界に流れた。菅直人内閣総理大臣(当時)が晩餐会のスピーチで全世界の首脳に自分を紹介してくださったことは、生涯忘れられない名誉なことだったと語っている。[10]同年、東京国際空港国際線ターミナルのアートディレクションの一環として「ウォーターシュライン」と題する全長18メートルの滝の作品を制作。作品は国際線の検疫、入国審査前の壁面に設置されている。清く美しい水のイメージを通して日本を世界に伝えていこうとするものと考えている。[10]
2011年、軽井沢千住博美術館がオープン。設計は西沢立衛氏。これまでの閉鎖的なイメージがあった美術館を全面ガラス張りという可能な限りオープンな空間にし、原則的に人工照明がないのが特長。外部の植林との調和を目指し、森の中を歩いていたらいつの間にかそこは美術館だった、というふうになるのが理想だと語っている。[10]同年、水戸岡鋭治氏とともにアートディレクションを担当したJR博多駅がオープン。公募により集まった3万点にのぼる一般市民の方々が描いた葉や花、鳥の作品を千住が描く木の枝で一つにまとめ、陶板のタイルに焼き付けるという巨大なアートプロジェクト。[11]
年譜
1958年1月7日 東京都杉並区に生まれる。
1982年 東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。
1984年 東京藝術大学大学大学院修士課程修了、修了制作藝大買上
1987年 東京藝術大学大学院博士課程修了、修了制作東大買上
1988年 ガレリアフォルニ(ボローニャ・イタリア)にて個展
1989年 オーストラリア・シドニーにあるマンリー市立美術館で個展。「ジ・エンド・オブ・ザ・ドリーム」を発表。
1990年 神奈川県立近代美術館で「収蔵作品による近代日本画の歩み展」に参加。
1993年 ニューヨークの美術誌「ギャラリーガイド」の表紙に選出される。同年ニューヨークのマックスウェルデビッドソンギャラリーで個展。「Flatwater」を発表。
1994年 山中湖高村美術館で 個展「千住博1980−1994展」。同年「星のふる夜に」に対し第4回けんぶち絵本大賞を受賞。同年第7回MOA岡田茂吉賞絵画部門優秀賞受賞。
1995年 創立100周年のヴェネツィア・ビエンナーレ絵画部門にて名誉賞を東洋人として初めて受賞。同年台湾台北市美術館で開催された「千住博展」はピカソに次いで二人目の会期延長となった。
1996年 彫刻の森美術館で個展。「千住博 Waterfalls & Glasses」展。
1998年より大徳寺聚光院の襖絵制作にとりかかる。同年広島市現代美術館収蔵「八月の空と雲」に対し紺綬褒章受賞。
2003年 大徳寺聚光院別院襖絵完成。東京国立博物館で一般公開。 グランドハイアット東京に高さ3メートル横幅25メートルの滝の壁画を制作。
2005年 第44回ミラノサローネ「レクサス・Lフィネス」にコラボレーションアーティストとして参加。アートディレクションと絵画を担当。同年福岡アジア美術館で個展「大徳寺聚光院別院襖絵七十七枚の全て」展を開催。
2006年 フィラデルフィア松風荘襖絵(ウォーターフォールシリーズ)完成。光州ビエンナーレ出品。ジャガー・ルクルト「レベルソ」誕生75年を記念した特別限定モデルの文字盤をデザインする。[10]
2010年 APEC2010首脳会議の会場構成担当。2011年成都ビエンナーレ出品。
2011年までに東京国際空港(羽田)第1、第2、国際線ターミナルのアート・プロデュース/ディレクションを担当。同年アートディレクションを担当したJR九州博多駅が完成。同年「軽井沢千住博美術館」開館。
2013年 大徳寺聚光院京都本院の襖絵全てが完成。公開は2015年予定。
現在、京都造形芸術大学同付属康耀堂美術館館長。藝術学舎学長。2007年より2013年3月まで京都造形芸術大学学長を務めた。
代表作
- 『ウォーターフォール』1995年 ヴェネツィア・ビエンナーレ出品
- 『大徳寺聚光院伊東別院襖絵』(計77面) 2002年
- 『石橋』「ザ・フォールズ」2006年、「空(くう)の庭」2009年 家プロジェクト
画集
著作
- 『ヴェネツィア日誌』 求龍堂、1996年
- 『疑問符としての芸術』(宮島達男との対談:美術年鑑社)、1999年
- 『日本画から世界画へ』(平松礼二との対談:美術年鑑社)、2002年
- 『絵の心』 世界文化社、2003年(平成15年)
- 『千住博の美術の授業 絵を描く悦び』 光文社新書、2004年
- 『美は時を超える 千住博の美術の授業』 光文社新書、2004年
- 『ルノワールは無邪気に微笑む』 朝日新聞社、2006年
- 『「美」を生きる』 世界文化社、2008年
- 『DUNE別冊 千住博 Art In New York』 アートデイズ、2008年、ISBN 978-4-86119-109-1
- 『美術の核心』 文春新書、2008年
- 『私が芸術について語るなら』 ポプラ社、2011年
- 『NYアトリエ日記』 時事通信社、2011年
- 『日本画を描く悦び』 光文社新書、2013年
- 『芸術とは何か』 祥伝社新書、2014年
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 『美は時を超える 千住博の美術の授業』 光文社新書、2004年
- ↑ 2.0 2.1 2.2 『千住博 ヴェネツィア日誌』求龍堂、1996年
- ↑ 『ルノワールは無邪気に微笑む』朝日新聞社、2006年
- ↑ 『和樂ムック 千住博 日本画の冒険』小学館、2010年
- ↑ 5.0 5.1 『千住家の教育白書』千住文子著 時事通信社、2001年
- ↑ 『日本画を描く悦び』千住博著 光文社新書、2013年
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 アート・トップ 2007年3月号 芸術新聞社
- ↑ DUNE Special Isuue vol.3 p.91 2008年 アートデイズ
- ↑ 『「美」を生きる』千住博著 世界文化社、2004年
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 10.6 10.7 『日本画を描く悦び』千住博著 光文社新書、2013年
- ↑ [1]博多駅アート計画