山名豊国

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山名 豊国(やまな とよくに)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名武将

生涯

戦国大名

天文17年(1548年)、但馬国の大名で但馬山名氏の当主・山名豊定の次男として生まれる。初名は元豊(もととよ)。生母は室町幕府管領細川高国の娘。正室は伯父(豊定の兄)である山名祐豊の娘。

永禄3年(1560年)に父・豊定が死去。その跡を継ぐため派遣された棟豊(むねとよ、祐豊の子)も永禄4年(1561年)に早世し、次いで兄・豊数が因幡山名氏(通称、布施屋形・布施殿)の家督を継承すると、支城であった因幡岩井城の城主となるが、のちに敵対した兄・豊数やその家老の武田高信によって城を追われて隣国の但馬国八束まで逃れ、伯父で但馬守護の祐豊を頼った。

兄・豊数の死後、山中幸盛尼子氏残党軍の支援を得て因幡山名氏の家督を継承するが、天正元年(1573年)、毛利氏の武将・吉川元春に攻められて降伏して毛利氏の軍門に下った。毛利氏の当主・毛利輝元(元春の甥)より偏諱を受けて元豊(もととよ)と名乗るが、のちに織田氏に内通して豊国に改名する。

織田豊臣時代

天正6年(1578年)から織田信長と誼を通じたものの、天正8年(1580年)に織田氏の武将・羽柴秀吉の侵攻によって、一旦は鳥取城に籠城するが、重臣の中村春続森下道誉ら家臣団が徹底抗戦を主張する中、単身で秀吉の陣中に赴き降伏した。豊国は秀吉を通じて助命され、天正9年(1581年)には、秀吉と共に吉川経家や自分の旧家臣が籠もる鳥取城攻めにも従軍する。豊国が籠城した時は鳥取城に兵糧攻めは通じなかったが、再度の兵糧攻めによって陥落するという悲惨な結果になった。

秀吉に下った豊国であったが、秀吉からの豊臣氏への仕官の話を断り、浪人となったと伝えられる。のちに摂津川辺郡の小領主・多田氏の食客となる

天正14年(1586年)、浜松の徳川家康の知遇を得たと伝えられている。天正20年(1592年)からの朝鮮出兵には豊臣秀吉から肥前名護屋城まで、同行を命じられる。

幕臣

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川方に付き、亀井茲矩軍に加わり活躍。慶長6年(1601年)には但馬の内で一郡(七美郡全域)を与えられ6,700石を領した。

豊国の家系が山名氏嫡流家となり、「山名の嫡流は我が家。山名のは我が家系に限る」とした。

その後は家康・秀忠に仕え、駿府城の茶会などに参加するなどしている。

寛永3年(1626年)10月7日に死去。享年79。豊国の子孫は江戸時代を通じて表高家並寄合交代寄合表御礼衆として存続した。

人物・逸話

  • 羽柴秀吉の軍勢に居城である鳥取城を攻められた際に単身で城を抜け出し投降したが、これは豊国の鳥取城守備が巧みだったために手を焼いた秀吉が、豊国の正室(娘ともいう)を人質に降伏を迫ったという説も伝わる。
  • 秀吉に豊臣家仕官を断り浪人となり諸国を流寓した後、摂津の多田氏の領地内に仮に住まわせてもらっていたが、去る折に非常に丁重な挨拶をした律義者であった。
  • 天正年間に、徳川家康とともに斯波義銀の屋敷を訪問した際、豊国の義銀への応対があまりにも慇懃過ぎるほどであったらしく、後に家康より「義銀は管領の家の生まれと言えども足利の分家に過ぎない。お前(豊国)は新田家の嫡流にして、そう遠くない昔までは数ヶ国を治める太守であったではないか。何故、足利の分家に(新田のお前が)そのように卑屈になるのだ」と苦言を呈されている(家康も新田氏の分家を自称していた)。
  • 関ヶ原の戦いの後、豊国はかつて自らを追放した武田高信の遺児・助信を捜し出して召抱え、200石を与えた。以後、助信の子孫は代々山名氏に仕えた。
  • 征夷大将軍に就任した家康に謁見した際、室町幕府第10代将軍足利義稙から山名氏当主に贈られた羽織を着用して賞された。
  • 有職故実和歌連歌茶湯将棋などの文化、教養面に精通していた。

偏諱を与えた人物

豊国時代

脚注

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関連項目

外部リンク