細川信良
細川 信良(ほそかわ のぶよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。官位は正五位上右京大夫(右京兆)。阿波・摂津・丹波守護。室町時代に栄えた細川氏の本流である京兆家当主。父は管領細川晴元、母は六角定頼の娘。弟に晴之(はるゆき)。正室は織田信秀の娘で織田信長の妹お犬の方。子に元勝(頼範)、円光院(秋田実季室)。
幼名は六郎、聡明丸。のち細川昭元(あきもと)と名乗るが、一時期信長政権下では信元(のぶもと)、信良と名乗っていた(最終的には昭元に名を戻している)。
生涯
生い立ち、足利義昭への臣従
幼少期の天文21年(1552年)、父が三好長慶と一時的に和睦した際に人質となる[注釈 1]。父が再び長慶と敵対すると管領細川氏綱と共に山城淀城に軟禁され、永禄元年(1558年)に11歳で長慶のもとで元服した。
永禄4年(1561年)、実弟の細川晴之が六角・畠山軍に擁立され、将軍足利義輝の命を受け近江に於いて反三好の兵を挙げる(将軍地蔵山の戦い)。しかしこの戦いにて戦死。
永禄5年(1562年)、父が長慶と和睦すると父子は久々の対面を果たしている(久米田の戦い)。
永禄6年(1563年)3月に摂津富田普門寺で病没した父の跡を継ぐものの、勢力は取り戻せず、管領であった氏綱の没後も管領職に任命されることはなかった。ただし、永禄8年(1565年)の永禄の変の後、足利義栄を室町幕府14代将軍に擁立する三好三人衆により名目上の管領として処遇を受けた。
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると三人衆の筆頭である三好長逸と共に摂津芥川山城に籠城するも、三人衆派の他の城が織田軍に次々と落とされると9月30日に城を捨てて長逸と共に阿波へ逃亡、義栄の急死もあり義昭が15代征夷大将軍に任じられると敵対行動を続けた。
元亀元年(1570年)、野田城・福島城の戦いにおいて三人衆に加勢して当初は織田軍と対峙した。
同年に三人衆と信長が和睦すると、翌元亀2年(1571年)12月17日に上洛、やがて義昭に対し臣下の礼をとり、京兆家歴代の慣例として義昭より一字拝領を受けて昭元(あきもと)と名乗った。
義昭より重用され、三好勢力が後退した後の名目上の摂津の旗頭とされた[1]。名門の出身であった昭元はしばしば外交官としての役割を果たしている。四職家の当主でもある丹後の一色義道が義昭に臣従し、誼を求めて信長との面会を求めたとき昭元はこれに立ち会い、ともに堺を見物した。
信長政権のなかで
信長の勢力下では、元亀3年(1572年)に摂津で本願寺坊官の下間頼龍・下間頼純と交戦して敗北したり、翌元亀4年(天正元年、1573年)2月17日に反信長派の三好義継・松永久秀らに居城の摂津堀城を落とされるなど武功には恵まれなかったが、足利将軍家に次ぐ武門の名門であったため、信長の傀儡として後年さらに最大限に利用されることとなる。
7月に義昭が追放された時昭元は京都に留まり、義昭が去った後の槇島城(京都府宇治市)を任された。槇島城は山城の守護所だったので、信長は昭元を山城守護に任じることにより山城における将軍権力を否定したともいわれている。管領家当主である昭元の存在は、義昭が去った後の織田政権にとり、重要な存在となった。同族の細川藤賢も近江坂本城を任されている。
天正3年(1575年)には信長の推挙により、正式に右京大夫に任じられる。このことにより京兆家当主として朝廷からも認められた。
天正5年(1577年)には信長の妹お犬を娶り、信長からの偏諱を受けて細川信元(ほそかわのぶもと)、さらに信良(のぶよし)と名を改めた。お犬の方にとっては2度目の結婚であり、信良よりも年長であった。以後、織田家の親族として織田政権内で厚遇されることとなるが、反対に信長は「京兆家当主の義兄」として立場を手に入れることとなる。信良はさらに丹波の桑田郡・船井郡の支配を許され、名目上丹波の旗頭の地位を委ねられた。しかし丹波支配の実権は、しだいに信長の家臣明智光秀に移っていった[2]。
本能寺の変以降、晩年
天正10年(1582年)の本能寺の変の直後、正室のお犬の方とは死別した。変後から天正13年(1585年)の羽柴秀吉による四国攻めまでの間にかけて、本来は細川氏の家臣の家系であった長宗我部氏と阿波において連絡を取りあい、秀吉に抵抗した記録が残されている。
しかし、やがて秀吉に属し、名を再び元の昭元に戻した[注釈 2]。関白となった秀吉から貴人の1人として遇され、斯波義銀や山名豊国らと共に御伽衆に加えられた。
ただし、本願寺法主顕如の元へ身を寄せていたともいわれ、天正17年(1589年)3月9日に京都聚楽第の壁に書かれた落書の犯人が本願寺寺内町に逃げ込んだ事件で、斯波義銀・尾藤知宣と共に逮捕、後に釈放されたとされる[3]。
晩年は不詳の部分も多いが、天正20年(1592年)に病没したと伝わる[注釈 3]。聚楽第に豊臣秀吉の悪口が落書きされたという事件があり、その事件に関して疑われて捕縛され、まもなく没したとも言われる[4]。
子孫は三春藩秋田家の家老である年寄衆より上席として、大老または城代として代々勤めた。
脚注
注釈
参照
参考文献
- 永原慶二「細川晴元」日本歴史大辞典編集委員会『日本歴史大辞典第8巻 は-ま』河出書房新社、1979年11月。
- 森田恭二『戦国期歴代細川氏の研究』和泉書院、1994年。
- 『戦国時代人物事典』P205、学習研究社、2009年。ISBN 4054042902
関連項目
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- ↑ 森田、P128 - P129、
- ↑ 森田、P129 - P130。
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